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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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ふるさとの芝居には、義務や理屈を超えた無垢の心が宿り、先人・先祖の息吹が感じられます。
そしてそれらはそのまま日本の息吹でもあるのです。


江戸時代より村の人々によって受け継がれてきた東濃地方の地歌舞伎

プロの役者が演じる歌舞伎に対し、土地の素人役者が演じる芝居は「地歌舞伎」と呼ばれ­ます。
全国屈指の地歌舞伎が盛んな土地として知られる東濃(とうのう)地方(岐阜県南東部)­は、江戸時代、中山道や南北街道など主要な街道の交差点で、江戸や都の芸能文化が行き­来したことから、地歌舞伎が根付いたと考えられています。
やがて人々は観るだけでは飽き足らず、役者に芝居を習って自ら舞台に立つようになりま­した。その熱狂ぶりを警戒した幕府から禁止令を出されても、人々は芝居を止めなかった­といわれます。かつて東濃を中心に、60棟以上の芝居小屋が地元の木材を使って建てら­れました。現存する7棟の中には、直径5.5メートルの回り舞台を備えた明治座のよう­な歴史的に貴重な建物も残っています。
人々は衣装や道具も手作りし、自腹を切って舞台に立ってきました。大枚をはたいても、­師匠に叱られても、それでもやめられない地歌舞伎――義務や理屈を超えた無垢な心が、­300年の伝統を支え続けてきたのです。




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治座での襲名披露、中村勘三郎の名跡を十八代目として襲名した故中村勘三郎氏。


平成18年、十八代目中村勘三郎氏は明治座にて襲名披露公演を行いました。


〈勘三郎 口上〉
本日は、皆様方の御機嫌麗しい御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ上げ奉ります。(中略)いずれも様方、御贔屓様方のお引き立てに与りまして、ここに、江戸猿技、中村勘三郎の名跡を十八代目として襲名させていただく運びと相成りましてござります。
(中略)わたくしは、御当地明治座は初お目見えでございます。こうした昔ながらの小屋をまわりたいというわたくしの希望をお聞き入れていただきまして、まわらせていただいておりまして、(中略)この劇場はまた、隣がたんぼでございまして(笑)眺めておりましたが、芝居というのは「芝」に「居る」と書きまして、ほんとに「芝居」だなぁと思いまして(笑)地元の方がずっと大切に維持なさって、しかも、こういうすばらしい空間の中で、今でも芝居をやり続けていらっしゃることは本当に嬉しいことでありますし、有り難いことだと思っております。
わたくし、昨日下呂温泉の方に泊まらせていただき、(今朝)出前があまりとれないので(加子母の)サークルKで。(笑)「勘三郎さま、歓迎」と書いてあったので、恥ずかしい。(爆笑)そうやって地元の方とふれあうことはとても大切だと思いますし、また、ここでしかできないような、ここが一番合うような芝居の狂言立てでもございます。(中略)これからご覧に入れます義経千本桜、これは、ほんとうにぴったりです。そしてびっくりしたことがございまして、この、地芝居の方々、先ほど楽屋にみえたんでございますけれど、今年の秋でございますね、ここで鮨屋を出すそうでございます。ライバルでございます(笑)。つたない芸ではありますが、一生懸命務めます。
十八代目中村勘三郎、行く末永くお見捨てなく、御贔屓お引き立てのほど、お願いを申し上げまするしだいにございます。
このあと、片岡市蔵、片岡亀蔵、中村扇雀、坂東弥十郎、坂東新悟、中村七之助と、口上は続きました。

十八代目中村勘三郎氏が亡くなって一年余・・・
古きを知り、伝統芸能をこよなく愛した氏と遺志と東濃の人々の研ぎ澄まされた芸は新たな世代に受け継がれ、連綿と紡がれていく・・・

美し国、日本がここにあります。



筆者の生まれ故郷より車で四十分弱、現在は「天空の城」とブームに沸いているそうですが、かって筆者がよく訪れていたころは訪ねる人も少なく、ひっそりとしていました。
最近は心ない観光客も多く、地元住民とのトラブルもあると聞きます。
何よりも城跡の石垣等の損壊が危惧されています。
節度ある観光を心がけていただきたいものです。


