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五箇条の御誓文 (国立公文書館)


今や我国の政治は「政治ごっこ」の様相を呈しています。
国民不在の政局に明け暮れ、祭政一致とは程遠いお粗末な政党政治に成り下がっています。明治人は気骨があり、政治家も国民も素晴らしかった・・・・

 
国是(こくぜ)とは、その国の大部分の政策の方向性を決定付ける、国民の支持を得た方針のことであり、基本的には長期的に維持されます。国是を知ればその国の性格がある程度知ることができると言われています。
建国後そのまま国是としているケースも多く、その国の歴史と密接に絡んでいるのが常であるため、その国の国是を理解するには、その国の歴史を学ぶ必要があるります。

経綸(けいりん)とは、国家の秩序をととのえ治めることをいいます。
近代日本が国是を示し経綸を為したのは明治維新です。
 
 
 

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                     明治天皇陛下  御真影


慶応4年 (明治元年) 3月14日(1868年4月6日)、明治天皇陛下は、「五箇条の御誓文」を発表あそばされた。政治の御一新に当たり、明治天皇陛下が国家の大方針を示されたのです。
御誓文は、次のようなものです。


一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道にくべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆にじ、天地神明に誓、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ。

 次に、現代語訳を示します。
一、会議を開き、多くの人の意見を聞いて政策を決める。
一、身分の上下に関係なく、心を合わせて、政策を行おう。
一、公家、武士や庶民の区別なく、国民の志がかなえられ、失望のない社会にしよう。
一、これまでの慣習をやめ、国際社会の習慣に従おう。
一、新しい知識を世界の各国に求め、国家を繁栄させよう。
 わが国は、未曾有の大改革を行うので、私はみずから先頭に立ち、天地神明に誓い、重大なる決意を持って、国家の大方針を決め、国家・国民の安定を図る道を確立するつもりである。国民の皆さんにもこの趣旨に基づいて、心を合わせて、努力をお願いしたい。


「私」とは、明治天皇陛下です天皇陛下が天地神明に誓って、国是すなわち国家の大方針を決められ、これを国民に発表され、国民に心を合わせて努力してほしいと呼びかけられたのです。

徳川幕府より朝廷に大政奉還があり、、王政復古がなされたとき、明治天皇陛下を中心とする新政府は、新しい日本の方針を国民に示す必要がありました。その方針案を起草したのが、当時、新政府参与という役職にあった由利公正翁です。


由利公正翁 像


由利公正翁は、本ブログの拙稿、「大義を世界に」でご紹介した横井小楠翁の弟子であり、坂本龍馬とも親交がありました。
由利翁の方針案には、自ずと小楠や龍馬の思想が現れていると考えられます。
由利公正翁の師・横井小楠翁は文久2年、松平春嶽公が政事総裁職に就くと、春嶽に従って幕政に参加、小楠翁は、幕政改革の方針を「国是七条」として建議しました。次の七条です。
一、大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。
一、諸侯の参勤を止めて述職となせ。
一、諸侯の室家を帰せ。
一、外様・譜代にかぎらず賢をえらび政官となせ。
一、大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ。
一、海軍おこし兵威強くせよ。
一、相対交易をやめ官交易となせ。


七条の中で「大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ」という条文は、「御誓文」の骨子の一つとなり、御誓文の「智識を世界に求め」は、小楠翁が『国是三論』で説いた「智識を世界万国に取て」から採られたものとみられています。小楠翁はまた同書に「一国上の経綸」という章を設け、経済について論じました。その影響を受けた由利公正翁が、御誓文の草案に「経綸」の語を用い、御誓文の「盛んに経綸を行ふべし」に結実しました。


坂本龍馬 像



文久3年4月、坂本龍馬は、勝海舟の使いで福井藩の松平春嶽公を訪れました。目的は海軍の軍資金の調達が主でいたが、、龍馬は、「海軍おこし兵威強くせよ」と説く小楠翁の助力を受けて、多額の軍資金を得ることができたのです。この時、龍馬は小楠翁宅に訪ねました。小楠翁は龍馬を連れ、弟子である由利公正翁の家を訪れました。三人は国を憂い、語りあったと言われています。その席で、龍馬が詠んだと伝えられるのが、次の歌です。
君がため捨つる命は惜しまね 心にかかる国の行く末

