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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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靖国神社例大祭勅使参向
 
 
 
 
靖国神社国家護持が叫ばれてから久しい・・・
 
靖国神社について、「大東亜戦争前は戦没者慰霊の中心的施設でしたが、戦後は単なる一神社、一宗教法人になったので、特別扱いする必要はない」という考え方が蔓延しています。しかし、靖国神社には、本来、国家が護持すべき正当性があるのです。このことは、拙ブログ、靖 国 神 社 の書庫に拙稿ではありますが、述べさせていただいております。
 
戦後長い間、靖国神社を国家が護持すべきという運動が続けられました。主権回復後、戦没者の靖国神社への合祀は官民一体の作業によって進められた。しかし、遺族の間には、根強い不満がありました。戦没者は国の命令に従って国のために命を捧げた公的な死者であるのに、それを祀る靖国神社は民間の一宗教法人という地位にとどまっているからです。そもそも靖国神社がやむをえず一宗教法人となったのは、いわゆる国家神道、特に靖国神社を標的にしたGHQの占領政策、昭和20年12月15日連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)によるものです。日本人自身の自主的によるものではありません
 
主権回復後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こりました。これが靖国神社国家護持運動です。この運動は昭和40年代には一段と活発になり、昭和45年には、わずか数ヶ月で2000万人にも及ぶ国家護持要求の署名が集りました。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出された。しかし、現在も当時も政治家の英霊に対する姿勢は変わりません。当時の自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との交渉の道具にされたのです。結局、同法案は廃案となり、運動は挫折しました。政治家は本当に国民の意を反映していると言えるでしょうか?
 
その後、昭和50年に三木首相が私人としての参拝を主張したのがきっかけで、憲法論議がされるようになった。昭和60年にはせっかく公式参拝という政府見解を出したのですが、心無い隣国から首相の靖国参拝に批判を受けるようになると、首相が参拝をやめ、国家と靖国神社の関係について否定的な意見が増え、事の本質が見失われてしまいました。
 
しかし、靖国神社が国のために命を捧げた人々を慰霊する施設として、明治以来存続してきたことを考えれば、本来、国家が護持すべき施設なのです。現状では宗教的には難しい点があるとしても、靖国神社の持つ公共的な性格は、慰霊という宗教的な要素だけにとどまりません。
神道家の葦津珍彦氏(あしづ・うずひこ)は、靖国神社には国民道徳的な要素があると主張し、靖国神社に祀られている戦没者の霊は、国のためにかけがえのない尊い命を捧げた人々であり、国民の道徳的崇敬の対象である。靖国神社は国民道徳の一つの規範という点からも、国家護持の施設となり得ると主張されています。
葦津氏よれば、靖国神社は、公共心や社会貢献の大切さを国民に想起させる教育的施設という性格を持つことになる。国は、この国民道徳的崇敬の側面に対して財政的援助を行うことがされてよい。それは神社仏閣に文化財保護のために公金が支出され、宗教団体設立の私学にも国庫から研究助成がされるのと同じ性格のものとなるからです。
ですから、靖国神社を国家護持するべき正当な理由があるのです。
 
 
 
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     天皇、皇后両陛下 御尊影「全国戦没者追悼式」平成23年
 
