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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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昨日は靖国神社の放火に対する記事を書きました。
巷では、その犯人は在日韓国人であり、ツイッタ―にこのように書き込んでいました。
「・・靖国神社なんて、世界中から忌み嫌われてる神社、放火したって、誰も悲しまないだろ!?逆に、世界中がみんな喜ぶよ。俺は英雄」
 
 ”俺は英雄”。
靖国神社に放火して英雄であるわけがありません。
韓国では反日行動をとればとるほど英雄気分になると言いますが、こういうのを愚かな馬鹿者というのです。
 
真の英雄とは、お国のために、たとえ負け戦であるとわかってはいても、赤誠の命を投げ出して、お国のために尽くすことであり、この誰にも簡単に出来ない尊い自己犠牲の精神こそ誠の英雄たるものであります。
その我が国の英雄たちが死して会おうと言いあったのがこの靖国神社です。
もし放火の犯人が在日韓国人であり、本当に英雄になりたければ、自分の同胞たちを苦しめている北朝鮮に対して命を捧げて戦うのが真の英雄たる道であります。
靖国に火を放って、すぐに逃げ出して隠れているような小者が英雄であるわけがないのです。
 
日本統治時代を生きた韓国人が書いた著書『日本統治時代を肯定的に理解する』という本があります。
その中には今の反日韓国人が主張することと全く違うことが書かれています。
「日本統治時代に生まれ、数え年二十歳で終戦を迎えた者として、この世を去る前に率直な心情を書き残したい気持ちで」書いたものであると「序」の部分に書いてあります。
台湾も、朝鮮も日本の統治を知る世代は日本の”ありがたさ”を肌身で感じて理解されています。
そして、日本の統治時代を知らない世代の韓国人が、ありもしないことで日本を攻め立てるのはやがては韓国自身が困ることになるはずである、と指摘しているのです。
この著書の中に、「阿川弘之氏『特攻隊のまぼろし』を読む」と題した部分があります。
今回の事件とかさねてみると見えてくるものがあります。
・・・・・
 
まず、「特攻隊のまぼろし」を一部引用させてもらおう。
初老に近い中年男たちが、七、八人、ビールを飲みながら国際問題を論じている。
大学教授、新聞記者、綜合雑誌の編集長、会社顧問の自衛隊OB、大物議員の元秘書、職種経歴はさまざまなれど、ある意味でみんなそういう問題の専門家、世代としては、日教組最も華やかなりし頃、初等教育を受けた世代に属し、直接の戦争体験はもっていない。(中略)
「みんな」の中に一人だけ、第二次大戦に従軍した爺い、つまり私(阿川)が混じっていて、新しい国際関係論なんかよくわからないから、黙って聞いていたら、話が台湾のことに及んだので、ちょっと口を出した。(中略) そのへんから、台湾の将来について議論が白熱化してくる。李登輝さんはじめ台湾の人たちが、半世紀かけて築き上げたあの蓬莱(ほうらい)の島を、北京(中国共産党)の方で、これ以上もう待っていられない、「武力解放」すると言い出したら、我々(日本人)はどうするのか。台湾人は正直な話、「一つの中国」なんて望んでいやしない。(中略)
日本の統治時代に入って以後、台湾では日本流の近代化が行われ、日本流の生活様式が取り入れられた。押し付けだったにもかかわらず、彼らは今尚それを高く評価してくれているし、さらに大きく発展させている。その、大陸に先んじて近代化し、大陸よりはるかに自由で豊かになった台湾人の生活を、武力で奪い取る動きが起こった時、アメリカはすぐ海軍を出動させるだろうが、日本政府は例によって、曖昧なこと以外も言えず、何の実際的援助も出来やしない。そんな政府のむ方策に準じて、我々も知らん顔していいのか。
「小生、はばかりながら、国際的にはこれでも退役ジェネラルなんだ。台湾空軍のF16を一機貰い受けて来る。A君、お前テストパイロットだったんだから操縦桿握れ。B君、君は台湾問題に情熱を傾けた国会議員の元秘書だろ、俺の席の横にもぐり込め。三人で中華人民共和国海軍のミサイル艦に突入、特攻戦死して、せめてもの日本男児の心意気を世界に示そうじゃないか」(中略)
私は、どんな面から考えても、先の大戦末期の特攻戦法を容認出来ない。この放談も、もし本気なら受け入れかねるお話なのに、聞いているうちに涙が出て来た。(中略)
日本の対米戦争に則して言えば、戦争の悲惨を一番痛切に味わったのは、ガダルカナルその他の島で餓死自決した陸海軍将兵と、特攻隊に編入されて出撃し、還ってこなかった若者たち、及びその遺族だろう。
ただし、彼ら無念の魂魄がこの世にとどまっているとして、
「戦争は悲惨だから、いたる所に涙の種をまき散らすから、祖国よ、どんなことがあっても二度と武器をとるな。日本を除いて、世界には平和愛好国ばかり、誰に何をされても見て見ぬふりをしてろ」と訴えるかどうかは疑問である。
この五十四年間、彼ら、特に特攻隊員の「死せる魂」は、祖国の経済的な復興ぶり、世相人心の移り変わり、少年少女のお作法、一部の人の護憲平和運動を、多分、小首をかしげる思いで眺めて来た。
「若い命がいかに大切なものか、それを捨てさせられるのが、自分にとっても家庭にとってもどんなにつらい悲しいことか、我々、身にしみて知っている。あんたたちの観念論とちがうんだ。しかし、国にはいつか、悲惨を覚悟で戦わねばならぬ場合のあることも知っている。いつまで羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹いているのかね。生き残りの皆さん」と言いたいのを、黙してずっと語らずにきた。
それが、今日は驚いたろう。戦後生まれの日本の子供、いや中年男三人、隣邦を救うため、特攻を口にしはじめた。これはこれはと、彼らの頬に、戦死後初めての静かな笑みが浮かんだのではあるまいか。
そう空想したら、涙が出て出て止まらなくなったのであった・・・」
 
