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日本文明の自立性を考える上で重要なものに、伊勢神宮・『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』があります。神宮は垂仁天皇の24年(紀元前4年)に、皇女・倭姫命が各地を行啓されたすえ、、「伊勢の国は豊かで美し国であり、この国にいつまでもいたい」との天照大神の思いを語られ、現在の五十鈴川の川上を大宮地(御鎮座)されたと伝えられます。そして天武天皇の宿願によって、第1回の遷宮は持統天皇4年(690)に行われました。建築様式は、シナ文明のそれとはまったく異なるものであり、日本文明の独自性を明確に表しています。社殿の建立後、20年に1度、式年遷宮が行われ、正殿をはじめとする建物全てが新造され、神宝・道具類も新調されてきました。
「美(うま)し国」に御鎮座された神宮ですが、以来、「おかげ参り」に代表されるような、日本人ならば一度は訪れてみたいと思うわが国の代表的な名所であり続け、いまは世界中からも多くの人が訪れている。その魅力や凄さは一体何なのだろうか。
二十年に一度、御社殿を新しく造り替える式年遷宮は、皇租の天照大御神が常に瑞々(みずみず)しくあってほしいと願う表象でありますが、同時に私たち日本民族の「いのちの甦り」「常若」(とこわか)の祈りが込められているのです。
神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)は「皇家(こうけ)第一の重事(じゅうじ)」といわれ、戦前は国費で行われていたほど、日本の国にとって極めて重要なお祭りです。
神宮の建物は、掘立柱(ほったてばしら)に萱葺(かやぶ)き屋根という素朴で清純な建物です。神道は清らかさを重んじますが、大御神(おおみかみ)さまに常に清浄な所にお鎮(しず)まりいただくために遷宮は行われます。 常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい)をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れなのです。 日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。 エジプトのピラミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消滅しているのです。
しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久しく伝えてきたのです。 式年遷宮の考えは日本民族の叡智(えいち)として世界から賞賛されています。 「式年(しきねん)」とは前にも述べましたが、「定められた年」という意味です。二十年に一度というのは、人生の一区切りと考えられ、一世代を意味します。 技術や思想を伝承するためにも合理的な年数とされ、御社殿の建築に携わる宮大工をはじめ、御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)をつくる職人たちが技法を学び、技術を高め、その技術を若い弟子に伝えるためには年月が必要とします。 二十代で弟子入りして、技術を習得し、四十代で熟練工として活躍し、そして六十代で指導者になるという営みを繰り返してきました。平均寿命の短かった昔にも同じことが言えるでしょう。 式年遷宮が行われた第四十一代持統天皇の御代(みよ、約千三百年前)には、世界最古の木造建築として今なお現存する法隆寺は、すでに建造されていました。 当時の技術を持ってすれば、半永久的な御社殿を造ることが出来たはずです。しかし神宮では、二十年に一度、御社殿を造り替え続けていく式年遷宮の制度を守り伝えることで、日本の文化を絶やすことなく次の世代に伝え、「悠久」を目指しつづけてきたのです。ここに日本民族の先人の叡智(えいち)が窺わます。 竹田恒泰『古事記完全講義―入門編』DVDプロモーション わが国では、8世紀に古事記・日本書紀が編纂され、国家・民族の原典が出来上がります。
