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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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美し国、四季のある国、日本。
桜が咲くこと、雨が降ること、紅葉が散ること、そして雪が降ること。

我々日本人は、その美しい自然の変化を、つい百年前まで、二十四の季節に分けて見つめてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵がありまし­た。それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり愛でてきました。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいと思います。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころびを共にしていきたいものです。

現在、小寒(しょうかん)は新暦1月6日〜20日頃、寒さが最も厳しくなる前の時期 を言います。

寒修行 〜小寒の自然〜
小寒は「寒の入り」と呼ばれ、この日から節分までの三十日間(寒の内)は、一年で最も­寒さが厳しい頃といわれます。
昔から人々は、この時期に、寒稽古や寒中水泳などの耐寒行事を行ってきました。自らを­極限状態まで追い込み、心身を鍛練すれば、迷いや煩悩から解放され、前途が開けると考­えられていたのです。
京都の聖護院では、学僧の修行を目的に「寒中托鉢」が行われます。山伏たちが法螺貝を­吹きながら家々をまわり、家内安全や無病息災を祈る慣わしで、京都の冬の風物詩にもな­っています。

七草粥 〜小寒の暮らし〜
古来より日本には、年の初めに若菜を摘む「若菜摘み」の慣わしがありました。
凍てつく大地から芽生える若菜には神の力が宿っていて、これを食せば、厳しい冬も無病­息災で過ごせると信じられていたのです。やがて、若菜を食べて立身出世を願う中国の風­習と結びつき、正月七日の朝に「春の七草」(せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほと­けのざ、すずな、すずしろ)を入れた「七草粥」を食べる風習が生まれました。
七草粥は、青菜が不足する冬場の重要な栄養補給であり、正月のご馳走で疲れた胃腸を整­える効用もありました。
我々の祖先が長い歴史、時の流れの中で培った感性、美しい日本がここにも生きています。


日本の息吹「家族」

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家庭には家族がいます。家族とは、親子、夫婦、兄弟等、人間としての最も基本的な結びつきです。親がいて、自分がこの世に生まれて、生かされています。自分に続いて、子供や孫がいて、また親から祖先にもつながっている。家族は、生命で結びついているのです。
家庭とは、人がそこで生まれ、育ち、死ぬところでもあり、また日々、生活する場所であり、安らぎの場所でもあり、人間形成の大切な場所でもあります。東日本大震災後、一番大切なものは、家族だと再認識されたことと思います。そうです、家族は、心で結ばれているのです。
家族の絆はかけがえのないものであり、人間関係の基礎である。家庭が崩壊し、家族がバラバラになると、人々の心が荒廃し、社会は混乱し、国は伝統や文化を失うのです。
日本の家族は多くの危機を抱えています。この危機は、戦後のわが国の歩みの結果です。
戦後日本は、敗戦から経済復興を進め、次に高度経済成長を成し遂げ世界第2位の経済大国になりました。
日本国憲法のもとでの近代化・産業化・都市化の過程を図り、その過程で、多くの国民は個人主義的となり、人々は個人の自由を追い求め、またその一方、国民は経済中心の考え方となり、人々はお金や物を中心とする価値観を持つにいたったのです。
この風潮が家庭の中にも深く浸透しており、家庭においても、家族全体のことより個人個人の自由が、いのちや心よりお金や物が、重んじられ、家族を大切にする価値観が見失われ、家族が家庭外の論理に押しまくられまさに、崩壊寸前なのが平成日本の家族なのです。