君とは、君主のことであり、当時の尊皇の志士においては孝明天皇を意味します。龍馬の尊皇と愛国の思いが表れた歌です。
現世の人々は、維新の志士を革命家と評する人がいますが、篤き尊皇の志をもった日本人だったのです。
龍馬は、慶応3年6月9日、薩長による討幕を推し進め、天皇陛下を中心とする新国家を創ろうと奔走しました。そして、長崎より京都へ向かう船中で、新しい国の体制案を記したのが「船中八策」です。
最近、大阪維新の会の「船中八策」が話題になっていますが、国是(こくぜ)と呼べるものではありません。
龍馬の
「船中八策」とは、

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと。
一、上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議をとり、新たに至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事。
一、海軍よろしく拡張すべき事。
一、御親兵を置き帝都を守衛しむべき事。
一、金銀物価よろしく外国と平均の法を設くべき事。


天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと」とは、大政奉還であり、第二の後半に「万機よろしく公論に決すべき事」とあります。この主旨は、由利の御誓文草案の「万機公論に決し私に論ずるなかれ」を通じて、成文の「万機公論に決すべし」に生かされています。
 龍馬は、「船中八策」を書いた年の11月1日、由利公正翁を新政府の財政担当として招くため、福井藩を再訪し、由利翁の財政論を聴いた龍馬は、改めて由利の新政府での必要性に確信を深めましたが、その2週間後、11月15日、龍馬は明治日本を目前にして、京都・近江屋で暗殺されてしまいます。

また
新政府に出仕した由利翁の師である、横井小楠翁もまた、暗殺されてしまいました。日本は新たな出発において、実に貴重な人材を失ないました。
残された由利翁は二人の遺志を継ぎ、新政府の財政的窮状を打開すべく、太政官札の発行を説きました。太政官札は、日本で初めての政府紙幣です。当時欧米にも例のない不換紙幣でした。新政府内では異論反論が起こりましたが、由利翁の政策を最も良く理解する岩倉具視が、採用を進めました。この時、由利は太政官札を通用させるには新政府の信用が必要であることを力説しました。そのためには新政府の方針を広く世間に示すことだと主張し、自ら草案を書いたのです。慶応4年1月でした。

一、庶民志を遂げ人心をして倦まさらしむるを欲す。
一、士民心を一つに盛んに経綸を行ふを要す。
一、知識を世界に求め広く皇基を振起すへし。
一、貢士期限を以って賢才に譲るべし。
一、万機公論に決し私に論ずるなかれ。



「庶民志を遂げ人心をして倦まさらしむるを欲す」は、御誓文の「官武一途庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦まざらしめむことを要す」に結実し、第二の「士民心を一つに盛んに経綸を行ふを要す」は、御誓文の「上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし」に結実し、第三の「知識を世界に求め広く皇基を振起すへし」は、御誓文の「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」に結実し、第四の「万機公論に決し私に論ずるなかれ」は、御誓文の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に結実したのです。
 由利案の「
経綸」は小楠翁の「一国上の経綸」から来ており、「智識を世界に求め」は、小楠翁の「智識を世界万国に取て」に由来し、「万機公論」は、小楠の「大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ」に発し、龍馬の「万機よろしく公論に決すべき事」によります。

由利翁は「議事之体大意」を、東久世通禧を通じて議定副総裁の岩倉具視に提出しました。
由利案に対し、福岡孝弟が冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどの修正を加え、表題を「会盟に改めて、天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案しました。これに対し、総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇(てんしんちぎ)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて、共に誓い、また全員が署名する形式を提案し、これが採用されました。木戸はまた福岡案の「列侯会議を興し」を「広ク会議ヲ興シ」に改め、五箇条の順序を入れ替えるなどし、さらに、議定副総裁三条実美は、表題を「誓」に修正しました。こうして、「五箇条の御誓文」が完成されたのです。