 
毎年8月15日に、政府主催により、日本武道館で「全国戦没者追悼式」が行われています。
この追悼式は、年1回限りの行事ですが、恒久的な慰霊施設ではなく、追悼の対象は、空襲の犠牲者や終戦時の民間人自決者などをも含むすべての戦没者である点では、靖国神社の祭神より対象が広いです。いわれなき罪状で処刑された昭和殉難者も含まれており、その遺族が追悼式に招待されています。
「全国戦没者追悼式」には、畏くも天皇陛下が行幸され、歴代の首相は主催者として参列、追悼の意を表してきた。また閣僚、衆参両院議長、最高裁判所長官などが参列しています。政教分離や「A級戦犯合祀」を理由に靖国への参拝に反対する政党の代表も参列しています。
政教分離を厳密に追求する立場をとれば、この追悼式を政府が主催して行っていることも批判の対象とすべきでしょう。しかし、そういう批判の対象にはならない。
「全国戦没者追悼式」が無宗教の儀式だからでしょうか? 献花式と呼ばれるこの官製の儀式は無宗教式を目指しているようですが否、宗教的要素は存在します。祭壇の中央に「全国戦没者之霊」という標柱が立てられるが、儒教における拠り代・位牌に相当します。わが国では、こうした儒教の要素が、神道や仏教に入って完全に融合している。ですから、追悼式典は神道・仏教の信者にも違和感がないのです。
靖国参拝反対派も、シナ政府も韓国政府もこの点は問題にしないのは可笑しい、矛盾しています。この追悼式典まで批判すると、大多数の日本国民の反感・反発を買うだろうことを予想して、政治的な計算をしているのです。
インターネットの普及により、多くの文献、資料があきらかになり、シナ政府・韓国政府・反日マスコミの嘘・捏造・でっち上げが明らかになっています。
靖国神社についても、わが国政府・指導層が、内外の批判に対し、毅然として対処すれば、相手側の論拠の薄弱さが明らかになるのです。
 
 
節約、粗食、勤勉、義理人情、親孝行、祖先祭祀、あるべき家族の姿・・・
 
‘‘「当り前」‘‘を捨て去った日本人。
 
日本人としてあるべき姿に戻りましょう・・・
 
「靖国神社国家護持」
 
 
 
 
 
 
 
               一、
               日の本の光に映えて 盡忠の雄魂まつる
               宮柱太く燦たり ああ大君のぬかずき給ふ
               栄光の宮 靖國神社
 
               二、
               日の御旗断乎と守り その命國にささげし
               ますらおの御魂しづまる ああ國たみの拝み稱う
               いさおしの宮 靖國神社
 
               四、
               幸御魂幸わえまして 千木高く輝くところ
               皇國は永遠に巌たり ああ一億の畏み祈る
               國護る宮 靖國神社
 
               ※この音源には三番は収録されていません。
               三、
               報國の血潮に燃えて 散りませし大和おみなの
               清らけき御魂安らう ああはらからの感謝は薫る
               櫻さく宮 靖國神社 

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靖国にあるもの・・・

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靖国神社




韓国の李明博大統領が、日本固有の領土である島根県・竹島に日本政府の中止要求を振り切って上陸しました。
慰霊の日を15日に迎え、靖国の英霊にはどう映ったでしょうか?

戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題は、今世間を騒がせている国会の諸問題よりも、日本という国の根幹にかかわる問題です。それほど大事なことなのです。
日本人は自分の国をどういう国でありたいと考えるのか?自主独立の国でありたいと考えるか否か?自ら自分の国を守ろうとする意思を持つか否か?世界最古にして、世界最長の国であり、常に国民と苦楽を共有される万世一系の畏くも天皇陛下を仰ぎ、一国一文明、独自の文化と歴史を持つ国として、その文化と歴史を継承・発展させていこうとするか否か?  単なる個人の寄せ集めではなく、一つの共同体としてまとまった国であろうとするか否か? 先祖と自分たち、そして将来を担う子孫との間に、生命と愛情の「絆」のある国であろうとするか否か? これらの問いに深く関係する問題なのです。

明治時代の啓蒙思想家、慶応義塾の創設者でもある、福沢諭吉翁の、「一身独立して一国独立」を読んでいただきたい。


国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能(あた)わず。その次第三ヵ条あり。

第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。

独立とは自分にて自分の身を支配し他によりすがる心なきを言う。みずから物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵によらざる独立なり。 みずから心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財によらざる独立なり。

外国へ対して自国を守るに当たり、その国人に独立の気力ある者は国を思うこと深切にして、独立の気力なき者は不深切なること推して知るべきなり。

第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる「習い、性となる」とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。

