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三十、命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末(しまつ)に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付、孟子に「天下の廣居(こうきょ)に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨(ひと)り其道を行ふ、富貴も淫すること能(あた)はず、貧賤(ひんせん)も移すこと能はず、威武(いぶ)も屈すること能はず」と云ひしは、今仰(おお)せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の氣象は出ぬ也。
(西郷南洲遺訓)より
靖国神社には祭神されていませんが、明治新政府では重きをなし、大西郷でしか成遂げられなかったであろう課題を次々に行い最後は新政府で行った旧士族の不満を一身に背負い、日本国内で最後の内乱、西南戦争でその生涯を閉じられました。
私は大西郷の死こそが明治維新の終わりと解釈しています。大西郷の身の処し方は、常に潔く、世の中の大事については、執念を燃やすが如く追求された。「至誠は神の如し」というが、その行動は、生き神のようであった。
大西郷は
「命もいらない、名誉、名声もいらない、官位もいらない、金もいらないというような私心の無い人は、使命感で動くので、どう処置していいかわからないものである。しかし、このような、私心無く、使命感の強い人と一緒でなければ、国難を一緒になって切り抜けて、国家の重大な事業を成し遂げることはできない。しかしながら、このような人は、普通の一般的な人には、見抜くことができないものである。と、仰せになるので、孟子の中に{天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず}(天下の開かれた公の場所に位置し、天下の正道に基き、天下の正道を堂々と実行する。その志が一般国民に用いられたら、それを一緒になって実行し、用いられなくても自分ひとりでも実行していく。そうであれば、富や権力のある者もこれを汚すことはできないし、貧乏や卑しい身分であっても心を移さず、平然としていられるし、威厳や武力によって、これを屈服させようとしても決して屈服させることはできない。)とあるが、今申されたのは、このような人物のことでありますかと、訊ねると、まったくその通りである、真に正道を踏むものでなければ、そのような人格や人間性は創出できないものであると答えられた。」
命も、名誉、名声も、高い地位も、余分な不当な金もいらないという私利私欲の無い人は、本当に扱いにくいものである。しかし、そういう人こそ誠の道を歩ける人であり、そういう人たちと一緒でなければ、国事に携わってはならない、国難も乗り越えることができない。また、そういう人物を見抜く眼力をつけるためには、自分自身の相当な修養も必要である。そうした結果、類は友を呼び、期せずして時期や場所を選び自然とそういう人たちが集まってくる。 そして初めて、国の政策を実行できるのである。当然、そういう人たちは、後ろ指を指されるような、やましい所はないので、正々堂々と人民の声を聞き、国策に反映させ、国策に則って、誰に邪魔されること無く、柔軟に対応しながら、物事を進行させていくことができる。と、大西郷は語っている。
これは、政治家において一番肝要なことではないか!。
長生きしたい、名誉も名声も欲しい、いい地位に就きたい、後世に名を残したい、多くの金を持って贅沢したいと思っている人は、前述のように自己愛の強い人であるから、そういう人が世の中を引っ張っていったのでは、世の中が悪くなるのは、当然のことである。
今の政府・為政者にこの気概がある政治家がいくらほどいるでしょうか?。
現在岐路に立たされている日本国の舵取りははたしてできるのでしょうか!。
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偉大なる人びと
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ガ島に到着した夏井さんたちはジャングルという悪路の中、
脱水や疲労を堪えて、英霊たちの元に歩み続けました。
そして、レレイから約20km進んだタンボイといわれる地点に到着します。
ここは日本軍が野営していた場所であり、ここで御遺骨の捜索をしました。