朝鮮動乱が起こった1950625日当時、僕(著者)はソウル大法大四年に在学中だった。
628日にソウルが共産党軍に陥落してから家族とともに楊平に疎開し、10月、ソウルの修復と同時に復帰、すぐ陸軍通訳将校に志願入隊。
短期訓練の後、12月に任官して547月まで満39カ月、軍に服務した。
この朝鮮戦争で、韓国軍415千人と、米軍33629人、その他連合軍約36百人が戦死した。
これらの犠牲の上に韓国は共産侵略を免れ、曲がりなりにも今日の自由と繁栄を築きあげたのだ
今、韓国や国外に住む韓国人とその子孫は、すべて自身が有能なるがゆえにこれだけの水準に達したと思うであろうが、もしこれらの犠牲なくば、今は全て金正日のバッジを胸につけ、彼の独裁の下に恐怖と飢餓におののくか、あるいは既に飢え死にしたであろう
 
僕は19537月の休戦協定以来、今に至るまで、韓国国民最大の課題は韓国の民主化、次が北朝鮮国民を共産独裁の苦痛から救い出すことであると信ずる。
北にある我が数千万の同胞は、いわば左翼独裁集団に拉致され、人質として首根っこを押さえられている状態なのに、金大中政権は太陽政策なる名分を振りかざして彼らに大量の食料と肥料を与えている。
人民は依然として飢えて死ぬのに、政権は益々太っていくのは実に見るに堪えない。これは北朝鮮の人民にとって日本統治35年の圧迫をはるかに上回る精神的苦痛であり、物質的悲劇である。
 
韓国は、北朝鮮が国境線に並べたミサイルに怖じけづいたのか「戦争は悲惨なもの。どんなことがあっても避けねばならぬ」と、いきなり平和の天使と化した。政治家も一般国民も正義感に欠け、卑怯なのだ。同胞愛のかけらも見当たらない
拉致犯に首根っこを押さえられている同胞を救うには、軍に相当の犠牲があろうとも戦わねばならぬ。しかるに韓国軍のやっていることは何か。極端な不正腐敗に兵務非理、現役勤務将校兵らの間に原因不明の事故死が続出するありさまは何たることか。
「国はいつか、悲惨な覚悟で戦わねばならぬ場合がある」という話に、僕は全面的に同意する。
そして今の韓国こそ、まさにそういう場合であると信ずる
 
