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台湾人医師の直言  林 建良 著



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日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十四ノ一)いまだ滅びぬ日本人のサムライ精神よりつづきます。



7.いまだ滅びぬ日本人のサムライ精神


●人生のすべてを台湾独立運動に注いだサムライ

私が日本で会った初めてのサムライは、今でも台湾独立建国運動に指導的役割を果たしている宗像隆幸氏である。


宗像氏は孫文を助けた宮崎滔天と同じ九州の出身で、片や鹿児島、片や熊本である。彼がかつて著した『台湾独立運動私記』の副題は「三十五年の夢」と付けられていて、これもまた、滔天の著書『三十三年の夢』を彷彿とさせる。確認したことはないが、おそらく滔天にならって付したのであろう。この副題からも宗像氏が独立建国運動に携わってきた心象風景が垣間見えるようだ。


一九五九(昭和三四)年、まだ明治大学の学生だった宗像氏(一九三六年生まれ)は、同じ下宿にいた留学生の許世楷氏から声をかけられてこの運動に参加している。許世楷氏はのちに台湾独立建国聯盟主席となり、二〇〇四年七月、台湾の駐日大使に相当する台北駐日経済文化代表処の代表に就任している。


宗像氏はこの許世楷氏からB介石政権の残虐ぶりを聞いて憤慨し、台湾独立建国聯盟の前身である台湾青年社に入る。それ以来、今日に至るまでの四五年間、台湾独立運動一筋でやってきた人物である。長年、「台湾青年」編集長をつとめ、自らも多くの論考を発表してきている。


宗像氏がやってきたことは、われわれ台湾人にはなかなか真似できるものではない。台湾人の独立運動家は、私のように医者をやったり先生をやったり、片方で生計を立てつつ参加してきたし、今でもそうである。しかし彼は、台湾独立運動こそ我が事業だとして、すべての時間を投入して取り組んできたのである。


独立に命を懸けるとはどういうことかについては『台湾独立運動私記』に詳しく書き記しているが、運動のために彼は二度も拘置所に入れられ、台湾政府に批判的な留学生を強制送還しようとした日本政府に対してハンガーストライキを敢行するなど、体を張って行動している。これまでの台湾独立運動のすべての面に関わってきたと言ってよい。


このような宗像氏の活動について、許世楷駐日代表夫人で、これまで共に独立運動に携わってきた盧千恵氏はあるとき、申し訳ない思いを込めて「人生の全部を独立運動に注ぎ込んでよかったと思う?」と聞いたことがあったそうだ。そうすると宗像氏は「うん。独立運動なき人生なんて考えられないよ。よかった、よかった」と、鷹揚に答えてくれたという(「台湾青年」停刊記念号掲載「私達の青春は勇敢な歌」)。やはり、サムライ精神の持ち主である。


宗像氏は今でも台湾独立建国聯盟日本本部の中心的人物であり、彼の建国の理論は独立運動の重要な指針となっている。

台北で独立ビラを撒いて逮捕されたもう一人のサムライ

もう一人は、やはり台湾独立建国聯盟に参加している小林正成氏である。小林氏は東京の下町で中小企業を営む経営者であるが、台湾の戦後の悲惨な状況を聞き、義侠心からこの運動にかかわる。一九六七(昭和四二)年、小林氏が三四歳のときだった。


当時、台湾はB介石独裁政権の真っただ中にあり、このさ中の一九七一(昭和四六)年の五月九日、「母の日」を選び、その夜、小林氏は台湾独立や戒厳令解除などを主張したビラを台北市内のビルの屋上からバルーンにつけてばら撒いたのである。その結果、警備総司令部に逮捕され、四カ月も勾留されることになる。さんざん調べられて、国外追放となって日本へ帰国したのは八月三一日の深夜だった。


羽田に着いたときの小林氏のひと言がふるっている。外事課の刑事を黙らせた絶妙なやり取りを小林氏の自著『多謝、台湾│白色テロ見聞体験記』から紹介してみたい。


「小林さん、もう懲りたでしょう」

「何がでしょう?」
「いや、今回のような事件ですよ」
「いえいえ、今までは秘密盟員でしたから。こんな事態になって秘密盟員という訳にはいかんでしょう。これからは正々堂々、正面から行動し、全力でやりますよ」
「われわれは小林さんから、これからは台湾の政治問題にはいっさい関わらない、という言葉が出てくる事を期待していたんですがね」
その言葉に私は、人の気持ちを理解出来ない唐変木と思ったが、
「台湾には、無実の罪で抹殺されようとしている仲間が沢山いるのです。自分が安全な場所に身を置いたとたん、ヤーメタなんて、とてもじゃないが私には出来ませんよ」

外事課の刑事は小林氏のこのひと言にただただ驚くばかりで、小林氏を自宅まで車で丁重に送り届けたそうである。これが小林正成氏なのである。サムライである。


●李登輝・ビザ発給問題で尽力した二人の若きサムライ


私は一九九九(平成一一)年に在日台湾同郷会の会長に就任した。当時の在日台湾同郷会は資金もなく会員もほとんどいない、壊滅寸前の組織だった。


この年の九月二一日午前一時四七分、大地震が台湾を襲った。震源地は台湾中部の南投県の集集鎮というところだった。その大きさは、四年前に起こった阪神・淡路大地震のマグニチュード七・二を上回る七・七だった。震源地から約一五〇キロ離れた台北市でも、一二階建てのビルなどが倒壊し、犠牲者数は二四四〇人を数えた。


当時の台湾は任期を八カ月残すばかりになっていた李登輝氏が総統で、夜の明けるのを待って、総統執務室へも寄らずに被災地へ直行して自ら陣頭指揮を執るなど、迅速果敢に救済活動を進めた。のちにこのときの活動は『台湾大地震救災日記』としてまとめられ、日本語で出版されている。


またこのとき、日本政府は世界で一番早く、そして過去最大規模の国際緊急援助隊を台湾に派遣してくれたことを覚えている台湾人は今でも少なくない。私自身も、日本隊が台湾に一番乗りしてくれたときの感激を昨日のことのように覚えている。


