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わが国では、8世紀に古事記・日本書紀が編纂され、国家・民族の原典が出来上がります。
『古事記』は日本最古の歴史書であり、元明天皇の勅命を受けて和銅5年(712年)に太安万侶(おおのやすまろ)によって献上されたもので、神代の天地の時代から推古天皇(592年即位)の時代までが書かれています。
『日本書紀』は舎人親王らの編集で養老4年(720年)に完成した日本最古の正史であり、神代から持統天皇(697年即位)の時代までを漢文・編年体によって記述しています。
これらは民族の神話・伝承を集大成したものであり、日本人自身の祖先の物語であり、そこには、天之御中主之命、天照大神、神武天皇や三種の神器が登場します。
西欧文明には、ギリシャ=ローマ神話がありますが、これは自分たちとは別の民族の神話です。祖先が伝えたゲルマン神話や北欧神話もありますが、それより圧倒的な存在となっているのが、キリスト教の聖書です。しかし、聖書は、ユダヤ民族の聖典であり、アブラハムとその子孫の歴史は、ゲルマン民族とは異なる民族の記録です。西欧文明は、自らの祖先から伝来した古典を持っていないのです。これに対し、日本文明は、民族の源であり、拠り所であるところの古典を持っています。
わが国では、天照大神を祀る「神宮」は20年毎に建物すべてを建替える「式年遷宮」を1300年も前より続けており、多くの国民が参拝しています。天照大神に連なる直系の子孫である皇室は往古の昔より国民統合の象徴として今日に至っています。
また全国津々浦々にある神社には古事記・日本書紀に記載されている八百万の神々が祀られており、その地域の信仰、拠り所となっています。しかも正月、七五三は参拝者で賑わいます。
神話とは、「はるかなるもの」を思い、畏れ、謹むこころであり、同胞を繋ぎ共感、共有する大切なものです。
お正月をいろんな形で迎えられたことでしょう。
しかし、多くの日本人は初日の出を拝み、清清しさを感じたこととおもいます。そのお日様を我々の祖先・先祖も数千年に渡って生命と平和を尊ぶ天照大神として崇めてきたのです。
わが国の神話ほど生命と平和を大切にしたものは他には見当たりません。生命と平和を大切にしたわが国の神話は、日本列島で数千年ものあいだ穏やかに暮らしてきた先祖の生き様でもあるのです。
神話は祖先に思いをはせ、八百万の神々畏敬し、お日様を崇める豊かな感性を後生の我々に残してくれた先祖からの贈り物なのです。
神話にこそ、「お国柄」があり、先人先祖の息吹、日本の息吹が感じられるのです。
美し国、日本が神話にあるのです。 天皇(すめらぎ)彌榮(いやさか) |
美(うま)し国 日本
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天皇(すめらぎ)彌榮(いやさか)
我國の畏くも天皇陛下、皇室には、「仁」の御心の伝統があります。
日本書紀には、我國を建国された神武天皇が、「民」を「おおみたから」と呼ばれたと記されています。神武天皇にとって、臣民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物であり、家族だったのです。
そして、神武天皇は、日本を建國するに当たり、臣民を大切にすることを建國・統治の理念とされました。
有名なのは、第16代仁徳天皇です。
仁徳天皇は即位されて4年目、高台から臣民の家々を見渡されました。すると家々から炊事の煙がのぼる状況の悲惨さを感じられ、臣民は貧しい生活をしているのだと気づかれました。仁徳天皇は3年間年貢などを免除されました。そのため、天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果てて悲惨な状況でもそのままにしておられました。
そうして3年、気候も順調で臣民は豊かになり、高台に立つと、炊事の煙が元気に上がっているのを見られました。
臣民の生活は見違えるように豊かになりました。それを見て、仁徳天皇は喜ばれ、「わが身は、すでに富んだ」と言われました。
それを聞かれた皇后陛下は、「私たちの住んでいる宮殿の垣はくずれ、雨もりもしているのに、どうして富んだといわれるのですか」と問われました。
仁徳天皇は「聖王は、臣民の一人でも飢え寒がる者があるときは、自分を顧みて自分を責められた。今、臣民が貧しいのは、自分も貧しいのだ。臣民が富んでいるのは、自分も富んでいるのだ。未だかつて、臣民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えられました。
仁徳天皇に感謝した諸国の臣民が、3年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れています。それに較べて臣民は豊かになりました。もう税金をとりたてていただきたいのです。宮殿も修理させてください。」と嘆願にきました。
しかし、仁徳天皇はお許しになられませんでした。
