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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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京都といえば祇園です。
「都をどりはぁ ヨーイヤサー」と華やぐ声で、左右両花道から踊り子が登場して、きらびやかな舞台が開く「都をどり」は、春の到来を告げる京都祇園の風物詩としてよく知られています。筆者もかって京都時代は師匠とご相伴して鑑賞させていただくのが楽しみでした。今年のテーマは「花都琳派裾模様(はなのみやこりんぱそめもよう)」と題し、琳派400年をイメージし、京舞の五世井上八千代師(本名観世三千子)の指導による美術・邦楽・舞踊の総合芸術として伝統に培われた舞台は、観る人を夢幻の世界へと誘います。

【開演時間】12:30〜・14:00〜・15:30〜・16:50〜
【観賞料金】茶券付特等観覧券4,800円、1等席4,200円、自由席2,500円


祇園は、寛永年間に祇園社(八坂神社)の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりで、京都所司代板倉重宗によって茶立ち女を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通りと大和通りにも茶屋が開かれるようになり、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町・宮川町で、「祇園外六町」と称した。享保17年、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町の「祇園内六町」が開かれ、さらに繁栄した。この際に、団子をモチーフにした紋章が作られました。この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われています。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上がいました。

「都をどり」は祇園甲部(ぎおんこうぶ)の行事となっています。
東京奠都によって繁栄に陰りが差した祇園を立て直すために明治5年に一力亭の九代目当主杉浦治郎右衛門は大参事槇村正直や初代京都府知事長谷信篤の協力を得ながら「祇園甲部歌舞会」を設立し、芸による職業女性としての自立と地位向上をめざした。また、京都博覧会の付け博覧会として都をどりを企画し創設しました。第一回の都をどりの振り付けを担当したのが三世井上八千代であり、これ以降の祇園甲部の舞いは井上流に限るとする取り決めがなされ、現在まで祇園の舞は井上流一筋となっています。
 



日本の歌舞伎の淵源、宮川町。
京都五花街の一つである宮川町は大和大路、五条、川端、四条の通に囲まれた町です。
四条南座の南にある宮川町の舞妓、芸妓が総出演して踊りを披露する京おどりは、京の名所や名物を舞踊化したのが始まりで、「宮川音頭」の歌詞中にも“八ッ橋”“すぐき”“五色豆”といった名産がちりばめられています。
今年は「花街咲芝居錦絵(さとにさくしばいのにしきえ)」全九場。
【開演時間】12:30〜・14:30〜・16:30〜
【観賞料金】茶券付一等席券4800円、一等席券4200円、茶券付2階自由席券2800円、2階自由席券2200円
十六世紀後半、豊臣秀吉が方広寺・伏見城を築いた事により、大和大路はにわかに人の往来が増え、その街道沿いに町並みが出来ました。
現在の宮川町地区は、当時広大な鴨川の河原であったとみられ、町名の由来は「四条河原祇園杜の前にあるにより宮川という」とも「宮河というには、鴨川四条より南の別号なり」等と諸説が有る。四条通りの鴨川南は、ここで毎年、祇園杜のミコシ洗いが行われているので宮川と呼ばれ、この川筋に出来たのが宮川町である。
今日でも、「宮川筋○丁目」と呼ばれているのは、河原に発展した「筋・通路」であったためである。寛文六年に宮川町通り開通し、寛文十年に鴨川護岸の石積みが完成し急速に宮川町の町並みが整い、当時の歌舞伎の流行とあいまって、茶屋町として発展していった。宮川町に水茶屋が建ち、渡世を許されたのは寛延四年の事であった。当時、数多く立ち並んでいた芝居小屋が、度重なる火災により焼失したのが原因であったといわれる。
 
歌舞伎踊りは、天正三年に出雲の阿国が織田信長に許しを受け、北野の杜で演じたのが始まりと云われている。後の慶長八年頃、阿国の娘二代目阿国が宮川河原で、「ややこ踊り」と云われる歌舞伎を興業して人気を呼び、様々な見世物小屋が建ち始め評判を呼び一大歓楽場と成りました。その後、若衆歌舞伎が始まり、それに出演する若衆の宿が宮川町に軒を並べました。男だけの芝居であった為、当然女形を演じる若衆が必要で、当時の美少年が選ばれました。
これらの人々が舞台に精励する事と成り、現在の女形役者へと発展したのです。今日の歌舞伎役者に、それぞれ屋号が有りますが、それは当時若衆達が出入りをしていた、宮川町の宿の屋号であったと云われています。
船橋聖一 著「聖一風流抄」によれば「宮川町が歌舞伎の名優を数多くうみ育てた原点である」と記しており、現在の歌舞伎の淵源が宮川町と言っても過言ではないでしょう。現在の舞いは若柳流。