私たちも祖国の窮状を救おうと、台湾に帰り被災地に入ってボランティア活動したり、東京で活動をはじめた。このとき一緒に救済活動をしてくれたのが、当時、台湾研究フォーラム代表だった柚原正敬氏であり、事務局長だった永山英樹氏である。地震からさほど日を経ない土曜日、柚原・永山両氏をはじめとする台湾研究フォーラムの有志が池袋駅東口の街頭に立って募金活動をはじめたのだった。これには多くの在日台湾人が感激した。


その後、翌々年(二〇〇一年)の四月になって総統を退任した李登輝氏が心臓病の治療のため来日するにあたり、日本政府がビザを発給しないという問題が発生した。このときも台湾研究フォーラムの柚原・永山両氏は、われわれ在日台湾同郷会と一緒に外務省前で座り込みデモを敢行したのだった。


四月一一日には「日本政府が入国ビザ申請を事実上拒否」という報道に接し、これは台湾人の尊厳を踏みにじるものとして、私は在日台湾同郷会会長として日本政府へ抗議と決定の変更を要求した。台湾研究フォーラムの柚原氏もこれに呼応して翌一二日、「李登輝氏へのビザ発給問題に関する声明」を発表し、日本政府に対して人道に則った措置と中国の内政干渉を排した主権国家としての威信を示すよう抗議したのだった。


その後も紆余曲折はあったものの、四月二〇日の深夜、ようやく河野洋平外相は李登輝氏に対するビザ発給を決定し、四月二二日、李登輝氏は関西国際空港に降り立つこととなったのである。このとき、約四〇〇人の日台有志が手に手に日の丸や台湾旗を千切れんばかりに振りつつ関空に出迎えたのである。


しかし、今でも記憶に新しいのは、当時の河野外相が「中国のことに想いを致し、慎重に扱わねばならない」とか、槇田邦彦アジア大洋州局長が「今の時期、そんなことをすれば、日中共同声明とのかかわりで政治問題化する。査証発給は難しい」と言って、中国に阿る発言をくり返していたことだ。また、このときの陳健中国大使が「治療は口実だ。訪日によって中国を分裂させ、日中関係を破壊する」とまで李登輝氏を誹謗したことは、決して忘れられない。


今や李登輝前総統はノービザで来日できるようになった。たかだか五年ほど前のことなのに今昔の感を覚えるのは私一人ではあるまい。


●台湾問題では一番の精鋭部隊に成長


この台湾研究フォーラムは、一冊の本からはじまった。一九五五(昭和三〇)年生まれの柚原氏は二〇代後半に出版社を設立している。一九九六(平成八)年春、編集長だった柚原氏の担当で『台湾と日本・交流秘話』という本を出版した。台湾で大学学長をつとめていた許國雄氏を監修者に、大学教授だった名越二荒之助氏と日台交流団体の事務局長をつとめる草開省三氏を編者とし、若手執筆人を中心に、戦前からの台湾と日本の交流史をまとめたものだ。柚原氏も執筆に加わっている。当時、この出版社にいた永山氏も執筆者の一人だ。そのほかには、神社関係者や学校の先生、歯科医、会社員など総勢一六名が執筆に加わっていた。


ところが、柚原氏をはじめ若手執筆者は全員、祖父母が台湾生まれであるとか、身内に台湾人と結婚した人がいるとか、台湾と特別な縁があったわけではない。ほとんどが台湾は未知の世界だった。そこで、柚原氏は名越教授から原稿が届いたことをきっかけに、執筆者の勉強会を兼ね研究会発足を思い立つ。それが台湾研究フォーラムの前身の台湾研究会である。


発足時は執筆者四、五人ではじめたそうで、少し名前が知られてきたときでも十一、二名の小さな研究会だったという。ところが、毎月一回の研究会を重ねるうちに若手の論客や知識人がどんどん入会して会員が増えはじめ、今では優に一〇〇名を超している。台湾問題では一番の精鋭部隊と言ってよい。





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続く・・・・



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台湾人医師の直言  林 建良 著



日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十三)博学にして無知な日本人より続きます。



第2章 台湾から見た日本および日本人

争いを避けたがる日本人に平和は守れない



7.いまだ滅びぬ日本人のサムライ精神


●「日本精神」に憧れて日本へ来たが…

台湾で戒厳令が解かれたのは一九八七(昭和六二)年七月のことである。私が大学を卒業したとき、台湾にはまだ戒厳令が布かれていた。戒厳令下においては、台湾人が海外に出ることは非常に厳しく制限されていた。しかし、大学生には特権が与えられていた。海外に留学する特権である。独裁政権から脱出するため、亡命する代わりに留学という手段が残されていた。


大学を卒業し、兵役を終えた台湾人のほとんどは留学するための試験に臨む。多くはアメリカを希望していた。しかし、私は最初から日本を希望していた。それは、父の影響が大きかった。父から、日本は武士道精神のある国だと言い聞かされていたからだ。私は武士道精神に憧れて日本にやって来た。


台湾人は武士道精神に憧れているというより、日本精神に憧れていたと言った方が適切かもしれない。私も「ギップンチェンシン」と台湾語で言われる日本精神に憧れていた。台湾人としては、武士道精神をそのまま日本精神と理解していた。台湾人から見れば、日本人はすべてサムライ精神を持っていると思っていたのである。


なぜ台湾人が日本精神に憧れているのかと言うと、台湾人にはないと思われた精神だったからである。台湾人が理解していた日本精神とは、滅私奉公、清潔感、規律、尚武、使命感、正義感などであるが、これらは台湾人には希薄か、持っていないものと思われ、日本人なら持っていると思われた精神だった。


来日して五日目に大学の研究室に入った。私のまわりはすべて日本人で、外国人は私一人という恵まれた環境だった。


その当時の日本はバブル経済の真っただ中で、ジャパン・マネーで次々とアメリカの映画製作会社やシンボルとなる建物を買収し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされた時代だった。その浮かれた気分が日本の至るところに浸透していたようで、「白い巨塔」といわれる医学部の研究室まで一種の成金的な驕りが充満していた。

当時の研究室では、しばしば「どうだ、この治療を台湾でできるか」と日本人医師から自慢気に聞かされた。しかし、台湾は医学の基礎研究こそ遅れていたものの、臨床治療の点においては決して日本に後れをとったことはない。逆に、当時の日本は倫理的問題で臓器移植法がまだ制定されていなかったため実質的に心臓移植が不可能であり、心臓移植や肝臓移植の臨床分野では台湾の後塵を拝していたのである。しかし、その事情を知らない日本人医師たちが台湾人の私の前に示したのは、日本精神とはほど遠い、鼻持ちならない優越感だった。

