福島第一原発事故で避難を強いられた人たちに土下座して頭を下げる東電幹部ら
もともと土下座は、極度に尊崇高貴な対象に恭儉の意を示したり、貴人が通行する際に路上にひざまずいて平伏することを意味し、近代までそれが通常でした。
いつのころから解りませんが、謝罪の気持ちを表す姿に変わってしましました。
「高山彦九郎先生皇居望拝趾」
京都市の京阪三条駅入り口に、地元の若者から、「土下座像」、あるいは「ごめんなさい像」などと呼ばれている像がある。待ち合わせ場所として人気が高いそうですが、別に謝っているわけではありません。
尊皇と孝節ひとすじの旅の生涯を送り、世に奇人と称され、あるいは徳川幕府に抑圧されながら、ついに後年、明治の王政復古事業の思想的礎となった高山彦九郎翁が、明和元年、18歳の時上洛した時以来、三条大橋上で帝城(皇居)を遥拝し、、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣されました。以降も、5回、上洛されましたが、京都に出入する折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
銅像は、初代のものは、昭和3年に有志らの寄進によって作られ、法華経と伊勢神宮で入魂した柱が納められ、海軍元帥東郷平八郎が台座の揮毫をしました、現在の銅像は昭和36年に再建されました。
草莽の臣高山彦九郎翁は、中川規斎に認められて2年間京都に滞留、この間皆川淇圃ら多くの学者に学んだ。
皇権復活と復古神道宣揚を求めて関東、東海、北越の旅に出ました。彦九郎を愛し、その教育にあたったのは祖母といわれ、幼少から「太平記」を読ませ、「尊皇」こそ先祖への「孝」ときびしく諭したという祖母の喪に3年服した後、水戸、仙台、松前を回り、北陸路から京都に入った。寛政3年(1791)、45歳のおりの春<高山彦九郎先生が奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇に拝謁した時の感激を詠った歌に
我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ
この歌は、。「わたくし高山彦九郎を一人の人間としてご認識くだされ、天皇さまのお言葉まで賜りますとは嬉しいことです」という意味です。
戦前の愛国百人一首に記載されており、有名な歌です。
寛政5年を遊説中、久留米の知人宅で割腹自決されました。高山彦九郎の言動や強い勤王思想のため、危険人物とされ幕府の監視を受けため憤慨しての自決と言われています。その後の幕末の勤王の志士、吉田松陰先生たちに大きな影響を与えた人物として知られています。
辞世は、
朽ちはてて身は土となり墓なくも
心は国を守らんものを
まさに息絶えんとする時、京都と故郷に向って席を改め、柏手を打ち、心念じ終り、端坐して従容として死についた。
吉田松陰先生の諱は矩方(のりかた)で、通称は寅次郎ですが、「松陰(しょういん)」と「二十一回猛士(にじゅういっかいもうし)」の号のほうがよく知られています。一番有名な号である「松陰」は、吉田松陰が尊敬していたという高山彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」からとったものだと言われています。
彦九郎憤死50年後、幕末期の若い志士たちはその行動に感銘し、相ついで墓前に香華を手向けた。
西郷隆盛は文久2年末、沖永良部島に幽閉中、彦九郎の忠義心をたたえる詩文を次のように詠んでいます。
精忠純孝群倫に冠たり。豪傑の風姿画図に真なり。
小盗謄驚くは何ぞ恠に足らんや。回天業を創むるは是り斯の人。
そして、死後75年後、西郷隆盛、吉田松陰門下の弟子たちにより王政復古は成ります。
戦前の修身教科書には、大楠公「楠正成」とともに教科書にとりあげられた尊皇の士ですが、戦後の教育には名前すらとりあげられません。
死を賭して近代日本の夜明けに大きな影響を与えた高山彦九郎翁を日本人は知らなければならないでしょう。
そして、高山彦九郎翁の銅像は謝罪ではなく、帝城(皇居)を遥拝し、國を憂いているのだと。
南條歌美:作詞、島田逸平 :作曲。昭和十七年。
一、
京の三条の橋の上に 荒れた皇居を伏し拝み
男泣きする彦九郎 胸に大義の火が燃える
二、
落つる涙を打ち払い 菊の栄ゆる大御代を
誓い奉れば加茂川の 岸の柳もすすり泣く
三、
時は維新の夜明け前 烽火翳して散りたれど
橋の袂の銅像に 偲ぶ忠節いつまでも