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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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豪雨災害に遭われた被災地の皆様にお見舞い申し上げます。
引き続き台風の動きにも注意なされてくださいませ。

拙ブログにご訪問いただきありがとうごいざいます。
日々美し国に生(せい)をうけたことを先人・先祖に感謝いたしております。
美し国、四季のある国、日本。
桜が咲いてそして散り、梅雨には雨が降り、夏には穀物が成長し、秋には紅葉が散ること、そして冬には雪が降ること。
春夏秋冬、季節折々の表情を見せてくれます。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも我々の祖先は災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、明治まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

新暦の8月27日〜8月22日頃、初めて秋の気配が表われてくる頃を 立秋(りっしゅう)と言います。
〜立秋の自然〜
夏の土用が明けると、暦の上では、いよいよ秋です。まだ厳しい残暑が続きますが、祇園まつりの頃と比べると時折、風が変わり、はっとさせられることがあります。
「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風のおとにぞ おどろかれぬる」(古今和歌集)と歌にもあるように、いにしえの人々は、ひそかな風の­そよぎの中に秋の気配を感じ、愛でていました。この西から吹く気持ちよい涼風は、「極楽の余­り風」と呼ばれ、古の都人たちは夏の盛りから敏感に感じ取られました。
荒波の人生でも、心を正し、自然に耳を澄ませば、極楽のお裾分けがいただける、という­ことなのかもしれません。

筆者が若い頃過ごした京都では様々な風習がありました。
六道まいり〜立秋の暮らし〜もその一つです。
京都では、先祖の霊を「お精霊(しょらい)さん」と呼び、お盆になると、「六道まいり­」といって、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)にお迎えにいく習わしがあります。
冥土まで響くという鐘をつき、戒名を記した卒塔婆に槙の葉で水をかけ、その槇を持ち帰­ると、お精霊さんが家に帰ると信じられてきました。六道とは、仏教で、生物が生死を繰­り返す六つの世界。珍皇寺が六道といわれるのは、平安時代の葬送地・鳥辺野に近かった­ためで、現世と冥土の境目「六道の辻」とも呼ばれました。
お精霊さんは、「五山の送り火」で、ふたたび冥土へ送られます。
古来より連綿と続くわが国の死生観がよく現れたものです。
「五山の送り火」が終われば京都は秋の気配を迎えます。
千年の都、京都。
近代化の狭間にまだまだ、古(いにしえ)を感じさせてくれる古都です。







動画、一部の文章は京都市中を走る、京福電気鉄道(株)より引用、加筆、参考にさせていただいてます。








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「暑中お見舞い申し上げます」

拙ブログにご訪問いただきありがとうごいざいます。
日々美し国に生(せい)をうけたことを先人・先祖に感謝いたしております。
美し国、四季のある国、日本。
桜が咲いてそして散り、梅雨には雨が降り、夏には穀物が成長し、秋には紅葉が散ること、そして冬には雪が降ること。
春夏秋冬、季節折々の表情を見せてくれます。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも我々の祖先は災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、明治まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

新暦の7月22日〜8月6日頃、快晴が続き気温が上がり続ける頃を大暑(たいしょ)といいます。
立秋前の18日間は夏の土用。もっとも暑さの厳しい時節です。
千年の都京都には、暑さ疲れの出るこの土用の丑の前後に、病気などの厄災を封じる「きゅうり封­じ」の習わしがあります。千年の都に相応しく、その歴史は古く、今からおよそ1200年前、弘法大師が病魔­や悪鬼をきゅうりに封じ込める密教秘法を行ったのが始まりといわれます。きゅうりに名­前、年齢、病名などを記し、祈祷を受けて清浄な土に埋めると、病気を持ち去ってくれる­と信じられてきました。

