ここから本文です
日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

書庫偉大なる人びと

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

イメージ 1
冨田勲さん=2015年10月19日、東京都港区(兼松康撮影)


訃報です。

電子音楽作曲家の魁(さきがけ)として世界的に活躍されたシンセサイザー奏者の冨田勲(とみた・いさお)さんが5日午後2時51分、慢性心不全のため東京都渋谷区の病院で亡くなられた。享年84歳。東京都出身。
 ドビュッシーの作品をシンセサイザーで編曲、演奏した1974年の「月の光」で世界的に注目され、「展覧会の絵」「火の鳥」「惑星」など多くのヒット作を生んだ。
 NHK大河ドラマ「花の生涯」や「新日本紀行」のテーマ曲、テレビアニメ「ジャングル大帝」、映画「武士の一分」などの音楽も手掛けた。
引用(産経新聞)より

衷心より富田氏の辞世を惜しみ、ご冥福を祈ります。筆者にとってNHKの「新日本紀行」を拝聴するたびに心を癒された思いです。山紫水明・日本の原風景を表現したまさに神曲。
本当に日本を表すにふさわしい楽曲でした。本当に有難うございました。


イメージ 1
福島空港に到着し、記念写真を撮る台湾からの観光客=19日午前
 
 
 
 
 
 
 
日本人は忘れやすい民族です。
次から次へと起こる諸問題、今年3月に東日本大震災で多くの同胞が亡くなりました。その後復興への歩みも遅いうえに、福島を襲う風評被害。
その被災地にブータンの国王陛下、王妃陛下が福島を見舞われ、福島のみなさんに希望と勇気を与えていただきました。
福島の観光業も悲惨な状態にあります。福島空港は、東日本大震災で運航に支障が出るほどの被害は出ていませんでした。
東京電力福島第1原発事故の影響で、ソウルや上海と結ぶ国際定期便がストップしている福島空港(福島県須賀川市、玉川村)に19日、外国人観光客を乗せた国際便が約8カ月ぶりに姿を見せました。
それは、政府が友好国と呼ぶ、韓国、中国からの国際便ではありませんでした。
 
台湾の航空会社「復興航空」のチャーター便で、「復興航空」が台湾の旅行会社数社にツアーの企画を呼びかけてくださり実現したものです。
今回のツアー参加客約180人は3泊4日の日程で福島県の会津地方を中心に観光。折り返し便は、福島から200人近くの高齢者を乗せて南台湾の高雄国際空港に到着した。
高雄市政府が日本のシルバー族を対象とした深みある旅行プランの参加者で、台湾の3泊4日の旅を楽しんでいる。

同市の陳盛山観光局長は空港まで出迎え、現地のスポットを紹介したほか、旬の果物や手土産もプレゼントした。
多くの航空会社が東北地方への便数を減らしているなか、復興航空は八月十二日に記者会見を開し、九月八日より秋田へのチャーター便を復活させています。三月の震災後、台湾から初めて東北地方に飛ぶ民間航空機となりました。
 
来日中のブータン王国には厚意ある支援、台湾の皆様、には東日本大震災後、多額の支援をしていただいた。
両国の支援は、何も見返りを求めない「まごころ」の支援です。
真の友好とは、時が過ぎてもお互いの厚情を忘れず支えあうことではないでしょうか?
筆者は両国の厚情に、胸が熱くなりました。
我国は確かに、経済大国です。しかし、本当に、「こころ」は満たされているでしょうか?
支援を戴いた国々に同じことができるでしょうか?
我国から多額の支援を受け「経済大国」「軍事大国」となった中国、その刃は、ブータン王国、台湾、我国へ、そのほかの国々に向けられています。
我国の責任は大きいです。
 
真の友好とは何か?今一度国を挙げて考えねばならぬのではないでしょうか?
 