3年後に宮殿の修理をお許しになり、國中から臣民が集まり、新しい宮殿づくりをしました。臣民は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励みました。そのためまたたく間に宮殿ができあがりました。それ以来天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」と臣民は崇めました。
仁徳天皇の御製として、『新古今和歌集』に次の御歌があります。
たかき屋に のぼりてみれば 煙たつ
たかみのかまどは にぎはひにけり
この御心は代々の天皇に引継がれ、明治大帝も
なりはひを たのしむ民の 喜びは やがてもおのが 喜びにして
と詠まれておられます。
皇族男子は、御名前にみな「仁」という文字がついています。
これは平安時代からの伝統です。このことは、皇室が「仁」ということを非常に大切にされていることを表わしています。
畏くも先帝・昭和天皇・香淳皇后は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住されておられました。
そこは、元侍従長の入江相政によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、畏くも天皇陛下は戦後もそこに住み続けられました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、畏くも天皇陛下は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けられました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、神武景気も過ぎた昭和36年の11月、天皇陛下はようやく現在の吹上御所に移られました。
新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
そして畏くも先帝・昭和天皇は、
「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」 と仰られたそうです。
このようにわが國では、天皇陛下は臣民を慈しみ、臣民は天皇陛下を敬愛して、天皇陛下と臣民が家族的な感情で結ばれた状態を、理想としてきました。それは他の國々には見られない我國独自の伝統です。皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきた「仁」の伝統なのです。
「仁」とは何か。「仁」とは、いつくしみ、思いやりをい表します。
「仁」は、シナの孔子が提唱した徳目ですが、儒教の道徳思想の中心にすえられ、宋学では「仁」を天道の発現と見なし、一切の諸徳を統(す)べる主徳とした。智仁勇の三徳または仁義礼智信の五常等の徳目の中にあって、他を統括するのが、「仁」なのです。 いにしえの大和言葉で言えば、「うつくしび」がこれに当たる。「うつくしび」に「慈愛」の文字をあてるように、「仁」とは、慈愛を垂れ、大切にすることである。 歴代の天皇は、国民を我が子のように慈しみ、大切にされてきた。それは、記紀において、国民を「大御宝(おほみたから)」と呼ぶことによく表われています。 初代・神武天皇以来の伝統であって、その精神を一文字で表すのが、「仁」なのであります。
これに対し、臣民(国民)が畏くも天皇陛下に対して臣民が表すこころが、「忠」です。「忠」は、偽りのない心、まごころ、まことをいいます。忠実、忠心などと使われる。君主に対しては、臣下として、真心・誠を尽くすのが、「忠」である。 シナにおいては、「忠」よりも「孝」が優先された。君主と親のどちらかを選ばねばならない時には、「孝」を優先するのが、美談とされています。 余談になりますが、シナの孔子が提唱した儒教ですが、シナでは殆ど実践されず、実践したのが我國なのです。
「孝」とは、子が親を敬い、親によく尽くすことをいいます。「孝」は、自分の親を大切にすることにとどまらず、祖父母・曽祖父、さらに祖先を大切にするこころです。親への孝行は、先祖への孝養につながるというのが我國の考え方です。 わが國では、皇室は国民の本家のような存在と考えられ、自らの祖先をさかのぼると皇室につながると考えてきました。だから、親を大切にし、祖先を崇めることは、皇室を尊ぶことに通じ、「孝」と「忠」が別々ではなく、一つに連続しているのです。 しかも、源にさかのぼれば、皇室が本(もと)であって、国民が末(すえ)という関係になり、そこで、「忠」と「孝」では、「忠」が本と考える。これを「忠孝一本」といいます。 「孝」は、私的な家族道徳ですが、「忠」は、公的な社会道徳である。シナが私的な「孝」を優先するのに対し、日本では公的な「忠」を根本とする。これは、臣民と皇室が大家族のように結ばれていると信じられてきたお国柄においてのみ可能なことであり、漢民族と異民族の闘争の歴史である易姓革命の國、シナには到底真似すらできないことなのです。 皆さんご存知でしょうが、皇室は天照大神を皇祖祖神としています。 臣民もまた祖先は神々につらなると考えてきました。だから、わが國では祖先を崇め、皇室を尊ぶことは、神を敬うことにつながり、また、神を敬うことは、親孝行をし、祖先を大切に祀り、皇室を尊ぶことと、一つにつながっている。敬神崇祖と忠孝一本が、日本人の生き方の根底にあります。