京都市右京区にあり、全国に約900社ある愛宕神社の総本社の愛宕神社では、7月31日の深夜から8月1日の未明にかけて、「千日詣」が行われます­

愛宕神社は火伏せの神として信仰を集め、麓の清滝から山頂の愛宕神社までの約4kmの登山道(表参道)には明かりが翌朝まで点灯される火よけや防火など、千日­分のご利益があると信じられてきました。うだるような暑さの中、参拝者たちは、標高9­24メートルの山頂にある愛宕神社まで歩いて登ります。昔から、京都の人々は、登る人­に「おのぼりやす」、下る人に「おくだりやす」と京都言葉で声をかけ合い、励まし合っ­て登ってきました。
道が険しいからこそ、一期一会の喜びや、互いを気づかうやさしさが生まれ、和を大切にしてきたのでのでしょう


神を崇(あが)め、神に祈り、和(なごみ)を尊し、清明心を大切にしてきたわが国は「美(うま)し国」です。
本ブログにお越しいただいている皆様、暑さが厳しくなります。
熱中症等に気をつけられご自愛なされてくださいませ。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)




動画、一部の文章は京都市中を走る、京福電気鉄道(株)より引用、参考にさせていただいてます。

[京都二十四節気] 小暑





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明日は7月7日、小暑(しょうしょ)です。
「暑中お見舞い申し上げます」

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美し国、四季のある国、日本。
桜が咲いてそして散り、梅雨には雨が降り、夏には穀物が成長し、秋には紅葉が散ること、そして冬には雪が降ること。
春夏秋冬、季節折々の表情を見せてくれます。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも我々の祖先は災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、明治まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

新暦の7月7日〜21日頃、梅雨明けが近づき、暑さが本格的になる頃を小暑(しょうしょ)といいます。
鱧(はも)は「梅雨の水を飲んで旨くなる」といわれ、梅雨明け頃に旬を迎えます。
京都では、祇園祭の時期と重なり、祭り料理とされました。祇園祭は別名「鱧まつり」と­呼ばれます。輸送技術が発達していなかった昔、海から遠い京の都へ新鮮な魚を運ぶのは­至難の技でした。生命力が強い鱧は、水揚げしてからも長時間生存するため、生きたまま­持ち込める魚として珍重されたといいます。
鱧は硬い小骨が多く、包丁で細かく切り目を入れる「骨切り」をしなければ食べることが­できません。京の板前たちは技を磨き、厄介な鱧を秀逸な食材に仕立て上げました。

京都の夏を彩る祇園祭りは、平安時代、疫病(えきびょう)退散のために御所(ごしょ)内で祇園御霊会(ごりょうえ)が行われたのが最初で、疫病・災害の原因を怨霊と考え、それを鎮めるために牛頭天王(ごずてんのう)をおまつりしました。
牛頭天王は、インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神といわれ、疫病封じのご利益があることから、仏教伝来と共に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視されるようになりました。八坂神社を天王さまと呼ぶところも多いようですが、それはこの名残です。
全国各地の八坂神社も、その地域で疫病が流行(はや)り、それを鎮めるためにおまつりされた例が多いようです。夏に行われる天王祭では、地域によってキュウリをお供えする風習も見られます。
この神さまがなぜキュウリが好物かと言えば、こんな話が伝えられています。その昔、牛頭天王が悪い神さまから逃れるために、キュウリ畑の中に身を隠し難を逃れました。悪い神さまはキュウリのトゲが嫌いだったのでしょう。
それともう一つ、この八坂神社のご神紋は、ちょうどキュウリを切った切り口に似ているからという説もあります。右側の紋がきゅうりの切口に似ているため京都の年配の方は祇園祭の期間(7月中)はキュウリを食しません。飲食店でも出ないとのことです。



八坂神社 御神紋




平安京建都以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。
 
八坂神社一帯には広大な寺域を持ち、「定額寺」という高い格式を誇った観慶寺があり、別名を祇園寺といいました。
その寺域内にあった「天神堂」が八坂神社の前身で、観慶寺はどういう理由かわからないが衰退し、天神堂が多くの崇敬を集めるようになり発展し、祇園社(八坂神社)となりました。
慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改め今日に至っています。





