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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
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現代文明は世界的に行き詰まっており、人類は生存の危機にあります。そうした中で、私たち日本人の生き方が根本から問われています。
 今日、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えています。実はこうした個人を中心に考える考え方は、人間の歴史から見ると、とても新しい考え方であり、わずか300〜400年程前、西欧に始まった考えなのです。近代西欧から広がったこの思想は、個人や自我が独立して存在するものと考えます。これに対し、根本的な反論を述べたのが、和辻哲郎氏です。
筆者は我国における民俗学の開拓者であった柳田 國男氏の生家から10分、日本の哲学者倫理学者、文化史家、日本思想史家の和辻哲郎氏の生家から10分の丁度中間点に居住していますが、これも何かの縁(えにし)だと感じています。
また、両氏を生んだ風土がここでは長文となるので割愛しますが、兵庫県、播州地方にはあったのです。

  和辻氏は、漢語の「人間」という言葉は本来、人と人の間すなわち「よのなか」「世間」を意味し、「俗に誤って人の意となった」と指摘されています。これを踏まえて、和辻氏は、「人間」とは「世の中自身であるとともにまた世の中における人である」と述べられています。言い換えると、人間には「個人性と社会性の二重性格がある」ということです。性格といっても文字通りの意味ではなく、個人性と社会性の両面があると理解できます。
 和辻氏は昭和九年に刊行された『人間の学としての倫理学』で、自論を展開されています。和辻氏は、「倫理」の「倫」という言葉は、元来「なかま」を意味し、人と人の「間柄(あいだがら)」や「行為的連関」(係わり合い)の仕方や秩序をも意味し、一方、「倫理」の「理」は、ことわり、すじ道を意味します。すなわち、「倫理」とは「人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる」ものです。そして、和辻氏は、倫理学とは「人間関係、従って人間の共同態の根底たる秩序・道理を明らかにしようとする学問」であると定義します。彼によって、個人ではなく間柄を基本においた、新しい倫理学が誕生したのです。
 
 西欧近代に生まれた個人主義的な人間観は仮構にすぎないと、和辻は説きます。個人主義的な人間観の元祖といえるのは、ルネ・デカルトです。彼は、すべてのものを疑ったすえに、それを疑っている自己の存在だけは自明であるとし、そこから「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という認識に到達しました。しかし、和辻氏はデカルトを次のように批判されています。
 「この問いの立場は、実践的行為的連関としての世間から離脱し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。従ってそれは直接的に与えられた立場ではなくして人工的抽象的に作り出される立場である。言い換えれば人間関係から己れを切り放すことによって自我を独立させる立場である」。
 すなわち、現実の社会における人間関係から自分を切り離し、ただ世界をながめているだけの自分という、作りものの立場だというのです。
 「疑う我が確実となる前に、他人との間の愛や憎が現実的であり確実であればこそ、世間の煩いがあるのである。言い換えれば観照の立場に先立ってすでに実践的連関の立場がある。デカルトは後者の中から前者を引き出しながら、その根を断ち切ってしまった」。
 和辻氏はこのように、デカルトの仮構をあばきます。ある面では、常識的な発想による批判です。しかし、西欧近代では、こうした常識的な考え方が、どこかへ行ってしまい、極めて抽象的な人間観に陥ったのです。デカルトの影響を受けたホッブスやロックは、原子(アトム)のようにそれ自体で存在する個人を想定し、そこから出発して社会の成り立ちや国家の由来を考えました。社会契約説がそれです。現代の日本国憲法や人権思想も、基本的にはこうした考えに基づいています。その根本には、デカルトのコギトがあります。彼の影響は20世紀にまでも続き、フッサールやハイデッガーにも、デカルト以来の個人主義の色彩が残っていることを、和辻氏は見破り、その仮構を暴露しました。
 
 本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生きているのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中にいるのです。我国ではかってこの考え方が根幹を為していましたが、この至極当たり前のことを、西欧近代の思想は軽視しているのです。抽象的で個人主義的な考え方が出ています。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。東日本大震災の被災者たちが、親子、夫婦、兄弟、友人の所在、生存を案じ、その名を呼び続けていたことでもあきらかです。
和辻氏の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」です。こうした生きた関係性において人間を考察することによってこそ、人間の倫理を解き明かすことができると、和辻氏は主張されました。
 
