ここから本文です
日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

書庫美(うま)し国 日本

記事検索
検索

全22ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]







拙ブログにご訪問いただきありがとうごいざいます。
日々美し国に生(せい)をうけたことをやおよろずの神さま先人・先祖に感謝いたしております。
美し国、四季のある国、日本。
桜が咲いてそして散り、梅雨には雨が降り、夏には穀物が成長し、秋には紅葉が散ること、そして冬には雪が降ること。
春夏秋冬、季節折々の表情を見せてくれます。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも我々の祖先は災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。近年科学の発達とともに自然に対する畏敬、感謝のこころが希薄になってきたのではと思うのは筆者だけでしょうか?

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、明治まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

新暦の10月24日〜11月7日頃、露が霜となって降りる頃 を霜降(そうこう)といいます。
昔から、わが国には、紅葉を眺めて楽しむ風習があります。
しかもこれらは今日の日本人にも引き継がれています。
紅葉狩りの「狩り」は、もともと鳥や動物を捕まえるという意味で使われていましたが、­平安時代、狩りをしなくなった平安貴族たちが野山をめぐり、自然を愛でる様子が狩りに似て­いたことから、紅葉を眺めることを「紅葉狩り」というようになったといわれます。
美しい紅葉の錦を愛でながら、貴族たちは宴を開き、歌を詠みました。これが、紅葉狩り­の始まりとされています。
紅葉は、葉を落とし、冬を迎えるための、木々の冬支度。人間も、そろそろ本格的に冬支­度を始める頃です。
自然と共生したわが国の文化と言えましょう。

千年の都、京都では今日も多くの風習が引き継がれています。
亥の子の火入れ 〜霜降の生活〜 
旧歴10月初めの「亥の日」に火入れをすると、火事が起こりにくいという言い伝えがあ­り、この日に炬燵や火鉢に火入れをする風習が残っています。
これは、古代支那の五行説に基づくもので、十二支のひとつ「亥」は「水」に分類され、­火を鎮めると考えられていました。茶の湯の世界では、地炉を開く「炉開き」が行われま­す。亥の日の亥の刻に「亥の子餅」を食べる「亥の子の祝い」という風習もあります。
亥の子は田の神とされたことから、収穫を感謝し、無病息災を願うもので、さらには多産­な亥にあやかって子孫繁栄も祈ります。

神を崇(あが)め、神に祈り、和(なごみ)を尊し、清明心を大切にしてきたわが国は「美(うま)し国」です。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)


動画、一部の文章は京都市中を走る、京福電気鉄道(株)より引用、加筆、参考にさせていただいてます。

射水市 越中の稚児舞






イメージ 1
下村加茂神社



国の重要無形民俗文化財に指定されている射水市の下村加茂神社の稚児舞が4日、同神社境内の特設舞台で行われた。京都の下鴨神社から伝わり千年も受け継がれているとされる、子どもたちの美しい稚児舞が披露されました。
下村加茂神社(しもむら かも じんじゃ)は、1066年(治歴2年、第70代 後冷泉天皇)に現在地に創建されました。賀茂御祖神社(京都・下鴨神社)の御神領「倉垣庄(くらがきのしょう)」の惣社となっていました。脚気に効くとされ「下村の脚気の宮」として知る人ぞ知る全国的に名の知られた神社です。
祭神は、玉依姫命(たまよりひめ の みこと)と賀茂建角身命(かも たけつぬみ の みこと)および賀茂別雷命(かも わけいかづち の みこと)の三神です。五穀豊穣・殖産興業・家内安全・進学成就・安産・病難災厄除けなどの多くの御神徳があるとされています。
わが国の民俗芸能には、舞楽、能楽、人形芝居、歌舞伎等が地方に伝播し、民俗化して定着し伝承されているものが多く、この民俗芸能化した舞楽の中で越中から越後にかけては稚児舞の型で伝承されているのが特色です。
下村の加茂神社、宇奈月町の法福寺、婦中町の熊野神社に伝承されているそれぞれの稚児舞は、上方系の舞楽が地方化したもので、技法にその特色がみられるとともに、稚児が大人の肩車にのって舞台入りし、芸能の終了するまで土を踏まない禁忌の姿を伝承しているなど古い民俗行事的特色をもっており、稚児舞の典型例として貴重である。
それぞれ社寺の祭礼、法会における芸能としてよく伝承されており、今後も変らず伝承されることが見込まれるので重要無形民俗文化財に指定し、正しく伝承を図っていきたい。
下村加茂のそれは、加茂神社の秋祭りの折に境内の舞殿で稚児舞が演じられるもので、一般にはこの時の祭り囃子の音から転じた「カットンド」の名称で親しまれている。地内から選ばれた稚児四人(十一歳から十二歳程度)が舞うもので、舞いに先立ち稚児は祭り当番宿から大人の肩車に乗って村巡りをする。その後「鉾の舞」、「林歌【りんか】」、「小奈曽利【こなそり】」、「賀古【がこ】の舞」、「天【あま】の舞」、「胡蝶の舞」、「大奈曽利【おおなそり】」、「蛭子【えびす】の舞」、「陪【ばい】臚」の九曲が舞われる。京都下鴨の加茂祖【みおや】神社から伝来したものと伝えられている。