かつて朝鮮の若者たちも特攻隊に参加した。当時、朝鮮は日本に合併されて35年経った時点であるから、彼らの一部は日本人と同じ気持ちで、祖国に奉公する一念で、滅私奉公を遂げたのであろう。またその中には日本の国民たるを意識して、こうして日本のため一身を犠牲にすることは、朝鮮人の社会的地位を高めるためになるとして、身を挺した者があったかもしれない。
僕は洋の東西、時の古今を問わず、自国のためと信じて戦場に狩りだされ、命を賭した全ての国のすべての若者に、最大の敬意と同情を捧げる。その中でもこの特攻隊の、死ぬと知りつつ敵に突っ込んだ犠牲精神に対し、僕は言うべき言葉を持たない。・・・
  
ここには多くの言葉を要しないでしょう。
そして、今の日本人にも思い当たる部分はあるはずです。
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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「魂」

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靖国神社
 
 
最近筆者は、靖国神社、神社に関する記事を書かせていただいています。
なぜなら、「魂」の存在があり、信じているからです。
 
日本人にとって、「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていくということではなく、死後人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というのが、日本人の昔からの考えかたです。
また、四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ってきたのが「やまと民族」の魂です。
 
昨今の天変地異は現世の我々に対しての、神々の怒り、警鐘であると筆者は思います。
大東亜戦争以前にも、一部の国民には邪悪な思想にとりつかれた愚かな者たちがいましたが、総じて日本国民は、神々を崇敬し、皇室を敬い、同胞をいたわる民族でした。
大東亜戦争で亡くなられた方々も66年が経ち、故人を直接知る人も少しづつ減ってきています。地方によって「弔い上げ」の風習が違いますが、総じて「弔い上げ」を終えると、死者の供養は仏教的要素を離れ、それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一される。これが祖霊です。祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、国を護り、繁栄をもたらす神として敬われるのである。前述の通り、先祖の霊を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶことにはこのような意味があるのです。
 
しかし、靖国の英霊に対し、誠の「弔い上げ」ができているのでしょうか?
自国の歴史を侮蔑(ぶべつ)し、他を責めることによって、自己の保身に汲汲(きゅうきゅう)たる日本人が如何に多かったか・・・
失敗を誇張し、他を責めた本人は生きていて、場合によっては金儲けに走っている。大東亜戦争で亡くなられた方々は、二百五、六十万人になります。
彼らは皆、祖国を信じ、悔いなく亡くなられた。自己の命を捧げて悔いなきものをもつことこそ、悲しいことですが、生の最高の充実です。
それに石を投げるような安易な利己主義者は恥ずべきです。
それらは、今尚変わってはいません。
 
東日本大震災でも多くの同胞が犠牲になりました。
亡くなられた方々の思いもよそに繰り広げられる「風評被害」・・
日本人は死者との約束は必ず守る民族でした。
これは肉体は滅びても、「魂」は存在しているという考えかたが古来よりあったからです。
 日本人は古来より、罪、穢(けが)れを嫌い、清浄(せいじょう=清らかな状態)を尊いものとしてきました。心に一点の曇りもないことをいいます。
これが日本人の魂なのです。
 
嘘、偽りが横行する今日、いつまで、日本人は神々に石を投げ続けるのでしょうか?
 
護国の神々に、
 
天神地祇の神々にも・・
 
 
 

靖国神社(完)

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靖国神社
 
日(ひ)の本(もと)に生(あ)れ出(い)でにし益人(ますひと)は 神より出(い)でて神に入(い)るなり (江戸時代の伊勢神宮の神官 中西直方)
 
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というこの歌は、日本人の死についての昔からの考え方を明確に表現しています。
 
我国の宗教観の中心には、自然崇拝と並んで祖霊崇拝があります
ともに現代人が近代化・西洋化の中で失いつつあるものです。
祖霊崇拝とは、先祖の霊を祀るものであり、祖先崇拝ともいいます。
筆者が仕事上の拠点としている、兵庫県神崎郡福崎町で生をうけられた民俗学の草分けといわれる柳田国男先生は、昭和20年戦争末期に執筆した、著書『先祖の話』のなかで、「日本人の死後の観念(かんねん)、即ち霊(れい)は永久に、この国土のうちに留まって、そう遠方へ行ってしまわないという信仰(しんこう)が、恐らくは、世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」と述べています。

日本人にとって、「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていくということではなく、死後人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。