欧米から入ってきた舞踊、ダンスがわが国を席捲していますが、わが国の伝統文化を先達より継承し、後世へと紡いでいる「やまとなでしこ」の存在も忘れてはならないでしょう。
彼女らの存在、矜持があってこそ伝統は護られているのです。
失ってしまったら二度と戻ってこない、それが伝統だと筆者は思うのです。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)



拙ブログにご来訪くださりありがとうございます。
本ブログの拙稿、日本人に生まれて良かった 「日本人は本当に素晴らしい」でも述べさせていただいておりますが、四年前の三月十一日、未曽有の大地震・大津波がわが国の東日本を襲い美しい国土、多くの同胞の人命を奪いました。
しかし、現代日本人が経験したことのない逆境の中で日本人は日本人らしさを現しました。想像を超える自然の脅威に打ちのめされるなかで、被災地の人々は自分より弱い立場の人々をわが身を犠牲にしてまで当然のように守ろうとしました。地震と津波で根こそぎすべてが倒壊、破壊され、大事な家族や先祖伝来の田畑(でんばた)や生きていく上に必要なものをすべて失った方々がいました。
しかし、そんな状況の下で人々はお互いを気遣い、巧まずして示した同胞、他者への配慮は太古の昔、縄文以来醸成、育んできた価値観と同じ同根
のものでした。
筆者はあの困難、厳しさの中で、日本人は発揮し示した助け合い、相互扶助の精神、やさしさ、勁さこそ日本人の真骨頂、民族の至宝であると思うのです。
そのことを日本国民に向け言葉にされ、世界に知らしめられたのが今上陛下であられました。
陛下の玉音は日本国民を奮い立たせ、同胞を労るこころを甦らせられました。
明治大帝、先帝陛下は国にとって大事の時に「雄々しさ」という言葉を発せられました。今上陛下におかせられましても、国民に向けてのメッセージに「雄々しさ」という言葉を使われた。
我々日本人はそのお言葉に勇気と希望を与えていただきました。
日本人のこころの御柱であることを強く感じたはずで、幾多の国難を乗り越えた勁さ、踏みつけられても起ちあがる強靭さは皇室あってのものだと多くの国民が再認識したでしょう。

しかし、日本人らしさを忘れてしまった人たちが震災後突出して現れたのも悲しいことですが事実です。
震災の瓦礫処理に国が地方に協力を求め、震災間もない四月時点で572自治体が名乗りをあげましたが、地元住民が瓦礫処分による放射能汚染への懸念、異議を訴えると名乗りを上げた自治体の辞退が相次ぎ、一割以下に減ってしまいました。あろうことか被災地に手をさしのべるどころか、風評を煽り起ちあがろうとする被災地、被災者を傷つけてしまいました。
筆者は反対する住民、風評を煽る姿に憤り、同じ同胞として悲しくなりました。しかし、それらは一部の方々であり多くの日本人は辛さ、悲しさは共有しています。
東日本大震災以降も続く災害。
それらの被災地に必ず行幸啓あそばされ、国民を励まされる両陛下。
そして哀しみを乗り越え起ちあがっていかれます。
筆者は祖国日本を誇りに思います。

日本人に生まれて良かったと・・・

天皇彌榮(すめらぎいやさか)

三内丸山遺跡 出土品編  Sannai-maruyama Remains (Artifact reviews)



四年前の三月十一日、大津波がわが国の東日本を襲いました。
現代日本人が経験したことのない逆境の中で日本人は日本人らしさを現しました。想像を超える自然の脅威に打ちのめされるなかで、被災地の人々は自分より弱い立場の人々をわが身を犠牲にしてまで当然のように守ろうとしました。地震と津波で根こそぎすべてが倒壊、破壊され、大事な家族や先祖伝来の田畑(でんばた)や生きていく上に必要なものをすべて失った方々がいました。
しかし、そんな状況の下で人々はお互いを気遣い、子供やお年寄りを守りました。三月上旬の東日本の寒さ厳しい時の中で、一枚のコート、一枚の毛布を自分より弱い立場の人に与え、一つのおにぎりさえも分かちあったのです。

被災地の有事に緊急の支援の物資を送る企業やこころある人々、このような日本人の姿に世界中の人々が涙し、感動しました。
平成七年一月に筆者の住む兵庫県を襲った阪神淡路大震災でも同様の光景が見られました。