御遺骨二柱を発見。大切に拾骨させて頂きました。
ここで野営をし、蚊や疲労、空腹のまま翌朝を迎えて、さらに捜索を始めました。
すると次々に残砲弾が発見されました。
遺骨収集の前に、まずこの砲弾を処理しなければ危険です。
残砲弾を確認すると150個以上もありました。
この砲弾の数は夏井さんや先生、そして現地サポートメンバーの計7名では
とても処理しきれる数ではありません。
ましてや、この険しく足元の悪い密林の中を運ぶとしても1人2個が手一杯です。
先ず自分たちで爆破処理出来る数、
そして地元の治安警察へ届けるためレレイへ持ち帰る数を決めました。
そして、生徒たちをなるべく砲弾に近づけないように爆破処理をはじめました。
確実な方法は「焼き払い」という方法です。
爆破場所は山火事など起きないように充分に注意しながら河原で行いました。
井桁に火が付き、200mほど川下に離れた生徒たちとトランシーバーで連絡を取りながら、
いよいよ夏井さんの手で行います。
この砲弾は67年もの時を経て、計6個を昇天させました。
生徒たちはテレビや映画でしか見たことのないようなこのリアルな状況でしょうが、
ここに人間の業の縮図とかつての先人達が命がけで戦った現実を
この爆破の轟音と火柱に見たのです。
しかも、彼らの目の前で爆破処理している夏井さんの行動は、
いつ自分の手元で爆発してしまうかわからないという状況にもかかわらず、
寡黙に爆破処理をしているのだ。
この身の危険をも顧みない行動を見ているうちに、
言い知れぬ感動が湧き上がり、生徒たちは自然に涙が溢れていました。
・・・・・・
その後、御遺骨2柱と、残砲弾19個を2班に分かれてレレイ村へ引き帰し、
慰霊法要を翌日に控えた夜のことでした。
生徒のうち二人が夏井さんと講師のもとに来て、いきなり涙を流しながら土下座した。
夏井さんと教師の担当している残砲弾処理を見ながら
「たまらなくなった」と言いはじめたのです。
「私にもやらせて下さい。この手で、砲弾を慰霊台に上げるまでですが、
それだけでもやらせて下さい!」
夏井さんは生徒の赤く腫らした目を見ながら、
「その命の言葉、嘘はないな。
分かった。
しかし、もう一度だけ、日本のお父さん、お母さん、娘さん等の顔を思い浮かべなさい。
そして、もう一晩、考えなさい。それで、考えが変わらなければ、な」
彼らは深く頷き、真っ直ぐ夏井さんの目を見つめたまま涙も拭きません。
夏井さんはこの時のことを、
「この二名が素晴らしくて、他の四名はだらしないのでは決してありません。
中には、『正直、爆破処理する夏井さんや先生の姿を見て、また爆破の瞬間を見て、
怖くなりました。出発する成田までは、自分も命を懸けられると思っていました。
しかし・・・自分でもパニックになりそうでした。
しかし、こんな気持ちでいるのに、勢いだけで砲弾に近づくなんて、
逆に英霊の方々に失礼になると思うのです。まだまだ精進を重ねなくては、
まだ自分には出来ないことが分かったのです』と申し出た生徒もおります。
全員がそれぞれの自分自身の命に真正面から向き合ったのです。
結果が問題なのではありません。この姿勢こそが最も重要なのです」
そして、慰霊法要の日。
自らの手で拾い上げた御遺骨と砲弾を慰霊台の上に運び安置しました。
砲弾を運ぶことを申し出た二人は真剣に、そして慎重に運びました。
彼らの頬には自分でもなぜ泣いているのか言葉では説明できない涙が流れていた。
そして英霊達が戦ったこのガダルカナル島に、
彼らの若い僧侶たちの世界平和を願った渾身のお経が響き渡ったのです。
「この命の輝きはきっと次の世代へ受け継がれる。
これこそが我が国に必要な輝きであるに違いない」
と夏井さんはお経を聞きながら確信しました。
困難に継ぐ困難。密林の悪路に継ぐ悪路。
そして過酷な暑さと身体を酷使した疲労と脱水状態で何もかもが限界に達していました。
しかし、この島で戦われた英霊の方々の大変さはこんなものじゃない。
我々が住む日本という国を護るために、これ以上の過酷な状況下で敵国と戦い、
空腹の限界を超えて餓死し、マラリアなどにもやられながらも戦われたのだ。
どれほど苦しかっただろう、辛かっただろう。
食べるものもなく、待てども来ない救援。
その英霊たちの声なき声が一番つらい・・・。
英霊たちには比べるべくもないが、これがどれほど辛いか、短い期間でも体験できた。
何でも揃っている現代の豊かな日本を離れ、不便で気候も環境もすべてが違う島に来て、
彼らに真の心が芽生え始めたのです。
そしてそれを引き出した夏井さん。