イメージ 2
稚児がかわいらしく踊った「胡蝶の舞」=下村加茂神社








イメージ 3
土を踏んではならないため大人の肩に乗る稚児



古の万葉時代に創作された“稚児舞”の伝統を村人が守りついできた誠意と幼い稚児達の精神さに感銘し、後生に永く引き継いでいくことをねがうものです。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)









局地的豪雨に遭われた被災地の皆様にお見舞い申し上げます。
引き続き気象情報にも注意なされてくださいませ。

拙ブログにご訪問いただきありがとうごいざいます。
日々美し国に生(せい)をうけたことを先人・先祖に感謝いたしております。
美し国、四季のある国、日本。
桜が咲いてそして散り、梅雨には雨が降り、夏には穀物が成長し、秋には紅葉が散ること、そして冬には雪が降ること。
春夏秋冬、季節折々の表情を見せてくれます。
しかし、時には大自然が牙を剥き災害になります。それでも我々の祖先は災害を恨むことなく神の怒りだと身を律し、自然を崇拝し、ともに生きてきました。近年科学の発達とともに自然に対する畏敬、感謝のこころが希薄になってきたのではと思うのは筆者だけでしょうか?

我々日本人は、往古の昔より、その美しい自然の変化を、明治まで、二十四の季節に分けて愛でてきました。

私たの祖先が使ってきた旧暦の中では、二十四の季節に沿った年中行事や風習と共に、風雅な暮らしを楽しむ工夫や知恵があり、現代の日本人にない潤いのある生活を営んでいたように思います。
それと同時に、永遠にめぐる四季のなかで移ろい変わっていくものと、その変化の裏側にある不変のものを感じとり長らく愛したのです。

古いものを捨て、新しいものがあふれていく現在社会のなかで、古くから日本にある伝統を見なおすこと。それは、移ろう季節のなかから不変のものを­みつけだすことと似ています。そしてその不変のものを大事にしなければなりません。時代が変わろうとも日本人の本質は変わってはならないものです。

ますます季節感が失われていくなかで、二十四節気の暦をつうじて、自然の変化を敏感に感じとれる繊細な感性と伝統の素晴らしさと­、それとともにある大切な文化をつたえていきたいものです。

その四季折々の美しさに触れるとき、自然のなかから生まれてくる、この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたもの、それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

新暦の9月7日〜22日頃、大気が冷えて来て、露ができはじめる頃を白露(はくろ)と言います。


露草〜白露の自然〜
秋の明け方は気温が下がり、空気中の水蒸気が凝結して露が降りやすくなります。
この「朝露」は、日差しとともに消えてしまうことから、古来、儚いもののたとえとされ­てきました。路傍で可憐な花を咲かせる「露草」は、朝開き、日差しとともにしぼんでし­まいます。その儚さが朝露を連想させるとして、「露草」と名付けられたという説があり­ます。
露草の色素は水にあうと跡形もなく消えることから、染物の下絵を描く絵具として使われ­ました。古くは「月草」とも呼ばれ、人の心と同様に「移ろいやすいもの」として、多く­の和歌に詠まれています。