ちなみに、日本で「臓器の移植に関する法律」が制定されたのは私が来日してから一〇年後の一九九七(平成九)年七月のことで、そのとき私はすでに栃木県に転居していた。


このような鼻持ちならない医師もいたが、幸運にも私の研究を直接指導してくださったのは、アメリカで研究を終えて東大に戻ってきたばかりの、まだ三〇代だった岡芳知先生(現在、東北大学大学院医学系研究科分子代謝病態学分野教授)だった。岡先生は当時さほど知られていない「糖輸送単体」(Glucose Transporter)研究の第一人者で、自分にも、教え子である私にも厳しかった。


当時の岡先生は私と一緒に、電気泳動用のガラス板や放射線測定用の小瓶などを、時間をかけてていねいに洗った。私は「このような仕事は研究助手にやらせてもいいのではないか」と不満に思い、それが顔に出たのだろう。岡先生は静かに、諭すように言われた。

「研究にはあらゆる段階で失敗がある。その失敗の原因は、往々にしてこのような細かなところで手を抜くことにある。だから、どんな細かい部分でも自分の手できちんとやると、たとえ失敗したとしても、失敗した原因を容易に見つけられるのだ」

私は、これはまさしく日本人の「匠」の精神ではないかと思った。これこそ、自分に厳しくそして誠実である「日本精神」ではないかと強く感じた。


最近になって、岡先生が東北大学の片桐秀樹教授らとの共同研究で、肝臓がセンサーと発信源となる肥満防止メカニズムを突き止め、その成果を二〇〇六年六月一六日発行の科学誌「サイエンス」(アメリカ科学振興会発行)に発表したとの報道に接した。「サイエンス」は「ネイチャー」とともにもっとも引用される学術誌で、審査基準が厳しいことで有名だ。


詳細は不明だが、報道では「肝臓がカロリーのセンサーとして働き、基礎代謝を調節する機能は、これまで全く知られていなかった発見だ。今後は、研究チームが突き止めた神経ネットワークに作用する肥満解消薬の開発などが期待される」とあった。岡先生の厳しい研究姿勢をつぶさに見てきた私には何よりの朗報だ。「匠」の精神が自ずから導いた成果として心から祝福したい。

しかし残念ながら、研究生活の七年間でそれ以外の「日本精神」に出会うことはなかった。


●冒険心と正義感を失なった日本人


日本人の「滅私奉公」という精神は、「私」という個人を滅して国家や社会という「公」に奉仕することだが、会社や大学のグループという単位に縮小された「公」においてなら、この精神に出会ったことがある。それでも日本人は台湾人に比べれば、「公」の方に重きを置き、「私」の比重は軽いように見受けられた。


また、「清潔感」に関しては、台湾人も日本人もさほど変わらないように思われた。ただし、それはいわゆる衛生上から見た清潔感のことであって、金銭面とか仕事関係で使うモラル的な清潔感の点においては、やはり日本人の方がまだまだ高いというのが率直な印象である。


では、「規律」についてはどうかというと、組織のなかの上下関係や命令系統はそれなりにあるようだった。


「尚武」とは、読んで字のごとく武を尚ぶことだが、日本ではまだ自衛隊の存在が合憲か違憲かという議論が盛んだった。軍人という言葉も死語になっていて、自衛官になることを誇りとする若者は非常に少なかった。だから、武を重んじる精神は滅んでしまったのかと思ったが、形を変えてスポーツの世界に生き残ったようだ。


「使命感」については、これも広義の国家や社会から、会社単位や自分のまわりのグループに限られてしまったように見受けられた。


このように時代によって「日本精神」は変化しつつも、その本質はまだ残っているようだった。しかし、七年間でまったくお目にかかれなかったのは「冒険心」と「正義感」である。台湾人から見た日本精神のなかでもっともわかりやすいのは「強きを挫き、弱きを助ける」という精神である。その点で、「冒険心」と「正義感」は重要なメンタリティーだと思われた。


ところが、日本人は無難な方法、確実な方法をとり、冒険はしないという傾向が強く、それは職場においても国家においても同じだった。日本人は結果はどうあれ、何にでも果敢に挑むという精神を持っていたはずなのに、いったいいつからこんなにも合理的に考える民族になってしまったのだろうか。なんともこじんまりとしてしまい、私は大いに戸惑った。


「正義感」については、たとえば、新聞をにぎわせていた「いじめ」の問題を見て、日本の子供の世界がそれほどまでに陰湿になってしまったことが私には驚きであり、ショックでもあった。少なくとも台湾では、日本のような「いじめ」があるとは寡聞にして知らない。台湾でも喧嘩はよくある。しかし、日本のようにグループで一人をいじめるというようなことはまずない。このような形のいじめが頻発するのは、日本人が正義感を喪失した象徴ではないかと思った。


しかし、大学の研究室を出て、栃木県の片田舎で医療活動に携わりつつ、徐々に台湾の独立建国運動に関わるようになって、この思いも変わってきた。運動に参加してきた日本人と付き合うようになって、日本人はまだサムライ精神を失っているわけではないと思い直すようになったのである。








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台湾人医師の直言  林 建良 著




日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十二ノ二) きれいに死のうとする日本人と死なないようにする中国人より続きます。



第2章 台湾から見た日本および日本人

争いを避けたがる日本人に平和は守れない


6.博学にして無知な日本人


●被害者に命の尊さを説教する?