彼らは声なき英霊たちへお経を捧げながら、いつの間にか目には涙があふれ、
ついには涙が流れ落ちたまま、それでも無心になってお経を読み続けていた。
そんな彼らの姿に、夏井さんもついには男泣きに泣いてしまった。
毎日彼らの様子を見ていた現地の年寄りたちは
ガ島で戦った日本の兵隊たちをも知っていました。
死を恐れずに勇敢に立ち向かって行った日本の兵隊さんたちを今も尊敬しているという。
そして、七度もこの島にやって来て、死をも恐れぬ夏井さんのその姿に、
昔の大和魂の日本の兵隊を重ね合わせて「ナツイは日本の軍人だ」
と誇らしげに言ってきた。
・・・・・・
今回、自らの手による爆破処理6個、残砲弾19個を回収しソロモン自治警察隊へ届け、
そして御遺骨2柱を発見回収して厚生労働省へ届けました。
全7回の活動で御遺骨回収5柱、残砲弾処理148個です。
しかし、まだ残された砲弾で今現在も、現地の方々の命が脅かされていることは、
日本の国民の皆様が、忘れずに知っておかなければなりません。
自分のことばかりではなく、先人を敬い、他人を思いやる日本の心を取り戻したい。
・・・・・・
夏井さんの心の歌は前回ご紹介した「さすらい」と
もう一つ、この「昭和維新の歌」もガダルカナル島で歌っていたそうです。
現状の政治の悪さや国家衰退を憂う人は、今一度この歌詞をかみしめられたい。
・・・・・・・・・・・・
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命日に大久保利通翁を偲ぶ
132年前の今日、西郷隆盛・木戸孝允とならび明治維新三傑といわれた大久保利通の命日にあたります。
同じ薩摩(鹿児島県)出身でありながら、大久保翁は西郷翁と比較しても人気がありません。
未だに日本人は「西郷さん」なのである。
何故、明治の初頭に西郷翁とともにあれだけの偉業・改革を成し遂げながら、人気がないのでしょうか?
特に私の周囲の鹿児島出身の方々に聞いても大久保翁は全く人気がなく「西郷さん」「島津の殿」なのです。
それは、やはり西郷翁との袂を分けたことが最大の要因であると思います。
大久保翁と西郷翁は親友であり、王政復古までの間、右往左往時しながら時には命がけの歩みでした。戊辰戦争後は西郷翁の力を借りながら、版籍奉還・廃藩置県・東京遷都と今日の礎となる改革をおこなう傍ら、新政府への反抗勢力の一掃を強い姿勢で行った。
反乱は不満分子を一掃できると歓迎したといわれ、「佐賀の乱」は大久保翁が画策したものである。
しかし、国内最後の内乱となった西南戦争には自ら反乱軍への説得役を願いたが、政府は大久保翁が殺されるのを危惧し、引きとめている。
西郷翁の死を知った大久保翁は号泣したとされ同時に新しい日本が生まれるとも語ったと言われている。
西郷翁亡き後数々の近代化を推進めていた志半ば、明治11年(1878)5月14日朝、東京の紀尾井坂から赤坂御門に至る北白川宮邸付近の通行人のない閑静な路上で凶刃に倒れました。
享年49歳でした。 その最後は、大久保翁は刺客に「待て」と言い、自らドアを開け路上に降りました。「無礼者っ!」と一喝を残し、前後から刃を受けて倒れました。 襲撃された時利通は西郷翁の手紙を読んでいたということです。
彼らが掲げた暗殺理由(斬奸状)には「薩長藩閥の専制独裁」「法令の乱用による政府官吏の私利私欲」「国費の乱費と憂国の士の排斥」
とありました。
襲撃後、刺客たちは「人を害して我が身のみ逃れることをしない」と自首しました。
彼らの態度は、現代のまったく関係のない人を標的にして殺し、自分は隠れるという殺人と違い「武士道」の心がありました。
殺害された大久保翁も毅然とした態度であったということです。
口数が少ないながらも、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家であったと当時の人は述べています。
また現代の政治家と違い金銭には潔白で蓄財せず、逆に予算のつかないが必要な公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めるような状態だったため、死後は借金が残った。
また貸した方々も大久保翁の人柄に敬意を表し返済を求めなかったそうです。
大久保翁が行なった政治は、独裁政治と呼ばれた。ただし、明治初期の時代に民主的政治など不可能ですし、現代と比較にならない物差しで利通を「権力主義の権化」と決めつけることは、思慮が浅いです。
私見ですが、西郷翁と大久保翁はお互いに役割を担っていたのではないでしょうか?