中秋の名月〜白露の暮らし〜
旧暦8月15日の月(十五夜の月)は「中秋の名月」と呼ばれ、昔からその美しさが愛で­られてきました。
先人は風流を愛で、その気風は今日にも継承されています。
筆者がかって暮らした千年の都、京都ではこの夜、紅絹(もみ)の小裂(こぎれ)で糠袋(ぬかぶくろ)を縫う習わしが­あります。月明かりを頼りに縫うと、裁縫が上達すると言い伝えられてきました。糠袋と­は米糠を入れる小袋で、石鹸がなかった時代、顔や体を洗う道具として使われました。特­に紅花染めの絹(紅絹)で作った糠袋は洗顔すると肌が美しくなるといわれ、重宝された­ようです。
往古の昔の女性たちは、完璧な月に様々な祈りを込めていたのかもしれません。


神を崇(あが)め、神に祈り、和(なごみ)を尊し、清明心を大切にしてきたわが国は「美(うま)し国」です。


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)


動画、一部の文章は京都市中を走る、京福電気鉄道(株)より引用、加筆、参考にさせていただいてます。


鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。
一宮(いちのみや)とは、神社・神宮のある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことですが、一の宮・一之宮とも書きます。
通常「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多いですが、律令制において国司は任国内の諸社に神拝することが定められており、一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われている。律令制崩壊の後も、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けているのです。
鹿島神宮は、同県神栖市にある息栖神社(いきすじんじゃ)、千葉県香取市にある香取神宮(かとりじんぐう)と合わせて東国三社と呼ばれています。
また、平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったことからその格式の高さが窺えます。
創建は、神武天皇元年(皇紀元年)現在が皇紀二千六百七十一年ですから建国以来の歴史があります。


鹿島神宮
 

冒頭の動画にあるように、鹿島神宮の12年に一度の式年大祭「御船祭(み/­ふね/まつり)」が2日、常陸利根川などで行われた。祭神の武甕槌大神(たけみかづち­のおおかみ)と香取神宮(千葉県香取市)の祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が­再会し、人々の幸福と地域の安寧を願う神事。
鹿島神宮祭神の神輿(しんよ)を載せた御­座船(ござせん)が約100隻の供奉船とともに、鹿嶋市大船津の鰐(わに)川から常陸­利根川の香取市加藤洲(かとうず)まで往復約20㌔を巡幸する様子はさながら水上絵巻­で、川岸に詰め掛けた多くの見物人を魅了した。

御船祭は応神天皇時代の約1700年前に祭典化されたとされ、現在は12年に一度の午­(うま)年に行われる。

御船祭は午前8時半、鹿島神宮からの神輿の陸上巡幸でスタート。神職や各地区の氏子、­鹿島新当流の剣士など約3千人が武者装束姿で水上巡幸の起点となる鰐川河岸の大船津ま­で、約2㌔を行進した。



神輿は大船津で、水上にそびえ立つ朱塗りの西一之鳥居(にしのいちのとりい)をくぐり­、竜頭を飾り付けた全長約30㍍の御座船に載せられた。鳥居は今回の御船祭のために新­調され、特設桟橋にも朱色の敷物が敷かれた。御座船は五色の吹き流しを付けた大小の船­に取り囲まれ、「晴れ」の気を放った。

水上渡御は、大船津を起点に外浪逆浦(そと/な/さか/うら)を経由して加藤洲に至る­往復約20㌔のコース。大船団は、前夜の雨から打って変わった快晴の下、水上を滑るよ­うに進んだ。

御座船は加藤洲で斎杭(いみ/くい)に係留され、香取神宮による御迎祭(お/むかえ/­さい)が行われた。神輿を前に両神宮神職らが向き合い、香取の高橋昭二宮司が武甕槌大­神に「両神宮は共に国づくりに力を尽くした。それを忘れず、心を正していくことが大事­」との内容の祝詞を奏上。続いて前回の御船祭があった午年生まれの12歳の少女4人に­よる「浦安舞」が奉納された。