人間の子供は生まれたばかりの時は、自分ではほとんど何もできません。非常に未熟な状態で生まれ、成熟するまで誕生後数年もかかります。これを、ネオテニー(幼形成熟)といいます。ネオテニーは生物学上、人類最大の特徴ともいわれる。
人間は、脳が発達して頭が大きくなった。未熟なうちに産まないと、子供の頭が産道を通らない。そこで未熟な状態で産むようになったと考えられている。
こうした子供を育てるため、母親は出産後、数年子供にかかりきりとなります。自分のことを自分で出来ない子供と、それを連れた母親。自然界で生存していくには、きわめて弱い存在でした。その弱い母子を守り支える役割を担う者が、父親です。父親が母子とともに生活し、守り、面倒を見ることによって、子供をネオテニーの状態で産んで安全に育てることが可能になった。この仕組みを、家族というのです。
父・母・子からなる家族が成立したことによって、人類は生存と繁栄が可能になった。複数の家族が集団で狩猟採集を行い、また定住して農耕を行う。複数家族の共同生活が、文明の発達を可能にした。家族あっての人類である。家族がなければ、人類はなくなるのです。
家族はこのように大切なものだが、わが国の家族は急速に変化している。大きな問題の一つが高齢化です。
わが国は、世界最速で高齢化が進んでいる。平成25年9月15日の総務省の発表によると、65歳以上の高齢者は3186万人、4人に1人が高齢者となった。世界で最も高齢化率(人口に占める65歳以上の割合)が高い。国立社会保障・人口問題研究所は平成47(2035)年には3人に1人の割合となると予想されています。
高齢化は、少子化・人口減少と同時に進行しています。我々日本人は皆、こうした日本の社会の大きな変化の流れの中にあるのです。
高齢化に対応するため老人介護の社会化が進められていますが、その一方、福祉政策や年金制度のあり方が問題になっています。また高齢者を狙った振り込め詐欺を始めとする特殊詐欺が増加し、警察庁の発表によると、振り込め詐欺だけで、25年上半期の被害総額が約109億円。警察官、銀行員、弁護士等になりすます悪質なものが多い。
その一方、生活困窮・孤独による高齢者の犯罪が増え、東京都内では24年にあった万引きで、65歳以上の高齢者の摘発数が19歳以下の少年を上回った。犯罪に手を染める高齢者の60〜80%が一人暮らしだという。
これらの犯罪傾向から浮かび上がってくるのは、家族関係の希薄化、家族が本来持っていた働きの低下を意味します。

もともと日本人は、親は子愛情持って育て、子は親を大切にしてきた。
かってわが国を戦前に訪れた諸外国の著名人は多くの著書に日本の家族の素晴らしさを賞賛しています。
夫婦は互いに助け合い、一体となって円満な家庭を作るように努め、そして、子孫の繁栄を願い、また先祖を敬ってきた。高齢化社会で、こういう日本人の生き方がますます大切になっているのです。
親は子供愛情もって育て、子供は親を大切にするのが人間本来の姿。自分を育んでくれた親に感謝し、親を敬い大切にすることは、人間として非常に重要なこと。親に恩を感じ、これに報いる行いを、孝という。親孝行ともいう。孔子・孟子など東洋の聖賢の説く道徳では「孝は徳の始め」といわれてきた。そして、親に対する孝は、人間の人間たる道徳の基本ともされてきた。動物も愛情深く、子育てをする。しかし、年老いた親の面倒を見ている犬や猫は居ない。親孝行こそ、人間が動物より優れたところである。
これとともに大切なのが、夫婦の和である。家族は、男女の出会いによってつくられる。男女は身体的特徴からして違う。男女が互いの特徴を認め合い、それぞれの特長を生かし、欠点を補い合っていくことが大切。それぞれ役目があり、夫婦が調和することで、幸福な家庭が築かれる。
人間は、自然と調和し、自然の法則にそってゆかなければ、不幸や災難を招き、ひいては滅亡してしまう。男女・夫婦のあり方についても、なによりも自然の法則に基づいて考える必要がある。男女・父母の特長を生かし、調和のある家庭を築くことが、必要なのである。
親子、夫婦が調和した家庭を築くことのできている人は、自分の親が老い、弱った時、自分を含めて家族が協力して支えていける。逆の場合、自分自身が老い、弱った時に、さみしく、つらい思いをする。だが、親子関係が希薄になっていたり、ほぼ断絶に近い状態なっている家庭が少なくなく、シルバー離婚が増えています。定年になった男性が、突然妻に離婚話を持ち出される。もらえる年金の時期、金額等を計算していたりする。晩年は、その人の人生の総決算となる。因果応報、善因善果、悪因悪果、行いはわが身に返ってくる。これからの日々の生き方が大切です。