日本に来て一番感心したのは、日本人の知識の高さであり豊かさである。日本の一般庶民が、台湾の庶民に比べて豊富な知識を持っていることに驚かされた。ごく普通のおじさんやおばさんでもかなりの教養を持っていて、文化、芸術、文学など、いろいろなことについて知っている人が少なくない。


私は栃木県の片田舎で生活しているので、まわりには農家の人が多い。そこには俳句や短歌を作っているおじいちゃんやおばあちゃんたちがいて、彼らはよくその作品を私に見せてくれる。なかには、絵を描いているお年寄りもいて、その絵をもらったりもする。話をしてみると、国の経済状況にしろ社会状況にしろ、それなりの知識を持っていて、私の知らない話をよく聞かせてくれる。


日本に来る前から、日本人は本を読むのが大好きだと聞いていた。実際、日本に来て本屋をのぞいてみると、思っていた以上に出版されている数が多いのに驚かされた。あらゆる分野を網羅し、手に入らないものはないのではないかと思い、日本人は出版物には恵まれていると感心した。


おそらく日本人は、世界のどの民族と比べても知識の点では最高水準にあるのではないかと思われる。しかし、なぜか非常に幼稚とも見えるところがある。無知に近い、あるいは無知と言っていいような現象を見聞きすることが多い。


私がよく予防注射に行く栃木県今市市(現日光市)内の小学校で、一年生の女の子が殺害されるという事件が起こった。何とも酷い事件である。


このような事件が起こると、学校では決まって全校集会を開き、子供たちに命の尊さを説教する。しかし、これは異様な光景だ。被害者になっていたかもしれない子供たちに、命の尊さを説教するということにどういう意味があるのだろう。子供たちに命の尊さを説教するのは滑稽としか言いようがない。命の尊さを説教するなら、犯人にすべきなのである。子供たちに教えるのは、いかに自分の身の安全を守るか、それだけだ。


●人間の善の面ばかりを強調しすぎる日本の教育


日本の戦後教育を見ていると、人間の善の面ばかりを強調して、悪の部分には触れたがらない傾向が強い。まるで童話の世界を見ているようだ。しかも、それは幼い者に対するほど顕著で、制約を極力なくして、本能的な部分を尊重しているようだ。かつて小児科も担当していた私から見れば、これは子供の動物的部分を放置するようなもので、教育の放棄でしかない。


たとえば、個性の尊重を強調する。しかし、人間はそもそも自己中心的なので、教えずとも本能として個性を発揮する。学校教育というのは、自分の個性だけではなく他人の個性を尊重し、社会のルールを守ることを教える場だ。それを、個性や自由といった本能に類することを教えるというのだから、これが学校教育と言えるのかどうかはなはだ疑問だ。


また、幻の平和と反戦を吹聴する一方で、正義感と冒険心を意図的に子供たちから取り除こうとしている。そして、決まって命の尊さを説教する。子供の悪に相当する動物的部分を放置しながら、正義感と冒険心を抹消しようとするこのような日本の学校教育は、偽善的で偏っているとしか言いようがない。


そもそも、子供が善の存在だというのは幻想にすぎない。子供にも悪の部分はある。だからこそ躾が必要なのであり、さらにこの世には善もあれば悪もあるという現実を子供に教えるべきなのである。悪の存在を教えないような教育であれば、当然ながら悪に向かっていく正義感も育たない。また、我が身を守る心構えも育たないのである。


このような教育はつまるところ、子供に迎合して教育しているのである。知恵のある者が知恵のない者に合わせて教育しているということである。こういう教育の現状を見てしまうと、これは無知に基づいてやっているとしか思えないのである。


私は地域診療のかたわら、地元の小学校と中学校の学校医も務めている。日本の教育は子供に媚びる傾向が異様に強いように感じている。


子供を無垢で善な存在と考え、それに基づいておこなわれる個性尊重の教育は、結局、教育現場の崩壊をもたらしているが、これは教育責任の放棄以外のなにものでもない。なぜなら、それは人間は本来、善と悪を兼ね備えている存在であることを無視しておこなっている教育だからである。結果として、人間の悪の部分を矯正することを放棄し、善を伸ばすこともできないのだ。


子供を善の存在とする教育思想は、子供の悪の部分を放置して助長してしまう。実際、私の診療室に、親に対して命令形で話をしたり、バカと怒鳴りつけたりする子供を多く見かける。このような子供たちがどのような大人になるのかは、成人式での新成人の悪ふざけを見れば想像がつく。


なぜ賢いはずの日本の大人はわからないのか、台湾人の私は理解に苦しむ。いや、わからないはずがない。戦前の日本人は子供に媚びるような真似はしなかったという。しかし、現代の親や教師にとっては、個性の尊重を楯に、子供に媚びる方が楽だからだろう。


●知識やデータは蓄積できても、発言は許されない?


ところで、国家レベルから見れば、日本はありとあらゆる世界情勢に関するデータを持っている。日本の繁栄はこれらのデータによるところが少なくない。


先にも触れたように、二〇〇五年一二月八日、民主党の前原誠司代表(当時)がアメリカで中国の軍備増強について脅威だと発言したことがあった。当たり前のことを指摘したにもかかわらず、民主党内からは鳩山由紀夫幹事長をはじめ前原発言を非難する声が相次いだ。


一二月二二日、今度は麻生太郎外務大臣が閣議後の記者会見で、中国の軍備増強について「軍事費が一七年間、一〇パーセント以上伸びている。その内容はきわめて不透明だ。かなり脅威になりつつある。前原氏の『脅威、不安をあおっている』という言い分は確かだ」と発言したところ、山崎拓元自民党幹事長が「脅威と言ってしまうと、対処しなければならなくなる」と批判した。


もちろん中国は、前原発言にも麻生発言にも、根拠のない中国脅威論であり、「中国の発展が、日本を含むアジア各国に大きな発展のチャンスをもたらすなど、地域や世界の平和に貢献してきた」と、中国の軍備増強は日本の発展にも貢献したと嘯いて反発した。


この前原代表や麻生外相のケースに現れているように、日本では、いろいろなデータをそろえ、いろいろな知識を蓄積することは許されているが、その知識やデータに基づいて発言することや行動を起こすことは許されていないようだ。つまり日本では、研究するのはいいが、行動を起こしてはいけないことになっているようなのである。


世界では殺人、戦争、権謀術数、裏切り、闘争、資源の争奪などさまざまなことが起こっている。しかし日本では、このようなことは映画やドラマの世界の出来事と片づけ、まるで存在しないかのように考えて「臭いものにフタ」をしているように思われる。日本人を見ていると、そのようなことが世界で起こっているとは考えたくもないというふうだ。