箇条の文言に続いて、明治天皇陛下が「我国未曾有の変革を為とし、朕躬を以て衆にじ」云々と述べておられます。
明治天皇陛下はまた御誓文と同日、御宸翰(ごしんかん)を出されました。宸翰とは天皇直筆の文書を言います。そこには次のような意味のことが記されています。
 「今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任であるから、今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ、困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤めてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかない、そのように行う」
 すべての人が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。明治天皇陛下の決意は、崇高です。ここには天皇が国民を「おおみたから」と呼んで、肇国以来大切にしてきたわが国の伝統が生きており、御誓文と御宸翰に示されたもの、それが近代日本のデモクラシーとナショナリズムの始まりでもありました。
新政府は、五箇条の御誓文の国是の下に、封建制度を改め、その一環として封建領主が所有する領民と領地を天皇陛下に返す改革が行われました。まず版籍奉還が行われ、続いて廃藩置県が断行されました。ほとんど無血・流血のない改革が、わずか一日で実現しました。これらは世界に類をみないものでした。明治新政府の課題は、一日も早く近代国家を建設にして、欧米列強に支配されないようにすることでした。それを成し遂げる資金を調達するには、各藩の徴税権を中央政府に集約するしかならず、廃藩置県によって、近代的な租税制度が確立されたのです。

大胆な政策は、政府が国民の信用を確保し得てこそ、実行が可能となります。国民の信用を得るには、政府が国民に大方針を示す必要があります。国家の根本理念や目標像、それを実現するための計画を明確に打ち出し、国民の精神を統合することなくして、こうした大胆な政策は断行できなかったといえます。

「五箇条の御誓文」は、直接的には由利・福岡・木戸らが作成に関与し、そこに小楠・龍馬の思想が反映されています、しかし、先人の心には、長い歴史の中で受け継がれてきた日本人の精神があり、肇国以来国民統合のシンボルでもある天皇陛下への尊皇の志があります。その伝統的な精神を、明治維新の際の先例を通じて学び、今日の日本において復興させること。それが、日本の危機を打開することにつながると私は思うのでが、どうも現世の政治には根本となるものが欠けています。

国是を示し経綸を為すこと・・

「国思う心と、尊皇の心」が・・・・

 
 
 
 
 
 

【5.24新橋】たちあがれ日本街頭演説会6【三木圭恵
 
 
 
 
最近、日本人の矜持をもった政治家が少なくなりました。
筆者と同じ兵庫県を拠点に国政に挑まれている三木圭恵(けえ)先生の演説です。
「靖国神社」に参拝しよう・・をスローガンに先の参院選で戦われましたが、時の利あらず議席を得ることは叶いませんでした。
しかし、三木先生のような政治家こそ議席を得て、国政で活躍されるべきだとお思います。
真に国を憂い、日本人が誇りを取戻すことを願っておられます。
筆者は特定の政党を支持することはしませんが、三木先生に日本の誇りを取戻すことを託したいと思います。
三木先生に護国の神々のご加護を・・・
 
 
 
 
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  愛と誇り・・・三木先生の政治信条                         

    ●人、社会、国への愛こそ、政治の原点。」

 「愛国心は公務員のすべての職務活動の根幹だ」と、かつて最高裁長官を務められた三好達先生(現・日本会議会長)は仰っています。党利党略、省益優先などと批判される今日の政治行政の世界にとって最も大切な原点は、人への愛、社会への愛、国への愛が貫かれていることだと信じます。
この倫理観が実践されれば、日本の政治は信頼と責任に基づく政治に生まれ変わると思います。

    ●国への誇りこそ、防衛、経済、教育の原点。

 かつて聖徳太子が、当時の大帝国・隋に対し、日本は対等な独立国家だと宣言して約1400年。以来、日本は、他国の支配を受けることなく独立を保ち、繁栄を続けてきました。その中で独自 の精神文化を成熟させてきた日本は、世界が注目する伝統・文化を培ってきました。こうした国の歴史、伝統、文化への誇りこそ、国を守る原点であり、経済を発展させる原点であり、将来の日本を担う国民教育の原点だと思います。

    ●愛と誇りこそ、育児と教育の原動力。

かつて日本人には、自然を慈しみ、思いやりに富み、公共につくす意欲にあふれ、正義を尊び、
勇気を重んじ、全体のために自制心や調和の心を働かせることのできるすばらしい徳性があると指摘されてきました。この根幹こそ、人・物・事に対する「思いやりの心」であり、すなわち「愛」です。これこそ育児の原点であり、教育の原動力です。時代を担う子供たちに、国への「誇り」
を伝え、人、社会、国への「愛」を育てる教育こそ、今の日本に求められているものだと思います。
 
 
三木けえ 公式HP
 
 
三木けえ 公式ブログ 「伝えたい日本の誇り」
右より伊弉諾神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)
 
 
 
昨年10月8日にエントリーさせていただいた拙記事の再投稿です。
くにしおもほゆ様の能へのお誘い (第4回:高砂や〜♪) を拝読させていただき、近年少なくなった神前結婚の素晴らしさを少しでも多くの方々に知っていただきたい次第です。