弁護士、法学者でもあり、秀明大学教授を勤められ、平成20年に亡くなった佐藤欣子氏は、次のように述べています。「戦後のわが国の家族の基本原則は個人の尊厳と両性の平等だけである(憲法第24条)。しかし、それは結局のところ、エゴイズムや相手を自分の欲望充足の手段視する孤独で殺伐たる人間関係をもたらした。日本の家族は一家の中心を失い、共通の信仰や理想を失い、祖先と子孫に対する責任も日本文化の伝承の役割も放棄したのである。そしてこれは日本人の人を愛する能力を大幅に破壊した。結婚を避け、子どもを生まず高齢者を嫌悪するなどはその結果に過ぎない」と酷評されています。

大正11年11月、20世紀を代表する科学者・アインシュタインが来日した。その時、アインシュタインは、日本の家族主義の伝統に感銘をうけたと述べています。
 「日本の家族制度ほど尊いものはない。欧米の教育は個人が生存競争に勝つためのもので極端な個人主義となり、あたり構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみとなった。家族の絆はゆるみ、芸術や道徳の深さは生活から離れている。激しい生存競争によって共存への安らぎは奪われ、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独にしている。
日本は個人主義はごく僅かで、法律保護は薄いが、世代にわたる家族の絆は固く、互いの助け合いによって、人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。この尊い日本の精神が地球上に残されていたことを神に感謝する」と・・・
欧米の方々によるこうした見方は、多くの日本人にとって意外な感じがするでしょうが、これらは戦後教育による洗脳が大きいのです。戦前までの日本は封建的であり、個人、または女性が「家」に縛り付けられ、自由が抑圧されていた、人権が保障されていなかった、その主たる原因は家父長制・男尊女卑の家制度にある、伝統的な家族制度を破壊したことによって、戦後の自由で平等な社会が実現した、こう考えている人が多く、現在もこうした教育が為されているからです。
確かに、そういう面はごく一部にあったかもしれません。しかし、戦前までの日本のあり方が、すべて悪かったわけではありません。何もかも悪かったのであれば、上に引用したような欧米の方々の見方はありえません。彼らは、「子育ては日本の最大の美徳」「親子の愛情の交流こそが、日本人の特質」「世代にわたる家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている」と言っている。そこに、戦後の日本では失われつつある、本来の日本の家族の美点があったと考えられる。
伝統的な日本の家族制度は、西洋式の夫婦中心で一世一代の単婚家族と異なり、親子関係を中心に世代間のつながりを重視してきました。各家族では、子供の一人(多くは長子)に跡を継がせ、家を子孫へ持続させてゆく。子や孫が親や祖父母と一緒に暮らす。三世代、四世代の大家族が共同生活を行う。そして、祖先と自分たちの生命とは切り離せないものと感じ、自分たちの世代の幸福を望むだけでなく、祖先の慰霊し、子孫の繁栄を願ってきた。このように、日本の伝統的な家族では、世代の連続性という縦の関係を重んじていたのです。
日本の家族は、横のつながりも強く持っていた。親子だけでなく、夫婦の結びつきも強く、また、親族による血縁的な同族意識が強く、それを基盤とした地縁的な村落共同体の結束も固い。そして、社会を、家族的な共同体と考えていたのです。国家をも、一大家族と意識し、自己の家族と民族とが、家族的な原理で一貫していると考えたのです。
こうした日本の家族の本来の姿を理解するには、西洋の家族との基本的な文化の違いを知る必要がある。西洋の家族といっても、古代のギリシャ・ローマと、近代ヨーロッパでは、民族も言語も文化も違います。古代ギリシャ・ローマでは、もともと多神教であり、祖先祭祀が行われていたのです。人々は祖先の霊魂を祀(まつ)り、その信仰の上に家族制度を築いていた。彼らの家族は、祖先祭祀を重視する点で、日本の家族と共通点を持っていました。しかし、ローマ帝国に入ったキリスト教は、こうした伝統を排斥したのです。キリスト教は、一神教であり、神と各個人が直接結びつく。また、自然の事物に霊を認めるアニミズム的な世界観を否定します。キリスト教がゲルマン民族にも広がった結果、西洋では古来の信仰と制度が跡を絶ったのです。祖先祭祀は偶像崇拝として排除され、また、自然との生命的・霊的なつながりは断絶したのです。
、日本は古代から今日まで、祖先祭祀の国である。人間の自然の愛情は血縁の愛情である。日本では共通の祖先の霊を崇拝することにより、血族が団結しています。日本のお国柄は、多数の家族が皇室を中心に結び合って、一つの国家を形成し、それが祖先や神に通じているというものでした。国民は祖先の霊を氏神として祀り、天皇は天照大神を祖先神として祀ってきました。国民と皇室は共通の祖先を持ち、「君民同祖」と信じられてきたのです。また、人間と自然の事物も、神々から産まれたものと考え、人間と自然が共通の根源において結びついていると信じてきたのです。自分と祖先が連続し、国民と皇室が連続し、さらに人間と自然が連続している。そして、人と人との調和、人と自然との調和を大切にし、親子一体、夫婦一体、祖孫一体、また国家と国民が一体の生き方をするのが、日本の伝統的な精神だったのです。
 しかしながら、今日では、こうした日本の特徴が失われつつある。個人の自由や権利が強調され、その個人が本来持っている縦と横のつながりを軽視する傾向が強まり、家族を大切にするという場合でも、自分たち夫婦と子供を中心とした核家族の範囲が主です。親との同居を避け、親もまた子どもから独立して生活する。親が病弱となっても、同居して面倒を見るのでなく、病院へ入れる。介護が必要となっても、家庭で世話をするより、老人ホームに入れるという風潮になっています。親戚づきあいも薄く、居住地の移動が多くなり、出身地の違う夫婦が多くなっていることもあり、血縁的であると同時に地縁的でもあった親族のつながりは、薄れつつあるのです。親の面倒をあまり見ないし、親族のつながりも薄いから、祖先について考えることが少なくなっているのが現状です。当然、祖先を尊ぶ心は薄れつつあり、それは、生命の本質に根差した、愛情豊かな生き方が、忘れられていることでもあるのです。