 
 
 
イメージ 1
鈴木貫太郎翁
 
 
 
混迷を続け、迷走する我国の政治。
東日本大震災という、未曾有の災害に人災と言っても過言ではない追い打ちをかける菅政権。
同じ国難にありながら、自らの政権を全うされた総理がいます。
大東亜戦争を昭和天皇陛下のご聖断を仰ぎながら、終結させた第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎翁です。
多くの文献等で、翁の功績は御紹介されていますのでここでは割愛します。
翁は、非国会議員・江戸時代生まれという二つの点で総理大臣を務めた最後の人物であり、また満77歳2ヶ月での就任は平成23年現在、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録です。
ご夫人の「たか」さまは、明治38年から大正4年まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇陛下)、秩父宮、高松宮の養育に当られた。昭和天皇陛下は、侍従長・総理時代の鈴木に、「たかは、どうしておる」、「たかのことは、母のように思っている」と、語られたそうです。
 
 
鈴木貫太郎翁の御子息で、東京穀物商品取引所理事長を務められた、鈴木一氏
の寄稿文より引用し、翁を偲びたい。
投稿文字数の関係上、抜粋しています。
父貫太郎の一生
 二千余年の日本歴史に、いまだかって経験したことのない日本本土の焦土化しつつある最中に、いわば日本民族が威亡するか、残るかという、その死活の運命を託されて内閣総理大臣の大命を拝した父は、日本歴史上まれにみる悲劇の人物であったと言わねばならない。
 父の生まれた慶応3年といえば、明治元年の前年である。明治維新の動乱と同時に生を享けた父は、日本歴史の最も波瀾の多い一世紀を象徴している人物といっても過言ではあるまい。元来父は、海軍軍人として終わるべきはずであった。
 日清、日露の両戦投には、あるいは水雷艇の艇長として威海衛の敵港深く突入し、あるいは駆逐隊司令として日本海々戦に敵艦二隻を撃沈し、水雷戦術の第一人者という折紙をつけられたが、不思議にも武運に恵まれて身に一弾も受けず、部下にも戦死者を出していない。

やがて海軍々人最高の栄誉たる軍令部長を歴任中、全く思いももよらぬ侍従長の任命を受け、今上陛下(昭和天皇)の側近に奉仕することとなった。青年将校を中心とする国家革新の機運の騒然たるさ中である。
 果たして、昭和一一年二月二六日、いわゆる二・二六事件に遭遇し、反乱軍伍長の撃った三弾は、眉間、心臓、睾丸と急所を突いたが、奇跡の連続で一命を取りとめ得たのは、正に終戦の大業に当たらしめんとの天のたくめる配慮としか思われない。
軍人は政治に関与すべからず、これが父の信条であった。父は文字どおり政治は大きらいであった。かって海軍最大の疑獄事件たるシーメンス事件を処理するため、最も政治色のない人物として海軍次官に抜擢されたときも、料亭や待合での話合いはいっさいやらないことを条件にもちだしたくらいであった。
 昭和二十年四月五日、重臣会議は一致して小磯第二次戦時内閣の後継内閣首班として父を推薦したが、枢密院議長として重臣の一人に参加していた父は、頑として応じないので、木戸内大臣は陛下にじきじきの説得をお願いし、父は陛下のご前において、自分は生来の武弁であって、政治は全くの素人であること、老齢で耳が聞こえず、重大なる過ちせ犯しては申訳ないことを申し上げて、ご辞退したのであるが、陛下の「耳が聞こえなくてもよいからやれよ」との再度のお言葉を拝し、全くいかんともすることができず、ついに大任をお受けしたのだ々とその夜待受けていたわれわれに語ってくれた。
 そのときの悲壮な面持ちは、今でもありありと眼底にあって忘れることはできない。おそらく生死を越えた、ただ陛下の大御心を体し、いかにして日本民族を救うべきかの一念に凝思した高い高い心境であったと思われる。 
四ケ月の終戦内閣は、口には一億玉砕を唱えなければ、いつクーデターが起こらぬともかぎらない。父の真意はただ一人の閣僚にすら打明けることができないという苦しい月日がたっていった。
日ごろ自分は旗売りであると自認していたとおり、原子爆弾とソ連の参戦の報を手にするや、一気呵成にご聖断方式によって、さしもの終戦の大業は成就したのである。
 世になぜもっと早く終戦にできなかったかという人がある。多少の波瀾はあったが、大局的に見て一糸乱れぬ終戦にもちこみ得たのは、この時期を正に捕えたからにほかならない。早きに過ぐれば、必ずや陸軍によるクーデターとなり、遅きに過ぐれば、三八度線による南北二つの日本ができていたであろう。幸いにして陛下とともに日本民族は滅亡を免れたのである。
 しかし、八月一五日早朝、国を売った鈴木総理を殺せといって、兵隊の襲撃を受け、わずか一・二分の差で身をもって難を免れ、悲劇の主人公の大団円とはならなかつたのである。そして昭和二三年四月十七日、「水遠の平和」の一語を残して郷里関宿の自邸に眠るがごとき大往生を遂げた。
「大勇院殿尽忠孝徳日貫大居士」の成名は、かって座右の銘とした奉公十則の内に「傲慢なるべからず」の一条があるが、あえて自らこの戒名を書き遺していった。父の自信のほども偲ばれる次第である。享年八二歳。菩提寺千葉県関宿の実相寺に葬る。
 