民俗学の世界では、亡くなってから間がない人や、不慮の事故、異状死を遂げた人は「ほとけ」と呼ばれても決して「神」とは呼ばれません。しかし、死の穢(けが)れの清まる期間を経て、弔(とむら)い上げを済ませた「ほとけ」は「かみ」となるのです。「ほとけ」はひとの個性がまだ残っており、この世に未練がありますが、死者から個性が消え、祖霊として一括される神性を獲得すると無条件に子孫を包み込む神と昂(たかま)っていきます。
 ここで重要なのは、人の御霊(みたま)は、歳月の経過によって、浄化されるとともに、家族をはじめ人々からの「まつり」を受けることによってさらに浄化と昇華をし、神格性を持つということです。稲魂(いなだま)を育て、水を配り、子孫の生活を温かく見守る守護神・氏神となるのです。
 
「草葉(くさば)の蔭(かげ)から見守る」という言葉がありますが、ご先祖さまの御霊(みたま)は、常に私たちの身近にいらっしゃって、私たちを見守っています。この祖霊(それい)を慰め、霊威(れいい)が昂(たかま)っていただくために行う「祭(まつ)り」を「先祖まつり」といいます。お盆や春秋のお彼岸の行事などは、今では仏事のように一般には思われていますが、祖霊(それい)をおまつりすることは、もともと仏教にはない我が国の固有(こゆう)の習俗(しゅうぞく)です。
 
古い時代の日本では、旧暦の一月十五日と七月十五日ごろの満月を中心として、年に二回、神さまのご来臨(らいりん)を願い、祖霊(それい)の祭りを行っていました。私たちは、大層にぎやかな時、あるいは楽しい時には「盆と正月がいっぺんに来たようだ」などと表現しますが、実は「お正月」は、祖先神(そせんしん)や歳神(としがみ)さまといった「神々」をお迎えして行う「お祭り」であり、一方「お盆」は、祖先神までには昂(たかま)っていない「精霊(しょうりょう)」をお迎えして行う「お祭り」なのです。ともに、感謝と祈りを捧げるための対(つい)をなすお祭りです。それゆえに、お盆の行事とお正月の行事は、ほとんど共通する要素からなっています。
7月13日〜16日に行われる靖国神社の「みたままつり」正月一日の新年祭、春、秋の例大祭が行われるのはこの為です。
 
建国以来、畏くも天皇陛下は民の父母であり、、国民は天皇陛下を親のように慕ってきました。また畏くも天皇陛下は「祭祀王」であり、「神々に祈る者」として、靖国神社に御親拝されます。戦前のわが国では、戦地に赴く国民にとって、もし自分が戦死した時は、死後、靖国神社に神として祀られ、そこに天皇陛下が御親拝していただき、自分達に向かって拝礼していただけることが、大きな心の支えであり、慰めでありました。
 
靖国参拝とは、国家公共の行為としての慰霊として、日本という国が、単に独立した個人が集合しただけの社会であるのか、それとも生命・文化・歴史を共有した共同体としての社会でありたいのか、を明らかにすることなのです。そして、これは私的な愛を超えた、死者への愛、公共社会の一員としての博愛を、日本人個々が持つことができるかどうかという課題でもあるのです。
日本人は遠い昔から、神々、皇室、ご先祖(せんぞ)さまを敬い、感謝をする心を大切にしてきました。平穏な生活に感謝をしたり、日々の出来事を報告するなど、神棚(かみだな)や祖霊舎(みたまや、仏壇)に頭(こうべ)を垂れ、手を合わすことは、ごく自然な感情であり清らかな心のあらわれでもありました。

近年は個人主義の考え方が非常に強くなり、遠いご先祖から続いてきた家の意識や家族や親族の絆(きずな)の意識が希薄になり、国の為に命を散華された英霊の存在さえも蔑ろにしています。東日本大震災後の福島県民の皆さんへの風評被害が顕著な例です。
 
戦後、自分さえよければ、他人の苦しみや痛みをまったく無視するような風潮さえ生じてきました。被害者と加害者の間に、なんの関係も見られない殺傷行為や、社会に対する犯罪の多発傾向は、まさにこのことを証明しています。