『古事記』は日本最古の歴史書であり、元明天皇の勅命を受けて和銅5年(712年)に太安万侶(おおのやすまろ)によって献上されたもので、神代の天地の時代から推古天皇(592年即位)の時代までが書かれています。
『日本書紀』は舎人親王らの編集で養老4年(720年)に完成した日本最古の正史であり、神代から持統天皇(697年即位)の時代までを漢文・編年体によって記述しています。
これらは民族の神話・伝承を集大成したものであり、日本人自身の祖先の物語であり、そこには、天之御中主之命、天照大神、神武天皇や三種の神器が登場します。
西欧文明には、ギリシャ=ローマ神話がありますが、これは自分たちとは別の民族の神話です。祖先が伝えたゲルマン神話や北欧神話もありますが、それより圧倒的な存在となっているのが、キリスト教の聖書です。しかし、聖書は、ユダヤ民族の聖典であり、アブラハムとその子孫の歴史は、ゲルマン民族とは異なる民族の記録です。西欧文明は、自らの祖先から伝来した古典を持っていないのです。
これに対し、日本文明は、民族の源であり、拠り所であるところの古典を持っています。
9世紀には『万葉集』の編纂が始まりました。『万葉集』には、5世紀頃から8世紀にかけて詠まれた歌が多数収録されています。詠み人は天皇や貴族から庶民にまで及んでおり、わが国では古くから歌を詠む文化が育まれていたことがわかります。ヨーロッパでは、欧州統一の英雄、9世紀のカール大帝(シャルルマーニュ)すら、王となるまで読み書きができなかったといいうことから、日本の文化、民度の高さがわかります。しかも、千数百年も前に祖先が詠んだ歌を、21世紀の今日まで伝わっているのです。西欧文明には、これに類するものを見出すことができません。まことに貴重な生きた先人の遺産なのです。
続く・・・・
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誇り高き日本
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「日本の神話」 出雲井 晶(いずもい あき)作
冒頭の画像は一昨年五月に83歳で亡くなられた、「日本の神話」伝承館』館長、『「日本神話の心」伝承の会』会長、日本会議代表委員であった、出雲井 晶氏の作品の一部です。
出雲井 晶氏は、「日本の神話」伝承の会の設立にあたり、に次のように述べられています。
出雲井 晶(いずもい あき)氏
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筆者は、日本人として、天皇陛下の臣民として、「生」を受けたことを誇りを感じ、光栄に思います。
では、「誇り」とはなんでしょう?
『広辞苑』では、誇り=ほこること。自慢に思うこと。また、その心。
と記載されています。
誇りは、何かについての誇りをいいます。それは、家や先祖や国についての誇りであり、会社や職業や、場合によっては家族、自分自身についての誇りもあります。そして、こうした誇りには、家や先祖や国等について、良いと思い、喜びや満足を感じ、また、その良いところを失わないようにしたいと思う心という意味が含まれているのです。
日本人としての誇りは、「自分は日本人である」というアイデンティティと関わるものです。日本人としての誇りを感じるというときは、日本に生まれてよかった、日本人でよかったというように、「日本人である」ことは、良いこと、うれしいこと等の評価が、そこにあるのです。
筆者は、時間の許す限り我国の歴史・文化を温(たず)ねるようにしています。
国に対する誇りは、先祖や国の良いところを学ばないと育ちません。
伝統や文化や国柄を学び、さらにそれが単なる「知識」にとどまらず、喜びや満足を感じる「感情」にまでなったときに、誇りとなります。
日本に生まれてよかった、日本人に生まれてよかったという感情を持つにいたると、自ずと誇りが生まれてきます。そして、日本人のよさを保とう、誉れを保とう、名を汚してはならないという「意思」が生まれてきます。
知れば知るほど、日本という祖国に誇りがこみ上げてくるのです。
「知識」⇒「感情」⇒「意思」という深まりがとても重要です。
ところが今日、多くの日本人は、日本人としての誇りを失っています。
本当に日本という国は、国民が誇りを持てない国なのでしょうか?