我国の結婚は神代の昔に遡ります。
日本の神話の中で、天地開闢において神世七代の最後に性別を持って生まれた
男神を、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)女神を伊邪那美命(いざなみのみこと)といいます。二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させることを命じられました。
別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えられ、伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜられ、このとき、矛から滴り落ちたものが積もって島となった。この島を淤能碁呂島(おのごろじま)といい、兵庫県の淡路島であると言われています。
二神は淤能碁呂島に降立たたれ、天之御柱を建てられ、伊邪那岐命が「私と貴方と、この天之御柱を廻って結婚しましょう。貴方は右から廻り、私は左から廻り逢いましょう」という約束をし、出会ったところで「なんとまあ、かわいい娘だろう。」「ほんとにまあ、いとしい方ですこと」と呼び合って結ばれたという記述が『古事記』、『日本書紀』一書第一などにみられます。これが結婚式の起源ともいわれています。
 
平安時代には、源氏物語にも見られるように、男性が女性の元に、あるいは女性が男性の元に通う通い婚の時代でした。夫が妻の元に通う場合は妻問婚(つまどいこん)ともいいます。
通い婚の時代での天皇陛下においては、女御(にょうご)と家族が入った宮中の殿舎に、天皇陛下が三夜しのんだ後発見されたという「露顕(露見)」(ところあらわし)という宴を行いました。これが現在の披露宴に該当します。
現在、露見とは、秘密や悪事など隠していたことが表に現れること。ばれることなどを意味しますが、当時の日本女性は結婚する相手以外の男性には顔を見せないという習慣があったことから、「露顕(露見)」(ところあらわし)に至ったのです。
女御とは、天皇陛下の後宮の身位の一つで、天皇陛下の寝所に侍し、位は、皇后・中宮に次ます。桓武天皇陛下のとき紀乙魚(き の おとな)・百済王教法などを女御としたのに始まり、はじめこそ位は低かったが、その位は次第に高まり、平安時代中期以降、皇后陛下は女御から昇進する慣例となりました。最後の女御は孝明天皇陛下の女御である九条夙子(英照皇太后陛下)。
民間においても、平安期の結婚は男性が女性の下に三夜続けて通う形式であるが、女性の家ではその間訪れる男性と従者を接待し、3日目には露顕(ところあらわし)という披露宴が行われ、新郎新婦が披露される。列席者は妻側の関係者のみに限られていました。
 
平安時代の半ば以来、武士の間で女性が男性の家に入る嫁迎え婚が行なわれるようになりました。
元来武士の生活は素朴・質素を信条として武士は同格の相手を求めるのですが、結婚したからといって自分の土地を離れる訳にはいかないので、自然と女性が男の家に入るようになりました。
しかし公家では伝統的に婿取り婚であるので、公家と武士の間での結婚では問題が生じたが、武家が台等し、力を占めるようになると、公武からなる嫁入りが行われるようになっったのです。
 
(永禄6年)に来日し、安土桃山時代の日本の記録を残したルイス・フロイスの書簡によれば、「日本では結婚式をおこなわない」と記述されていましたが、しかし、 この時代も有力な武家の婚礼は盛大に行われた。また、高台寺では当時、下級武士だった木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)とねねの結婚について、「土間に藁を引き、その上に薄い敷物を敷いただけのささやかな祝言」を挙げたという記録が残るなど、当然この時代においても身分によらず婚姻に際しての儀式、すなわち結婚式は行われていました。
 
婚席に神々が臨在するという考えは中世の床飾りから見られ、江戸中期の貞丈雑記に明文化された。新郎の自宅に身内の者が集まり、高砂の尉と姥の掛け軸を床の間に掛け、鶴亀の置物を飾った島台を置き、その前で盃事をして結婚式をする、いわゆる祝言が行われていました。
家の床の間は神様が居るとされる神聖な場所で、掛け軸や島台も神さまの拠り所でもあるとされ、当時から結婚式は神道と密接な関係がありました。
民俗学者の柳田國男著の『明治大正史』及び『婚姻の話・定本柳田國男集15』によると、少なくとも幕末から明治初期までの庶民による結婚式は、明治以降に確定した神前式の形式とは同じではなく、自宅を中心とし、婿が嫁方の実家でしばらくの間生活するという「婿入り婚」と呼ばれる形式であった。
この際、新婚生活の初日に嫁方の家で祝いの席がもうけられることがあったが、夜の五つ(午後9時頃)から行われることが多く、同じく柳田氏によると、江戸時代であっても、同じ村内の者同士が結婚する場合には祝言が行われないか、あるいは簡素なものであったが、村外の者と結婚する例が増えてくるに従って形式が複雑化し、神前式に近いかたちになっていた、と述べる。また、庶民の結婚式の場合は、神職が吟ずる祝詞より、郷土歌や民謡、俗謡を歌うことが多かったとされる。祝詞であっても、現代の神前式のように「天津祝詞」が吟ずられるようになったのは明治以降のことです。
 