親友同士が策略をもって貶めたと私は考えたくありませんから・・・
現代の官僚機構の基礎を作り、後世の繁栄を切り拓いた大久保翁に感謝します。
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栃木県とほぼ同じ大きさの島、ガダルカナルは単なる島の名前ではありません。
それは帝国陸軍の墓地の名です。
ここで最強といわれた帝国日本が陸戦においてはじめてアメリカに敗れました。
大東亜戦争において連戦連勝の日本はここから血のページを染めていくことになります。
ミッドウェー海戦で帝国海軍が敗北し、
このガダルカナル島(ガ島)において帝国陸軍の敗北が刻まれました。
これを失って以降、日本は大勢日々に傾くことになり、
まさに日米勝敗の天王山と称すべき6ヶ月にわたる激闘が、ここガ島でありました。
一木支隊、川口支隊、第二師団、第三十八師団の兵力が次々投入され、
その合計は約三万二千名に達しました。
そのうち戦死が一万四千五百五十名、
戦病死が四千三百名、
行方不明が二千三百五十名、の計二万二千名を失い、
残る一万名は廃疾者同様に衰弱したまま、かろうじて帰還するという全滅的敗戦でした。
第八方面軍司令官の今村均中将は、
引き揚げ兵団を直ちにショートランド島に見舞って、驚愕しました。
起立して報告できる将校はほとんどなく、
今村中将の慰労の片言を聞いただけで声を上げて泣き、
これが最強を誇る帝国陸軍の軍人とは信じ難い、
魂の抜けた幽霊と化しているのにびっくりしました。
今村中将は戦場で涙を見せるのは禁じられているため、室外に飛び出して涙をこらえた。
島から撤退してきた1万名も、もはや軍人ではなかった。
陸軍だけがガダルカナル島に墓を掘ったわけではありません。
犠牲の量は海軍も多く、前後6回の海戦がその周囲で戦われ、
戦艦霧島、比叡以下二十四隻、十三万五千トンが失われました。
海軍航空隊の犠牲も多く、ガ島戦六ヵ月で八百九十三機が失われ、
搭乗員の死者は二千三百六十二名にものぼり、
機数の損傷も当時の連合艦隊にとっては耐え難いが、
百戦錬磨の戦士二千三百四名を失ったことは対米空戦を戦ううえに大きな打撃でした。
これこそガ島が陸軍の墓地であるばかりではなく、海軍合わせた共同墓地であったと言われるゆえんです。
島の飛行場の奪還が目的であったガ島。
このジャングルの中に、あるいは草原に、または海辺に、鉄兜を冠ったままの白骨が、
傍らに剣銃を擬して、ルンガ飛行場の方向に向かって横たわっている光景が想像される。
・・・・・・・・・
富士山の麓にて「雨やどり」と称し、半自給自足の生活をしながら様々なボランティア活動を行っている夏井辰徳さん。
この夏井さんがガ島に行くことになったきっかけは思わぬことからでした・・・。
今から数十年前、当時、夏井さんは地雷というものに対し大きな憤りを持っていた頃、
たまたま「朝まで生テレビ」を見ていると、
何!
