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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

書庫誇り高き日本

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現代社会は、先人たちから継承した文化の上に成り立っているものであるといえます。人間的な生活の基本要件と言われる「衣・食・住」が、国や地域によって大きく異なるのは先人たちが気候風土に合わせて育んできた文化が根底にあるからなのです。

伝統文化と呼ばれる文化は、長い年月の中で出来るだけ原型をとどめるように先人たちが努力を重ねてきた結果に受け継がれたものといえます。そのため、現代の風潮にそぐわない側面も散見されますが、「伝統を受け継ぐこと」の尊さを感じさせる文化が多いのも一つの特徴であるといえます。

往古の昔、我々の祖先は、すべてのものに魂が宿ると信じていました。
米には稲魂(いなだま)、木には木霊(木魂・こだま)、言葉には言霊。国にも国魂があるとされました。皇祖、天照大神は光の魂であり、日霊である。その神や国の魂をフレッシュにすれば、わが国は若々しく、いよいよ栄える。つまり弥栄(いやさか)になるとされた。

神宮の式年遷宮は、20年ごとに日本の国の魂を生まれ変わらせることによって、国家が若返り、そのことにより永遠を目指そうとしたのです。これは「常若(とこわか)」という言葉で表しました。
常若というのは、『古事記』や『万葉集』にある「常世(とこよ)」と同じようにめでたいことである。室町時代の古文書にはしばしば出てきて、いつも若々しいこと、永遠に若いことを意味する。それはまさしく神宮の式年遷宮の目指す理念なのです。
すべてのものは古くなり、汚れ、やがて廃墟となるのは世の定めです。
だから新しく隣に造り替えるしかありません。遷宮は、単なる神様の引越しではなく、生まれ変わりではあるのだが、死んでよみがえるのではない。いったん死んで復活するという、西洋の“神の死”とは根本から異なるのです。
太陽を神とあがめるのは世界に共通した古代信仰ですが、わが国では太陽を、絶対になくてはならない、立派で明るく、優しい祖先の女神としてイメージしてきたのです。そしてその象徴である太陽は、宇宙を照らす一個の存在ですが、毎日新しい朝日が東の空に生まれてくると信じて我々日本人の祖先は崇め、拝んできたのです。
皇室は皆さんご存知のように、天照大神を祖とします。
宇宙を照らす一個の存在である太陽のように、我々日本人にとって皇室は、唯一無二の存在であり、失ってはならない伝統、日本国そのものなのです。

日本人である以上は、日本の伝統を大事にしたい。
皇室のこと、日本の歴史のよい面、自己を犠牲にしながら社会に尽くした偉人、そういうものを子どもに伝えていきましょう。

大東亜戦争後、自らの「祖国」に対して、傍観者が増えました。その原因は多岐に渡りますが、
 終戦後、政府、指導者の立場の人が日本の再建に努力されました。しかし、日本人として何が正しいか、何を考えねばならないかという、いちばん肝心な精神面を放棄してしまったのです。
 我々は日本人に違いない。日本人である以上は日本の伝統は非常に大事なものです。
 
 先祖代々を考えてみましょう。筆者やこの記事をご覧いただいている読者の方々の先祖代々は、極端にいえば何千年も続いている。何万年も続いているかわかりません。
 10代をさかのぼってみましょう。その10代の人の中には、立派な社会人として、国民として、御国に貢献されたもいらっしゃるでしょう?先祖の2代目の人はこうだった、3代目はこうだったと、あなた自身も非常にほほえましく、そこに誇りを感じるものがあるでしょう。

「うちの先祖のだれとだれはこういう社会的な貢献をした人であり、子供にも、大きくなったら先祖のようになろう」と教え、自らも身を律すれば何物にも代え難い教育となります。

我々は日本人です。惟神(かんながら)の道、神の子です。
日本の歴史と伝統を学び、継承し、筆者は真の「伝統を受け継ぐこと」を感じて、誇りとして欲しいと願ってやまないのです。