現在のような神社における結婚式の形は明治三十三年五月十日、皇室婚嫁令により皇太子であった大正天皇陛下と九条節子姫(貞明皇后陛下)が宮中賢所大前において執り行われたご婚儀が、大きな影響を与えました。
これを大々的にマスコミが報じたのを受けて、日比谷大神宮(東京大神宮)が神前結婚式を挙げ、話題になった。しかし神前結婚式が民間に普及したのは、大東亜戦争後でした。
神社での結婚式だと、披露宴の場は他に設けなくてはならない。いち早く帝国ホテルは、大正12年関東大震災で焼失した日比谷大神宮を分祀し、ホテル内に祀り、美容室と写真館も取り入れて、挙式と披露宴を一体化させました。ホテル・ウエディングのはしりです。
現在広く行われている神前結婚式は、日比谷大神宮の創始によるものであり、それらを踏襲しています。
 
納采の儀 (のうさいのぎ)とは皇室の儀式のひとつですが、その淵源は、古く仁徳天皇の時代に遡ります。皇族が結婚するにあたって行われるもので、結納の起源となりました。
神前結婚式に見られる固めの儀式のひとつ、三三九度(さんさんくど)は、三献の儀ともいい、男女が同じ酒を飲み交わすというもので、初めに女性が三度、次に男性が三度、最後に女性が三度の合計九度飲む儀式で、陽の数である三や九が用いられた。
お神酒を一つの器で共飲することにより一生苦労を共にするという誓いを意味しています。古代の婚礼には、嫁になる人が婿になる人に対して、盃を捧げるということが重要な儀式の中心になっていたようです。三々九度の起源とも言われている応神天皇の物語があります。応神天皇が山城の国であった美女に、その名を尋ね彼女は矢河枝比売と答えたため、(名前を答えるというのは求婚に応じる意)天皇が翌日その家へ行ってみると、彼女の父は娘に天皇に仕えるように諭し、彼女はご馳走を用意し応神天皇に御盃を捧げ、天皇は歌を歌われたと言われています。つまり、これが後の三々九度の杯のはじまりと言われています。
三三九度は、我国固有の共食信仰で、同じように飲み同じように楽しみ、同じものを食べ合ったということが神を媒体にして魂を共通に持ち合ったという同族意識の確認行為であります。
現在でも、「同じ釜の飯を食う」というのは、共食信仰の由縁です。

冒頭の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱の神様のように、深く結ばれ、また新たな命を生み、育み、次世代へ受け継がれていく、結婚式にはそんな願いが込められています。

最近では、結婚式さえも簡素化し、結婚式さえも挙げないという若者が増えています。神前結婚とは、神々に祈り、誓い、神代の時代から連綿と続いてきた、営み、文化を継承し、お国柄を受継いでいくことです。
習わし、仕来りは、面倒くさい古臭いと思いがちですが、受 ­継がれているからこそ、日本人なのです。
畏くも天皇陛下、皇室は日本の灯が消えないように代々日本の魂 ­を受け継いでおられるのです。日本人は努々(ゆめゆめ)それを忘れてはなりません 。
 
 
 
 
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福澤諭吉翁



我が国で初めて文明論を説き、文明という観点から国是・国策を論じたのが、福沢諭吉翁です。
本ブログでも、昨年7月、
一身独立して一国独立す
、で福澤翁をご紹介させていただきました。
福沢翁は、幕末から明治の時代に、西洋に渡航して実情を視察し、日本人に西洋の新知識を伝えられ、これからの日本人はどうあるべきかを訴えられました。その要点は、日本の国柄を踏まえ、独立を守るために、西洋近代文明を摂取すべきとする文明論でした。
 