世界の国々では、日本の文化・技術・国民性が賞賛され、憧れの存在であるのです。それでも、我国では祖国に対し、誇りを持っていない人が多いのです。
戦後の日本人は、日本人としての誇りが持てないような教育を一部の愚かな教師から受けてきました。そのため、誇りそのものが育っていません。誇りを持つことは、すなわちおごりであり、他者への思い上がりだというような意識を、教育の場で植え付けられてしまったのです。そのため、誇りという評価や感情が持てないような規制が心の中に働くようになってしまっている。「知識」が与えられず、「感情」を抑えられ、「意思」がないのです。
大東亜戦争後、日本人は自信を失いました。占領政策によって勝者の歴史観、価値観を押し付けられました。戦後66年祖国の素晴らしさ、民族の素晴らしさを教えず、過去の行いの悪い部分ばかりを、捏造、誇張して教えてきました。こんないい加減な教育では、誇りが育つどころか、誇りを傷つけていくばかりです。誇りを失った人間は、恥を知らず、名誉を大切にしない。周囲の目や他者の評価に無頓着になり、だらしのない人間になり、無責任で自己中心となります。または自虐的で、自嘲的ともなるのです。
またこれら、誇りを持たない人々が政治家となり、指導者となり、官僚となり、拍車をかけているように思います。
また、誇りを持たない人々、わが国の歴史・文化に無知なる人々がメディアを牛耳っていることが、更に拍車をかけているのです。
戦後の我国では、誇りある歴史が教えられてきませんでした。占領下でそれまで日本人が持っていた歴史観が否定されました。その歴史観とは、神話の時代から2千年以上もこの国で生きてきた民族の歴史である。ある民族を滅ぼすには、その民族の記憶と言語を一定期間奪えばよいと言われています。ここにいう記憶とは歴史です。歴史を伝承する言語、民族固有の歴史観を奪えば、その民族はやがて滅亡します。
戦後の日本人には、占領後すぐ、連合国の立場による「太平洋戦争史観」が植え付けられました。新聞に連載され、全国の学校に本が配付されて教え込まれ、ラジオなどでドラマ化されて、『真相はこうだ』という番組で全国に放送されました。極東軍事裁判の判決を是とする東京裁判史観が、それを補強し、戦後の歴史教育のもとになっています。
大東亜戦争を、太平洋戦争と呼ぶのもこの為です。だから、これまでの歴史教育の内容を改め、誇りある歴史を教えることが必要であり、急務なのです。
国の真実の歴史をを教え、誇りをもてるようにしないと、国民は精神的にだめになってしまうでしょう。自国の歴史や伝統に誇りを持つことは、祖先への尊敬や感謝を持つことにつながり、子供たちは、自分の命が祖先から受け継がれてきたものだと感じます。自分の存在は、祖先のおかげだと気づく。それによって、自分が生まれてきた意味、生きていく目的、自分の担うべき役割を理解することができる。そこに、人への思いやりや、助け合いの心が育つのです。 1400年前、聖徳太子が、当時の大国・隋に対し、日本は対等な独立国家だと宣言しました。以来、日本は、他国の支配を受けることなく独立を保ち、繁栄を続けてきました。その中で独自 の精神文化を成熟させてきた日本は、世界が注目する伝統・文化を培ってきたのです。こうした国の歴史、伝統、文化への誇りこそ、国を守る原点であり、経済を発展させる原点であり、将来の日本を担う国民教育の原点です。 かつて日本人には、森羅万象すべてに神々が宿ると信じ、自然を慈しみ、思いやりに富み、公共につくす意欲にあふれ、正義を尊び、勇気を重んじ、全体のため、「公」の為、に自制心や調和の心を働かせることのできるすばらしい徳性があると指摘されてきました。この根幹こそ、人・物・事に対する「思いやりの心」「滅私奉公」の精神であり、すなわち「愛」です。これこそ育児の原点であり、教育の原動力であり、現在の日本に欠けている精神です。
国家の連続とは、生命と、文化、魂の連続を必要とします。時代を担う子供たちに、国への「誇り」を伝え、人、社会、国への「愛」を育てる教育こそ、今の日本に求められているものだと思います。
わが国の文化をよく知る外国人の方々は、わが国の最大の特徴として、皇室の存在を挙げる人が多いのです。彼らには、これは大きな驚きなのです。神代から今日まで王室がずっと続いているということなど、盛者必衰の日本意外の国では考えられないことだからです。
わが国の皇室は、古代から今日まで、一筋の家系、男系で続いています。その起源は、神話の時代にさかのぼります。神話の中に現れる神を祀る神社が現存し、多くの人々が参拝し、今日も祭祀が行われている。また、その神話の神が、皇室の祖先です。その神の子孫が、現代に生きており、国の象徴、元首として仰がれています。これは日本人が誇りとすべき随一のものです。 国柄についての事実を教えることが、日本人としての誇りを育てます。そして重要なことは、皇室について触れなければ、日本の国のことも、日本の歴史についても、肝心なことは伝わらないということです。 「日の丸」が世界の国旗のうち、一番古い旗であり、国歌「君が代」が古今和歌集より謳い継がれた千年以上の歴史を持つことも誇りなのです。
そしてそれら、すべてが皇室に連なっているのです。
学校で教えてくれないと嘆くばかりではいけません。お子さんのいる方々は、日本の国のことを、祖国のことを、自分の子どもに話してみていただきたいです。地域の子どもに接する機会のある人は、子どもたちに話してみていただきたい。 誇り高き日本人の「誇り」を持つでしょう・・・
冒頭の動画にもありますが、我々の先人・先達は何を護ろうとしたのか、己の命と引き換えに何を護ったのか?