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日本人とは・・・

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国生み神話



昨年11月に投稿した記事の再投稿です。



古来、日本人は、森羅万象すべてに神々が宿ると信じ、崇敬してきました。また他者に対しても、同じ運命を背負う人間仲間として捉え、深く共感できたのです。そこから、「思いやり」「いたわり」という優れた感性が芽生え育んできたのです。
無常とは、元来仏教用語ですが、他の仏教国では捉え方が異なります。
いかに権勢を振るって栄耀栄華を極めようとも、多くの権勢なき人々と同じように、やがて死を迎えます。
未来永劫、盛者であり続けることなどできず、無常を知ればこそ、敗者や弱者の姿に、明日のわが身を見る思いがして、敗者への思いやりとか弱者へのいたわりといった感情が湧き上がるが、日本人だけが持ち得る感性なのです。
 
武士は侍とも書きます。もののふともいいます。
またその語源は天孫降臨された皇祖ニニギノミコトより前に天孫降臨されたとされるニギハヤヒミコトを祖とし、大和朝廷では国の軍事氏族として活躍した、物部氏(もののべうじ)とされてます。
侍=その文字が示すとおり、もともと高貴な人に侍り、その身辺警護が仕事でした。役目柄、要人より華美な振る舞いは許されず、常に死を覚悟していなければなりませんでした。このことが質実剛健な精神構造を生み出し、支配階級となったあとも、「武士道」として武家社会の規範になっていきます。明治維新で武士階級はなくなりましたが、代わって徴兵制が採用されたため、武家だけの「武士道」からむしろ国民全体にも拡がり、大東亜戦争終戦まで、日本人の精神的支柱であり続けました。

武士道における価値観は、西洋とでは対極をなします。

          

・新しいものよりも古いもの
・華美よりも質素
・物質的な豊かさよりも精神的な豊かさ
・私よりも公( 滅私奉公)
・動よりも静
・剛よりも柔
 
自分の命より名誉のほうを重んじ、それに増してすばらしいのは、「惻隠の情」(そくいんのじょう)(かわいそうに思うこと。あわれみ)に高い価値を見出していたことです。弱い者いじめや敗者に鞭打つなどの卑怯を最大の恥とし、弱者敗者をいたわり、護ってやるのが武士の情でした。

戦後、アメリカ的価値観を妄信する人が増え、武士道精神は急速に忘れ去られようとしています。軍国主義と結びつけて、頭ごなしに非難する人たちもいますが、しかし、卑怯者がはびこる現代社会にあって、かつての凛とした日本を取り戻すためには、「武士道」を蘇らせるしかないとおもうのです。
 
人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはなりません。これらが、 『斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)の神勅』と繋がっているのです。
 
一人の人間は、小さな能力しかなく弱い存在なのに、なぜこの地球上に人類が君臨しているのでしょうか。太古の昔から、助け合うことが力になる、という知恵をもっていたからです。原始時代の人々は、火を熾せるようになり、道具を使うことも覚えました。皇室のご祭祀は、火を熾すことから始まります。古代さながらの鑽火(きりび)(堅い板に棒を揉み込み自然に起す清浄な忌火)で行われます。
そして神聖なものと崇められています。また、全国各地の神社の新嘗祭でも、新穀を得たことを神様に感謝し、境内で火を焚き上げ、火の災いを鎮める祭りが行われています。
 
