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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

書庫美(うま)し国 日本

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日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。
「まつり」年齢、性別、肩書き、身分の上下など関係なく、境界線を越え、人と人を結ぶ無心のエネルギーでした。
そしてこれらは今後も変わることなく無窮に続いていくのです。
「まつり」はすべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。
いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、
森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか?


 今回記事としました、「阿波おどり」の淵源は、400年前に遡ります。
阿波おどりの起源については、主に関西で盛んに踊られていた風流(ふりゅう)踊りとする説、お盆に亡くなった人のために踊った精霊(せいれい)踊りとする説、天正15年(1587)に徳島城の竣工を祝って踊られたとする説があります。これら3つの説のうち、通説となっているのは徳島城の完成にまつわる説です。当時の徳島藩藩主・蜂須賀家政(はちすかいえまさ)は徳島城の完成を祝うために城下に盛大に踊ってよいとお触れを出しました。そこで、徳島城下の町衆たちは、夜を徹して踊り明かしたことが現在の祭りの原型だといわれています。この祭りは誕生してから長い間、正式な名称なかったそうです。阿波おどりという名称で呼ばれるようになったのは、昭和4年に徳島市出身の日本画家・林鼓浪(はやしころう)氏に命名されてからのことで、以後、全国にその名が広まっていきました。

現在有名連といわれる連は、ほとんどが戦後に誕生しましたが、有名連と言われる連の中で一番元気な踊りを見せ、正調派と言われる、阿呆連の創立は昭和23年で、阿波おどり振興協会に所属する連の中では3番目に古い連です。
動画で踊っている阿呆連の踊りは、武士の踊りの流れをくむ自由奔放かつ豪快なところが最大の特徴で、提灯を持って暴れ踊ります。男性陣はほっかむりをして踊りますが、これは江戸時代に武士が身分を隠して踊るのにほっかむりをして顔を隠したことに由来しています。 
阿呆連の女踊りは女性らしい優雅さもありますが、上体をやや前傾しつつ、つま先で歩を進める差し足という独特のステップは、きびきびと力強く躍動感にあふれています。 
阿呆連の踊りの豪快さは、豪快奔放なだけではありません。いわゆる静と動の対比もみどころのひとつで、2拍子のリズムでテンポよく踊るときは豪快に、三味線と笛のゆったりとした旋律のときには静かに、そしてしなやかに踊ります。
阿波おどりの奴踊りの"奴"とは奴凧のことです。鳴門には「わんわん凧」という郷土凧があります。畳何畳敷分もあるような巨大な丸凧を大勢の人間が運動会の綱引きのように太い綱を引いて上げます。阿呆連の奴踊りは、その凧あげの様子や凧が風に吹かれて大空で自由奔放に舞う様子を踊りで表現したもので、昭和25年に考案された伝統のある踊りです。奴踊りは男性の踊りですが、阿呆連の女性たちは数ある連の中で唯一、連凧踊りといって、踊り手一人一人の踊りが一連の大奴凧になり大空へ舞い上がるという阿呆連ならではの女奴踊りを踊ります。 
一度阿波踊りを観るとその迫力、一糸乱れぬ踊りに日本人の人と人の「絆」、伝統を護っていこうとする保守の淵源が感じられます。

「阿波踊り」を見る時、古来より紡いできた男女の役割、古より男女が平等であったことが垣間見れます。
「仕掛けた踊りはやめられぬ!」が阿波おどりの掛け声ですが、まさに「仕掛けたまつりはやめられぬ」です。
まつりと共に、わが国も天壌無窮に続いていくのです。

先人、先祖が紡いできた伝統と共に・・・

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)


参考文献、ダイドードリンコ「日本の祭り」2011年の「阿波おどり」より出典、引用。




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美し国、四季のある国、日本。
桜が咲くこと、雨が降ること、紅葉が散ること、そして雪が降ること。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、つい百年前まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。


新暦の6月5日〜20日頃、芒を持った植物の種をまく頃を芒種(ぼうしゅ)と言います。
拙稿、田の神の祭り でも述べていますが、田植えの季節でもあります。
今日と違い、古来より田植えは神聖な行事とされ、「早乙女」と呼ばれる清らかな女性の役目とされていま­した。田植えの前に早乙女たちが模擬的な田植えを演じ、豊作を祈願する習わしが今に伝­えられています。これらの神聖なおまつりは日本各地でも見られます。