第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。

世間に外国人の名目を借る者はあらずや。余輩いまだその確証を得ざるゆえ明らかにここに論ずること能わざれども、昔日のことを思えば今の世の中にも疑念なきを得ず。こののち万々一も外国人雑居などの場合に及び、その名目を借りて奸(かん)を働く者あらば、国の禍(わざわい)、 実に言うべからざるべし。ゆえに人民に独立の気力なきはその取扱いに便利などとて油断すべからず。禍は思わぬところに起こるものなり。国民に独立の気力いよいよ少なければ、国を売るの禍もまたしたがってますます大なるべし。すなわちこの条のはじめに言える、人に依頼して悪事をなすとはこのことなり。

右三ヵ条に言うところはみな、人民に独立の心なきより生ずる災害なり。今の世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀(はか)り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。

(福沢諭吉著「学問のすすめ」より一部抜粋)


いかがでしょうか?
独立自尊の精神を持ち、国家主権を堅持しようとする国民は、自ら国を守ろうという意思を持つでしょう。他国への依存や隷従をよしとしない国民は、そのために努力を惜しまず、自国の文化や伝統を大切にし、それを継承・発展させようと考える国民は、先祖や先人に対し、感謝と尊敬を抱くでしょう。自分達の子供や孫、さらに将来それに続く子供達への責任と愛情を持つ国民は、先祖や先人への愛情を持つだろう。そういう意思を持つ国民は、過去の歴史において自国を守るために命を捧げた人々に感謝と尊敬を禁じえないでしょう。そして、国を挙げて、心から戦没者の慰霊を行うでしょう。

逆に独立自尊の精神を失い、自ら国を守ろうという意思を持たない国民は、過去の世代の貢献に対して鈍感となり、戦没者の慰霊に無関心となろ、それによってますます独立心を失い、国家主権を保とうとする意志の弱い国となるでしょう。祖国の文化を粗末にし、歴史を忘れ、単に自分達の世代の快楽や繁栄をのみ追い求める国民は、先祖や先人に恩義を感じることがなくなるだろう。こういう国は、諸外国の圧力によって、平時からじわじわと溶解、退化していきます。一旦、戦いとなれば、侵略者に対してあっけなく敗れ、占領・支配され、下手をすると亡国にいたる。それが現在の日本という国の姿ではないでしょうか?。

過去において我々の先祖や先人が国のために命を捧げたということは、自分の命を犠牲にしてまでも、国を護ろうされたのです。自分の家族やその時代の国民のためだけではない。これから生まれてくる子孫や、将来の祖国・国民のためでもあったのです。しかし、戦後のわが国では自分を犠牲にして国のために尽くした人々の行為が正当に評価されず、名誉も与えらず、だとすれば、今後、国民が窮地にぶつかった時、評価されることもなく、誇りも名誉もない死とわかっていながら、誰が貴い生命を賭けて国を護ろうとするでしょうか? そして、自分が命を賭けてでも守る値があると感じるのでなければ、この国の文化や精神を本気で守ろうとする人はどれほどいるでしょうか?。

戦没者の慰霊という問題は、過去に亡くなった人たちの慰霊という問題だけではなく、現在、そして将来に渡って、自国をどのように国を維持し、発展させていくかという問題につながるのである。
わが国では、大東亜戦争後、くだらない憲法により、公より私、全体より個人を尊重する考えが大勢を占めています。個人主義・利己主義が蔓延し、長年にわたり倫理道徳が低下してきた。この傾向の背後・根幹には、国のために命を捧げた人々の存在への軽視があるのです。
わが国は、幕末の危機を乗り越えるために明治維新を成し遂げ、明治大帝の下、近代国家を建設し、主権国家として国際社会を歩んで来る過程で、多くの人々が尊い命を国の将来のために捧げた。その人々への感謝や恩義が忘れられていることが、国民道徳の崩壊の要因となっている。国民道徳の究極の拠り所を失ないつつあるからである。
靖国神社は、こうした国事に命を捧げた人々を追悼するための施設です。だから、靖国神社への正しい理解なくして、日本という国のあり方を根本的に考えることはありえません。それとともに、日本人の公共心、社会道徳の再建もありえません。
戦没者の慰霊と靖国神社を巡る問題とは、日本という国が、一つの共同体であろうとするか否かという大きな問題でもあるのです。すなわち、日本国民が共通の先祖を持ち、その先祖から受継いできた生命を共有し、独自の文化と歴史を継承してきたことを自覚し、今後とも生命と文化と歴史を共有する社会であり続けようという意思を持つか否かという、「国のかたち」を為す問題なのです。
慰霊と靖国という問題は、国家、主権、道徳、生命、文化、歴史、伝統等が結集する国家・国民の重要問題である。言い換えると、日本人が互いを結ぶ「絆」に関わる問題なのである。
筆者が尊敬してやまない、さくらの花びら大兄が、本ブログの拙稿、靖国神社「日本人よ日本人に帰れ」に次のようなコメントをいただきましたので抜粋します。