前節、靖国神社(八)にブログ友であり、尊敬してやまない「さくらの花びら」大兄様に次のようにコメントいただきました。
 
「靖国神社の国家護持など当然のことなのですが、全てにおいて当然が出来ない日本です。」・・・・・・と・・

 
まさに、すべてのことにおいて、「お国柄を失った」病める今日の日本の病状が集約された言霊です。
 
 
「敬神崇祖(けいしんすうそ)」の心をもって、護国の神、靖国神社を守り伝え、お祭りを行う大きな意義とは「感謝(かんしゃ)と慰霊(いれい)」の誠を捧(ささ)げることでご祭神(英霊)やご先祖さまと、自分との間の命の繋(つな)がりを確認し、国家と個人の絆を深めていくことにあります。
 
 
靖国」という名は国の平和と、安寧の祈りが込められているのです。
 
 
 
 
 

 

靖国神社(八)

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靖国神社 みたままつり
 
 
かつての日本人が靖国神社に寄せた思いは、現代の私たちが思うより遥かに強いものでした。大東亜戦争で国のために命を捧げた人々の遺書には、死後もこの国土に魂を留めて子孫の行く末を見守っていこうという思いが表れており、そこには、日本人が持ちつづけてきた独自の死生観が息づいています。
靖国神社の社格は創建当時、別格官幣社でした。
戦後は民間の宗教団体となっている。昭和20年(1945)12月15日に、GHQの「神道指令」によって、「国家神道」が廃止された結果、やむなく一宗教法人となりました。
しかし、靖国神社は、全国8万社といわれる神社を統括する神社本庁には所属しません。単立神社です。
「靖国神社はいずれ国家に返すべき神社である」という理由で属していないのです。
しかし、靖国神社は、戦後も政府とまったく無関係となったわけではなく、占領終了後、靖国神社の合祀は、国や都道府県と靖国神社との共同作業で行われてきたのです。膨大な数の戦没者の調査は、一民間団体のできることではなく、靖国神社に祀られる人々の選考は厚生省(厚生労働省)・都道府県が行い、靖国神社が祭神として合祀するかどうかを決定します。官民一体の共同作業で行われていまう。ただし、靖国神社は戦後、財政的には、戦没者遺族を中心とする人々の献金によって維持され、国の財政的な援助は行われていないのが実情です。
戦後長い間、靖国神社を国家が護持すべきという運動が続けられました。
靖国神社がやむをえず一宗教法人となったのは、いわゆる国家神道、特に靖国神社を標的にしたGHQの占領政策によるものであり、日本人自身の自主的な考えではないからです。
主権回復後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こりました。これが靖国神社国家護持運動です。この運動は昭和40年代には一段と活発になり、昭和45年には、わずか数ヶ月で2000万人にも及ぶ国家護持要求の署名が集まりました。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出されましたが、自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との国会対策の道具にされ、結局、同法案は廃案となり、運動は挫折しました。
その後、昭和50年に三木首相が私人としての参拝を主張したのがきっかけで、憲法論議がされるようになり、昭和60年にはせっかく公式参拝という政府見解を出したのだが、中国、韓国から首相の靖国参拝に批判を受けるようになると、首相が参拝をやめてしまい、国家と靖国神社の関係について否定的な意見が増えました。事の本質を見失ってしまったのです。
靖国神社が国のために命を捧げた人々を慰霊する施設として、明治以来存続してきたことを考えれば、当然、国家が護持すべき施設なのです。
どこの国でも、祖国を守るために命を捧げた人々に敬意を表する場所がある。戦没者への慰霊は、その国の宗教的伝統に基づいて行われていると、何度も述べてきましたが、日本の国の戦没者慰霊という重要な問題に関して内政干渉をする現在の中国や韓国の政府は国際社会の常識を大いに逸脱していていますが、、それ以上にわが国の政府の外交姿勢が間違っています。
 
日本には日本の伝統・文化があります。我国の伝統・文化を堂々と主張し、摩擦をおそれず、日本の立場を主張し、死生観までの容喙は内政干渉だと指摘し、その姿勢を貫徹し、はっきりものを言ってこそ、相手もわかってくるでしょう。しかし逆の場合は、ますます誤解を深め、相手の言い分に迎合し、侮りをうけるでしょう。誇りをもって毅然とした態度で応対することが必要です。
その点で、最大の問題は、わが国の指導層の姿勢にある。日本の伝統・文化をよく理解し、日本人としての精神を取り戻し、戦没者の慰霊と靖国神社の問題に対して、正しい対応をすべきです。
 