世界の人々は驚きました。「どうしてあの凄まじい被害、状況の中でわれ先にと争うことなく秩序を保ち、優しさと勇気が保てるのかと・・」
そうした世界の問いに、多くの日本人は「自然な振る舞い、行動です」と答えました。
日本人は昔より、「どう生きるか」を先人や先祖の生き様を行動規範として生きてきました。

どのように生きるか?人間らしく生きれるか?現代日本人は模索しています。筆者はいつも思うのです、わが国の歴史を振り返れ、先人・先祖に学ぶべしと・・
歴史の中に我々日本人の精神を培った心優しい先人の姿が見えてきます。先人のこころに学ぶことこそ、日本人としていかに生きていくか学ぶことに繋がっていくと思うのです。
これら日本人の特性は百年や二百年で醸成されたものではありません。遠い縄文の時代から連綿と引き継がれてきたものです。
冒頭の動画にある三内丸山(さんないまるやま)遺跡の発見は筆者らがかって学校で教わった縄文文化を覆す発掘でした。
(「やまとごころ」とは何か)田中英道著 に述べられています。
縄文人の死者の弔い方は人間に対してやさしさと思いやりの精神性が伝わるものです。
三内丸山遺跡では墓地が重要ないちを占めています。三内丸山遺跡のお墓はみんな平等で、大きなお墓、小さなお墓の区別はなく、男女別々に埋葬され、子供たちは特別に供養されていました。三内丸山遺跡では個々の家族の集合体ではなく、集落全体が一つの大きな家族として暮らしていたと言われています。
大家族の一員として、それぞれの役割を務め、分け隔てなく豊かな食料が分配され、死者は集落の内部に埋葬され、生者も共に暮らしていたのです。
これらの生活は1500年もこの集落で続いたと言われています。平和で、やさしさに満ちた社会でした。
縄文文化の代表は「土偶」だと言っても過言ではありませんが、その土偶の形相は異形の相のものがあります。それらは血の繋がりの濃い結婚によって生まれた奇形や遺伝病の子供を表現したものと言われています。幼くして死んだ子供を弔うために作られたのが土偶だと言われています。
三内丸山遺跡では母の胎内にいるかのように深鉢型の土器に納められています。
縄文人の子供に対する深い愛情が感じられます。
征服に次ぐ征服によって国が形成された外国と違い、
大きな家族の延長として国が形成されたわが国とではその国民性、文化、死生観まで大きく異なります。
縄文の精神性が神道の基本的な考え方、「御霊信仰」にに引き継がれ日本人の魂の形成へと繋がっています。
我々日本人の国民性は長い悠久の歴史を紡いだ精華でもあるのです。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)





北野をどり前夜祭


千年の都、伝統の街、京都の春を告げる恒例行事といえば、花街の“春のをどり”です。
京都最古の花街である西陣・上七軒で開催される「北野をどり」を先頭に、4月には祗園の都をどり、宮川町の京おどり、5月には先斗町の鴨川をどり、と約2カ月間、京都の春は、ひときわ賑わいあでやかな花街の舞台に彩られます。
 
京都に春を告げる花街のをどり、上七軒の「北野をどり」。京都最古の花街である上七軒の歴史と伝統のある昭和27年以降、64回目公演です。
上七軒(かみしちけん)は、京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街です。地元の住民は「かみひちけん」と言います。
室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極めてきました。
舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流。茶道は西方尼寺で習っています。
帝都の座は東京に譲りましたが、千年の都、京都には雅な文化から侘・寂(わび・さび)の文化まで日本の伝統文化が凝縮されています。


第63回 北野をどり
期間:平成27年3月25日(金)〜4月7日(木)
開演:13時30分〜/16時00分〜(各日2回公演)
会場:上七軒歌舞練場(京都市上京区今出川通七本松西入真盛町742

欧米から入ってきた舞踊、ダンスがわが国を席捲していますが、わが国の伝統文化を先達より継承し、後世へと紡いでいる「やまとなでしこ」の存在も忘れてはならないでしょう。
彼女らの存在、矜持があってこそ伝統は護られているのです。
失ってしまったら二度と戻ってこない、それが伝統だと筆者は思うのです。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
国宝「縄文の女神」紹介動画