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納涼床【絵図】「四条河原夕涼其一」(『江戸時代の京都遊覧 彩色みやこ名勝図絵』白幡洋三郎著)


筆者がかって過ごした京都の夏の楽しみは「納涼床」でした。
川の上に設けた高床で、涼をとりながら食事を楽しむ「納涼床」は、京都の夏の風物詩。
鴨川、貴船、高雄、鷹ヶ峯などで、風流な宴が催されます。
戦乱の後、豊臣秀吉の三条、五条橋の架け替えなどを経て、鴨川の河原は見世物や物売りで賑わいます。それにともない、富裕な商人が見物席を設けたり、茶店ができたりするように。これが納涼床の始まりです。
江戸時代に入ると石垣や堤が整備され、付近に花街も形成され、歓楽街になりました。祇園祭の神輿洗いでは見物客で大変賑わったといいます。江戸中期には約400軒の茶屋が床机の数を定めるなど、組織化も進んでいたようです。当時の床は浅瀬に床机を置いたり、張り出し式や鴨川の砂洲に床机を並べたもので「河原の涼み」と呼ばれました。


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「三条大橋下の床」(写真協力 国際日本文化研究センター


明治時代になって、7、8月に床を出すのが定着、鴨川の右岸・左岸両方に床が出ていました。 両岸は高床式の床、砂洲は床机、三條大橋の下には河原から張り出した床が出ていたようです。 明治27年(1894)の鴨川運河開削や大正4年(1915)の京阪電車鴨東線の延伸などにより、左岸(東側)の床が姿を消し、大正時代には治水工事のため床机が禁止され、工事により禊川ができます。


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昭和4年、半永久的な床は禁止になります。昭和9年の室戸台風、翌年の集中豪雨で納涼床は壊滅的な被害を受けました。さらに大東亜戦争では完全に納涼床の灯が消えます。
戦後、昭和27年「納涼床許可基準」が策定され、景観上の基準になりました。 納涼床を許可する窓口である京都鴨川納涼床協同組合(前・鴨涯保勝会)は「納涼床設置規則」を定め、納涼床の文化風習を未来へと伝えるべく関係各位が尽力されています。
納涼床は自然と調和する­粋な遊びの感性が生んだ、京都ならではの風習、文化でもあるのです。







京都は、三方を山に囲まれ、暑さが厳しいため、涼をとる工夫が凝らされてき­たのです。
襖や障子を取り払って葭戸(よしど)や簾(すだれ)に替え、座敷に網代(あじろ)を敷­き、庭や玄関に水をまき、風鈴を吊るして音でも涼みます。
古都の納涼には、自然­と寄り添う先人の心と英知が息づいています。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)


動画は京都市中を走る、京福電気鉄道(株)より、納涼床の記事は、サイト「鴨川納涼床への誘い」から引用しています。





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美し国、四季のある国、日本。
桜が咲くこと、雨が降ること、紅葉が散ること、そして雪が降ること。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、つい百年前まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

新暦の5月21日〜6月4日頃、万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来る頃を小満(しょうまん)と言います。

「麦秋」という言葉をご存じでしょうか?
今では耳にする機会が少なくなりましたが、ちょうど今頃の麦が熟す頃、初夏の頃のことをさして「麦秋(ばくしゅう・むぎあき)」と言います。俳句では、「麦秋」は夏の季語とされています。また、「秋」という字が使われていますが、これは、作物を取り入れる、収穫するという意味があるようです。
小麦は、11月中下旬に播種され、冬の間はあまり大きくなりませんが、気温が上がりだす3月頃から茎が伸長し始め、4月の中下旬に穂を出します。それから45〜50日かけて成熟していき、それまで青々としていた葉、茎、穂が徐々に黄色と変わっていき、6月上中旬に収穫されます。穂の色は、稲では赤米や黒米など特殊なものを除いて品種による差はあまりないのですが、小麦では、淡黄、黄、褐色など品種によってそれぞれ特徴を持っています。
また、穂の形も稲とは違い、麦の穂は垂れ下がることなく直立しています。ちょうど今頃の小麦は、周りの草木が青々としているのとは対照に、小麦色に熟してきており、下記の動画のような見事な田園風景を見せてくれます。小麦は、小麦粉に加工され、パンや麺、菓子の材料など私たちの食生活に欠かすことことができない重要な位置を占めています。しかし、小麦粉はよく使うけれども、小麦は見たことが無いという方も以外と多いのではないでしょうか? 
「麦秋」のこの時期、小麦畑を眺めたり、また、じっくりと小麦を観察してみては・・・・