英霊には、遺族をもたない「みたま」も存在します。戦没者の中には、若くして独身のまま、あるいは子孫を持つことなく亡くなった人々があり、こうした人々は、自分の子孫に慰霊をしてもらうことができません。
また、戦争において家族がすべて死に絶えた人々、いわゆる絶家になった「みたま」も存在します。
 
国家が祀らなくてどうする。
国のために死んでいった人を無縁仏にしてはならない。
 
多くの戦没者は死後、靖国神社に祀られると信じて亡くなっていった。多くの将兵が近親者および戦友たちに「靖国で会おう」と言い残して散華していった。その人々の思いに応えることが、国民の義務であり、国家の義務です。内閣総理大臣が参拝するのは責務です。
 
国を思い、民族の安寧を願って散華された「みたま」の為に・・
 
 
 
 
靖国神社 国家護持
 
 
 
 
 
 
 

靖国神社(七)

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靖国神社 天皇陛下 勅使参向
 
 
「戦犯」とは戦争犯罪人の略称ですが、大東亜戦争後にアジア・太平洋の各地で開かれた軍事裁判は、戦犯をA項・B項・C項のさ3項に分けました。「A級戦犯」とは、ロンドン協定により開設された極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の、(イ)平和ニ対スル罪  に定義により決定された戦時の政治・外交・軍事指導者で、「侵略戦争」を計画・実行したとして起訴または有罪とされた者、「B級戦犯」とは、戦争犯罪類型B項(ロ)「通例の戦争犯罪」、非戦闘員や捕虜の虐待など戦時国際法に違反する行為を行ったとして起訴または有罪とされた者をいい、C項は(ハ)「人道に対する罪」とされました。
 
よく中国や韓国の若者たちが声高らかに、A級戦犯を非難しますが、殆どの人たちは、A・B・Cの定義を語れません。オウム返しのようにただ叫んでいるのみです。
しかも、韓国はB・C項については論じることさえしません。
彼らの国の国策を述べているのにすぎません。
B・C項の中には、統治下の朝鮮人148人・台湾人173人も含まれています。
朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人。1人は洪思翊中将であり、2人は志願兵だった。この他、通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民政府によって裁かれ、うち8人が死刑となった。残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属でした。尚敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となり、朝鮮人については「日本の正規軍より凶暴だった」「体罰では、日本兵よりも彼ら(韓国人)を遥かに恐れた」「日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も嫌われたのは日本国籍を持つ韓国人であった」などをはじめ、その凶暴性についての証言が数多く出ている為に B・C項は非難できないのです
 
靖国神社には、A・B・C項を問わず、軍事裁判によって処刑された1,068人の日本人が合祀されています。軍事裁判も裁判である以上、法に基づいて厳密に行われなければならない。法といっても、一国の国内法ではなく、国家間で取り決めた国際法である。ところが、大東亜戦争後に行われた裁判は、日本が主権を喪失していた時期に戦勝国が一方的に裁いたものであり、裁判では、ずさんな起訴・審理によって有罪ありきの決め付けがされ、日本人の生命が奪われた。日本と連合国がまだ講和に至ってない状態で行われたので、国際法的には、まだ戦争状態が継続している最中の出来事である。それは、裁判の形式をとった戦争の延長であり、日本人に対する復讐、敗者の見せしめだった。判事のひとり、パール博士はこの愚かな裁判を公然と非難しています。
「A級戦犯」の容疑者とされた日本人は28名。そのうち有罪判決を受けたのは、14人である。内訳は、軍人が9人、あとの5人は文民でした。14人のうちで処刑されたのは、東条英樹元首相等の7人。
広田元首相は、文民でありながら、処刑されました。、「侵略戦争」を「共同謀議」で計画したどころか、外交官時代から一貫して平和外交をねばり強く進めた人物であることは、誰もが知っていました。
しかし、広田元首相は、終始自己弁護をしませんでした。絞首刑の判決に対し、キーナン主席検事は「何という馬鹿げた判決か」裁いた側に疑念さえ感じていたほどです。処刑された7人以外に、無期あるいは有期の禁固刑になった者が7人いる。その中に、東郷茂徳元外相がいます。東郷元外相は、東条内閣の外相として最後まで開戦を避けようとした。また鈴木貫太郎内閣の外相となって終戦に向けて尽力した。それにもかかわらず禁固20年の刑とされ、獄中で病死されました。
勝者による、敗者への見せしめ以外にほかなりません。
後に1950年10月15日、ウェーキ島でのトルーマン大統領と会見した際、「東京裁判は誤りだった」と述べています。
極東国際軍事裁判ではA級戦犯とされた7人の日本人が心なくも、絞首刑とされたが、これ以外にBC級戦犯とされた人々、1,061名が処刑された。BC級戦犯裁判とは、特定地域で「通例の戦争犯罪」を行った者に対して、連合国各国が行った軍事裁判をいい、連合国は米、英、仏、豪、フィリピン、オランダ、中華民国の7カ国が、49の法廷でこの裁判を実施しました。この他にソ連も裁判を行った。その実態は殆ど知られず、闇の中です。
BC級戦犯裁判のうち、日本国内では、唯一、アメリカが横浜地方裁判所を接収して行いました。これを、BC級横浜裁判といいます。事件総数は327件、起訴人員は合計1,037名で、各地のBC級裁判の中でも最大規模であり、判決では112名ないし123名あるいは124名に絞首刑が言い渡され、うち51名の絞首刑が執行されました。
約千名の人々が、東京・横浜以外の法廷で裁かれ、処刑されたわけです。そのうちの多くは、外国でずさんな形で起訴され、弁護らしい弁護も受けられずに、戦勝国による見せしめ、復讐として処刑されました。
 