我々日本人、日本の家族は原点回帰を今求められています。
「日本の息吹、家族」を取戻すためにも・・・









道を究めた師の教えは、人を導き、志を育て、国を変える力となりました。


幕末から明治にかけ、多くの人々に影響を与えた儒学者・佐藤一斎の教え

江戸時代、岩村城(「日本三大山城」の一つ)を藩庁として栄えた岩村藩は、藩士の育成­に力を注ぎ、日本を代表する儒学者・佐藤一斎を輩出しました。
一斎は藩の家臣として仕えた後、江戸幕府直轄の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」の­総長となります。
門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷佐久間象山渡辺崋山横井小楠等、いずれも幕末に活躍した人材、幕末志士らの姿もありました。西­郷隆盛も愛読したといわれる一斎の『言志四録』の中には、今もこの地の子どもたちに伝­えられている教えがあります。「少にして学べば、則(すなわ)ち壮(そう)にして為す­有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽(く)ちず。(若いうちに学べば大人になった時に何事か成­すことができ、大人になって学べば老いても気力が衰えず、老いてから学べば社会の役に­立ち、死んでも名が語り継がれる)」(言志晩録60条)。



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(言志四録:「言志録」、「言志後録」、「言志晩録」、「言志耋録」)




佐藤一斎ゆかりの人物として、一斎の孫娘・士子(ことこ)が養母である、戦後の政治家、吉田茂がいます。
幕末に日本の夜明けを切り拓いた一斎の教えは、今もこの国の未来を見守り続けているのです。




十津川村は、北方領土である留別村・紗那村・留夜別村・蘂取村に次いで日本で5番目に大きな面積を持つ村であり、特にわが国が実効支配している地域では最大面積の村として知られています。十津川村には、旅人を受け入れ、再生させる懐の深さがあります。

雄大な自然に囲まれた、都の秘境

奈良県最南端、紀伊半島のほぼ中央に位置する十津川村は、古来、都から遠く離れた陸の孤島であり、雄大な自然に囲まれた秘境でも­ありました。現在も、鉄道や高速道路は通っておらず、村へ入るには、村外の最寄駅から­車やバスで2時間ほどかかります。
山間の農耕に適さぬ地形のため、古来免租の集落としてその時々の権力者の支配を受けずに半ば独立した村落共同体として存在し続けた。免租の特権を保証してくれる実力者側に常に出兵し、古くは壬申の乱以来幕末までこの政策は変わらなかったが、明治維新後ついに免租特権が廃止された。また、建武の新政の際には楠木正勝がここを拠点とし、以来尊王の姿勢を明治維新まで貫いた。周囲とは隔絶した地域であったため独特の文化・気風があり、十津川郷士を輩出したことでも知られています。
北海道の新十津川町は、明治22年8月に十津川村を襲った豪雨を機に村民が集団移住、開拓した町。十津川村と新十津川町は同じ村(町)章を用いている。新十津川町は十津川村を「母村」と呼び、23年の台風12号で十津川村が被災した際には町で緊急支援対策会議を開いて義援金や職員の派遣などの支援活動を行いました。