人には必ず両親がいます。父母各一人の合計二人です。その両親にも両親がいます。自分からみれば、祖父母にあたる人です。父方と母方の祖父母各一組合計四人です。祖父母、つまり三世代前程度でしたら多くがご存命でしょうからすぐ思い浮かびますが、何世代前になるともうわかりません。
では、20世代前に遡ると何人になるでしょうか?
52万4288人、さらに30世代前になると5億3687万0912人、40世代前では2748億7790万6944人になるのです。
世代間年数を二十年とすると、20世代前で400年、30世代前で600年、40世代前では、800年前になります。
800年前は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて19年後にあたります。人一人のご先祖様が800年前まで遡ると2748億7790万6944人もいるのです。
勿論、我国の人口が鎌倉時代初期に2748億も存在するわけがありませんから、同一人を重複して数えることになります。
 同じ父母から生まれた兄弟姉妹。または、同じ国土に生まれた人々、同じ国民、また、同じ民族のことを同胞(どうほう)といいます。
上記の数字からも、日本人が殆ど、血の繋がりのあることの証左でもあります。
系図のなかった庶民では辿りようもありませんが、間違いなく同じ父母から生まれているのです。数多くのご先祖様のうちたった一人でも欠けていたら、今の自分は生まれてこれなかったはずです。これは生命の奇跡としか言いようがありません。一人一人の生命はやがてつきます。しかし、生命そのものは親の代から受け継ぎ、子の代へと引き渡されていきます。
 
筆者が子供の頃には、どこの家庭にも神棚と仏壇があり、日常の明け暮れに神仏に祈り朝日に手を合わせ、夕日に感謝する親や祖父母の後ろ姿がありました。
勿論、お正月、国の慶事には、国旗がどこの家にも掲げられていました。

そして、食べ物と大切にしていました。
一粒でもご飯を食べ残したり、好き嫌いを言うと「もったいないと、親は子供を叱りました。食べ物や、ものに対して「いただきもの」「さずかりもの」と天地自然への感謝の気持ちをいつも忘れませんでした。みんな昔話になってしまったのでしょうか。ほんの40年前のことです。

 「ご先祖さまに顔向けできないようなことを、してはいけないよ」親の言葉が頭のどこかにあるから、自制心がはたらき、悪いことをしょうと思ってもできません。「おてんとさま(お天道さま)が見ているよ」おじいさん、おばあさんの口癖が、いつも心の片隅にあり、心に残っています。

親や祖父母の教えが、「生き方の規範」になって、より良き行いをしようと心掛けます。かって人々は「人の道」という、歩むべき方向を持ちあわせていました。

 ご飯を食べ残したり好き嫌いを言っても、最近の親達は「もったいない」と叱らなくなりました。子供は食べ物があふれているのに、自分好みの品を求めてとめてコンビニに行きます。 

精神の不安定な時期にある青少年の自暴自棄の行動、大人達の自分勝手な独りよがりの行い、失望と絶望、人々はさまざまな心の不安を抱きながら、日々明け暮れしています。 

現代人は老いも若きも「生き方の規範・人の道」という、心のよりどころを持たないから、ストレスで心身を病み、自信を喪失し、ささいなことにつまずいてしまいます。

 「もったいない」という言葉をつぶやきながら、天地自然に手を合わせても、いいのではないでしょうか。
「ご先祖さまに顔向けできないようなことを、してはいけないよ」 「おてんとさまが見ているよ」「神さま、仏さま、ご先祖さま、おてんとさま」と拝む、日常行動があっても、いいのではないでしょうか。

経済や政治・社会情勢に押し流されるようでは、潤いのある生活はできません。昨今のように混迷する社会情勢のもとでは、人々は目先のことばかりに心うばわれます。そんなご時世であればこそ、なにか大きな恐れるもの、畏敬の念を抱くものがあれば、かえって安心します。

神仏や、天地自然に手を合わせる、積極的な行動によって、
子供達は健やかに成長し、大人達は希望と自信をとりもどし、安らぎを得ることができるでしょう。
 
かっての日本人とは、そのような民族だったのです。
そして、その時代のほうが、皆幸せであったように筆者は思います。
今一度、大らかで、高貴な、こころ優しい日本人の戻ってみませんか・・・
子孫の為にも・・
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7月30日は明治天皇崩御より百年にあたる式年祭が、宮城(皇居)、明治神宮でも行われました。同時に大正元年より百年にもあたるのです。
 明治天皇が崩御して、皇太子嘉仁親王殿下(のちの大正天皇)が践祚あそばされ、改元の詔書を公布、即日施行して、同日は大正元年7月30日となった。
 