と思った。
それはテレビの中で議員になる前のピースボートの活動家 辻元清美が、
口角泡を飛ばして自民党議員たちに対して畳み掛けていた。
「あなたたちはガダルカナル島で多くの残砲弾で現地の人たちが今も被害にあっていることを知っているか?」
「私は現地に行ってそれを見てきたんだ。あなた達は現状を知っているのか?」
それに対して絶句するばかりの自民党議員たち。
夏井さんは言われっぱなしの自民党議員たちも情けないが、自分自身もこう思った。
「自分も人の事は言えない。そんな現状が本当にあるのか・・・」
その日のうちに夏井さんは問い質すべく、辻元のピースボートの事務所を訪ねました。
「今朝のテレビを見たが、そのことを聞きに来た」
辻元本人は不在で、辻元と同行した者が出てきました。
夏井さんはその者にテレビでの事実確認をした後、
「ガ島には旧日本軍や連合軍の砲弾が今も取り残され、
それが不意に爆発して現地の人々を殺傷し苦しめているという。
その状況を見て如何されたんですか?」
考えてもいないことを聞かれて相手は驚いた。
「・・・。遺憾に思いますが・・・。 結果、何もしていません」
「遺憾に思うのは、そりゃ当然だ。現地のあの状況を知っていてそのままか?
いえ、本当の歴史というものを誰も教えてくれないのなら自分たちで足を運び、学び、
それを以降どのように生かすかは各々に委ねるということが、この団体の主旨であることは理解しています。では、●●さん、あなた個人としてそうした現状に対しどう思うのですか?何かされたんですか?」
「・・・。」
「一人の日本人として、一人の人間として、どう思われますか?」
「・・・・」
言葉が返ってこなかった。
あの状況を見てそのままか? 遺憾? それで終わりか?
「貴様は日本人として、現地の方々が亡くなっているその状況を知っておきながら・・・遺憾の一言か・・・」
腹に据えかねた夏井さんはすぐに首相官邸、外務省、防衛庁、厚生省のそれぞれにも電話して
「ガ島はこのような状況ですが、知っていましたか? 国として対応はしないのか」
それに対して一様に、
「把握していません。それよりも日本政府としては“戦後処理”は終わっていますから」
何?
“戦後処理”? それは銭金を指す。
現地に遺骨はいまだ帰還せず、残砲弾もそのままで、
現地ではどんどん被害が出ているじゃないか。
お金さえ払えばそれで全てが終わりか、・・・。
ピースボートで既に憤りの火が点いていたところに加え、
こうした日本の役人の対応に、夏井さんの行動に最早、躊躇はありませんでした。
「日本人としての大いなる悲しみと憤り」この一念でした。
国がやらないなら俺がやる!