祇園祭


豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。
古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を 祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。
祇園祭は、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越 祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。 



蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)


八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越 祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与されます。
このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
 


※参考文献 八坂神社HP




神を崇(あが)め、神に祈り、和(なごみ)を尊しとする、わが国は「美(うま)し国」です。
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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)



節句(せっく)は、わが国の暦の一つで、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日。日本の文化・風習。節供(せっく)、古くは節日(せちにち)ともいいます。
意外知られていませんが、新暦では3月3日・5月5日・7月7日は同じ曜日となり今年は月曜日にあたります。
稲作を中心に生活を営んできた日本人にとって、四季の移り変わりはとても大切なものでした。春に籾を蒔いてから秋の収穫を終え、新しい年を迎えるまでの季節の節目ごとに田の神さまをお迎えし農作業の無事や五穀豊穣を祈りました。それが今日に伝わる、五節句やお正月などに代表される年中行事です。
私たちの祖先は、生命(いのち)は神さまや祖先から授かったものと捉えていました。
そして、家族が毎日健康でいられることを神さまのご加護と考えてきました。そして節句には、特別なお供え物をして日頃のご加護に感謝し、これからも家族が健康でいられるよう祈りました。桃の節句に飾る雛人形や、端午の節句に立てる鯉のぼりは、そんな家族の祈りを形にしたものといえます。
往古の昔にはたくさんの節句がありましたが、現代に伝わる五節句は、江戸時代に幕府がそれまでの節句をもとに公的な祝日として制定したものです。五節句には、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日のように奇数の重なる日が選ばれています。ただし一月一日(元旦)は特別な日と考え、替わりに一月七日の人日(じんじつ)を五節句の中に取り入れています。また、これらはお正月の七草、三月の上巳(じょうし)の桃、五月の端午の菖蒲、七月の七夕の竹、そして九月の重陽の菊と、必ず季節の草や木に彩られるのが特徴です。

七夕(しちせき)の節句は、七夕(たなばた)祭りのことです。願い事を書いた短冊を結んだ竹や笹が飾られる風景は、夏の風物詩となっています。七夕は、彦星と織姫が年に一度だけ天の川に橋をかけて会うことを許された日という星祭の伝説で親しまれています。こうした習俗は、奈良時代に唐(シナ)から日本に入ってきたものです。

日本では、古来お盆に祖先の御霊(みたま)をお迎えする前に、棚機津女(たなばたつめ)と呼ばれる乙女が、人里離れた水辺の機屋(はたや)に籠って神さまをおまつりし、それが終わった日に、禊(みそぎ)をする行事がありました。そこに唐(シナ)から星祭と乞巧奠(きっこうでん、技能や芸能の上達願うお祭り)の風習が入ってきて、七夕という節句行事へと変化してきました。七夕の次の日に笹竹を川や海に流す「七夕流し」は、心身の穢れを流すというお祓いの意味が込められています。
また、棚機津女は、『日本書紀』は、瓊瓊杵尊(ニニギのミコト)の妃となる木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を、「神代下第九段一書第六」において、「かの先立つる浪穂の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉も、もゆらに、機織る少女」というように棚機津女として描かれています。


七夕伝説自体は、シナ・日本だけでなく、朝鮮半島・東南アジアの国々に広く分布していますが、アジアの七夕伝説は、大水で流されて二人が離ればなれになったり、水はよくないものとする傾向が強いのです。それに対し、日本の農村の七夕では、雨が降ると穢れ(けがれ)を祓うという意味で、水をよいものと捉えてきたのです。
この行事は、ちょうど稲の成長期である、旧暦のこの時期(八月)は、稲作にとって雨の欲しい時期でもあるため、七夕は「水神祭」であるとも考えられ、神社等で雨乞いの行事も行われたのです。日本の伝統、気候、風土に基づいた「雨乞い」の儀式でもあったのです。