>お国のために命を捧げて、国に見捨てられるのは裏切り行為そのものです。と・・・

日本人が、国と国民を結ぶ「絆」、アイデンティティーをも否定する、国が決してしてはならないことです。
前述した、福澤翁は、、「貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」
と、日本人があるべき姿を説いておられます。

護国の神々(英霊)が望まれているのは、この精神ではないでしょうか?







恩知らずな日本人は日本人になる資格はありません!


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靖国神社



もうすぐお盆を迎えます。
東京・九段の靖国神社は毎年この日は騒然となります。
粛々と慰霊を行う為に参拝に訪れた遺族の方々の心をよそに、心無い人々によって慰霊の日が穢されています。
これらは、わが国の文化・伝統・習俗をも知らない愚かな人のなせることです。
残念でなりません。

靖国神社に祀られているのは、特定の個人の霊です。その個人の多くには遺族がいます。戦没者の妻や親や子や孫、甥や姪といった人々にとって、靖国神社は自家の墓と同様に重要な場所なのです。
 しかし、靖国神社は、こうした国民の私的な慰霊の対象を集合した場所であることにとどまらず、むしろ、戦没者は国の命令によって、公のために生命を捧げた人達であるので、靖国神社は根本的に国家公共の施設である。公的な慰霊を行う中において、個々の私的な慰霊を同時に行う場所なのである。
 わが国に伝わる子孫が祖霊を祀り、祖霊が子孫を守護するという関係に照らして考えれば、靖国神社に祀る戦没者の霊とは、個々の国民の先祖だけではなく、日本人による共同体全体の祖霊でもある。また、その祖霊が守護するものも、個々の子孫だけではなく、日本という国家共同体の成員の全体でもある。
ですから、靖国神社を護持すべき立場にある者とは、戦没者の遺族だけではなく、国民全体なのです。
ここで重要な問題が一つあります。拙稿、靖国神社 花嫁人形小野田寛郎氏の言葉を引用していますが、それは、遺族をもたない御霊(みたま)の存在です。戦没者の中には、若くして独身のまま、あるいは子孫を持つことなく亡くなった人々がいます。こうした人々は、自分の子孫に慰霊をしてもらうことができません。
筆者が仕事上の拠点としている、兵庫県神崎郡福崎町で生をうけられた民俗学者の柳田国男先生は、『先祖の話』において、日本の祖霊信仰の伝統について研究されました。時は、わが国の敗色が濃くなっていた昭和20年の4〜5月頃の執筆です。柳田先生は、本書でとりわけ子孫を持つことなく亡くなっていく青年達の慰霊について、その必要性を強調されています。国のために死んでいった人を無縁仏にしてはならないと。 柳田先生の訴えはもっともであり、戦争において家族がすべて死に絶えた人々、いわゆる絶家になった人々もいる。これらの人々に対しては、国民が共同体の祖霊として、公的に慰霊をしていく必要があるのです。