「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「亨以、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)からで、大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案がありましたが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定しました。
大正時代は、明治維新に関わり、明治日本を作り上げた、江戸時代生まれの人々が引退・他界していった時代で、試験選抜され高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担う時代でもあったのです。
 
筆者は一昨日、「大正」生まれの世代の方と接する機会を与えていただきました。
大東亜戦争にも出征された方でしたが、今日のわが国の惨状を心より、憂いておられました。
「五箇条の御誓文」「教育勅語」をご高齢になっても暗誦され、現世の日本に足らないものを指摘されました。
それは、「五箇条の御誓文」「教育勅語」の精神、すなわち日本の魂を忘れたことだと・・・
以前にも本ブログでも述べさせていただきましたが、筆者は若い頃より、明治、大正を生きた方々との交流を進んで行なっています。
戦後世代から見て、「大正日本人」は「頑固一徹」にしか映らないでしょうが、最後の「武士道」精神の表れでもあるのです。
 
大東亜戦争の主力となった大正生まれの若者たちは、国を護り、家族を守るため、同胞を守るため、凄(すさ)まじい闘志で自分の命を投げ出していった世代でした。
その闘志が支えた日本軍の強さは世界各国の知るところです。彼らは戦後も黙々と働き続け、焦土と化したわが国の復興と経済成長の原動力にもなったという事実です。
GHQや心無い反日左翼が宣伝した日本・日本軍悪玉論に染まった戦後社会は、「他人のために生きる」という「大正日本人」生き様をも貶(おとし)めてきたのです。その結果、安易に《権利》《癒やし》を求める人間があふれ、大正世代が現役を退くと同時に「失われた20年」が始まったのです。大正世代の方々は激動の時代を生き抜き、今辞世の時を迎え、去ろうとしています。
 
「大正日本人」の方々はほとんど、同じことを言われます。
「現状では亡国、でなければ戦争は必ず起きる、日本が戦争を捨てても、戦争は日本を捨てない」と・・・・
そして、わが国は「未だ占領下」だと・・・
 
わが国を護り、支えてきた、先人、先祖、護国の神々に感謝の誠さえ捧げられない国民に未来はあるのか?と筆者に問われ、「後は頼んだぞ」と仰せになりました。
 
一人、また一人と去っていく「大正日本人」・・・尊敬、敬意、感謝をもって見送りたい。
そして、「後に続く」の決意を新たにした次第です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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明治丸





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明治天皇 御座所(明治丸)



カレンダーには今日16日が、「海の日」と記載されています。
しかし本来は、7月20日が海の日なのです。

そのことを覚えている人がどれだけいるだろうか?

そもそも海の日というのは「海の恩恵に感謝し、海洋国家日本の繁栄を祝う」ために国民の祝日とされたのであるが、その経緯等については広く知られていません。

もともと「海の日」は、戦前の一時期に設けられていた「海の記念日」であり、明治9年に東北・北海道へおよそ50日に及ぶ御巡幸に臨まれた当時23歳であられた明治天皇が、明治丸で横浜に帰港された日に因(ちな)んだものでした。

御巡幸その目的は、戊辰戦争に敗れて以降、艱難辛苦(かんなんしんく)の日々を送っていた人々を天皇みずから慰撫(いぶ)し激励するためにほかならない。出発は6月2日、馬車で福島から仙台、岩手、青森と北上、次いで明治丸で津軽海峡を渡り、函館を経て三陸沖を海路戻るというコースを辿(たど)っている。
この間、東北の人々は御巡幸の先々で奉迎した。天皇も各地で開墾や産業の振興に尽くした功労者をねぎらわれている。郡山では、荒野を拓(ひら)いてできたばかりの桑野村まで分け入り、開拓者の苦労話に耳を傾けられ、5万円を下賜された。
弘前の東奥義塾では外国人教師による英語教育が行われていて、生徒10名が英語による発表を披露。天皇はその進取の気象に感心され、ウェブスター辞書を買う代金にと一人につき金5円を与えられたという。
また或(あ)る時は、小学生が献上してくれた蛍一籠を嘉納され、岩手では太布半纏(ふとのばんてん)と呼ばれる農民の仕事着まで買い上げられた。東北の人々との間に親しく絆を結ぼうと努める君主の面影が偲(しの)ばれる。