神をも畏れ、敬わない人々が増えた昨今ですが、かっての日本人はすべてのものに神が宿り、支配しているものと信じ、崇敬していました。
そして今日に至るまで、先人・先祖は文化、伝統を継承し、今日の我々はその精華の上に繁栄を享受しています。
わが国の要(かなめ)である皇室を中心に変わらぬ「国のかたち」を有形・無形に紡いでいくことこそ今日に生きる日本人の使命なのです。

 日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。
「まつり」年齢、性別、肩書き、身分の上下など関係なく、境界線を越え、人と人を結ぶ無心のエネルギーでした。
そしてこれらは今後も変わることなく無窮に続いていくのです。
「まつり」はすべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。
いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか?




天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)

開くトラックバック(2)

おわら風の盆




[開催地] 富山県 富山市
[会場] 八尾旧町・駅前地区
[日程] 平成26年9月1日(月)〜 9月3日(水)
[開催時間] 

9月1日〜3日の輪踊り・町流しについて

各町内(11支部)が決めたコースでの輪踊り・町流しがあります。
(降雨中の輪踊り・町流しはありません。)

9月1日/2日:
午後3:00〜午後11:00(但し、午後5:00〜午後7:00は夕食・休憩のため踊っておりません。)
9月3日:
午後7:00〜午後11:00(午後7:00以前は、一切踊っておりません)

拙ブログにご訪問いただきありがとうごいざいます。
筆者が一度は訪れてみたい「まつり」に越中八尾(えっちゅうやつお)のおわら風の盆があります。

初秋の風が吹き始める9月1日から三日三晩、富山市の南西部・八尾町で行われる「おわら風の盆」。哀愁漂う三味線と胡弓の音色、味わい深い唄に合わせ舞う編笠姿の優美な踊り子たちが、坂の町を練り歩きます。地方の民謡とは思えない洗練された祭りは、今も昔も多くの人を魅了してやみません。
この祭りを受け継ぐ八尾の人々は、一年を通じておわらの練習に励み芸を追求しています。おわらが暮らしの一部なのです。
富山地方の一日の天気予報はあいにくの雨の予報となっています。

おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。
「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。
二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

古来より「豊葦原瑞穂國」と称された我が国は、稲をはじめ穀物が実り豊かに実る国として遠く神話の昔より日の神「天照大御神」を崇め、田の神、山の神、海の神を崇め、「和」を大切にし、自然に感謝し、、自然と共に文化・伝統を育んできました。
 
わが国は神の国と言われています。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしてきました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
「まつり」の語源は、動詞の「まつる」からきています。「まつる」とは、神さまのお出ましを「待つ」、神さまに供物などを「献(たてまつ)る」、神さまに従う「服(まつろ)う」などが考えられ、これを全部合わせると「神さまをお迎えして、神さまに物を捧げて、心から神さまに従う」という大意になります。このように、神さまにお仕えすることがお祭りの本義と言えましょう。

日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。
祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。
すべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。
いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか?

参考文献 わら風の盆 公式サイト



今月11日に姫路聖マリア病院に入院、一部の大腸切除するという手術を行い、回復を待って一昨日退院し、現在は山積した入院中の事務処理に追われています。
また、入院中は多くの方々にお見舞いのお言葉を賜りありがとうごいざいました。
入院中病室の窓から見る景色を見るとき、四季折々の美しさを奏でる自然。この国の美しさを改めて見つめ、「美」と「伝統」にめぐり逢え­る誇りとよころび、祖先・先人が大切にしてきたものに思いを馳せる時、先人が日本人として培った価値観、死生観、文化それらを共有していきたいと筆者は願ってやまないのです。

「日本人に生まれてよかった」と・・・・・



天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)

全22ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]

アメブロにタイトル同じで移行。
アメブロにタイトル同じで移行。
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

友だち(51)
  • MYU
  • 花橘乙女
  • 中国の反日は天安門事件から
  • 無法松
  • 高く支持します板野友美、島崎遥香
  • うまやど
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事