 和辻氏は、間柄の考察を、「家族」や「親族」、「地縁共同体」や「経済的組織」、「文化共同体」や「国家」へと広げていきます。また、間柄がおいてある空間としての「風土」の研究も行いました。その到達点が、主著『倫理学』全3巻(昭和12年〜24年刊行)です。これは、西欧近代思想に対抗して打ち立てられた東洋的・日本的な倫理学です。また同時に、近代思想を超える新時代の倫理学の試みでもあります。
 個人主義的な考えが多くの弊害をもたらしている今日、和辻の「間柄的存在」という考えは、私たちに大きなヒントを与えてくれています。
 

人間は、個人個人が独立して存在しているのではなく、人間とは、様々な間柄のなかで生活している間柄的存在です。言い換えると、人間は共同体という「人倫的組織」の中で生きているのだ、と和辻氏は言われています。
 
和辻氏は、人倫的組織を、「家族」「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」「国家」の6つに分けて考察されています。そして、「公と私」という問題を解き明かし、人倫組織は、これらの諸段階を経て、私的なものから、公的なものへと高められるというのが、和辻氏の主張です。
 
私たちにとって最も身近な私的存在は、男女二人の関係です。男女は心身の全体をもって互いにかかわり合い、二人の間では「私」が消滅します。このプライベートな関係が世間に公認されるのが、婚姻です。これによって、男女関係は夫婦関係となります。婚姻は、男女関係という私的なものを、公的なものに変えていくのです。次に夫婦という二人の共同体に子供が誕生すると、親子の関係となり、三人の共同体となります。さらに子供が生まれると、兄弟姉妹の間には同胞共同体が生まれます。
同胞とは、 同じ母から生まれた兄弟姉妹。また、一般に兄弟姉妹。 同じ国民を同胞と言います。

夫婦・親子・兄弟等による「家族」は、さらに「親族」という、より公的な人倫組織の一部に含まれます。親族の間では、それぞれの家族の事情は「私」的なものとなるわけです。次に親族は「地縁共同体」へ、「地縁共同体」から「経済的組織」へ、「経済的組織」から「文化共同体」へと、より高次の段階に包摂されます。どの組織も、前の段階の組織が持つ「私」を超えることによって実現されるのです。そして、より「公」的で開放的な性格を持ちます。しかし、同時に、後の段階に対しては、より「私」的で閉鎖的な性格を持っています。このように「公と私」は、階層的で入れ子的な構造をもっていることを、和辻氏は明らかにされています。
 
そして、和辻氏は、「私」をことごとく超克して、徹頭徹尾「公」であり、「公」そのものである人倫的組織が「国家」である、と説きます。そして次のように述べます。「国家は家族より文化共同体に至るまでのそれぞれの共同体におのおのの所を与えつつ、さらにそれらの間の段階的秩序、すなわちそれら諸段階を通ずる人倫的組織の発展的連関を自覚し確保する。国家はかかる自覚的総合的な人倫的組織なのである」。国家は、さまざまの段階の人倫的組織をすべて「己れの内に保持し、そうしてその保持せるものにおのおのその所を与えることによって、それらの間の発展的連関を組織化しているのである。その点において国家は、人倫的組織の人倫的組織であるということができる」。
 
和辻氏の社会観・国家観は、西洋近代思想とは大きく異なっています。デカルトが考えたような、間柄的存在に先立って存在するという個人を、和辻氏は否定しています。そうしたアトム的(原子的)な個人が契約によって社会をつくったという、ホッブスやロックの社会契約論も否定します。また、国家を個人の利益の擁護を目的とする一つの特殊社会ないし打算社会とする契約的国家論をも斥けます。そのような西洋近代思想は、人間の本質を認識するものではないことを、和辻氏は明らかにされたのです。
 