若き福澤翁は安政2年より、緒方洪庵の適塾でオランダ語を学び、西洋の医学や科学・技術を学びました。これが彼の知識の基礎となりました。その後、いち早く英語の重要性を見抜かれ、独力で英語を習得し、欧米の政治や経済、社会思想なども貪欲に吸収されたのです。その旺盛な好奇心と鋭い理解力は、驚く程です。
福澤翁は、万延元年、咸臨丸に乗ってアメリカに行かれ、その後、ヨーロッパにも訪れ、西洋近代文明をつぶさに見聞されました。その経験をもとに書かれたのが、『西洋事情』です。幕末の知識人でこの本を読んでない人はいないというくらいに、当時のベストセラーとなりました。徳川慶喜公も西郷南洲翁もみな『西洋事情』を通じて西洋諸国のことを知られたのです。
 
 維新後、福澤翁が、広範な知識と深い洞察力をもって、これから日本人は何をすべきかを説かれたのが、『学問のすすめ』です。
『学問のすすめ』の第1篇は、明治5年に発表されました。これは日本はじまって以来の大ベストセラーとなりました。
 『学問のすすめ』の冒頭は、周知のとおりです。

天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」という一節はあまりに有名である。 誤解される事が多いが、この「云ヘリ」は、現代における「云われている」ということで、この一文のみで完結しているわけではなく、しかも、この言葉は福沢翁の言葉ではありません、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用文です。
この引用文に対応する下の句とも言える一文は、
「サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ、カシコキ人アリ、オロカナル人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ、貴人モアリ、下人モアリテ、ソノ有様雲ト泥トノ相違アルニ似タルハ何ゾヤ」
です。即ち、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。」
という事です。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」。この一句を、人間は平等でなければならないという意味だと思っている人が少なくないようです。確かに福澤翁は、人間は生まれながらに平等だと言っています。しかし、その本来平等たるべき人に違いが生じるのは、ひとえに学問をするか、しないかによると、結論しているのです。機会は平等でも結果は努力によって異なるのです。それが、彼が『学問のすすめ』を書いた理由です。
ここで福澤翁が勧めた学問は、旧来の儒学ではなく、新しい「実学」でした。「実学」とは、科学です。科学といっても、自然科学のことだけではなく、政治学や経済学や倫理学など人文科学も含めた、近代西洋生まれの実際的な学問のことを意味します。そして、福沢翁は日本が文明化すること、言い換えれば西洋にならって近代化することを唱導されたのです。
 
 しかし、福澤翁が説かれたのは、日本を西洋化することだったのでしょうか。話はそう単純ではなく、問題は、なぜ福澤翁は、西洋文明の摂取、西洋科学の習得を力説されたのでしょう?それは、わが国の独立を維持するためだっでした。
『学問のすすめ』で福澤翁は、無批判な西洋賛美をいましめられています。そして全巻の結論において、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると述べ られています。すなわち、「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と、福澤翁は明言されています。列強がアジアに進出し、インドやシナが蹂躙(じゅうりん)されていた当時のアジア情勢において、独立を守ることは、至上命題でした。
 
 福澤翁は『学問のすすめ』を中断して、明治8年に刊行した『文明論之概略』でも、同じ主旨のことを説かれています。
 「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは何ぞや。内外の区別を明らかにして、我本国の独立を保つことなり。而してこの独立を保つの法は、文明の外に求むべからず。今の日本国人を文明に進むるは、この国の独立を保たんがためのみ」
 そして、福沢翁は国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えました。
昨今、生活保護など不正受給等が問題になっていますが、福澤翁は遠い今日を見据えておられたのでしょうか?

 「貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」
 この最後にある「一身独立して一国独立する」ということこそ、福澤翁が日本人に最も訴えたかったことでしょう。
 
独立心とは、愛国心に裏付けられてこそ、もち得るものです。福澤翁自身、強い愛国心をもたれ、わが国の国柄を尊び、皇室を敬う日本人でした。この点を理解して初めて、福澤翁の言われる「独立心」の意味も明らかになります。
 