混迷・迷走を繰返す今日、一考せられたい。
きっと、「美し国、日本」が見つかるはずです。 続く・・・・・
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古代の日本人、つまり、我々の祖先は、アニミズムとシャーマニズムに基づく信仰を持っていました。アニミズムとは、自然界のあらゆる事物には霊魂や精霊が宿り、諸現象はその意思や働きによるものとみなしてきました。シャーマニズムは、祖霊や精霊と接触・交流する能力を持つ職能者を中心とすることであり、制度化され、体系化されたアニミズムであると考えられます。解り易く言えば、職業的霊能者を中心とした精霊信仰です。祈りを捧げる者がシャーマンであり、捧げる対象が精霊です。
わが国のアニミズム的・シャーマニズム的な世界観においては、言葉が重視されました。古代の日本人は、言葉には霊的な力が宿っていると信じていました。それが言霊(ことだま)の思想です。言霊とは、言葉に宿る不思議な霊威であり、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられていたのです。言霊がその力を表わすのは、祈りによってです。祈るとは「斎(い)告(の)る」の意味であり、神の名を呼び、幸いを請い願ったのです。祈りの言葉はそれ自体に霊力があると考え、祈ることによって、言葉に内在された霊力が働いて、祖霊や精霊に感応すると考えたのです。
良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされ、そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものです。 「好去好来歌」 言霊の思想は、『万葉集』に見ることが出来ます。上記画像、引用文に見られます。
大意は、「神代の昔から言い伝えて来たことだが、日本の国は、天皇の祖先神の神威がゆるぎない国であり、言霊の霊妙な働きによって幸いをもたらす国だと語り継ぎ、言い伝えてきた。このことは、当時の人々も、みな実際に見てもいるし、知ってもいる」となります。憶良は、日本は「すめらぎのいつくしき国」であるとともに、「言霊の幸はふ国」だとしています。「すめらぎ」と「ことだま」の関係は、天皇(すめらぎ、すめらみこと)は宗教学的にはシャーマンに当たり、言霊を振るって神々に祈るお国柄、國體なのです。
「言霊の幸はふ国」だという認識は、『万葉集』に広く見られ、認識されています。
柿本人麻呂の歌にもあります。
磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊の助くる国ぞ まさきくあれ
(大意: この日本という国は、言霊が助けてくれる国である。幸多かれ)
この歌は、祝福の言葉を唱えるならば、必ずその言霊の働きによって幸いが実現するという信仰に基づいています。
拙稿、両陛下の行幸啓は国見の伝統、皇祖の御神勅 でも述べていますが、畏くも、天皇、皇后両陛下の地方行幸啓の大きな意味は、その地方を「予祝」「祝福」されることにあります。「予祝」とは、あらかじめ祝うことですが、古代日本では、お祝いはめでたいことが起きたからするものではなく、先にお祝いをして めでたいことが起きるのを 予め祝い、そのの結果として祝事が起きると考えられてきたのです。
農耕民族であるわが国は、五穀豊穣、民族の生命線である多産を祈ってきたのです。「祝福」とは、忌み嫌われる言葉を話すと良くないことが起こり、逆に祝福の言葉で状況が好転するというもので、災厄を避けることにもつながります。
わが国の文化を最も良く表わすものの一つが和歌ですが、和歌の奥義には言霊の思想があります。『古今集』の序にもそれが表れています。その冒頭部は、次のように記されています。
「大和歌は、人の心を種として、万の言の葉となれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞く物につけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鴬、水に住む河鹿の声を聞けば、生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛きもののふの心をも、慰むるは歌なり」
最後部分の大意は、「全く力を入れることなく、天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の関係を和らげ、勇ましい武人の心をも慰めるのは和歌である」となります。この「力をも入れずして、天地を動かし」いう一句には、言霊の思想がよく表れています。