おわら風の盆




[開催地] 富山県 富山市
[会場] 八尾旧町・駅前地区
[日程] 平成25年9月1日(日)〜 9月3日(火)
[開催時間] 15:00〜23:00

筆者が一度は訪れてみたい「まつり」に越中八尾(えっちゅうやつお)のおわら風の盆があります。

初秋の風が吹き始める9月1日から三日三晩、富山市の南西部・八尾町で行われる「おわら風の盆」。哀愁漂う三味線と胡弓の音色、味わい深い唄に合わせ舞う編笠姿の優美な踊り子たちが、坂の町を練り歩きます。地方の民謡とは思えない洗練された祭りは、今も昔も多くの人を魅了してやみません。
この祭りを受け継ぐ八尾の人々は、一年を通じておわらの練習に励み芸を追求しています。おわらが暮らしの一部なのです。
富山はあいにくの雨模様で残念な初日となりました。

おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。
「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。

二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

古来より「豊葦原瑞穂國」と称された我が国は、稲をはじめ穀物が実り豊かに実る国として遠く神話の昔より日の神「天照大御神」を崇め、田の神、山の神、海の神を崇め、「和」を大切にし、自然に感謝し、、自然と共に文化・伝統を育んできました。
 
わが国は神の国と言われています。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしてきました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
「まつり」の語源は、動詞の「まつる」からきています。「まつる」とは、神さまのお出ましを「待つ」、神さまに供物などを「献(たてまつ)る」、神さまに従う「服(まつろ)う」などが考えられ、これを全部合わせると「神さまをお迎えして、神さまに物を捧げて、心から神さまに従う」という大意になります。このように、神さまにお仕えすることがお祭りの本義と言えましょう。

日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。
すべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。
いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか?




参考文献 わら風の盆 公式サイト
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昔の我国には、五つの節句がありました。この節句という行事が、季節の節目の身の汚れを祓う大切なものでした。

人日(じんじつ) → 1月7日「七草がゆ」
上巳(じょうし) → 3月3日「桃の節句」
端午(たんご)  → 5月5日「端午の節句」
七夕(たなばた) → 7月7日「七夕祭り」
重陽(ちょうよう) → 9月9日「菊の節句」

今日、9月9日は菊に無病・長寿を祈る日です。
重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、9月9日のことで、旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれていました。
陰陽思想では、陽(奇数)が重なる日そして、奇数の中でも一番大きな数字という意味で重陽といわれています。日本では奈良時代から宮中や寺院で菊を観賞する宴が行われています
古代中国では、「翁草〔おきなくさ〕」「千代見草〔ちよみくさ〕」「齢草〔よわいくさ〕」と菊は呼ばれ、邪気を祓い長生きする効能があると信じられていました。
日本では、8日の夜に菊に綿をかぶせ、9日に露で湿ったその綿で体を拭いて長寿を祈っていました。また、菊に関する歌合わせや菊を鑑賞する宴が催されていたそうですが、現在は寺社などでの行事として行われています。
平安時代以前は、農山村や庶民の間で秋の田畑の収穫が行われる時期に「栗の節句」とも呼ばれて栗ご飯などで節句を祝いました。
菊の花を浸した「菊酒」を飲み交わし、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)を掛けて邪気を祓う菊花の宴が催されるようになり、また、菊に関する歌合せや、「菊合わせ」という現代で言う菊のコンクールが盛んに行われるようになりました。
現在でも、菊のコンクールや鑑賞を行う慣習は、「菊合わせ」を淵源としています。 
京都の上賀茂神社では、無病息災を祈る重陽の節会が現在でも行われています。
境内細殿前の土俵の左右から、弓矢を手にした二人の刀弥〔とね〕が横とびしながら2つの立砂の前へと現れ、「カーカーカー」「コーコーコー」と烏の鳴きまねをした後、近所の子供が相撲を行う烏相撲〔からすすもう〕や、「菊の被綿〔きせわた〕」の神事がとりおこなわれます。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

日本人は、日本古来よりの伝統・風習を伝承し、お国柄を大事にしたいものです。
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「北野をどり」
 
 
 
 
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「北野をどり」
 
 
 
 
 
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「北野をどり」
 
 
 
 
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「北野をどり」
 
 
 
 
京都の春を告げる恒例行事といえば、花街の“春のをどり”です。
京都最古の花街である西陣・上七軒で開催される「北野をどり」を先頭に、4月には祗園の都をどり、宮川町の京おどり、5月には先斗町の鴨川をどり、と約2カ月間、京都の春は、ひときわ賑わいあでやかな花街の舞台に彩られます。
 