これが夏井さんがガ島に行くきっかけでした。
・・・・・・
「日本の現状を見向きもせずに、平和だと言って、
自己中心で自分勝手で行き過ぎた個人主義が横行している日本人を憂い、
日本人としての、人間としての誇りを取り戻し、再生すべく、
微力ながらも自らの命を賭けてでも、砲弾処理と遺骨収集を行う」
夏井さんはそう決めた。 決めたら行動あるのみ。
夏井さんは昨年まで計六回、ガダルカナル島に行きました。
そして、今年も(平成22年3月6日)7度目のガ島へ向かいます。行程は1週間。
日蓮宗・身延山大学の講師1名と生徒6名が一緒に行くことになりました。
学長・宮川了篤上人より
「この堕落した宗教界において、命懸けで事を成すということは如何なることか。
それを夏井さん、是非、生徒等に見せて欲しい」
とお願いされてのことでした。
夏井さんは言う。
「基本的には私が残砲弾処理を担当し、その姿を見ながら他メンバーが遺骨収集。
この活動は最大の要である『命と銭はてめぇ持ち』という前提です。
費用は生徒自ら寒行を行い賄いました」
先人達の遺骨収集というと正義感ある行動ですが、言うほど生ぬるいものではない。
残砲弾がいつ爆発するかも知れないところに、全くの素人が行くのです。
「死ぬかも知れない」
この言葉はいつも頭によぎっていたはずです。
まして現地では昨年も9人の方が死傷していました。
更に夏井さんは自身の命の他、7名の命までも背負っているのです。
「御遺骨収集には、先ず御遺骨がどのような場所にあるのかを把握せねばなりません。
英霊となられた方々は祖国日本を思い、最後の最後まで戦う気持ちでいたんです。
だから砲弾がいつでも撃てるように準備されてあるんです。
その砲弾のそばに眠っておられるんです」
僧侶の卵と言われても、現代に生きる日本の若者達にこの覚悟が出来るのか。
この覚悟を決するまでにやはり若者たちは数ヶ月の時間が必要でした。
・・・・・・
そして、いよいよガダルカナル島へ向かった・・・。
現地ガダルカナル島へ到着し、活動拠点となるレレイ村へ入りました。
夏井さんと共に命懸けの活動をサポートしてくれる現地の方々も決まり、
いざ英霊が眠るジャングルへ出発しました。
しかしジャングルの中です。次々に続く悪路。
大雨、強烈な日射、蚊、脱水症状等に苦しみながら、英霊の方々の元へ進みます。
半日で悪路に足を取られた一人の生徒が崖のようなところから10mほど転げ落ち捻挫しました。
これでは数日のジャングルは無理です。
レレイへ戻し、夏井さんたちが戻るまで村で御経を上げることにしました。
山越えが最も難関とされる険しい道。
ここを先輩である旧日本軍は行軍した後、餓死していった「白骨街道」と呼ばれる丸山道です。
次々にメンバーが転げ落ちたり、過度の疲労で動けなくなったりしました。・・・
(つづく)
・・・・・・
ブログ友の夏井さんにこんなことを聞いてみました。
「ガ島で苦しい時につい口ずさんだりした歌がありますか?」
「心で口ずさんでいた歌があります」
と言って教えてくれたのが「さすらい」です。
おっと!小林旭。
私はつい唸ってしまいました。
この「さすらい」の元々の曲は「ギハロの浜辺」という曲で、
かつて大東亜戦争中にフィリピンのルソン島に駐屯していた日本兵士たちに歌われた歌です。
このギハロというのはルソン島にある地名です。
この歌はニューギニア方面の兵士たちも歌って日本をしのんでいたという。
きっとガダルカナル島でも歌っていたかもしれません。・・・
夏井さんはこの曲の二番が気に入っているという。
知らぬ他国を流れ流れて
過ぎて行くのさ 夜風のように
恋に生きたら楽しかろうが
どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ ・・・
恋して自分の快楽を求めて思うように生きていれば楽しいだろうが、
それよりも大義のために生きることを選ぶ。
ガダルカナル島という遠い島での夏井さんの心境が現われている。・・・
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日本史上、親しみを込めて「さん」づけで呼ばれる英雄は多くはありません。
その一人が西郷隆盛です。
もうひとりは明治から昭和の三十年代頃まで「さん」づけされていたのが乃木希典です。