『万葉集』は、作者は天皇や貴族ばかりでなく、庶民や防人といった兵士、乞食に至るまで、全く身分も男女も差別がなく、地域も、中央ばかりでなく、地方や辺境の地まで含まれており、文字通り国民的歌集になっています。しかも帰化人も含まれており、国際的な要素もあり、わが国の大らかさが窺えます。
しかも、この歌集では、高貴な身分の人の歌もと、名も無い低い身分の者の歌が隣り合わせに並べられています。こうした例を見ると、『古事記』の日本武尊(やまとたけるのみこと)と火焼きの翁の合作による和歌に行き当たります。日本武尊は、父の第12代景行天皇の命令を受けて東国征伐に出かけて成功し、その帰りに甲斐の酒折宮(さけおりのみや)に立ち寄りました。そこで日本武尊は、
新治(にいはり) 筑波をすぎて 幾夜が宿(ね)つる
と詠いました。するとそこに居合せた火焼(ひたき)の老人が、その後を受けて
日々並(かがな)べて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を
と続けました。
日本武尊は、皇子であり天皇陛下の名代(みょうだい)です。そういう高貴な人が歌った歌の後に、つけ句をしたのが、身分の低い名も無い老人ですが、和歌において、身分の差がなくなり、和歌を合作しているわけです。これが連歌の起源と言われています。
良い和歌を詠むと、身分の高低に関係なく、宮廷で取り上げられ、歌人として遇されました。和歌三神とされている柿本人麻呂、山部赤人、衣通姫のうち、人麻呂は、身分が低く六位以下であり、赤人も下級官吏です。
和歌の前には、天皇陛下も乞食も平等というわが国独特の思想だったのです。
言霊の思想は、古代で消滅したわけではありません。天孫降臨以来、受け継がれている日本古来の伝統です。現代でも、願いは必ず実現する、信念は必ず実現すると信じられています。
言葉の力を信じ、祈りに思いを込めるという点では、現代の私たちにも言霊の思想に通じるものがあるといえるでしょう。
以下、ウィキペディアより引用
「ことだま」 - 言葉の内容
この場合の事象とは、「存在するもの自体=もの」も含む
「ことだま」の例
ことかえ本来、災い転じて福と成す為に、ことかえ を用いる。
言をかえる(替える・変える・交える・換える・代えるなど)ことで事をかえ、まがごとの改善をもたらす。儀式はことかえの効果を祈願して行い、それによってことかえの効果をより上げることができる。
都合が悪い事を揉み消す為にコトカエを行うといった曲解も見られるが、本来はより善良な状態をもたらすことや、まがごとのハネカエシのみに行われる。
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今年3月4日に投稿させていただいた記事の再記載です。
岸壁の母(がんぺきのはは)は、大東亜戦争後ソ連による抑留から解放され、引揚船で舞鶴港に帰ってくる息子の帰りを待つ母親を昭和29年菊池章子が歌ったものです。
ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であったが、時間の経過とともに、毎回、同じ顔ぶれの人々が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になりました。
「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせさんでした。
息子の新二さんは、立教大学を中退し、軍人を志して昭和19年に、満洲国に渡り、そこで関東軍の石頭(せきとう)予備士官学校の生徒なります。
関東軍というのは、日本の関東地方とはなんの関係もない名称で、日本が支那から租借した遼東半島のあたりが昔、支那で関東州と呼ばれていたことから、この地方の守備隊として関東軍の名前がついたのです。 牡丹江省にあった関東軍石頭予備士官学校は、生徒数3600名、教官は半数が尉官か見習い士官という陸軍の予備士官学校でした。 昭和20年8月9日未明、突然、一方的に日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が、満洲地方になだれ込みます。 以下の動画は、熊本出身で、ソ連と満州との国境近くにあった「関東軍石頭予備士官学校」の士官候補生だった荒木さんは、終戦時21歳。大東亜戦争後、シベリアで強制的に抑留された旧日本軍将兵、大阪府河内長野市の荒木正則さん(87)。 強制収容所に送られ、時に氷点下60度以下という酷寒のなか、第二シベリア鉄道の工事に強制的に従事させられた。