地理的には閉ざされた場所というイメージのある十津川村ですが、日本の歴史の数々の場­面でその名を馳せてきました。神武天皇東征の際に道案内に立った八咫烏の伝説をはじめ­、壬申の乱、保元の乱、大坂の陣、幕末の動乱にも登場しています。雄大な自然の中で、­慎ましく、誇り高く、つながりを大切に生きてきた人々は、いつの時代も旅人をあたたか­く受け入れてきました。日本一懐の深い村なのかもしれません。






雪深い陸の孤島には、互いを助け、共に生きるこころのカタチが息づいています。そこに先人・先祖が紡いできた英知と息吹が感じることができます。


共同作業によって守られてきた、世界に誇る伝統建築と暮らし

日本有数の豪雪地として知られる白川郷は、今日のようにインフラが整備される以前、かつて冬になると交通が遮断され、「陸の孤­島」と呼ばれました。

大東亜戦争後、電源開発の影響、産業の衰退、人口の都市部への流出などもあって、多くの家屋が廃屋となりました。庄川流域にはいくつものダムが建造されたが、特に日本最大級のロックフィルダムである電源開発の御母衣ダム(昭和36年完成)の建設時には、白川郷の4集落が水没しました。ほぼ同じ時期(昭和38年)に大豪雪によって集落が半年も孤立した状況も外部への人口流出を促進したとされ、高度経済成長期を通じて消滅した集落は17に及び、合掌造り家屋は昭和20年の300棟からほぼ半減しました。同時に、相次ぐダム建設や高速道路建設などの公共事業の存在は、第一次産業人口の減少と相俟って、残された地域の産業構造を変化させたとも指摘されている。御母衣湖沿いの国道156号には荘川桜が移植されて観光スポットをなっている。
しかし、それと並行して、伝統的な家屋形式をこれ以上失ってはいけないと、近隣住民を中心に文化遺産保存の機運が高まることになる。五箇山では昭和33年に3つの民家(村上家住宅、羽馬家住宅、岩瀬家住宅)が国の重要文化財に指定され、昭和45年には相倉集落と菅沼集落が国の史跡となった
白川郷でも住民たちから集落を守ろうとする動きが起こり、昭和46年には「荻町集落の自然環境を守る会」が発足し、野外博物館「白川郷合掌村」も生まれた(のちに幾度もの移築・新築や改称を経て「白川郷野外博物館合掌造り民家園」となる)。そして、昭和50年の文化財保護法改正で伝統的な集落や街並み(伝統的建造物群)も保護対象になったことを踏まえ、翌年に荻町集落重要伝統的建造物群保存地区選定に漕ぎ着けた。「荻町集落の自然環境を守る会」では、合掌造り家屋について「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を掲げ、保存活動を行っています。

今日、多くの観光客を魅了する合掌造りの伝統建築には、この地の人々の生きる知恵が息づいて­います。農地が乏しく、農業以外の仕事から糧を得なければならなかった人々は、広い屋­内空間のとれる合掌造りの民家を建て、そこに大家族が集まって養蚕や硝煙作りを行いま­した。高く広い屋根裏を何層にも仕切って設けた作業場は、養蚕に適した湿度に自然と調­節されます。2階から上の床には穴を開け、1階の囲炉裏の煙を通し、燻すことで茅葺屋­根を害虫から守りました。数百人の人手が必要な屋根の葺き替えは、村人の共同作業で行­われます。
相互扶助の精神が息づく「結(ゆい)」と呼ばれるこの制度が建築様式とともに高く評価­され、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」は平成7年、世界遺産に登録されました。

近代化、核家族化と引き換えに、大切なものを失い、忘れ去った今日の日本人。筆者には合掌造り集落が今日の日本人に警鐘を鳴らしているように思えてなりません。
美(うま)し国 日本を・・・



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