筆者が若い頃過ごした千年の都京都には、6月1日に住まいを夏用に替える「建具替え」の習わしがあります。
鎌倉末期から室町時代の歌人、吉田兼好が『徒然草』で「家のつくりようは、夏をむねとすべし」と記しているように、­昔から高温多湿の夏をいかにやり過ごすかは、住まいづくりに求められる条件でもありま­した。特に京都は、三方を山に囲まれ、暑さが厳しいため、涼をとる工夫が凝らされてき­たのです。
襖や障子を取り払って葭戸(よしど)や簾(すだれ)に替え、座敷に網代(あじろ)を敷­き、庭や玄関に水をまき、風鈴を吊るして音でも涼みます。
古都の納涼には、自然­と寄り添う先人の心と英知が息づいています。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)

[京都二十四節気] 立夏




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美し国、四季のある国、日本。
桜が咲くこと、雨が降ること、紅葉が散ること、そして雪が降ること。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、つい百年前まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
新暦5月5日〜20日、夏の気配が感じられる頃を立夏(りっか)と言います。







明日5月5日は端午の節句、日本では子供の日です。
昨今は、大型連休に組込まれ、本来の端午の節句の意味もあまり意識しなくなったのではないのでしょうか?
少子化の影響もあるでしょうが、筆者が子供の頃は「鯉のぼり」があちらこちらの家庭で、大空高く泳いでいたように記憶しています。
そして、端午の節句の由来、意義も薄れ、大人が遊ぶ為の単なる休みとなってしまっているのが実情ではないでしょうか?

端午の節句の由来は支那の楚の国の愛国の士屈原(くつげん)(前340頃〜前278頃)に由来します。
詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。
しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。
故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。5月5日がその命日にあたります。
屈原を慕う楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
これがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源です。
その日が支那の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれました。これが今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。
このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて支那全体に広がっていったのです。
 国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。
急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多く、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して無病息災を祈りました。
その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました
日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。
日本でも、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式も行われるようになりました。
菖蒲は薬草で、邪 気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句 にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。
古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。
こいのぼり(鯉のぼり)の由来は、鯉が「龍門」という急流の川をのぼると龍になって天へ登るという中国の古事からきています。
我子も健康に育ち、将来は大きく出世して欲しいとの気持を込めたものです。また、「わが家に男の子が生まれました。どうぞお守りください。」と天の神様に伝え、守っていただく意味があるとも伝えられています。 

愛国の士屈原の慰霊に始まり、時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。
 
「子供は国の宝」といいます。
何故なら子供が育たないことには、国家、家、文化の伝統の継承がありえないからです。
江戸、明治の時代に日本を訪れた外国人は、世界中で一番子供を大切にする民族であり、子供たちは世界中で一番礼儀正しく、輝いていると幾多の書物でも紹介されています。

  1. 甍(いらか)の波と雲の波、
    重なる波の中空(なかぞら)を、
    橘(たちばな)かおる朝風に、
    高く泳ぐや、鯉のぼり。

  2. 開ける広き其の口に、
    舟をも呑(の)まん様見えて、
    ゆたかに振(ふる)う尾鰭(おひれ)には、
    物に動ぜぬ姿あり。

  3. 百瀬(ももせ)の滝を登りなば、
    忽(たちま)ち竜になりぬべき、
    わが身に似よや男子(おのこご)と、
    空に躍るや鯉のぼり。

最近では余り歌われなくなりました「鯉のぼり」ですが、この歌は、鯉のぼりの雄大さをたたえ、男児がこいのぼりのように雄大に成長するようにという願望を歌っています。
最近は、戦後教育の堕落から、戦前の文部省唱歌が殆ど、歌われなくなりましたが、よき日本人となって欲しいという、国の思い、親の思い、国を思う国民の思いを歌った唱歌の復活を願うばかりです。
 