京都に春を告げる花街のをどり、上七軒の「北野をどり」。京都最古の花街である上七軒の歴史と伝統のある昭和27年以降、60回目公演です。
上七軒(かみしちけん)は、京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街です。地元の住民は「かみひちけん」と言います。
室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極めてきました。
舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流。茶道は西方尼寺で習っています。
残念ながら、昨日が千秋楽となりましたが、今日は、今年で60回目となるのを記念し、千秋楽の翌日(4月8日)には、お茶屋や飲食店を営む元芸妓らが出演する「さかさま会」も行われています。
 
 
 
 
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「都をどり」大ざらえ
 
 
 
 
 
 
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「都をどり」大ざらえ
 
 
 
 
 
 
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「都をどり」大ざらえ
 
 
 
第140回 都をどり
4月1日(日)〜30日(月・祝) 祇園甲部歌舞練場(京都・祗園)
開演=12:30、14:00、15:30、16:50
料金=茶券付特等観覧券 4,500円 壱等観覧券4,000円 弐等観覧券2,000円
問い合わせ=075-541-3391(祇園甲部歌舞練場)
 
 
「都をどりはヨーイヤサー」の掛け声を合図に、宝船をあしらった青い着物姿の舞妓たちが、花団扇を手に登場します。画像は総仕上げの大ざらえの画像ですが、3月31日本番さながらの華麗な舞を披露しました。
祇園は、寛永年間に祇園社(八坂神社)の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりで、京都所司代板倉重宗によって茶立ち女を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通りと大和通りにも茶屋が開かれるようになり、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町・宮川町で、「祇園外六町」と称した。享保17年、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町の「祇園内六町」が開かれ、さらに繁栄した。この際に、団子をモチーフにした紋章が作られました。この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われています。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上がいました。
「都をどり」は祇園甲部(ぎおんこうぶ)の行事となっています。
東京奠都によって繁栄に陰りが差した祇園を立て直すために明治5年に一力亭の九代目当主杉浦治郎右衛門は大参事槇村正直や初代京都府知事長谷信篤の協力を得ながら「祇園甲部歌舞会」を設立し、芸による職業女性としての自立と地位向上をめざした。また、京都博覧会の付け博覧会として都をどりを企画し創設しました。第一回の都をどりの振り付けを担当したのが三世井上八千代であり、これ以降の祇園甲部の舞いは井上流に限るとする取り決めがなされ、現在まで祇園の舞は井上流一筋となっています。
 
 
 
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 四世井上八千代(片山愛子) 氏
 
 
氏は、幼少の頃京舞井上流の道に入り、永年にわたり能の振りを取り入れた本行舞を伝承されるとともに、振り付けの面においても才能を発揮され、その手になる曲数は、およそ百曲を数え、井上流独自の風格を高め、京舞の幽艶さを深められた。
また、京舞井上流の四世家元として、後進の指導及び育成にも力を注がれ、多くの名手を養成されるとともに、京舞の重要無形文化財保持者(人間国宝)
として、我が国舞踏界の第一人者としての位置にあり、京舞の普及及び発展を通じて文化の向上に大きく寄与された。(京都市名誉市民)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「京おどり」 衣装合せ
 
 
 
 
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「京おどり」 衣装合せ
 
 
 
 
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「京おどり」 衣装合せ
 
 
 
 
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「京おどり」 衣装合せ
 
 
 
 
第63回 京おどり
4月7日(土)〜22日(日) 宮川町歌舞練場(京都・宮川町)
開演=12:30、14:30、16:30
料金=入場料(お茶席券付)4,500円 入場料4,000円、お茶券500円、プログラム500円
問い合わせ=075-561-1151(宮川町歌舞練場)
 
 
京都五花街の一つである宮川町は大和大路、五条、川端、四条の通に囲まれた町です。
 
十六世紀後半、豊臣秀吉が方広寺・伏見城を築いた事により、大和大路はにわかに
人の往来が増え、その街道沿いに町並みが出来ました。
現在の宮川町地区は、当時広大な鴨川の河原であったとみられ、町名の由来は「四
条河原祇園杜の前にあるにより宮川という」とも「宮河というには、鴨川四条より
南の別号なり」等と諸説が有る。四条通りの鴨川南は、ここで毎年、祇園杜のミコ
シ洗いが行われているので宮川と呼ばれ、この川筋に出来たのが宮川町である。
今日でも、「宮川筋○丁目」と呼ばれているのは、河原に発展した「筋・通路」で
あったためである。寛文六年に宮川町通り開通し、寛文十年に鴨川護岸の石積みが
完成し急速に宮川町の町並みが整い、当時の歌舞伎の流行とあいまって、茶屋町と
して発展していった。宮川町に水茶屋が建ち、渡世を許されたのは寛延四年の事で
あった。当時、数多く立ち並んでいた芝居小屋が、度重なる火災により焼失したの
が原因であったといわれる。
 