その一方、和辻氏が高く評価したものがあります。それは、教育勅語です。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という家族的道徳に始まり、「朋友相信シ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」という社会的道徳に進み、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という国民的道徳に至ります。和辻氏は教育勅語を、人倫的組織の各段階の道徳を示し、また諸人倫を包摂する国家の構成員の道徳を示すものとして、高く評価し、そして、教育勅語は、「私」的なものから、より「公」的なものに進み、「私」を超えて「公」に貢献する倫理を体系的に説いていることを、解き明かします。同時に、和辻氏は、教育勅語には、西洋近代思想を超える、人類普遍的な倫理があることを明示しているのです。
教育勅語は今日、全世界でも賞賛されています。
戦前日本は、
教育勅語が日本人の精神の根幹を為していました。
日本人の魂でもあったのです。


投稿文字数に制限がありますので、続きは次回に述べさせていただきたいと思います。

イメージ 1エコ社会を担った江戸時代




今日エコが叫ばれて久しいですが、かって我国は世界に先がけてエコを実践して国だったのです。
17世紀末の約3年間1690-1692)に滞日したドイツ人ケンペルは、我国を次のように記しています。
「この民は、習俗、道徳、技芸、立居振舞いの点で世界のどの国民にも立ちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畠に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気象を持ち、生活必需品はありあまるほどに豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見るほどの幸福な国民である」(「日本誌」)
また、幕末に来日し、我国に開国を求めた、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスも、安政4年(1858)に、次のように述べています。
「人々はみな清潔で、食料も十分にあり、幸福そうであった。これまでにみたどの国にもまさる簡素さと正直さの黄金時代をみる思いであった。」と。
ハリスの驚きの目は、江戸の町にも向けられました。江戸は、19世紀の欧米のどの都市よりも人口の多い巨大都市でした。想像できないほど美しく衛生的な町でした。江戸日本文明には、欧米人が驚くほど、幸福な社会が実現されていたのです。
 
もともとほとんど人がほとんど住んでいなかった武蔵野の外れに、徳川家康がお国替えで江戸に移り、今日の都市計画によって作られたのが、江戸です。急激に大勢の人が入り込んで来たので、当初はゴミや不用品の処理に困りました。1600年代の前半には、深刻な問題となりました。しかし、この解決に取り組んで、高度のリサイクル社会を実現したのです。
 人が多く住むと、排泄物の処理が問題となります。18世紀以後、江戸の人口は百万人から120万人が住む大都市でした。糞尿の量は、年間に60万から70万キロリットル。蒸発する分を差し引いても、50万キロリットルはあります。これは1日当たり1400キロリットル、10トン積みのトラック140台分になります。江戸の日本人は、これを捨てずに肥料にしたのです。
 江戸庶民の多くはテレビ時代劇でお馴染みですが、長屋住まいで、トイレは共同でした。糞尿の所有権は、大家にありました。大家は糞尿を農家に売りました。その収入は、家賃より多かったといいます。一般の町家や武家では糞尿を汲み取らせる代わりに、農家から野菜や漬物などをもらいました。大人一人の糞尿代は、1年に大根50本、ナス50個くらいが相場でした。
 こうして糞尿を大切な資源として利用したので、江戸の町では、下水に流す生活廃水が少なかったのです。隅田川は、河口の佃島(つくだじま)付近でも、白魚が豊富に取れるほど水がきれいでした。パリの空の下を流れるセーヌ川は、こうはいきませんでした。19世紀の文豪ビクトル・ユーゴーは、「レ・ミゼラブル(ああ無情)」の中で、パリの下水道を批判しているのです。当時のフランスの国家予算は20億フランでしたが、肥料の値段にして5億フラン分にもなる糞尿を、川に流していました。その結果、土はやせ、川が病気を運ぶため、「下水道は誤った考えである」とユーゴーは主張しています。西欧の市民に比べ、江戸の町民は、ずっと文化的な生活を送っていたのです。
下水の処理システムなしに、汚水を川から海にたれ流していた近代欧米都市よりもずっと、江戸は環境にやさしい都市だったのです。 