明治維新による、戊辰戦争で幕府に恩義を感じ、抗戦し、敗れた多くの東日本の雄藩は、新政府に参政することなく、辛苦の日々を送っていました。
賊軍の汚名を着せられた多くの人々は、新政府に対して言いたいことは山ほどあったはずです。
しかし、彼らは新政府への非難も、自己弁明もせず、自らの運命を引き受けていました。
その抗い難い天命をも潔く受け入れる、そのことで國全体が保たれるのであるのならば、自分自身の悲運は甘受する。
日本國が新たな方向に進む時に犠牲が必要で、自分が犠牲となる立場になったら、その立場を引受けるという覚悟、自分の利益、責任放棄はなく、自分が逆の立場になった時も、身命を賭して任務に就く、当時の雄藩の方々は実に立派でした。
このことを、明治天皇はご存知でありました。
ご巡幸は、陛下と東北の人々の絆を結び、深める「心の巡幸」でありました。
実に尊き叡慮でありました。
今日のように交通機関、道路が整備されていない当時、ご巡幸も玉体に鞭打ってのことであったことは推察できます。
天皇陛下はいつの時代も臣民とともあられます。
このような由緒を持つ記念日がハッピーマンデーなる不見識な制度によって不明となりつつあるのは返す返すも残念でならないのです。


平成15年、景気低迷の打開を図るためにアメリカの月曜日祝日法を真似たのか、三連休を増やすために「海の日」が7月の第3月曜日に移動されたのである。

元来、祝日というのは祝日法により「国民挙って祝い、感謝し、又は記念する日」とあるのに、感謝したり記念する日が毎年変われば、何に感謝したり何を記念したりするのかが、よく分からなくなってしまわないだろうか。

戦後GHQにより「紀元節」→「建国記念日」「明治節」→「文化の日」、「新嘗祭」→「勤労感謝の日」のように祝日の名称を変更され、レジャーのために祝日の日付けまで移動し、元から祝日の意味を考えるような教育が少なかったためか、もはや、「祭日」「祝日」「休日」の違いを語れる人間も少なくなった。


もっとも、祝日と祭日の意味を説明できないことは必ずしも責められないのです。戦後の学校教育では祝日・祭日の意義を教えられることはなく、教科書のどこにも書いていないからです。
 戦前の教科書はきちんと教えられていました。修身教科書では、「祝日・大祭日」「春から夏へ」「秋から冬へ」「新年から春へ」などの項目で、祝日・祭日の由来と意義が詳しく記述され、教えられていました。
 例えば「祝日・大祭日」では、11月23日の新嘗祭(にいなめさい)を次のように説明している。

 「此の日には、宮中の新嘉殿(しんかでん)で、神々に初穂をお供へになつて、天皇陛下御みずから、新穀を召上ります。(中略)祝日と同じく、我が国にとつてまことに大切な日で、宮中では、天皇陛下御みずから、おごそかなお祭をあそばされます。ことに新嘗祭には、霜の白く置く頃の寒い夜を明け方にかけて、御みずから、ごていねいに神々をお祭りになり、今年の秋のみのりのお礼を、神々に申し上げさせられます」