我々日本人は世界でも希に見る穏やかで平穏、安寧を愛する民族です。しかし、わが国はいま「第四の国難」を迎えています。第一の国難は鎌倉時代の「元寇」、第二の国難は「幕末から明治維新」。第三の国難は「大東亜戦争前後」。ここまでは実に相手がハッキリしてたのです。では現代の国難は一体誰が相手なのでしょうか。実は第四の国難の相手とは、「日本人自身」なのです。日本人の内側から崩壊していく危機、すなわち「やまとごころの危機」と言えましょう。
我々日本人がヤマトごころの復活を遂げるためには本当の日本ことを知り、本来の「世界一賢い、穏やかな国民」として、叡智を出し、結集し貢献しなければなりません。それが現代地球社会における日本人の本来の役割だと筆者は思うのです。
日本人は縄文時代から自然と共生する人間味溢れる文明を連綿と築いてきました。現在世界各国で起こっている宗教対立による戦争は終わることがありません。

世界のほとんどの国では、複数の宗教が両立することはありませんでした。キリスト教には、人は原罪を背負った罪深き存在であるという考えが根本にあり、キリスト教が他の宗教を認めない排他性の強い厳格な宗教であるのに対して、わが国の神道は「和の心」を愛し、多神教をも認める多様性の強い寛容な道といえましょう。
キリスト教やイスラムの神が絶対的な存在であるのに対し、日本神話に描かれている神々は人のように笑ったり、悲しんだり、失敗もされます。これら神話の神々の姿は神話が編纂されるはるか古代から日本人が育んできた心情や心根を表しています。また日本神話にはわが国の太古からの豊かな自然、それらに感謝しながら生きてきた日本人のありのままの心情が描かれているのです。
縄文の昔より日本人は豊かで恵まれた自然に抱かれながら想像もできないくらい長い年月争いもなく、幸せに暮らしてきた結果が「善」なる民族性が醸成されたのではと筆者は考えます。

大祓詞の一節にもある「八百萬神等を神集へに集へ賜ひ神議りに議り賜ひて」が示すように困った時には集まって相談し、平和裏に「国譲り」を行い譲った出雲に最大限の礼を尽くし約束を守る。往古の昔より高度な民族性であったことが垣間見れます。
記紀に投影された価値観はいつ醸成されたものでしょう。
かってわが国の歴史教育ではわが国の縄文文化を世界の古代文明に比べ野蛮で進化が遅れていたというのが定説でした。
しかし、新たな遺跡等の発見、研究などにより、現代人の想像以上の文明の中で生活していました。食生活に至っては驚くような調理法で豊かな食材を用いた美食家であったことが証明されています。
気が遠くなるほどの祖先ですが、日本列島で豊かな自然と食生活を思う時、なぜか嬉しくなってきます。



縄文人の生活再現



かっての食料調達は狩りが主でした。
常食としていた「イノシシ」の若いメスは捕獲しないなどの取り決めをし、食料資源を確保しました。
また犬を用いた狩猟も行った痕跡も認められています。
当時の日本列島の人口は縄文早期で二万人と推定され、縄文前期で十万人、縄文後期で二十六万人と分析されています。
人口増加は平均寿命が平均寿命は男性31.1歳、女性31.3歳とされた当時においては社会が安定し、争いごとのない豊かな社会だったことの表れでもあります。また渡来人にも寛容で、幸せな社会を形成していたことが窺われます。
祖先が幸せな時代を送り、祖国の豊かな自然に感謝し、日本人の人間形成の根幹となったことを現代人の我々でも嬉しく、幸せな気持ちにさせてくれます。
また縄文時代に花開いた独自の文化の特徴は「縄文土器」と「土偶」でした。一万年以上に渡って作り続けられた土器、土偶のユニークさは世界史でも例がなく、高い精神性をもって生活していたことに驚かされます。
未だに大陸や朝鮮半島からの伝来、渡来説を言い続けている学者やメデイアが存在しますが、根拠や証拠のない決めつけをし、先人や祖先の足跡を否定するのはいかがなものかと筆者は思うのです。
その後縄文文化は弥生文化と融合し、稲作文化へと変わっていきますが、平和で穏やか、自然と調和し、彼らの知恵や精神性は受け継がれ、神話が生み出され神話の世界は今日へ連綿と紡がれています。

櫻井よしこ氏は著書、「日本人に生まれて良かった」の54pで次のように結ばれています。

日本の日本たるゆえん、日本人の日本人たるゆえんがここにあります。それを考えるにつけ、日本という国に生まれたことの誇りと喜びがじわっと心の底から湧いてきて、心も体もあたたかく包まれていくような気がします。

「日本人に生まれて良かった」


天皇彌榮(すめらぎいやさか)


参考文献、櫻井よしこ著「日本人に生まれて良かった」
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