端午の節句は、国思う愛国の士に由来し、災難を避ける風習の日であり、子供の成長を願う日でもある。
これは、先人が連綿と国家の連続を願ったものであり、また現世に生きる我々も、連綿と続く子孫とを繋ぐ一人として、子孫の繁栄を祈ったものです。現世に生きる我々はそれを継承し、次の世代に伝える「祈りの日」でもあることを忘れてはならないでしょう。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)

田中久重 / 江戸の天才技術者からくり儀右衛門




わが国は現在、技術大国と言われています。
しかし、その技術も一朝一夕にできたものではありません。
先人・先祖の血の滲むような努力は後世への思い、公への奉公の精神なくして成し遂げられたものではありません。
冒頭の動画にも紹介されていますが、その技術のルーツはからくり人形、そしてそれは江戸時代にまで遡ります。
江戸時代において、竹田からくり芝居以降、活躍したからくり師の代表をあげれば、次の3人と言われています。

細川半蔵頼直(からくり半蔵)
田中久重(からくり儀右衛門)
大野弁吉(中村弁吉、一東)

徳川幕府は、統治・権力集中を図り、軍事産業を抑制するため、鎖国と同時に、新規工夫・発明をご法度とし、産業の機械化を禁止しました。ただし、神事と祭事に関わることは例外として認めたのです。上の3人のからくり師に共通する特徴は、単にからくり人形の製作技能に優れていたというだけでなく、数学、天文学、医学など、科学技術全般にわたる総合科学者だった点にあり、彼等に代表される江戸からくり師たちが、鎖国中の日本において、長崎から入る西欧の科学技術を吸収し、根付かせ、日本独自の技術を発展させ、明治開国以降の工業近代化に貢献したのです。現在の技術立国日本の基礎を築いたのは、江戸からくり師であるといっても過言でありません。

今回は「東洋の発明王」と言われた田中久重(たなかひさしげ)翁をご紹介したい。



田中久重夫妻


からくり 儀右衛門 ( ぎえもん ) は、本名を 田中久重 ( たなかひさしげ ) といい、江戸時代後期の 寛政 ( かんせい ) 十一年(一七九九年)、今の 久留米市通町 ( くるめしとおりまち ) でべっ甲 細工 ( ざいく ) をつくる家の長男として生まれました。
幼いころから仕事場に座り込んで、父 弥右衛門 ( やえもん ) の手元をじっと見つめ、「たいまい」と呼ばれる 海亀 ( うみがめ ) の甲らが、 櫛 ( くし ) やめがねの 縁 ( ふち ) に変わっていく様子を 面白 ( おもしろ ) そうに見ている子どもでした。
あるときは近所の 鍛冶屋 ( かじや ) へ出かけ、真っ赤な鉄の 塊 ( かたまり ) が 鎌 ( かま ) や 包丁 ( ほうちょう ) などに形が変わっていく様子を一心に見ています。またあるときは、道具屋でかんなで板をけずるやり方を見ています。そのうちに刃物のつくり方や 傘 ( かさ ) づくり、 漆塗 ( うるしぬ ) り、人形づくりなど、どうやってつくっていくのかをすっかり覚え込んでしまいました。
儀右衛門が九歳のとき、 寺子屋 ( てらこや ) (子どもたちに読み書きを教えるところ)ですずり箱にいたずらをされたことがありましたが、儀右衛門は引出しのつまみをちょっと回しておけば、決して開くことのできないような仕掛けをつくって、友だちや先生をびっくりさせました。
また、近所には、久留米かすりを発明した 井上伝 ( いのうえでん ) という人が住んでいました。儀右衛門は十五歳のとき、もっと新しい模様がつくれないかという伝の悩みを聞いて、それまでの十字模様やあられ模様とは違った花や鳥や人の形をした絵模様の美しいかすりを織ることができる機械をつくり出し、織り方や下絵の描き方まで教えたので、久留米かすりの評判がいっそう高くなりました。



久留米かすり:(財)久留米地域
地場産業振興センター所蔵

 