昭和60年に突如として始まった中国の批判によって、「A級戦犯」の合祀が問題にされるようになりました。「A級戦犯」を分祀すべきだという意見も出てきた。これはおかしな話であり、理解に苦しみます。「戦犯」とされた人々の合祀は、日本国民の願いの実現だったからです。
前節「靖国神社(六)」でも述べていますが、昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、戦後6年8ヶ月に及ぶ異常に長い占領期間が終わりました。しかし、「戦犯」とされた日本人1,224名は、講和条約の第11条によって、引き続いて服役しなければならなかったのです。当時の日本国民は極東国際軍事裁判の不公平を見抜いていたのでしょうか、多くの 同情が集まり、同年7月から、その人々の早期釈放を求める一大国民運動が起こり、署名は大多数の国民の及び、最終的には約4千万人もの署名が集まりました。
前節でも述べていますが、国民世論を背景にして、昭和28年8月から国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(遺族援護法)および「恩給法」の改正が重ねられ、この時に中心となった一人が、右派社会党の堤ツルヨ衆議院議員でした。堤氏は、戦犯とされたうち服役中の人々の留守家族は保護されているのに、処刑または獄死した者の遺族は国家の補償を受けられないという矛盾を指摘した。また「その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえない」という遺族の嘆きを代弁して訴えた。この主張が認められ、遺族援護法の改正が行われました。
当時の国会は、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにし、大東亜戦争後の戦勝国による軍事裁判は、日本が主権を喪失していた時期に一方的に裁いたものだからと捉え、「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を改正したのです。決定は全会一致でした。国民の要望に応えるものだった。まさに国民の総意による改正だった。その結果、「戦犯」とされた人々の遺族にも遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、受刑者本人に対する恩給も支給されるようになった。そこにはA級とB・C級の区別はなく、刑死者はすべて「法務死」と呼称したのです。戦争犯罪人ではなく、国のために亡くなった殉難者として扱われたのである。これによって、「戦犯」とされた人々も、A・B・C級の区別なく、靖国神社に祀られることになった。
旧社会党及の残党が多く在籍する与党民主党、社民党の支持者は、よく知っておくべきである。貴方がたの尊敬する先輩が決めたことだと・・・
 
昭和34年に最初の合祀が行われ、まずBC級と呼ばれた殉難者の人々から合祀し「A級戦犯」とされた殉難者14人については、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀されました。
 
 
だから日本人は、靖国神社の英霊を戦犯などと呼んではならないのです。
 
昭和47年に中国と「日中共同声明」を結び、その第6条に「内政に対する相互不干渉」を謳っています。「日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する」とある。日本の首相が靖国神社に参拝するかどうかは内政問題であり、中国の非難は「日中共同声明」違反に当たります。これもはっきり言っていかなければなりません。
 
 
堂々とするべきです。
 
御国の為に、散華された多くの英霊の名誉の為にも、誇りある日本の精神を後世に伝える為にも・・・
 
 
 
 
 
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