これは、ある外交官から聞いた話である。


外国人新聞記者が外務省の高官に「もし万が一、台湾と中国が戦争になったら、日本の外務省はどのような対策をとるのか?」と質問した。これはきわめて現実性の高い想定で、当然、対策はあるものと思って聞いたのだそうだ。すると高官は「われわれはそのような事態を発生させないように努めている」とだけ答えたという。


それだけだったので、その記者はもう一度「もし発生したらどうするのか?」と聞き直した。すると高官は「われわれはそのようなことは考えたくない」と答えたというのである。


確かに、外交官としては事態が発生する前にその芽を摘み取っておくのが役目と考えての発言だったのかもしれない。もちろん、それが外交官としての役割なのだから理解できなくもない。しかし、「考えたくない」とはどういうことだろう。発言の影響力を考えて「仮定の話には答えられない」と言うのならまだわかる。しかし、外交の最先端にいる外交官が考えなくて誰が考えるというのだ。


実はここに今の日本が透けて見えるのである。日本人には、世界で現実に起こっている戦争も殺人も暴動も略奪も「考えたくない」対象であって、映画やドラマという虚構の世界に押し込めてしまいたいのであろう。


●戦争の想定すらできない日本人


では、日本人は軍事学や世界情勢について無知であるかというと、決してそうではない。私が知っている自衛官にしても軍事マニアにしても、恐ろしいほどの軍事知識を持ち、世界情勢の分析も的確で、私はいつも感心しながら拝聴している。しかし、この知識を行動としてどのように活用するかについてはほとんど考えていないようだ。


たとえば、中国と日本の兵器などの戦力をよく知っている日本人に、「万が一、中国と日本が戦うときはどうするのか?」と問うと、途端に口が重くなって、まるで貝のように口をつぐんでしまうのだ。


このように、知識に基づいて事態を分析・予測して行動に移すということが日本ではタブーとなっている。そこで思考を停止してしまうのである。それゆえ、起こっていても、見て見ぬふりをし、起こりうると予測される事態であっても、非現実として考えないようにしているのが今の日本だと言ってもあながち間違いではあるまい。


それが冒頭に述べたような教育にも現れ、殺人事件があるたびに、学校は身を守るための行動については教えず、命の尊さを説教するだけに終始してしまうのである。また、自国の将来に関わる防衛をどうするかという問題では、戦争の想定すらできない日本人が増えつつあるのである。


おそらく大方の日本人は、日本が核兵器の脅威にさらされたとしても、かたくなに「非核三原則」を守るつもりなのかもしれない。しかし、前原誠司氏も指摘したように、すでに中国の核ミサイルは日本に向けて配備されているのである。これも「非現実」の事態だというのだろうか。


●いつまでも学生気分に浸っている日本人


日本に長くいればいるほど、日本人全員がずっと学生でいるのではないかという感じが強くなってきている。日本人全員が毎日、一所懸命に勉強しながら学校生活を送っているような思いにとらわれるのである。学校のキャンパスにいれば、学内で多少のいざこざがあっても、学外で起こっている陰謀や殺人や戦争からは保護され、仲間や先生に認められればそれでよしとして満足しているのである。


その点で、今の日本人は殺害された小学校一年生の女の子のようにも思えてくる。学校では一所懸命に勉強しているが、自分をどう守るのかを学校では教えてくれないし、自分もその術を身につけていない。学校のなかなら先生や仲間に守られているが、一歩、学校から出れば守ってくれる人はいない。


今の日本はアメリカに守られているが、アメリカが手を引いてしまえば、学校から一歩出た女の子と同じような立場に立つ。しかし、日本はどのようにしたら自立できるのかといった議論は、すぐに封じられてしまう。実行はおろか議論さえもまともにできない国なのだ。


日本をどう守るか、日本の置かれている状態はどうなのかなどについて、日本人はよく知っている。しかし、有事の際はどうするのか、どのように対処するのか、そのようなことについては立ち上がろうとしない。日本が集団的自衛権を実行できないでいるのも、これが原因していると言ってよい。


日本人は知識を持っている。しかし、学校で学んだ知識のように実際には役に立たない知識かもしれないし、そうでなかったとしても、使おうとしない知識であれば、いくら博学でも無知に等しいのである。

病める日本の現状をよく分析されています。
交戦権を放棄した、戦後日本。
国を護る気概すら、悪しき教職員組合の労働者によって捻じ曲げられてしまった日本。
邪悪な侵略国家の足音はすぐそこまで響いているのです。




続く・・・・

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台湾人医師の直言  林 建良 著




日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十二ノ一)きれいに死のうとする日本人と死なないようにする中国人  より続きます。



第2章 台湾から見た日本および日本人

争いを避けたがる日本人に平和は守れない


5.きれいに死のうとする日本人と死なないようにする中国人



●中国人の死生観に発する督軍隊

また、石原氏はこの論考のなかで、アメリカが敗北する理由として朝鮮戦争の例を引いて次のように書いている。


思いなおせばアメリカは太平洋戦争以後の主な戦争で勝利したことはない。朝鮮戦争は痛み分け、ベトナム戦争は実質敗戦でしかないし、人命の損失を恐れる 限りイラクでの膠着の行く末にはなんの保証もありはしまい。朝鮮戦争できりなく押し寄せてくる中国軍の兵隊がほとんど丸腰のままだったという、迎え撃つ側 にとっても悪夢に似た実態の暗示するものは、たとえ次の戦争が核を伴ったものだろうと彼我の実質はかつてと全く変わらないということだ。端的にいって中国 はたとえ上海を丸ごと失っても動じることはないだろう。


朝鮮戦争で中国人民解放軍はいったいどのような戦法でアメリカ軍と戦ったのだろうか? 石原氏が南京事件について触れた論考ですでに指摘していたよう に、中国軍には独特の組織がある。督軍隊である。督戦隊ともいわれるが、自軍の兵隊が逃げ出さないように戦場の後方から見張る部隊のことである。もし逃げ 出したら容赦なく射殺する役割を担う部隊である。恐怖心を植えつけて逃げ出さないように見張っている中国特有の組織である。


つまり、武器を捨て丸腰のままで逃げ出そうとしていた中国兵にしてみれば、退くにしても進むにしても死ぬだけの状況ならば、前へ進むしかなかったわけ で、「きりなく押し寄せてくる中国軍の兵隊がほとんど丸腰のままだった」というのは、まさにこの督軍隊の存在が後ろに控えていたからにほかならなかった。