昔の人は現代人と違い、ほんのわずかしかゴミを出しませんでした。

物を大切にし、何でも最後まで使い切ることが、江戸時代の生活原則でした。いわば「もったいない」の徹底です。その例として、蝋燭(ろうそく)が挙げられます。「蝋燭の流れ買い」という業者がいて町を巡回し、各家で燭台の上に垂れたしずくが固まったものを、秤で計って買っていきました。買い集めた蝋は、安い蝋燭の原料として再利用されました。物を燃やして出る灰さえも、業者が回収して堆肥などに使用されました。かまどで燃やしてできた灰でさえ、灰買いが買い集め、アルカリ性物質として肥料や製紙などにも使われていました。
さらに、江戸時代には、様々なリサイクル業者がいました。その業者は3種類に分けられます。
 
最上部の画像にもありますが、

(1)職商人(しょくあきんど): 修理が本業で、新品の販売や古物の下取りもした。提灯の張り替え、錠前直し、コタツのやぐら直し、めがね屋のレンズ取替など。
(2)修理・再生専門業者: 古い鍋・釜の鋳掛け、瀬戸物の焼き接ぎ、下駄の歯入れ、研ぎ屋など。
(3)回収専門業者: 紙くず買い、紙くず拾い、古着屋、傘の古骨買いなど。
 
これらの業者は、ボランティアではなく、リサイクル・システムの一端を担う職業人として、活躍していました。使えるものは、すべてリサイクルした上で、最終的に処理のしようのないゴミだけが、船で江戸湾の埋立地に運ばれました。江戸の下町の多くは、そうして造成された土地に暮らしていたのです。
このように江戸日本は、徹底的なリサイクル社会でした。

江戸の成人男性の識字率は幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。実際ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。
環境先進国、教養先進国でもあったのです。
 
 21世紀の人類を脅かす最大の危機――それは、核戦争と地球環境の破壊でしょう。核兵器も地球環境危機も、科学技術をもって異民族や自然を支配しようとした西洋近代文明が生み出したものです。世界規模で核戦争が起これば、人類はほとんど滅亡するでしょう。また、これ以上、資源・エネルギーの濫用を続けると、近い将来、地球環境は回復不能なほど破壊されてしまうでしょう。
 人類は、このかけがえのない地球において、限られた資源を有効に使って共生する道を学ばなければなりません。この時、軍事先進国から離脱して、平和で自然と調和した社会を実現した江戸日本文明は、これからの地球文明のモデルを提示しているといえます。私たち日本人は、先祖の優れた知恵を、世界の人々に伝える使命を持っており、誇りでもあるのです。

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江戸(新宿)



日本がなぜ鉄砲を捨てたのか・・(上)は日本が安土桃山時代当時に世界一の軍事大国であったことを述べました。
しかし、我国は、17世紀から西欧文明とは対極な道を歩みます。
16世紀には世界最大の鉄砲の生産国・使用国であった我国は、江戸時代に入ると、軍縮の道を選びました。当時、世界最高の技術水準にあった鉄砲を捨てたのです。この過程で決定的に大きかったのは、徳川家康のリーダーシップでした。
信長・秀吉に続き、戦国時代に終止符を打った家康は、「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を馬印に用いいていました。
厭離穢土欣求浄土とは、戦乱の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味です。
天下太平の世を作ることを理想としていたのです。江戸に幕府を開くと、家康は鉄砲・火薬製造の統制を行います。鉄砲や火薬の産地を集中させ、鉄砲代官を置き、製造は幕府の許可制としました。寛永14年島原の乱が起こりますが、これを治めると、幕藩体制は安定し、鉄砲はもはや戦闘の重要な要素ではなくなりました。鉄砲の製造数が大きく減少する一方、世界最先端の技術も次第に衰退していったのです。
 