修身教科書での祝日や大祭日の記述は、「国旗」「君が代」などの項目との関連も強く意識されていました。

大東亜戦争直後、日本人は占領されるということははどういうことかを嫌というほど知らされた。GHQから占領基本法(日本国憲法)を一方的に押しつけられたことはその最たるものだったが、「祝日」が全面改定されたこともそうです。
例えば明治天皇の誕生日だった明治節の11月3日がなぜ「文化の日」なのか、皇室の祖霊を祭る春季皇霊祭がなぜ「自然をたたえ、生物をいつくしむ」(国民の祝日に関する法律)「春分の日」となったのか、理解は難しい。
我々日本人が「感謝」する対象は、建国以来国家の中心であり、日本国そのものであられる歴代天皇陛下、今上陛下であり、皇室とともに歩んできた祖先・先人ではないでしょうか?
戦前の祝日は、祝日と大祭日を併称したもので、正式には「祝日大祭日」といいました。祝日として四大節、新年宴会、大祭日として七祭の計十二日が制定されていました。


〔祝日〕
四方拝(一月一日、四方節とも言います)
紀元節(二月十一日)  (建国記念の日)

 天長節(天皇誕生日。四月二十九日) (昭和の日)
 明治節(十一月三日。明治期の天長節)(文化の日

新年宴会(一月五日)

〔大祭日〕
元始祭(一月三日)
春季皇霊祭(春分の日)
神武天皇祭(四月三日)
秋季皇雲祭(秋分の日)
神嘗祭(かんなめさい・十月十七日)
新嘗祭(にいなめきい・十一月二十三日)(勤労感謝の日 )

 大正天皇祭(十二月二十五日)

かつての日本人は祝日大祭日やその意味や素晴らしさを十分に理解していました。新しい祝日が制定される前、政府が行った「どんな祝日がいいか」という世論調査で「新穀に感謝する日」が約64%の支持を集めたのは即ち皇室の祭祀を尊ぶ精神の現れでもあります。

本当の祝日の意味も理解せず、何でもかんでも反対運動をした、当時の社会党、共産党などの議員、似非文化人、反日マスコミなどにより捻じ曲げられた正しい史観。
すべての物事には原因があり、結果があります。近年のわが国の世相の荒廃は、捻じ曲げられたままの歴史をそのままにしてきたことの結果であり、現在いじめ問題で混乱している教育現場の荒廃も「教育勅語」「修身教育」を破棄した結果でもあります。
「教育勅語」「修身教育」世代の方々が占める人口の割合も少なくなってきました。
筆者はこの世代の方々との交流を進んで行なっています。多くの方々が今日のわが国の混迷の原因を「お国柄を否定した結果」だと言われます。
実際、
「教育勅語」「修身教育」世代の方々が一線を退かれ、世代交代した途端に混迷が始まっています。
祝日に国旗を掲げなくなった時代とも整合します。

そして、「日本人は日本人らしく」と多くの方々が言われます。
近代を切開いた明治日本の象徴でもあられる明治天皇の崩御より、今年が百年の式年にあたります。

祝日・祭日の由来と意義を正し、「お国柄を正しく伝えよう」ではありませんか。





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先帝陛下、香淳皇后陛下 御尊影



「大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなばら)は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和(やまと)の国は」


[現代語訳:大和には多くの山があるが、とりわけ立派なのは天の香具山であり、その頂(いただき)に登り立って国見をすれば、国土には煙が立ちのぼり、海上には鴎(かもめ)が羽(は)ばたいている。なんと豊かで美しい国であろうか、この大和の国は]
[※「蜻蛉島」は「大和」にかかる枕詞(まくらことば)です]


スマラミコトと呼ばれた古代から天皇は国見をなさることによって我が国が永久(とわ)に栄えることを願われ続けてこられているのです。『古事記』の仁徳天皇の章に「民のかまど」の故事があります。先帝陛下、今上陛下ももちろんそのお一人であり、ご巡幸、行幸啓における陛下の大御心(おおみこころ)は、皇室と臣民の紐帯を深め、我が国に大きな繁栄(はんえい)をもたらしました。