親・先祖・皇室・神 このつらなりのどれ一つを欠いても、仁・忠・孝は成り立たちません。 畏くも天皇陛下が「仁」を行いあそばされ、臣民が「忠」を行い、各家庭に「孝」が行われている状態をを表す言葉が、「和」であります。
日本人は、古くから國名を「わ」と呼び、「倭」文字を嫌い「和」の字をあてました。国の中心となる「やまと(山門)」には、「大和」の字をあてました。 いかに日本人が「和」を重視してきたかがおわかりいただけると思います。
聖徳太子は、「和」を十七条憲法に明文化し、國家臣民の理念として確立あそばされました。それを受けて、先人は「和」の精神を発展させてきました。 「和」を実現するには、畏くも天皇陛下が仁を行い、臣民が忠を行い、各家庭で孝を行うことが絶対条件なのです。十七条憲法、五箇条のご誓文、教育勅語の間には、千年の時を超えて貫かれているものがある。そこに表われているのが、日本人の精神、やまと魂なのです。 天皇(すめらぎ)彌榮(いやさか) |
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天孫降臨の地、神武天皇生誕の地として神々を尊ぶ、神話のふるさと日向の国(宮崎)。
海幸彦・山幸彦伝説が息づく、海・山・里が融合した神話のふるさと日南市。
筆者が子供の頃に覚えた神話の一つが海幸彦・山幸彦(うみさちひこ・やまさちひこ)神話でした。
神話によると、兄の海幸彦は海で魚を獲り、弟の山幸彦は山で狩りをして暮らしていましたが、ある日、互いの道具を交換し、山幸彦が海幸彦の釣り針をなくします。兄に責められ、釣り針を探す山幸彦は、潮の神シオツチに導かれて海の神ワタツミの宮に着き、トヨタマヒメと結婚して釣り針を持って帰りましたが、海幸彦と争いになります。山幸彦に攻められた海幸彦は磐船(いわふね)に乗り、満ち潮に乗って波間を漂い、日南市北郷町の宿野あたりに流れ着きました。
そして山幸彦に従うことを誓い、この地を立派に治めます。海幸彦を主祭神とする潮嶽(うしおだけ)神社では、今でも漁師がマグロを、猟師が猪の頭を奉納します。敗者とされる海幸彦を山で祀り、山の民が守る。そのおおらかで温かな心が、海・山・里が融合する神々の里を守ってきたのです。 『日本の神話』は、子孫たちへの"幸せへの道しるべ"として、古代ご先祖が情愛をこめて伝承してくれた宝物です。次は私たちが子供たちに伝えるべき使命があると考えます。
「日本神話の正しい心」がよみがえるとき、自分への自信と祖国への誇りが湧いてきて、わが国は本来の明るさを取り戻すと筆者は願ってやみません。
民族のアイデンティティである、神話を学び、お国柄を知り、祖国に誇りを持つことこそ、神話を今日まで語り継いできた先人・先祖のこころを知り、継承することではないでしょうか? 神話にこそ、「お国柄」があり、先人先祖の息吹、日本の息吹が感じられるのです。
美し国、日本がそこにあるのです。 天皇(すめらぎ)彌榮(いやさか) |
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天孫降臨の地、神武天皇生誕の地として神々を尊ぶ、神話のふるさと日向の国(宮崎)。
霊峰・高千穂峰の麓に広がる高原町は、日本神話の天孫降臨ゆかりの地日本はじまりの地として知られます。 神話によると、皇祖天照大神は天孫による地上支配を確立するため、孫のニニギノミコトを地上につかわされました。このニニギノミコトが降り立った場所(日本発祥の地)が、「筑紫の日向の高千穂のくじふる峰(古事記より)」とされ、高原町の高千穂峰ではないかと言われています。
高原町は、ニニギノミコトの子孫で初代天皇の神武天皇が生まれ育った地でもあり、神武天皇を祀る「狭野(さの)神社」(狭野は、「狭野尊」という神武天皇の幼少名に由来)、産湯を使われた跡という「産場石(うべし)」など、伝承の地が数多く残ります。また、高原町には狭野神楽と祓川(はらいがわ)神楽の二つの神楽が伝わり、真剣や長刀を使った独特の勇壮な舞が神々に捧げられてきました。 神楽を次の世代へ継承する人々の姿は、神を尊び、相手をおもんぱかる日本人の美徳を守ろうとする、"日本はじまりの地"の使命感と誇りを感じさせます。 わが国は世界で唯一、神話の時代から連綿と続く皇統を戴いている国家です。他国にも神話から続く王朝を戴く例がいくつかありましたが、今ではすべて途絶えています。日本の皇統とは、まさに日本民族の「連続性の象徴」であり、日本人は歴史の連続性を基に独特の精神性を有するに至った民族なのです。日本がただ一つの国家だけで固有の文明を形成しているゆえんは、その連続性にこそあるといえるのです。
私たち日本人は「和をもって貴しとなす」という概念をあたかも空気のごとく当たり前のこととして実感していますが、その背景には他国のように歴史が断絶していなかったことによる民族の一体感があることも忘れてはなりません。
隣国、シナのように歴史は古くともそれぞれの王朝の成り立ちは異なり、連続性もありません。
平成22年に亡くなられた、「日本の神話」伝承館』館長、『「日本神話の心」伝承の会』会長、日本会議代表委員であった出雲井 晶先生は、「日本の神話」伝承の会の設立にあたり、に次のように述べられています。