中国軍になぜこのような部隊が存在していたのかといえば、軍事訓練をへた正規軍が少なく、農村部などから青年を狩り集めてきて兵隊にしているという状況もさることながら、自分の命は犠牲にしたくなく、他人の命は尊重しないという中国人の特質を知っていたからである。


実際、中国軍と戦ってきた日本軍の資料のなかには、このような中国人の性質を描いた記述がたくさん見受けられる。支那兵がいざ戦闘となったとき一目散に逃げ出すとか、支那兵は強い相手にぶつかるとすぐ逃げ回るとか、支那兵のエピソードは掃いて捨てるほど残されている。


戦前の日本軍人なら、このような支那兵の実態はよくわかっていたことであり、石原氏もすでに南京事件でこの督軍隊の存在に触れているのに、なぜ朝鮮戦争の場面ではこのことに触れなかったのか、残念としか言いようがない。


朝鮮戦争における中国兵は強かったから「きりなく押し寄せてくる」のではなく、自分の命が惜しいため「きりなく逃げ出そうとしていた」にもかかわらず、督軍隊が控えていて退くことができなかったため、アメリカ軍の正面に出ざるを得なかったのである。

アメリカ軍にとっては確かに次から次へ雲霞のごとく押し寄せてくるように見えた中国兵は「悪夢」でしかなかったかもしれないが、実態は督軍隊に追い出さ れていたのだ。だから、「悪夢」を見たのはアメリカ兵ではなく、自軍の督軍隊に追い出されてやむなくアメリカ軍の前に出ざるを得なかった丸腰の中国兵だっ たともいえるのである。

石原氏ほどの保守派の重鎮が朝鮮戦争における中国軍の実態やこのような中国人の性質を知らないとはとても思われないが、このような一面的な記述を見る と、果たして本当に知っているのかと疑問がわいてくる。実際、日本の保守陣営にしても親中国的なリベラル陣営や左派陣営にしても、果たして中国や中国人の 本質を踏まえているのかと疑問を持たざるを得ない論考や発言が少なくないのである。


●中国人の死生観とは「死なないようにする」こと


中国人の死生観というのは、実に簡単で「死なないようにする」、これだけである。中国人は非常に世俗的で現実的、実利的な民族である。ほかの民族と比べても、そのような傾向は顕著である。だから、中国人は宗教心あるいは深い信仰心は持ち合わせていない。


もちろん、中国にも宗教はある。中国生まれの宗教としては道教がある。しかし、道教の一番深い思想は「不死不老」、すなわち、死なないようにする、年をとらないようにするという神仙思想で、修行して仙人のようになるというのが道教の根本思想なのである。


また、中国の宗教というのは民間信仰が中心で、関羽や媽祖を祀る廟がある。媽祖は航海や漁業の神様であるが、これらの神様は現世利益を得るための対象で、願いが叶えば生贄を献上して感謝を捧げ、叶わなければ破壊することにもなる。


しかし、中国のこのような信仰には利益はあっても、善、美、絶対という概念は存在していない。願いが叶えばそれでよしとして、生贄を献上したり献金をし たりする対象でしかない。つまり、取り引きなのである。中国人の宗教とは霊のレベルまでであって、絶対や至上という「神」という観念はない。キリスト教や イスラム教、あるいは仏教のように絶対に犯してはいけないタブーというようなものはない。


中国共産党が支配するようになってからは、宗教は人民の阿片だとして、あらゆるお寺や廟を破壊しつくした。しかし、この破壊活動を共産党だからやったと 解釈する向きもあるようだが、その解釈は一面的で、しかも現実とかけ離れている。中国人はそもそも信仰心のない民族である。だから、死後の世界や永遠の命 ということを信じていない。それゆえ、現世に災いをもたらすのが寺廟だと言われれば、平気で壊してしまうのである。


●故人の遺体をめちゃくちゃに砕く中国人


その点で、中国人の死生観を観察するのに最適なのは香港である。周知のように香港は、一九九七(平成九)年に中国に返還される前はイギリス領で、ある程 度の言論の自由があり、百パーセントの資本主義社会だった。だから、中国共産党による破壊活動から免れた地域であったため、宗教活動を自由に観察できると ころなのである。


香港人の死生観をどういうところから観察したらよいかというと、風水に対しての姿勢である。ここにもっともその特質が現れている。風水は日本でも流行っ たことがあるが、まず風水には陽宅と陰宅という概念がある。陽宅というのは生きている人間が住む家のことで、陰宅というのは墓のことである。


中国人のお墓の概念は、日本人のお墓の概念とはまったく違う。香港人のお墓は必ず風水の観点で造らなければならない。それはなぜかというと、お墓は死んだ人間のためではなく、生きている人間のためにならなければならないからである。


お墓はもちろん死んだ人間が造るのではなく、生きている人間が造る。だから、まずお墓は子孫に福や富をもたらす場所に造られる。中国人は今でも土葬が中 心で、土葬は一〇年あるいは二〇年後に場所を移す。そのとき、棺桶を開けて遺体が白骨化していなかった場合は、遺体をめちゃくちゃに砕くのが中国のやり方 である。白骨化しない先祖の遺体は「蔭屍」(インスー)と言い、その「蔭屍」に福や富が集中してしまうと考えるからである。先祖が自分の親であろうと、こ れは同じである。


このような中国人の習慣は、先祖を敬い、遺骨を大切に扱う日本人には理解しがたいかもしれないが、亡くなった人の福は残された子孫に残さなければ何の意 味もないと考えるのが中国人なのである。生きている人間のことだけを考え、いかにして死なないようにするかを考える中国人の特質がよく現れている。


その昔、秦の始皇帝は三〇〇〇人の男と女を派遣して不死不老の仙薬を求めたという伝説がある。彼らが向かった東の島「蓬莱」は日本だという説もあるよう だが、この伝説にもあるように、中国人は死ということを頭では理解していても、心のなかでは理解したくないのである。というより、死を避けているといった 方がよい。いかにして死なないようにするか、ともかく現世がすべてと考えている民族なのである。それゆえ、権力や富に対して執着心が強い。そのために、人 を蹴落してのし上がるとか、借りたお金をなかなか返さないとか、日本人なら良心がとがめる事柄についても、平気でおこなえる民族なのである。