 『文明論之概略』で福澤翁は書かれています。
 「日本にては開闢(かいびゃく)の初より国体を改(あらため)たることなし。国君の血統もまた連続として絶たることなし。ただ政統に至てはしばしば大いに変革あり。…政統の変革かくの如きに至て、なお国体を失わざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行い、外国の人へ秋毫(しゅうごう)の政権をも仮(か)したることなければなり」
 つまり、わが国は国の初めから、国体つまり国柄の根本が変わることがなかった。天皇の系統も連続して絶えることがなかった。政権はしばしば変わったが、国体が失われることはなかった。それは外国の支配を受けることがなかったからだ、と福澤翁は自らの歴史観を述べられています。これは、幕末・明治の日本人の共通認識であり、国民の常識でした。また、こうした自国の歴史に対する歴史観が、福澤翁の愛国心の根っこになっています。
 
 福澤翁は書かれています。
 「この時に当て日本人の義務は、ただこの国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは、自国の政権を失わざることなり」
 この時つまり明治8年当時において、日本人の義務は、国体を保つという一事にある。国体を保つというのは、自国の政権を失わないことです。つまり、外国の支配を受けることなく、日本人が自らの民族による政権を守ることだ。福澤翁は説かれているのです。

 「政権を失わざらんとするには、人民の智力を進めざるべからず。その条目は甚だ多しといえども、智力発生の道において第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行わるる文明の精神を取るにあり」
日本人自らによる独立政権を失わないためには、国民の知力を向上させなければならない。知力を発達させるために、しなければならないことはたくさんあるが、第一の急務は、古い慣習への惑溺を一掃して、西洋近代文明の精神を採り入れることだ、と。
福 澤翁の主張の背景には、幕末から明治にかけて、わが国が欧米列強の脅威にさらされていたという現実があります。
今日、シナ、南北朝鮮の両国、ロシアなどの隣国の驚異に晒されている状況は驚くほど酷似しています。
そして、福澤翁は、この厳しい国際環境において、日本人は白人の支配に屈するものかという強い気概をもつべきだと、国民同胞に訴えていたのです。これこそ、福澤翁の独立心が、強い愛国心に裏付けられていることを示されたものです。
 
福澤翁は、後年、皇室に対する敬愛の念を強めていきました。帝国議会開設に先立つ明治15年、福澤翁は『帝室論』を著し、日本皇室を論じています。「帝室」とは、皇室のことです。
本ブログでも、福沢諭吉翁「尊皇論」を五分割して紹介させていただいております。
 「今日、国会の将に開かんとするに当たって、特に帝室の独立を祈り、遥かに政治の上に立ちて下界に降臨し、偏りなく党なく以て其の尊厳神聖を無窮に伝えんことを願う」
 つまり福澤翁は、皇室は政治の上に立ち、不偏不党の立場にあるべきだとし、皇室の尊厳と神聖を未来永遠に伝えることを願われたのです。同書で福澤翁はこう書かれています。
 「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり、其功徳至大なりと云ふ可し」
つまり皇室は日本国民の精神を統合する中心である。その功徳は極めて大きいと福沢は考えていました。続けて彼は述べます。
 「国会の政府はニ様の政党相争ふて火の如く水の如く盛夏の如く厳冬の如くならんと雖(いえ)ども、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し。国会の政府より頒布する法令は其冷たること水の如く。其情の薄きこと紙の如くなりと雖ども、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くして、人民これを仰げば以て其慍(いかり)を解く可し、何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり」
 福澤翁は、皇室は、政治の外にあって、その徳によって国民に和をもたらすような存在であるべきだと説かれました。
 
 福澤翁は、単なる文明開化論者ではなく、日本の独立維持を訴え、愛国心と尊皇心を持つ日本人でした。その言説には、維新の志士たちに連なる、日本人の精神が脈打っています。
この点を理解する時、「独立心をもて」という福澤翁の訴えは、私たちの心に、一段と強く響きます。
 
 福澤翁は明治34年に亡くなりました。その40年後、日本は米国と戦い、敗れました。戦後の日本は、敗戦国として米国の占領を受け、現在も米国の強い影響下にあります。物質的には福澤翁が想像できなかったほどの豊かさを享受していますが、、国の独立ということに関しては、逆に大きく後退し、国民の多くは独立心を失い、政府は外交や国防を他国に依存しています。さらに金融による経済戦争にも敗れ、シナの台頭、悪しき教育者の偏向教育、捻じ曲がった教科書等、日本人の多くは日本人としての誇りや自信をも失っているようです。
私たちは、福澤翁が文明化の目的とした、国の独立ということをしっかり考えていかねばなりません。そして、独立心を持て、独立心は愛国心からだ、という福澤翁の渾身のメッセージを受け止めなくてはなりません。

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