国家公共の行為としての慰霊とは、日本という国が、単に独立した個人が集合しただけの社会であるのか、それとも生命・文化・歴史を共有した共同体としての社会であるのか、を明らかにするものです。そして、これは家族愛や友人愛といった私的な愛を超えた、死者への愛、公共社会の一員としての博愛を、日本人個々が持つことができるかどうかという課題でもあるのです。
拙稿靖国神社(一) 靖国神社(完)でも靖国神社の国家護持について述べていますが、全国民が靖国神社を護持すべき理由があるのです。これは、個々人がいかなる宗教・思想をもっていても日本人として為すべき事柄であり、またこのことは信教の自由を侵すものでもない。
補足しますが、個々の家で先祖代々の霊の救済を神に祈願する先祖供養は、私的な営みです。これに対し、国家による慰霊の儀式を行うことは、公的な営みである。前者は霊の真の救済を求める営みであり、後者は儀式による感謝と尊敬の表現である。また、靖国神社に祀られている人霊は、奇蹟救済を祈願する対象ではない。この点は明確に区別する必要があります。


わが国の宗教的伝統に基づく慰霊の在り方と靖国神社の参拝に対し、周辺諸国が口出しをするようになっている。これは明らかに内政干渉ですが、そこには宗教観の違いによる誤解も見られます。
 靖国神社参拝をめぐる対立の本質は、「死ねばみな神となり、敵も味方もなくなる」というわが国の精神文化と、「末代まで憎しみ続ける」というシナ文明の精神文化との摩擦ともいえるのです。
日本人は死者については敵も味方もなく「死後は神になる」として平等に扱うという寛容の精神を持っている。日本人は死者に鞭(むち)打つことをしない。死者に対して悪口を言う人間を軽蔑する。
また、日本人には、古来、敵味方の差別なく死者を祀る習わしがあった。例えば、愛媛県松山市には、日露戦争の捕虜で故国へ帰ることなく異郷で亡くなったロシア兵の墓があり、慰霊祭が毎年行われている。また、昭和20年4月、F・ルーズベルト大統領が逝去した時には、鈴木貫太郎首相が、敵を愛する武士道の精神にのっとり、交戦中のアメリカ国民に向けて弔意を表す談話を発表した。 靖国神社では、境内の鎮霊社において、世界各国の戦死者が祀られている。これらは日本人の博愛の精神の表れなのです。
しかし、わが国と異なり、シナ人と韓国人は、敵に対して絶対不寛容であり、「生きてその肉を喰らい、その皮で寝る」ことを願うほど憎み、死後は「その魂を喰らう」と誓うほどである。敵は死後も永遠に敵であり、どこまでも和解がない。死者の墓をも暴いて死体を破壊する。それが伝統文化でもあるのです。

どこの国でも、祖国を守るために命を捧げた人々に敬意を表する場所があります。シナ・韓国とて同じことです。
戦没者への慰霊は、その国の宗教的伝統に基づいて行われています。
慰霊という重要な問題に関して内政干渉をする現在のシナや韓国の政府は国際社会のマナーを著しく欠きますが、それ以上にわが国の政府の外交姿勢が間違っているのです。
日本には日本の伝統があり、わが国の伝統を堂々と主張し、少々の摩擦をおそれず、日本の立場を主張し、死生観までの容喙は内政干渉だと指摘し、その姿勢を貫徹することです。はっきりものを言ってこそ、相手もわかってくる。しかし、逆の場合は、ますます誤解を深め、相手の言い分に押されてしまう。それは決して自他のためにならない。真の相互理解・共存共栄のためには、誇りをもって毅然とした態度で応対することが必要です。
その点で、最大の問題は、中曽根元首相以降のわが国の指導層の姿勢にある。日本の伝統・文化をよく理解し、日本人としての精神を取り戻し、戦没者の慰霊と靖国神社の問題に対して、正しい対応をすべきです。

靖国神社には鎮霊社という社があります。ここに靖国神社に合祀されていない死者の霊と、国籍を問わず、万国の戦死者あるいは戦禍犠牲者の霊が祀られています。また、毎朝奉仕がされ、毎年祭事も行われているという。鎮霊社は、昭和40年7月の創建であり、後から設けられた施設である。そうであれば、こうした施設をさらに充実させ、祭事を盛大にしていくことは可能です。それが、靖国神社が、真に日本人全体にとっての慰霊の場となり、世界各国の人々ともに世界平和を祈る場所ともなる道ではないだろうか?