中国人はいかにして死ぬかを考えない民族であるから、美しく死ぬとか立派に死ぬとかは眼中になく、ここが日本人と大きく違うのである。中国人を理解するためには、まずその死生観から知らなければならないのである。




>このような中国人の習慣は、先祖を敬い、遺骨を大切に扱う日本人には理解しがたいかもしれないが、亡くなった人の福は残された子孫に残さなければ何の意味もないと考えるのが中国人なのである。生きている人間のことだけを考え、いかにして死なないようにするかを考える中国人の特質がよく現れている。

何事にもわが民族と対極にあるシナ人の特質が要約されています。
日本人は日本人の習慣、習俗、文化を堅持し、時代へ継承して欲しいと筆者は、願ってやまないのです。



続く・・・・

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台湾人医師の直言  林 建良 著



日本よ、こんな中国とつきあえるか?(十一)木を植 える日本人と木を伐る中国人
より続きます。


第2章 台湾から見た日本および日本人

争いを避けたがる日本人に平和は守れない


5.きれいに死のうとする日本人と死なないようにする中国人



●桜に投影される日本人の死生観

日本人と中国人の決定的な違いはどこにあるのかといえば、それは死生観にあるといってよい。死に対しての考え方や死に直面したときの態度は明らかに違う。日本人はきれいに死のうとし、中国人はいかにして死なないようにするか、という考え方に歴然と現れている。


一九八七(昭和六二)年四月一日に日本にやってきたときの東京は桜が満開の時期で、私は日本人が花見をする光景を初めて目にした。当時の東大病院に通じる道の両側は桜並木で、日本人は病院の前の桜の木の下でさえ花見を楽しんでいた。この光景を見て、日本人がいかに桜を大切にしている民族であるかを肌で知った。


日本人がなぜこれほどまでに桜を好きなのだろうと考えたとき、日本人は、パッといっせいに咲いて、短い期間に咲き誇り、パッと散ってしまう、この桜に一種の哲学を感じ、日本人の生命観、哲学観はこの桜のサイクルによって生まれてきたのではないかと思った。


いっせいに咲いて、きれいに散る。これはある意味で非常に心地よい光景であり、潔いと言った方がより適切かもしれないが、この桜が日本人の死生観、命に対する考え方を象徴しているのではないかと私には思われたのだ。


つまり、日本人にとって命というのは、長さではなく、美しさにあるのではないかと思ったのである。命永らえることに執着するのではなく、その瞬間に全身全霊を傾けて美しさを表現し、それを終えたら潔く散っていく、そういう死生観を持っているのが日本人ではないだろうか。


●日本の葬儀に参列して感心したこと


私は大学病院で七年間研究に没頭し、外来や入院患者への治療も経験したあとで、栃木県の片田舎に移った。ここに来て驚かされたのは、日本人の生活のなかでは死に直面する機会が多いことだった。


栃木県の田舎にはいくつもの集落があり、その集落のなかに数戸で構成する班や組がある。当初、職員が「お葬式ができたので休ませてください」と申し出てきたので、私はてっきり身内の方が亡くなったのだと思った。台湾では、家族が亡くなったのでなければ休むことはあり得なかったからだ。しかし、その職員は「組内にお葬式ができたので、手伝いにいかなければならない」と言う。つまり、組や班は自分の家族のような考え方なのだった。このように、日本人の生活のなかには死に直面する機会が少なくない。


私自身も医者という仕事柄、葬儀に参列する機会はかなり多い方かもしれない。そこで、「なるほど」と感心したことが一つある。


日本では通夜でも葬式のときでも、最後のお別れということで、故人の顔を見させてもらう機会がある。これは台湾ではなかったことだ。台湾では、死人の顔は家族かごく親しい人以外に見せることはない。しかし日本では、すべての参列者に顔を見せ、触らせもする。これが故人とのお別れの儀式となっている。そして、遺族に「ああ、いいお顔ですね」と慰めの言葉をかける。この言葉は、遺族にとっては最高の慰めのようである。


あるとき、私の友人だった市議会議員が忘年会に行く途中、誤ってトンネルの壁に衝突して亡くなり、顔も体もめちゃくちゃになった。もちろん、葬儀の前に顔をきれいにして死化粧を施してはいたものの、顔にはそれなりの傷が残っていた。それでも、その葬儀に参列した人々は「ああ、いいお顔ですね」と遺族に声をかけ、お別れをしたのだった。「ひどいお顔ですね」という人はいなかった。

「いいお顔ですね」というのは、その死顔に事故などの傷痕が残っていたにしても、苦しんだ痕は残っていないということなのだろう。苦悶せず、従容として死んでいった様を確かに拝見しましたということを遺族に伝え、遺族にとってはその言葉が最高の慰めとなる。それが日本人のお葬式のようだ。

このように、私は栃木県の田舎に来て、日本人がきれいに死のうということを大切にしているのを改めて感じた。


●武士道がいまも生きる日本


めったに死に直面したことのない台湾社会で育った私からすれば、日本人は日常的に死に直面しているように見える。


たとえば、日本の新聞の地方紙には必ず訃報欄がある。大手新聞は著名な方ばかりだが、地方紙には亡くなった方がすべて紹介されているようだ。著名人であると庶民であるとを問わず、名前、年齢、亡くなった原因、お通夜や告別式の日時、葬儀の場所などが網羅されている。だから、故人とご縁のあるなしにかかわらず、誰でもこの訃報欄を見て葬儀に参列できる。


しかし、台湾の新聞には著名人ならいざ知らず、名もない庶民が亡くなったことを伝えるこのような訃報欄はない。また台湾では、葬儀に参列できる人間は遺族から招待された人間に限られる。だから、日本のスタイルを知ってしまった私から見ると、台湾では意図的に死を避けているように見えてくる。


たとえば、台湾のホテルや病院には四階という表示はない。だから、エレベーターにも四階はなく、三階の上は五階となる。これは、「四」が「死」の発音に似ているということで、意図的に避けているのである。それくらい死というものを日常生活から遠ざけているのが台湾社会だ。


確かに日本でも「四」は「死」に通じるということで避ける傾向はあるものの、台湾の徹底ぶりには及ばない。日本社会は死にあふれていると言っても過言ではない。死という自然の摂理が生活のなかに生きているのである。