二十歳になると、さまざまなからくり人形をつくっては人々を驚かせ、その人形を持って大阪、京都、江戸などを回りました。からくり人形はどこへ行っても 大評判 ( だいひょうばん ) で、「からくり儀右衛門」の名は日本中に知れわたりました。
ところが、父親の死後、儀右衛門の発明工夫を陰ながら見守り、励まし続けてくれた母親が亡くなりました。自分の好きな仕事に夢中になっていて、何の恩返しもできず両親を失ったことに、深い悲しみと後悔に暮れていた儀右衛門の耳に、先に亡くなった父親の声がよみがえってきました。
「立派な発明家になって国のため、人のためにつくす」という約束の言葉です。儀右衛門は、はっとしました。からくり人形を工夫する知恵は、もっと大切なことに使わなければならない…。
そこで、さらに勉強し自分の力が十分に発揮できる場を求めて、妻や子どもを連れ大阪に住まいを移しました。儀右衛門、三十六歳の出発です。
当時大阪では、幕府に不満を持った武士たちの反乱が相次いでいました。 大塩平八郎 ( おおしおへいはちろう ) の乱による大火事で町は焼かれ、儀右衛門も家や家財道具、発明道具をすべて失いました。焼け出されて知人宅に世話になっていた儀右衛門は、ちょろちょろとしか水の出ない「 竜吐水 ( りゅうどすい ) 」というポンプを何とか工夫して、水を高く出せないか一生懸命に考えました。そして四人がかりの手押しポンプ「 雲竜水 ( うんりゅうすい ) 」をつくり、見物人の目の前で一〇メートルもの水を勢いよく出して見せました。人々は大いに喜び、たくさんの注文がきました。



「 雲竜水 ( うんりゅうすい ) 」鶴見消防署 蔵


儀右衛門はからくり人形をつくるときに、ぜんまい仕掛けやばね仕掛けの工夫をした経験から、壊れた時計の修理をよく頼まれました。外国製のとても複雑な機械の時計もたちまち直してしまうので、とうとう自分の力で外国製に負けない時計をつくろうと決心しました。
こうして完成したのが、日本最高の作品といわれる万年時計で、「 万年自鳴鐘 ( まんねんじめいしょう ) 」と呼ばれる六角形の時計です。
万年自鳴鐘は、一面は西洋の時間、二面は日本の時間、三面は曜日、四面は季節、五面は今夜の月の大きさ、六面は 子丑寅 ( ねうしとら ) などの 刻 ( とき ) をあらわし、一番上には赤い球と白い球がくるくると回るようになっており、太陽と月の動く様子が一目見て分かるようになっていました。




「 万年自鳴鐘 ( まんねんじめいしょう ) 」株式会社 東芝所有・国立科学博物館へ寄託



五十二歳になってもなお熱心に西洋の天文学や 蘭学 ( らんがく ) を学んだことが、儀右衛門の発明をさらに進歩させていきました。儀右衛門の名声を聞いた 佐賀 ( さが ) 藩 ( はん ) (現在の佐賀県)では、彼を招き、初めて日本人の手によってつくられた蒸気機関をすえ付けた汽船を完成させました。
明治時代を迎えると、儀右衛門は七十五歳で東京に移り、現在の東芝のもととなる工場をつくりました。東芝の創業者の一人でもあるのです。
明治十四年(一八八一年)、八十二歳で亡くなるまで活動し続けました。



田中久重翁夫妻 墓(青山霊園)


田中久重翁が遺した言葉があります。

「そう言うべからず。これも国のためであり、人助けにもなることたい」

注釈: 久重翁は機械について相談されると誰が相手でも気さくにアドバイスをしました。現場からは「これでは儲けにならない」という声があがりました。その時に発したのが上の言葉である。久重翁はボランティアで相談に乗ることをやめなかったという。

「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」


「国家に有用なる機械をせいぞうして奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん」



現在多くの企業がわが国に存在します。
それぞれに創業の理念が必ずあるはずです。
しかし、創業の精神を忘れた時、必ず企業は衰退していきます。

「国家に有用なる機械をせいぞうして奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん」


これこそ日本の精神であるはずです。
我々に遺されし、先人・先祖の尊い教えを踏襲し、次世代へと繋いでいく・・・
民族の連続性こそ、わが民族の精華なのです。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)





田中久重の万年時計【Full & HD】


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