 
奉公十則(鈴木貫太郎日常訓)
 
一.窮達を以て節を更ふ可からす
一.常に徳を修め智を磨き日常のことを学問と心得よ
一.公正無私を旨とし名利の心を脱却すへし
一.共同和諧を旨とし常に愛敬の念を存すへし
一.言行一致を旨とし議論よりも実践を先とすへし
一.常に身体を健全に保つことに注意すへし
一.法令を明知し誠実に之を守るへし 自己の職分は厳に之を守り他人の職分は之を尊重すへし
一.自己の力を知れ僑慢なるへからす
一.易きことは人に譲り難き事は自ら之に当るへし
一.常に心を静謐に保ち危急に臨みても尚ほ沈着なる態度を維持するに注意すへし
 
正直に
 
腹を立てすに
 
撓ます励め
 
 
 
生前、鈴木貫太郎翁は、「足るを知る者は富む」という『老子』の言葉を多用されていました。「足るを知る」、つまり分を認めるということです。
 
「足るを知る」を知らない現在の総理大臣の下で、多くの国益、国民の生命と財産が失われていることさえ知ろうともしない、愚かな総理大臣を、天命を全うされた鈴木貫太郎翁には、どう映っているでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
山岡鉄舟翁
 
 
国難とも言える東日本大震災。
国家を司る内閣総理大臣の要職にありながら、まるで何処の国の宰相なのかと疑いたくなるような首相。
そして、国家観に欠ける政府民主党。
明治維新の英傑、西郷南洲翁は、
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
と、『西郷南洲遺訓』に述べられています。
 