このように、農耕民族であるわが国では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水に関わる農耕儀礼として、さらに、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」「七日盆(なぬかぼん)」という祖先の精霊迎えの祓え(はらえ)の行事や、胡瓜や茄子を神の乗り物の馬や牛の形にして供え、田畑の収穫を神々に感謝する庶民の祭りがこれに加わり、日本独特の七夕行事が生まれたのです。
七夕に水と関係がある行事が多く行われるのはその名残といえます。たとえば青森県の「ねぶた祭」などはもともと形代に災難とのかかわりを移し水に流す行事であったといわれています。またこの日は七回水浴びをすると良いとも伝えられています。

人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはなりません。
七夕(しちせき)の節句がそれを教えてくれています。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)

日本三大御田植祭

四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先、先達、先哲は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にし、愛で、文化を醸成しました。
五穀とは、古事記のおいては、稲・麦・粟・大豆・小豆をいい、日本書紀においては、稲・麦・粟・稗・豆をいいます。
それらが豊かにみのることを五穀豊穣といいます。
地方によって御田植の時期は違いますが、神々に五穀豊穣を祈るまつりが、田植祭りです。
田植は農耕儀礼の最も重要な段階です。田植がかつて祭の儀礼をなしていたことは今に残る各地の神社の御田植祭りの形態にみとめられます。





大阪市住吉区の住吉大社(高井道弘宮司)で6月14日、伝統行事「御田植(おたうえ)神事」(重要無形民俗文化財)が盛大に執り行われた。梅雨を思わせない快晴の下、多くの奉仕者が古式ゆかしい装束姿で参集。踊りや舞といった華やかな芸能を奉納し、秋の豊作を祈願しました。

住吉踊は神功皇后(第四本宮御祭神)三韓より御凱旋の折、泉州七道ヶ濱(現在の堺市)に御上陸になられたことを祝い、海浜の漁民が「天下泰平」を謳歌し吉士舞を舞ったことに始まると伝えられております。大変古い歴史を持つ住吉踊は、中世には農民たちが稲の虫追いや厄払いの意を込めて「五穀豊穣」を祈った農民舞踊となり、また住吉神宮寺の僧により「庶民の安全繁栄」を祈った踊りとして発達していったものとも考えられます。住吉踊は後戦国時代から江戸時代にかけて、夏祭り以降翌年四月までの間、住吉大社から神宮寺の僧等が諸国を巡歴し、住吉代参のお供え物を集め全国に宣伝されるようになりました。今に伝わる商売繁盛家内安全の吉兆「住吉踊の麦藁細工」は僧が全国を巡歴し住吉を留守にしている間に参拝者が実際の住吉踊を見ることのできない代わりに求めたものでした。当時全国に広まった住吉踊は各地で形を変えつつも今なおその名残を見ることができ、東京浅草での「かっぽれ」も起源は住吉踊であることは有名で、現在では正月・夏祭と里帰り奉納も行われております。

そのような沿革から住吉踊は天下泰平・五穀豊穣・庶民繁栄・家庭和楽を祈る意味をもち、衣装も僧形僧服で中心には長柄の傘を持った教導師が柄を打ち拍子を取りながら唄い、その周囲を四人一組になって心の字に象って踊るのを基本とします。踊りの手振りはごく素朴な野趣に富んだもので、五人が一つの傘の中で踊るのは天地五行に象り、衣装には紅、白、紫、黄、黒の五色を用います。傘はこの世界に住む我も人も心を本とする意と言い、傘開くところ即ち住吉大神の守り給う所でもあります。また音頭の掛声「イヤホエ」は「陰陽穂栄」を転訛したものであると言います。