明治から国民が真に愛したのは伊藤博文でも坂本龍馬でもなく、西郷さんであり、乃木さんでした。
最近でも西郷さんは国民に敬愛されておりますが、乃木さんはあまり評価されていません。
これは司馬遼太郎の「坂の上の雲」で乃木大将の無能さが強調され、戦下手な指揮官とされてしまった影響もあるのでしょう。
しかし、先日私は東京の乃木神社の前でこういう光景を目にしました。
歩道を歩いていた年配の男性が神社の前で神社の鳥居に向きを変え、かぶっていた帽子を取り、
直立不動となり、深々と頭を下げて一礼し、それから通りすぎて行きました。
これが何を意味するのかはわかろうというものです。
・・・・・・
明治十年、西南戦争で西郷隆盛を首領とする薩摩軍が熊本城を包囲しました。
乃木は主力を率いて小倉を出陣し、夜行軍で熊本城の植木で薩摩軍と遭遇しました。
戦闘は凄まじい白兵戦となり、乃木は一時撤退を決意しました。
その時、天皇陛下から授かった大切な連隊旗を敵に奪われてしまったのです。
陛下への忠義を自分の支えとしようとしてきた乃木にとって、
軍旗喪失という軍人にあってはならない失態を犯したことは乃木の心に重くのしかかりました。
乃木は恥辱のあまり、自分から死地に何度も入り、
あえて薩摩軍の正面に立ち敵弾にあたって死のうとしました。
この乃木の異常な行動はやがて明治天皇の耳にも達しました。
すると明治天皇は「乃木を殺してはならん」と前線指揮官の職からわざとはずすように命じられました。
明治天皇は乃木の責任感の強さに対して深く人間としての信頼の念を寄せられたのでしょう。
明治という時代に我々日本人が一番大切にすべき日本人の心が光り輝いた瞬間ではないでしょうか。
それは、陛下の軍旗を喪失した恥辱の臣に対して、明治天皇は乃木のまごころを知り、
親が子を抱きしめるように許されたのです。
そして、国民がこれを知って共感することによって、
己を虚しくしても大義に殉じる明治の精神が確立したように思えます。
後年、乃木は明治天皇の後を追って殉死を遂げる際、
この軍旗喪失への謝罪を遺言の第一に挙げておりました。
・・・・・・
明治二十七年、日清戦争が勃発すると乃木は歩兵第一旅団を率いて出陣。
乃木の属する第二軍第一師団は堡塁と砲台に守られた旅順要塞をわずか一日で攻略。
蓋平の戦いでは桂太郎指揮する第一軍隷下の第三師団を包囲する清国軍を撃破するなど
目覚しい活躍を遂げ名将振りを世界に示しました。
乃木は「将軍の右に出る者なし」という賛辞を受けて凱旋帰国しました。
その後、台湾総督に就任した後、帰国し、新設の第十一師団長に任じられます。
乃木はこの新設の師団の将兵を厳しく鍛えると同時に、深い慈愛をもって接したので
多くの将兵から信頼を得ていました。
真夏の炎天下、師団の工兵隊が橋を架ける訓練をしていた日のことです。
気づくと乃木が一人で対岸の河原に立ちこちらを見つめています。
やがて正午になり、兵士達が弁当を食べると、乃木も握り飯を頬張り、
兵士が河原に寝転んで休息をとれば、乃木もそうしました。
作業再開後、乃木は再び午前と同じ河原に立ち、夕方作業が終わるまでその場を立ち去りませんでした。最初は監視されていると思って緊張していた兵士達も、乃木が自分達とあえて困苦をともにしようとしているのだと気づき、感激しない者はなかったといいます。
この第十一師団こそ、のちの日露戦争の旅順戦において
乃木司令官の下で勇猛果敢に戦った師団の一つです。
「わが身は常に兵士とともにある」
乃木の指揮官としての姿は日本人が最も愛する名将の姿そのものであったといえます。
・・・・・・
日露戦争で難攻不落の旅順を落とした乃木が「日露戦争の英雄」として
長野師範学校で講演を求められた時のことです。
乃木は演壇には登らず、その場に立ったまま、
「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とひとこと言って絶句し、
止めどもなく流れる涙を延々と流したのです。
これを見た生徒と教師らも、ともに涙を流し、慟哭したといいます。
自身の息子も二人とも戦争で亡くしていましたが、それは一切触れず、
少しも己の功を誇ることなく、多くの将兵を死なせた責任を痛感して慟哭する乃木の姿に
人々は感動したのです。
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