最近の日本を見回しますと、さまざまな面で危機的状況を感じないではおられません。こうした病める日本を立て直す鍵こそ『日本神話の心』ではないでしょうか。日本人みんなの遠いご先祖が、大宇宙の法則に則って発見し、伝承してくれた『日本神話の心』。これを皆が正しく知り、自分のいのちと日本の国の素晴らしさに覚醒する以外に、日本が立ち直る道はないと存じます。
「日本神話の正しい心」がよみがえるとき、自分への自信と祖国への誇りが湧いてきて、わが国は本来の明るさを取り戻すでしょう。子供たちは、さわやかな希望に胸をふくらませて向上していくことでしょう。 『日本の神話』は、子孫たちへの"幸せへの道しるべ"として、古代ご先祖が情愛をこめて伝承してくれた宝物です。次は私たちが子供たちに伝えるべき使命があると考えます。 引用ここまで。
筆者は最近思うのです。
日本神話をよく熟知されている世代よりも、戦後教育の影響で日本神話を知らない世代が人口の大勢を占める今日の日本。
民族のアイデンティティをなくすとその民族は滅びるしかありません。 世界的な歴史学者として知られるアーノルド・トインビーは、「12、3歳までに自分たちの国の神話を教えない民族は100年以内に必ず滅ぶ」と指摘しました。日本と日本人の素晴らしさを自覚し誇りをもった国民が少しづつですが、目覚めています。民族のアイデンティティである、神話を学び、お国柄を知り、祖国に誇りを持つことこそ、神話を今日まで語り継いできた先人・先祖のこころを知り、継承することではないでしょうか? 神話にこそ、「お国柄」があり、先人先祖の息吹が感じられるのです。
美し国、日本がそこにあるのです。 天皇(すめらぎ)彌榮(いやさか)
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美し国、四季のある国、日本。
桜が咲くこと、雨が降ること、紅葉が散ること、そして雪が降ること。 我々日本人は、その美しい自然の変化を、つい百年前まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。 私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵がありました。それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり愛したのです。 古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものをみつけだすことと似ています。 ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。 その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢える誇りとよころびを共にしていきたいと筆者は願ってやまないのです。 動画にある大寒(だいかん)とは、新暦1月21日〜2月3日頃寒さが最も厳しくなる頃 を言います。
往古の昔より、京の底冷えは広く知られています。
〜大寒の自然〜
筆者がかって過ごした京都は、三方を山に囲まれた盆地で、冬になると放射冷却が起こり、厳しく冷え込みます。
この「京の底冷え」は、肥沃な土壌や美しい水とともに、都の豊かな味を生み出してきました。京都を代表する漬物の一つ「千枚漬け」は、寒さで引き締まった京野菜の「かぶら」が使われ、底冷えが始まる頃から漬けると甘味が増します。
銘酒として名高い伏見の酒は、「伏水」と呼ばれる名水と、「寒造り」(低温でゆっくり発酵させて、旨味成分を残す日本の酒造り)に最適な底冷えによって生み出されたといわれます。
節分おばけ 〜大寒の暮らし〜
季節の分かれ目は「節分」と呼ばれ、昔から邪気が入りやすいといわれます。
立春前日の節分は、冬から春への分かれ目。豆をまいたり、鰯と柊を門につるして、災いの象徴である鬼を払います。京都では、「節分おばけ」という独特の風習も伝えられてきました。女性が男装をしたり、子供が化粧をしたり、舞妓が老婆に扮するなど、いつもと違う格好に変装し、鬼を化かして追い払う慣わしです。怖い鬼退治も、楽しみに変えた先人たち。
筆者が暮らした京都壬生(みぶ)の地に伝わる壬生狂言もその一つです。
節分は、どんな時も明るく人生を切り拓いていた人々の豊かな知恵や感性が生み出した風習の一つです。
700年もの伝統を持つ「壬生狂言」は、鎌倉時代に円覚上人が仏教を分かりやすく広めるために、10万人の聴衆に対し、身振り手振りで踊ったのが始まりとされています。
念仏狂言が無言劇化した理由については、本来、大衆が念仏をする前で行なわれたものであったために、台詞を発しても念仏の声にかき消されて伝わらないので無言になったとする説もあり、同じ念仏狂言でも、千本閻魔堂のものは、台詞入りで行なわれている。
江戸時代になると、布教活動としての色彩が薄れ、大衆娯楽として発展した。能や狂言、物語に取材し、新しい演目が考案されました。 わが国では珍しい無言劇で、重要無形民俗文化財に指定されています。
笑いと感動に溢れ、歓声と拍手に包まれた、老若男女誰でもが楽しめます。 我々の祖先が長い歴史、時の流れの中で培った感性、美しい日本がここにも生きています。
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