台湾では、亡くなってからお葬式の日までは二週間ほど間があるが、日本のお葬式は非常に早いペースでおこなわれる。亡くなってから、通夜、告別式までほぼ三、四日でおこなわれる。また、お葬式は台湾と比べて非常に質素で整っており、美しささえ感じる。


葬式というセレモニーは、その民族の文化の根本をもっとも表しているといってよい儀式である。日本人は、死を日常の一部として組み込んでいる民族であり、恥の文化、すなわち他人を意識し、自分の死顔や死様が他人からどのように評価されるかを意識しながら死んでいくように、台湾人の私には見える。


死につながる概念は、生につながる概念でもある。日本人はこの世の無常、つまり人はいつか必ず死ぬということを意識するがゆえにきれいに死のうとしているのではないだろうか。その極めつけが武士の切腹である。


新渡戸稲造の『武士道』にもあるように、切腹は単なる自殺の方法ではなかった。切腹は「武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖い、もしくは自己の誠実を証明する方法で」あり、また「それが法律上の刑罰として命ぜられる時には、荘重なる儀式をもって執り行われる」という。


私は映画のなかでしか見たことはないが、切腹の儀式やそれに臨む武士の服装は日本人の美学そのものではないかと思う。しかし、不思議だったのは、切腹は練習できるものではなく、誰一人として体験できるはずがないのに、なぜ日本の武士はあのように冷静沈着な態度でその場面に臨むことができたのかということである。ひょっとすると、あれは映画のなかだけのことだったのかもしれないとさえ思っていた。


しかし、この原稿を書いている最中の二〇〇五年一二月一〇日、保守派運動家の三浦重周氏が故郷である新潟市内の岸壁で、皇室典範を改正して女系天皇を容認することに抗議し、皇居に向かって割腹して自決した。現場に駆けつけた三浦氏の親友である評論家の宮崎正弘氏は、次のようにその模様を伝えている。


驚天動地の衝撃が走りました。


十二月十日午後九時半頃、政治思想家の三浦重周(本名 三浦重雄、重遠社代表、三島由紀夫研究会事務局長)は郷里の新潟市の岸壁で寒風吹きすさぶなか、壮絶な割腹自決を遂げました。遺体の発見は翌日(十二月十一日、日曜日)午前九時頃で、直ちに近くに住む兄上が立ち会われて検視の結果、心臓部は肋骨に達し、咽喉部を切ったので喉に刃物がつきささったままの状態でした。


三浦代表は皇居遙拝のかたちで正座したままうつぶせの状態であったことが判りました。菩提寺の三浦家代々の墓には本人が前日に訪れた足跡がありました。


壮絶にして見事な割腹を遂げた大西中将の最後を思い出させてくれます。


三浦氏の切腹は諫死であった。私はこの報に接し、切腹という荘重な死に方は映画のワンシーンではなかったことを強く思い知らされた。


日本人は死を意識しながら生きている民族であり、日常的に経験する死の場面を文化にまで昇華させているように思われる。そのせいか、世界第二位の経済力を持ちながらも、日本人一人ひとりの現世に対する執着心はそれほど強くないように見受けられる。日本人は常に無常観を抱えて生きているようだ。それはまさに、人間はいつか死ぬ定めにあり、命には限りあることを意識しているがゆえの日本人の死生観となって現れてきているようだ。


日本人は生きているうちに一所懸命に仕事をして世界最高レベルの技術を創出しつつ、一方では、自然の摂理に融け込みながら、死を生活の一部として淡々と取り入れ、自分が人生の最終局面に向かい合うときにはいかにしてきれいに死ぬのかを考えているようである。


少なくとも、日本は他国の文化と比べた場合、死をかなり強く意識しているように思われるのである。それが桜を愛でる花見となって現れているのではないだろうか。


●中国人の死生観を見落とした石原慎太郎


石原慎太郎氏は産経新聞に「日本よ」という連載を執筆している。その二〇〇五年一二月五日付の「アメリカは勝てまい」のなかで、「アメリカは中国とまともに戦争をしたら決して勝てることはない」と論じている。石原氏はその理由を次のように説明している。


前にも記した通り毛沢東が対アメリカ戦争を想定してポンピドーに明言した、千万単位の人命の損失を決して恐れはしないという、市民社会を経験したことのない中国伝統の、人命に関する我々とは百八十度違う野蛮な価値観が発露してくる限り、アメリカの市民社会の世論は中国との全面戦争を許容する訳がない。


果たしてそうだろうか? 保守派、それも中国に批判的な保守派論客といえども、中国あるいは中国人の本質についてはさほど知らないのではないかという印象を持った。


石原氏はアメリカが勝てないのは「人命尊重という市民社会の当然な世論希求の前にアメリカは手を引く」からだと言うのだが、それを理由にアメリカが勝てないというのはどうにも腑に落ちない。少なくとも日本人より中国人の本質を知り得る立場にある台湾人にとっては説得的ではない。これだと、人命を尊重する市民社会を持つ国家や民主主義の国家は、独裁国家に勝てないという結論になりそうだ。


しかし、今、私が言わんとしているのはそのような政体の違いからではない。アメリカという国家は確かに人命を尊重する国家である。ただし、一方で信仰心の強い国であって、価値のある死と認められるならば命を捨てることをいとわない国でもある。また、中国人の死生観からすれば、いかに死なないようにするかが大事なのであって、理念や国家のため、あるいは他人のために自らの命を差し出そうとするような考え方はしない。まず頭にないといってよい。


だから、もし中国人が死ぬことを恐れない人間ばかりだったら、確かに今の兵器の量や質のもとでは非常に恐ろしい軍隊であって、アメリカの苦戦を予想するのは難くない。


しかし、くり返して言うが、中国人にとっては、いかに死なないようにするかが大事なのであって、大義のためや、国家あるいは他人のために自らの命を投げ出すことはあり得ないといってよい。


それゆえ、石原氏が指摘するように、毛沢東などの指導者が国民の生命を鴻毛のごとく軽く見ていることは疑いようのない事実だが、中国人自身がそもそも国家のために死のうとしないのであるから、石原氏の結論には大いに疑問なのである。




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続く・・・・



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