大東亜戦争後の奇跡の復興や高度経済成長にしたところで、国民全体をやる気にさせる「何か」がなければ、ここまでの経済大国に成長できることは有り得なかったでしょう。では、国民を「やる気にさせた」ものとは一体何だったのでしょうか。
勿論、教育勅語による教育を受けられた世代の国思う精神の精華(せいか)でもありましたが、国民のこころを一(いつ)にされたのが、「先帝陛下のご巡幸」によるものなのです。

先帝陛下のご巡幸は昭和21年から29年まで続き、当時アメリカに占領されていた沖縄を除いた北海道から鹿児島まで全国を駆(か)け巡(めぐ)られました。その道中(どうちゅう)ではGHQの当初の思惑(おもわく)とは異なり、各地で国民の熱狂的(ねっきょうてき)な歓迎をお受けになり、陛下がご巡幸の際に直接お声を掛けられた人々は2万人にものぼりました。

ご巡幸において人々を励まされ、人々と共(とも)に悲しまれ、そして涙を流された先帝陛下のお姿を間近(まぢか)に拝見(はいけん)した国民は大いに感激するとともに、陛下の大御心に恥(は)じないように自分たちも頑張(がんば)らなければいけないという気持ちが自然と芽生(めば)えていきました。

大東亜戦争から復員された方々の「靖国の英霊の分まで御国の為に頑張らねば」との熱意がやがて華開くのです。
多くの国民が共通して抱(いだ)いた熱意は、陛下がご巡幸を終えられた昭和30年代になって一気に爆発(ばくはつ)して復興への目覚(めざ)ましいエネルギーとなり、国民全体の大きな「やる気」となって我が国を引っ張り、高度経済成長、そして経済大国への道を切り開いたのです。


何事においても、物事の結果には必ずその原因が存在します。我が国の戦後復興の根本(こんぽん)には昭和天皇のご巡幸があることを、私たちは感謝するとともに決して忘れてはならないでしょう。


時は流れて終戦から30年以上が過ぎ、世界に比類(ひるい)なき経済大国となった我が国でしたが、その一方で道徳などの教育や我が国独自の安全保障問題といった重要な課題を疎(おろそ)かにしたツケが、やがて国や国民に対して重くのしかかることになりました。
昭和60年、当時の中曽根康弘首相が終戦記念日の8月15日に靖國神社を公式に参拝した際に、シナや韓国といった特定の国家の猛反発(もうはんぱつ)を受けたことで、以後10年以上にわたって、国政における最高権力者が我が国のために尊(とうと)い生命を捧(ささ)げられた多くの人々の御霊(みたま)をお慰めできないという異常事態を招いてしまいました。拙稿、靖国神社(一) 靖国神社(完) でも詳しくのべさせていただいておりますが、靖国問題は「国防問題」であり、「日本人の精神問題」でもあるのです。

翌昭和61年の終戦記念日の際に、先帝陛下は以下の御製をお詠みになっておられます。

「この年の この日にもまた 靖國の みやしろのことに うれひはふかし」


先述したとおり、昭和20年代、全国をご巡幸なさった先帝陛下でしたが、昭和47年にアメリカから返還(へんかん)された沖縄県へのご巡幸が達成できていませんでした。昭和62年に沖縄で秋の国民体育大会が行われることになり、開会式の御親覧も兼(か)ねてようやく念願のご行幸が実現できると思われましたが、その直前にご不例によって中止となってしまいました。“沖縄ご巡幸成る”を目前にした九月、陛下は大手術を受けられました。麻酔から覚めた陛下の第一声は「もうだめか……」であったと言われています。いいえ手術は成功いたしましたという担当医のご返事でしたが、その叡慮は陛下ご自身の御身のことでなく、沖縄ご巡幸のことでした。「ようやく念願の沖縄へ行ける……」沖縄の地に立って県民はもとより激しい戦争に逝った霊方に万感のお思いでもって臨まれようとしていらした陛下の願いは断(た)たれたのでした。