西郷南洲翁には、これといった著書がありません。わずかに西郷の言葉を伝えているのが、『西郷南洲遺訓です。
西郷南洲翁は、 無私の人だといわれます。
その西郷南洲翁が命も名誉もいらない、官位も金もいらないというような人は扱いに困る。しかし、このような人物でなければ困難をわかちあい、国家のために大きな仕事を成し遂げることはできない。この言葉は、山岡鉄舟のことを語ったと言われています。
山岡鉄舟は、西郷南洲翁との駿府(静岡市)での談判で有名です。その談判により西郷と勝海舟の交渉を実現し、江戸無血開城を成功に導きました。そうした鉄舟は、幕末屈指の剣術家であり、武士でした。
先祖に、戦国時代の剣豪、塚原卜伝、母に常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女をもつ、山岡鉄舟は尊皇の志のある人でした。
東洋の軍事学の古典・『孫子』は、戦わずして勝つことを最上とします。
武士とは本来、戦士であり、兵法(軍事学)を実践する武芸者でした。しかし、『孫子』に見るような真の「武」の考えが、日本の武士道にはあります。
 剣法においては「殺人刀(せつにんとう)」と「活人剣(かつにんけん)」があるとされ、人を殺すより、人を活かす剣こそが、真の剣の道とされました。そして、相手と戦わずして勝つことが、最高の境地とされました。その境地に至るには、剣の技術以上に、心の修行が必要です。山岡鉄舟こそ、これを生涯実践した達人でした。
鉄舟は、剣の達人でありながら、暗殺の横行する血なまぐさい幕末の時代にあって、一人の人間も斬ることがなかったといわれます。
 鉄舟は自ら体得した剣の流儀を「無刀流」と名づけました。その極意を次のように述べています。
 「無刀とは、心の外に刀なしと云事(いうこと)にして、三界唯一心也。内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後に敵なく、妙応無方朕迹(ちんせき)を留めず。是余が無刀流と称する訳なり」
鉄舟にとって「武士道」とは、中世の武士の間に初めて生まれたものではありませんでした。「謹んで惟(おもん)みるに、わが皇祖皇宗、この国を『しろし』召され、そのお徳を樹て給うことはなはだ深遠である。故に日本武士道はこれに伴うて、またはなはだ深遠である。天地未発の前において、すでにはらまれていたものである。さて、これは日本人の道というほうが至当である…」と鉄舟は語っています。また、「武士道という語句の中には…『日本人の守るべき道』という意味があるから、…上は王侯貴族より、下は方山里のきこりまで、また浦々の漁民までならして国民全般の修身宝道である」と述べています。
鉄舟のいう武士道は、日本古来の精神的原理であり、武士だけでなく、すべての国民が踏み行うべき道だったのです。こうした見方は、彼以後の武士道論に影響を与えました。
鉄舟は、幕末から明治にかけての大変動の時代を生きた人間です。明治維新によって文明開化がなされ、西洋の物質文明が急激に日本に流れこみましたが、鉄舟は、そうした西洋の科学・知識を否定するわけではありません。むしろ、大いに摂取するとよい、といいます。しかし、鉄舟は、物質文明と精神文明が調和してこそ「真の文明」であると考えました。そして、「今後は祖先伝来の武士道をもって頭脳となし、抽象科学、物質的思想を手足となし、武士道である頭脳が指揮官となって、物質的科学が手足のごとき遵奉者」と、ならなければならないと説かれました。
西郷南洲翁のたっての依頼により、明治5年に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇陛下に仕えました。
明治天皇陛下の信任は厚く、ご下命により終生、御用係という役職につきました。
官軍・賊軍と分ければ、鉄舟は賊軍の幕臣出身でありながら、人物を見込まれたのです。明治天皇がまだ少年の頃、鉄舟に相撲を挑んだところ、鉄舟はいとも簡単に転がしてしまいました。わざと負けて、「お強いですね」とおだてたりするのでなく、立派な君主になって育っていただきたいという思いで、敢えて投げ飛ばしたといわれています。
西郷南洲翁との約束どおり、10年間このお役を務めた後、引退を申し出ました。
剣・禅・書の達人として知られた鉄舟は、人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われています。
鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、惜しげもなくお金を取与えたと言われています。しばしばそういう場面を目撃した人が、「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。こんな具合だったので、鉄舟はずっと清貧で通したそうです。
宮内省に馬車を差し回すといわれても固く断り、人力車で通いました。
 
鉄舟は、明治21年7月19日、胃ガンで亡くなりました。その最期は白衣に着替え、皇居に向かって遥拝して、座禅を組んだ姿勢で、静かに座死したと伝えられます。享年53
西郷南洲翁が命も名誉もいらない、官位も金もいらないというような人は扱いに困る。しかし、このような人物でなければ困難をわかちあい、国家のために大きな仕事を成し遂げることはできない。と記した名誉、権力に固持しない、鉄舟の人生でありました。
 
権力に固持し、執着し、国家を亡国に導こうとする現政権に少しでも学んで欲しいものである。
 
 
 
 

消された偉人

イメージ 1
福島第一原発事故で避難を強いられた人たちに土下座して頭を下げる東電幹部ら
 
 
もともと土下座は、極度に尊崇高貴な対象に恭儉の意を示したり、貴人が通行する際に路上にひざまずいて平伏することを意味し、近代までそれが通常でした。
いつのころから解りませんが、謝罪の気持ちを表す姿に変わってしましました。
 