歌舞伎踊りは、天正三年に出雲の阿国が織田信長に許しを受け、北野の杜で演じたのが始まりと云われている。後の慶長八年頃、阿国の娘二代目阿国が宮川河原で、「ややこ踊り」と云われる歌舞伎を興業して人気を呼び、様々な見世物小屋が建ち始め評判を呼び一大歓楽場と成りました。その後、若衆歌舞伎が始まり、それに出演する若衆の宿が宮川町に軒を並べました。男だけの芝居であった為、当然女形を演じる若衆が必要で、当時の美少年が選ばれました。
これらの人々が舞台に精励する事と成り、現在の女形役者へと発展したのです。
今日の歌舞伎役者に、それぞれ屋号が有りますが、それは当時若衆達が出入りをしていた、宮川町の宿の屋号であったと云われています。
船橋聖一 著「聖一風流抄」によれば「宮川町が歌舞伎の名優を数多くうみ育てた
原点である」と記しており、現在の歌舞伎の淵源が宮川町と言っても過言ではないでしょう。現在の舞いは若柳流。
 
 
 
 
 
 
 
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「鴨川をどり」 平成23年
 
 
 
 
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「鴨川をどり」 平成23年
 
 
 
 
第175回 鴨川をどり
5月1日(火)〜24日(木) 先斗町歌舞練場(京都・先斗町)
開演=12:30、14:20、16:10
料金=茶券付特別席 4,500円 特別席4,000円、普通席2,000円、お茶席券600円
問い合わせ=075-221-2025(先斗町歌舞練場)

先斗町(ぽんとちょう)は鴨川の護岸工事が寛文10年に完成し、新堤が出来上がると、急速に新しい町並みが形成されて行きました。眺望絶佳の三条橋畔・四条街路は特に早く開け、憩いの場・交流の地として評判が定着、都人のみならず、諸国の旅人も足を止めるようになりました。これが先斗町の起源といわれています。
三条と四条、鴨川と高瀬川に囲まれたこの狭斜の地が、先斗町と名づけられた由来は、明確にされていませんが、元禄15年(1702)刊『万宝節用集町名鑑』にはぽんと町と記されており、一説によると、織田信長時代ポルトガルの教会が、この辺りにあって、ポルトガル語のポント(先端)・ポントス(橋)によると言う説もあります。
正徳2年(1712年)この地に生洲株が許され、更に、茶屋株・旅籠屋株が許可、茶立女が置かれるようになり幾多の変遷の後、今日に至っています。明治5年創演の鴨川をどりや、水明会等、現在も誇りを持って、伝統を受け継いでおります。
舞踊の流派は明治より以前は篠塚流、その後若柳流を経て現在は尾上流。
 
 
 
 
京のをどりは毎年、京都五花街と呼ばれる「祇園甲部・宮川町・上七軒・先斗町・祇園東」で行われていますが、唯一「祇園東」(藤間流)の「祇園をどり」だけは秋のみの公演となっており、春の開催はありません。
 
 
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筆者は三十数年前、高校卒業と同時に、知人を頼って京都の手描き友禅工房に就職しました。
いわゆる丁稚奉公でした。
工房の主は、昔気質(むかしかたぎ)の大正生まれの気骨な師匠でした。
畏くも今上陛下の妹であられる、清宮貴子内親王殿下(現・島津貴子さま)が臣籍に降嫁された時に、筆者の師匠が呉服を染色・献上されました。
終生そのことを誇りとされておられました。
「伝統工芸に携わる者は、伝統をしるべし」が信条であった師匠に、ご相伴させていただき、「能」「狂言」「歌舞伎」「京舞」にも接する機会を与えていただいたことは、終生の「宝」であります。
明治以降、洋装になり、年々衰退していく「和服」ですが、民族衣装であり、文化です。日本女性の美しさは「きもの」が一番似合います。
「きもの文化」と共にある、京の花街がいつまでも、栄えることを願ってやみません。
 
 
 
 
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