日本人よ日本人の魂に帰ることこそ、護国の神々に
感謝の誠を捧げることなのです。



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日本国民が知らねばならぬこと。


少し長編になりますが、ご視聴ください。





最後までご視聴ありがとうございました。


日本人として生まれ、日本に住むものならば、真の歴史を知り、先人に感謝し、この誇り高き素晴しい日本を次の世代へ語りつぐことこそ現代日本に生きる我々の使命ではないでしょうか?
そして素晴しい日本文化・伝統を否定し、破壊した間違った者の手から日本を取戻さなくてはなりません。

靖国の魂

靖国神社
 
 
最近筆者は、靖国神社、神社、武士道に関する記事を書かせていただいています。
我国の習俗であり、文化、精神の継承の根幹であるからです。「魂」の存在があり、その「魂」に恥じぬ行いをしてきたのが日本人だからです。
 
日本人にとって、「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていくということではなく、死後人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というのが、日本人の昔からの考えかたです。
また、四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ってきたのが「やまと民族」の魂です。
 
昨今の天変地異は現世の我々に対しての、神々の怒り、警鐘であると筆者は思います。
大東亜戦争以前にも、一部の国民には邪悪な思想にとりつかれた愚かな者たちがいましたが、総じて日本国民は、神々を崇敬し、皇室を敬い、同胞をいたわる民族でした。
大東亜戦争で亡くなられた方々も66年が経ち、故人を直接知る人も少しづつ減ってきています。地方によって「弔い上げ」の風習が違いますが、総じて「弔い上げ」を終えると、死者の供養は仏教的要素を離れ、それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一される。これが祖霊です。祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、国を護り、繁栄をもたらす神として敬われるのである。前述の通り、先祖の霊を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶことにはこのような意味があるのです。
 
しかし、靖国の英霊に対し、誠の「弔い上げ」ができているのでしょうか?
自国の歴史を侮蔑(ぶべつ)し、他を責めることによって、自己の保身に汲汲(きゅうきゅう)たる日本人が如何に多かったか・・・
失敗を誇張し、他を責めた本人は生きていて、場合によっては金儲けに走っている。大東亜戦争で亡くなられた方々は、二百五、六十万人になります。
彼らは皆、祖国を信じ、悔いなく亡くなられた。自己の命を捧げて悔いなきものをもつことこそ、悲しいことですが、生の最高の充実です。
それに石を投げるような安易な利己主義者は恥ずべきです。
それらは、今尚変わってはいません。

平成13年8月13日に小泉首相が就任以来はじめて行った靖国神社参拝に対して、日本人・韓国人639名の原告が首相の参拝の違憲確認・差し止め、原告の宗教的人格権の侵害への損害賠償を求めました。
あろうことか靖国神社も被告になりました。
畏れを知らぬ愚行です。
これに対して、首相の参拝を支持する人々が裁判補助参加制度を利用して、靖国神社側の弁明を行おうとし、岩井益子氏(当時84歳)の陳述書提出もその一貫でありました。
岩井氏は新婚1年半で出征した最愛の夫をルソン島での激戦で亡くした。終戦後、夫の死亡認定を受取り、唯泣き続けたととのことです。