 
イメージ 2
「高山彦九郎先生皇居望拝趾」
 
京都市の京阪三条駅入り口に、地元の若者から、「土下座像」、あるいは「ごめんなさい像」などと呼ばれている像がある。待ち合わせ場所として人気が高いそうですが、別に謝っているわけではありません。
尊皇と孝節ひとすじの旅の生涯を送り、世に奇人と称され、あるいは徳川幕府に抑圧されながら、ついに後年、明治の王政復古事業の思想的礎となった高山彦九郎翁が、明和元年、18歳の時上洛した時以来、三条大橋上で帝城(皇居)を遥拝し、、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣されました。以降も、5回、上洛されましたが、京都に出入する折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
銅像は、初代のものは、昭和3年に有志らの寄進によって作られ、法華経と伊勢神宮で入魂した柱が納められ、海軍元帥東郷平八郎が台座の揮毫をしました、現在の銅像は昭和36年に再建されました。
草莽の臣高山彦九郎翁は、中川規斎に認められて2年間京都に滞留、この間皆川淇圃ら多くの学者に学んだ。
皇権復活と復古神道宣揚を求めて関東、東海、北越の旅に出ました。彦九郎を愛し、その教育にあたったのは祖母といわれ、幼少から「太平記」を読ませ、「尊皇」こそ先祖への「孝」ときびしく諭したという祖母の喪に3年服した後、水戸、仙台、松前を回り、北陸路から京都に入った。寛政3年(1791)、45歳のおりの春<高山彦九郎先生が奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇に拝謁した時の感激を詠った歌に

我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ

この歌は、。「わたくし高山彦九郎を一人の人間としてご認識くだされ、天皇さまのお言葉まで賜りますとは嬉しいことです」という意味です。
戦前の愛国百人一首に記載されており、有名な歌です。
寛政5年を遊説中、久留米の知人宅で割腹自決されました。高山彦九郎の言動や強い勤王思想のため、危険人物とされ幕府の監視を受けため憤慨しての自決と言われています。その後の幕末の勤王の志士、吉田松陰先生たちに大きな影響を与えた人物として知られています。

辞世は、
 
朽ちはてて身は土となり墓なくも
        心は国を守らんものを
 
まさに息絶えんとする時、京都と故郷に向って席を改め、柏手を打ち、心念じ終り、端坐して従容として死についた。
 
吉田松陰先生の諱は矩方(のりかた)で、通称は寅次郎ですが、「松陰(しょういん)」と「二十一回猛士(にじゅういっかいもうし)」の号のほうがよく知られています。一番有名な号である「松陰」は、吉田松陰が尊敬していたという高山彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」からとったものだと言われています。
 
彦九郎憤死50年後、幕末期の若い志士たちはその行動に感銘し、相ついで墓前に香華を手向けた。
西郷隆盛は文久2年末、沖永良部島に幽閉中、彦九郎の忠義心をたたえる詩文を次のように詠んでいます。
 
精忠純孝群倫に冠たり。豪傑の風姿画図に真なり。
 小盗謄驚くは何ぞ恠に足らんや。回天業を創むるは是り斯の人。

そして、死後75年後、西郷隆盛、吉田松陰門下の弟子たちにより王政復古は成ります。
 
 
戦前の修身教科書には、大楠公「楠正成」とともに教科書にとりあげられた尊皇の士ですが、戦後の教育には名前すらとりあげられません。
死を賭して近代日本の夜明けに大きな影響を与えた高山彦九郎翁を日本人は知らなければならないでしょう。
 
そして、高山彦九郎翁の銅像は謝罪ではなく、帝城(皇居)を遥拝し、國を憂いているのだと。
 
 
 
 
 
南條歌美:作詞、島田逸平 :作曲。昭和十七年。

一、

京の三条の橋の上に 荒れた皇居を伏し拝み

男泣きする彦九郎 胸に大義の火が燃える

二、

落つる涙を打ち払い 菊の栄ゆる大御代を

誓い奉れば加茂川の 岸の柳もすすり泣く

三、

時は維新の夜明け前 烽火翳して散りたれど

橋の袂の銅像に 偲ぶ忠節いつまでも

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

アメブロにタイトル同じで移行。
アメブロにタイトル同じで移行。
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

友だち(51)
  • ・:*:・桜乃 一人静・:*:・
  • たけし
  • Mr.Spock
  • みぃ
  • マンマ
  • watch_compass
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事