住吉大社HPより引用









伊勢神宮内宮の別宮「伊雑宮(いぞうぐう・いざわのみや)」(志摩市磯部町)と同宮神田で6月24日、「御田植祭(おみた・おたうえさい)」が執り行われた。
平安時代から行われていたといわれ、「白真名鶴伝説」「鶴の穂落とし伝説」(倭姫命が志摩を訪れた時に昼夜鳴く鶴がいたので見にいくと稲穂をくわえていたという伝説)に由来するとされ、昔から伝わる祭りで歌われる躍り込み唄や数え唄の歌詞に由来の伝説が登場します。
動画は2年前のものです。



御田植祭は、例年4月の第1土曜日並びにその翌日の2日間行われます。
(午年の式
年祭の年だけは、日曜日の1日のみ斎行。)
日本三大御田植祭と云われ、住吉大社・三重伊雑宮と共に広く親しまれています。史料では、明徳2年(1391)には既に記載されており、それ以前より行われていたようです。

第1日目は耕田式で、鎌・鍬・鋤や牛によって耕田風景を模した行事が行われ、また、舞女による田舞や早乙女手代による植初め行事が奏されます。8人の可愛い稚児たちの周囲をナソリ、オオベシミ、ウバと呼ばれる面をかぶった祓い役が廻りお祓いをし、8本の大華傘が彩りを添えます。

第2日目は田植式で、拝殿前での行事の後、祭員を始め稚児・早乙女手代等が参道を進み御神田へと向かいます。早乙女手代が田植え歌を唄いながら苗を植える様は、昔からの稲作風景をほのぼのと今に伝えるものです。

桜の花が咲き乱れる中、多くの参拝者に見守られ、御田植祭は一層の賑わいに包まれます。


香取神宮HPより引用


わが国は神の国だと言われてきました。神々によって作られ、神々によって護られています。日本全国津々浦々まで神社が存在します。
日本は本当に神国なのでしょうか。
まず、神の国とはどのようなところで、そこで暮らすのはどのような人たちなのかを考えてみる必要があります。

本ブログでも再三再四述べていますが、神の国である以上、清き明き心を持ち、
みんな優しく思いやりがあり、いつも笑顔で暮らしているはずです。
礼儀正しくて慎み深く、自分より人を優先するはずです。

物を大切にし、足ることを知り、虚栄や虚飾を遠ざけ、清潔で簡素の中に美を見出してきたはずです。信義を重んじ、約束を守り、正直で誠実であるはずです。

子供は親に感謝し、親は子供のために自己犠牲を惜しまず、祖先に思いを馳せ感謝し、不平不満、愚痴、悪口を遠ざけ、貧しくても、お互いに助け合って暮らし、天の恵み、地の恵みに感謝し、人と人、人と自然が調和して生きているはずです。

これらのことが神の国の属性として捉えるならば、明治維新までのわが国、あるいは大東亜戦争前までのわが国は、まさに神の国でした。
神が国土を作り、神が護ってくれている国であり、そこに住む人々が、神の望む貴い心を持っている国であったことは間違いありません。
日本国民とは肇国以来、連綿と伝統、文化を紡いできたすべての日本人を指すものです。
我国には「先祖返り」という言葉があります。
今の日本には「先祖返り」が必要なのではないでしょうか?

経済や政治・社会情勢に押し流されるようでは、潤いのある生活はできません。昨今のように混迷する社会情勢のもとでは、人々は目先のことばかりに心うばわれます。そんなご時世であればこそ、なにか大きな恐れるもの、畏敬の念を抱くものがあれば、かえって安心します。

神仏や、天地自然に手を合わせる、積極的な行動によって、子供達は健やかに成長し、大人達は希望と自信をとりもどし、安らぎを得ることができるでしょう。
かっての日本人とは、そのような民族だったのです。
そして、その時代のほうが、皆幸せであったように筆者は思います。
今一度、大らかで、高貴な、こころ優しい日本人の戻ってみませんか・・・
子孫の為にも「先祖返り」を・・・

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