「民族の悲劇といえる抑留の史実さえ、忘れ去られようとしている現状を憂い、多くの若い世代にぜひ真実を伝えたい」と作られたものです。関東軍石頭予備士官学校生徒3600名が如何に戦い、武装解除した我々の先人に対し、ソ連が非道な行いをしたかお解りいただけると思います。
12月11日 シベリア強制抑留・日本民族奴隷の悲劇 3600名の生徒は2組に分けられ、歩兵砲、機関銃隊1600名は、荒木連隊長の指揮下に、残り1600名は学校長小松大佐のもとに、東京(とんきん)城に布陣しました。 対する敵のソ連軍は、投下兵力158万人の大部隊でした。兵力は2つに分けられ、第一極東戦線は、メレンコフ元帥が直接率いました。 第一極東戦線だけで、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3500門、ロケット砲430門、戦車約1000両、他に空挺部隊などを持つ、ソ連最強軍団でした。対する当時の関東軍は、必要な武器弾薬兵器を南方戦線、本土決戦にことごとく送っていて、極めて悪い状態でした。 互角の装備では、日露戦争や、それ以降の国境付近の衝突事件等では、ソ連は日本に敗れています。だから日本軍が怖かった。状況をはっきりと掴んだ上で、ソ連軍は158万の大兵力、新鋭武器を投下してきています。 当時の満洲に残った関東軍に残されていたのは、不十分な武器、弾薬以外にインフラ整備に使うダイナマイトくらいしかなかったのです。 東京(とんきん)城方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万の大軍。歩兵銃の弾もろくにない、重機関銃の弾薬さえも欠乏している石頭予備士官学校の生徒たち3600名が迎え撃ったのです。 このときの戦闘の模様が、当時まさにその石頭予備士官学校の生徒であった高崎弥生氏の「実録 遥かなる回想」に記載されています。 以下、引用します。 支給された爆薬は、ランドセルくらいの大きさで、中にはダイナマイトがびっしり詰まり、30cmくらいの導火線がついていた。 上記の動画にもこの「磨刀石の戦い」の様子は紹介されています。 この戦いで、「岸壁の母」で歌われた端野いせさんの息子、端野新二候補生も、消息を絶ちました。 候補生のみなさんは、十分な装備も武器もなく、戦えるだけの武器も弾薬もなく、あるのは、少量の武器弾薬とダイナマイトだけだったのです。しかも圧倒的兵力差。 候補生のみなさんは自分たちがここで一日でも、一時間でも、一分でも多く敵を釘づけし時間を稼ごうとされたのです。 ソ連の南下により、続々と避難している在留邦人たちが、すこしでも早く、すこしでも遠くまで安全に逃げ伸び、日本に帰還して欲しいの一念だったのです。 候補生のみなさんは、立派に戦いました。命令があったから散華されたのではありません。崇高な使命、同胞を思うこころ、祖国のために、戦ったのです。 先日、拙稿筆者が涙した演説 の中で、三木けえ先生が熱き思いを込められ、訴えられたのはこの精神です。 候補生のみなさんは、今でいう成人式を迎えたばかりの世代です。 今の日本を見られたら何と仰せでありましょうや?・・・ 端野いせさんは、昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてられ、新二さんの生存を信じながらも昭和56年7月1日午前3時55分に享年81歳で亡くなられました。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話され、一瞬たりとも新二さんのことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った「岸壁の母」を歌った二葉百合子さんが語っています。 石頭予備士官学校候補生のみなさんの気高い魂を、彼らの勇気を、私たち日本人が語り継がないで、いったい誰が語り継ぐのでしょうか。そして、武装解除した多くの日本軍将兵を厳寒の地に抑留し、日本人女子に対する強姦、殺戮、動物以下の扱いをしたソ連。ロシアに再び国名を変えても、卑劣さは何ら変わっていないロシアのお国柄も忘れてはならないでしょう。 いつか日本国民のすべてが靖国の英霊に感謝の誠をささげ、国を護るという気概を持ち「後に続く」精神を継承することを願ってやまないのです。 |