その陳述書の「裁判について」で次のように述べてられています。

さて、今回、首相が靖国神社に昨年8月13日に参拝された事を不服とする方々が、全国で裁判を起こされているようです。とりわけ、ここ大阪におきましては、あろう事か、靖国神社までもが被告とされています。私ども遺族といたしましてはこのような原告の方々の主張はとても放っておけるものではありません。私のような靖国の妻をはじめ、ほとんど全ての遺族の怒りと、血涙を絞らしめるものです。
もし、首相が靖国神社に参拝されたことで心が傷つけられると言う方がおられるのならば、靖国の妻といたしましては、靖国神社が国家護持されず、外国の意向に気兼ねして首相の参拝すら思うにまかせず、天皇陛下の御親拝も得られない現状はその何万倍、何億倍の心が傷つくことでございます。私にとって夫が生前、戦死すれば必ずそこに祀られると信じて死地に赴いたその靖国神社を汚されることは、私自身を汚されることの何億倍の屈辱です。愛する夫のためにも絶対に許すことの出来ない出来事です。靖国神社を汚すくらいなら私自身を百万回殺してください。たった一言靖国神社を罵倒する言葉を聞くだけで、私自身の身が切り裂かれ、全身の血が逆流してあふれだし、それが見渡す限り、戦士達の血の海となって広がって行くのが見えるようです。

この陳情書が公判で読み上げられたときには、法廷全体が息を呑んだように静まり返ったといいます。

また、岩井氏は、「先の戦争に対する考え方はいろいろあるでしょう。しかし、お国のために尊い命を捧げられた方々の御霊を偲んで慰霊することは日本人として当然のことだと思っています。それは、あの戦争の意味を問う以前のことです」
「私は、原告の方々も靖国神社に参拝すべきだといっているのではありません。韓国の大統領に参拝をお願いしているわけでもありません。日本の総理大臣が、英霊との約束を守り、靖国神社に参拝するのは当然だと言っているのです。このままではもの言えぬ英霊があまりにも可哀想です」と、日本人の矜持を述べられています。

「大阪アジア靖国訴訟」で戦われた、徳永信一弁護士は靖国訴訟についての根っこを活動報告で次のように述べられています。(一部抜粋)

小泉首相の靖国参拝を非難し阻止するための政治的手段として裁判を利用し、その話題性を得るためにインターネットで原告を募集し、在韓の韓国人遺族119名を原告に配し、被告に靖国神社を加えたのである。靖国神社に対する請求は小泉純一郎が「内閣総理大臣として靖国神社に参拝するのを受入れてはならない」というものであり、靖国神社の宗教的活動も認めない目茶苦茶である。政治的パフォーマンスなら、それらしく堂々と公共の場、あるいは政治的舞台で行えばよい。応訴を拒否できないことをいいことに、靖国神社を法廷に引っ張りだし、一方的な誹謗を浴びせて貶めるとは何事か!
靖国応援団として闘う中で痛感したことは、靖国神社に息づく歴史や伝統に対し、軍国主義や国家神道というステレオタイプなレッテルを貼ることに執心する原告たちのイデオロギッシュで原理主義的な独善であった。原告に名を連ねたのは反天皇を掲げるキリスト教諸派、神社神道を敵視する浄土真宗左派、宗教を否定する積極的無神論者、反日的な在韓・在日韓国人・・・。彼らの主張が多数の宗教・宗派を共存させてきた日本の伝統に合致するとは思えないし、多様な信教の自由を保障するものとも思えない。政教分離が信教の自由の保障を目的とするものであるならば、彼らの独善的偏狭さは、信教の自由に反するように思える。多神教的なアミニズムと神仏習合にみる多重信仰、言挙げせず教義にこだわらない寛容さを特徴とする日本の宗教文化は、民族と宗教の衝突が激化する21世紀にあっては、もっと見直される必要があるはずだ。




東日本大震災でも多くの同胞が犠牲になりました。
亡くなられた方々の思いもよそに進まぬ被災地の復興。
靖国訴訟も根っこは同じです。
日本人は死者との約束は必ず守る民族でした。
これは肉体は滅びても、「魂」は存在しているという考えかたが古来よりあったからです。
 日本人は古来より、罪、穢(けが)れを嫌い、清浄(せいじょう=清らかな状態)を尊いものとしてきました。心に一点の曇りもないことをいいます。
これが日本人の魂なのです。
 
嘘、偽りが横行する今日、いつまで、こころない人々は護国の神々に石を投げ続けるのでしょうか?

死者との約束を守れぬ日本人は、日本人とは言えません。
護国の神々こそ、武士であり、日本人の魂なのですから・・・

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