先帝陛下のご無念の叡慮は、以下の御製で私たちもうかがい知ることができます。


「思はざる 病(やまい)となりぬ 沖縄を たづねて果(はた)さむ つとめありしを」

(大意)
おもいもよらず病をえてしまった。私は沖縄を訪問し、果たさなければならない「つとめ」があるのに、、
私は沖縄に行かなければならないのに、病をえて沖縄にいけずにいる。


当時も今現在も沖縄は複雑な状況にありますが、陛下の叡慮をどれだけの沖縄県民が理解しているでしょうか?

8月15日に日本武道館で行なわれた全国戦没者追悼式(ぜんこくせんぼつしゃついとうしき)に際して、先帝陛下はご療養先の那須御用邸からヘリコプターで駆けつけられましたが、そのやつれたお姿に対して多くの国民は息をのみ、涙しました。この日の陛下の御製は以下のとおりです。

「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」


御用邸から宮城に戻られて間もない9月19日の夜、先帝陛下は大量の吐血をされてご重体となられました。天皇陛下のご不例(ふれい)に際し、各地で計画されていた祭りや祝賀行事が一斉(いっせい)に中止になるなど、日本国内は自粛(じしゅく)モード一色になりました。

その余りもの自粛ぶりに、一部の不忠な国民や反日マスコミからは不満の声も上がりましたが、国民のことのみをずっとお考えになり、自らを顧(かえり)みられることのなかった陛下がご重体となっておられるというのに、何も考えずに馬鹿騒(ばかさわ)ぎをすることが果たして許されるでしょうか。陛下のお見舞いのため皇居へ記帳(きちょう)に訪れた国民の数は、ご不例から3ヵ月間で延べ800万人を越えました。多くの国民は君民の紐帯を失っていませんでした。


先帝陛下のご容態はその後も芳(かんば)しくない日々が続きましたが、そんな中でも陛下は国民のことを第一にお考えになっておられました。この年の我が国では秋の長雨が続いていましたが、そんなある日、雨音を耳にされた病床の陛下が「雨が続いているが、稲の方はどうか」と米の作柄(さくがら)を案じられました。


昭和64年1月7日午前6時33分、昭和天皇は崩御(ほうぎょ)されました。
先帝陛下崩御に際して、多くの国民が悲しみに包まれました。崩御から約1ヵ月半後の2月24日に新宿御苑でおごそかに行なわれた大喪の礼では、折からの氷雨(ひさめ)にもかかわらず、世界164ヵ国、27国際機関からの弔問使節が世界各国から参集しました。

わずか半世紀近く前に世界の多くの国を相手に激(はげ)しく戦った国の元首であるにもかかわらず、恩讐(おんしゅう)を越えて、先帝陛下に弔意(ちょうい)を示したのです。また、宮城から新宿御苑へ続く6.5kmの雨の沿道(えんどう)において、先帝陛下をお見送りした国民の数は実に60万人にも及びました。


昭和という激動の時代に御在位され、国家元首として我が国を支えてこられた先帝陛下。陛下が果たすことがかなわなかった沖縄へのご巡幸は、今上陛下によって平成5年に実現されました。そして崩御から18年後の平成19年、先帝陛下のお誕生日(たんじょうび)である4月29日は「激動の日々を経(へ)て、復興を遂(と)げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」との目的で、新たに「昭和の日」として蘇(よみがえ)りました。


昭和が終わって早や23年の歳月(さいげつ)が流れましたが、国民とともに歩まれた先帝陛下の大御心は、今もなお、そして永久に心ある国民の心の中に生き続けていくことでしょう。


「思はざる 病(やまい)となりぬ 沖縄を たづねて果(はた)さむ つとめありしを」

先帝陛下、今上陛下の叡慮を沖縄の方々は今一度噛みしめて欲しいと願ってやまないのです。



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