こうして我國は鉄砲を捨て、刀(かたな)の世界に帰ったのです。元米国軍人のノエル・ペリンは、著書『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』で、日本人が鉄砲を捨てた理由を述べています。
第一は、日本は海に囲まれ、鉄砲以外の兵器で侵略から自国を守ることができたこと。
第二は、キリスト教に対する反発と同時に、同じヨーロッパに起源を持つ鉄砲も軽視した。
第三に、日本人は刀に武器として以上の価値を見いだしたのです。刀は武士(もののふ)の魂でありました、また美術品でもあるという独特の意味を持っていたことです。ペリンは、これらを理由に挙げています。
 
銃の統制だけではありません。皆さんご存知のように、徳川幕府は、様々な戦争防止の仕組みを作り上げました。参勤交代や新たな築城の禁止、転封(国替え)など、精緻な統制が行われました。その結果、人類史上稀(まれ)なほど長い、平和の時代を実現しました。
最も注視したいのは、長期平和を実現した思想です。我国には、西欧とは異なる世界観がありました。キリスト教は「愛と平和の宗教」のようですが、その基底にはユダヤ教の怨恨的・闘争的な性格があり、それに基づく世界観は、近代において主権国家間の対立・抗争を原理とする国際秩序を生み出しましたのです。これに比し、我国には、神を敬い祖先を崇める神道・仏教・儒教に基づく修己治人の政治哲学が往古の昔よりあったのです。
儒教の経典『大学』に「修身斉家治国平天下」という言葉がありますが、政(まつりごと)をおこなう為政者は身を修めて徳を積むことに努力してきました。そして、統治の正当性の源泉は、力ではなく徳であると考えられ、武力や策謀による支配は、覇道としてさげすまれ、仁徳による王道が我国では理想とされてきたのです。
 
徳治主義に基づくならば、軍縮はその必然的な帰結です。まさにこの思想によって、日本は、かつて世界最大の鉄砲の生産使用国であったにもかかわらず、徳川時代に入ると、鉄砲を捨て、徳を以って天下を治めるということを理想としたのです。
 前述したペリンは、17世紀の日本で、鉄砲が姿を消しつつあったまさにその時に、水道工事が開始されたことに注目しています。
寛永7年に神田上水、承応3年に玉川上水が建設され、当時すでに100万人の人口をかかえていた江戸に水を供給していました。
水は地中に埋めた木製の配水管を流れ,水道桝(井戸)から汲み上げられていました。
水道総延長は150 ㎞,桝は神田上水系だけでも3千6百以上であり,当時としては世界最大の給水システムでした。
江戸ばかりでなく、日本中のいたるところに大規模な灌漑用水路が造られました。多くの個所では固い岩盤を貫通するトンネルを掘削する必要があったので、軍事技術が応用されたのです。軍縮が我が国のインフラの向上を推進したのです。また火薬の用途は弾薬から花火に転じ、夜空を彩る花火が夏の風物詩になりました。今日夏を彩る花火もこの頃からの平和の産物なのです。
鉄砲数の削減に象徴される我国の軍縮は、江戸時代の日本文明の熟成をもたらした要因の一つとなったのです。
島原の乱(1637-38)から大政奉還(1867)までの約230年間、我が国には国内においても、対外的にも戦争がなく、国内は安寧と平和に包まれていました。
一世代を二十年として12世代が平和を享受したのです
赤い思想に侵された学校教育では、この平和な時代を余りいいようにはおしえません。
 我国が200年以上、一度も戦争のない社会を作ったのに対し、西洋文明は、15世紀からの500年間、約1年8ヶ月に1回の割合で戦争を繰り返していま す。
大航海時代などと学校教育は教えていますが、まさに侵略と殺戮の時代だったのです。そこに両文明の根本的な違いを見ることができます。現代世界は、依然として対立・抗争の渦の中にあります。そこにおいて、我国が生み出した「江戸時代のシステム」は、「技術の進歩は決して止められない」という現代人の思い込みへの反証となっています。
15世紀から20世紀まで、世界を支配したのは、西洋近代文明の原理でした。すなわち、暴力と収奪に基づく対立と抗争の原理です。しかし、この21世紀には、江戸日本的な原理、すなわち共存と調和の原理、すなわち「和の精神」が世界に広まることが期待されています。

投稿文字数に制限がありますので続きは次回に述べたいとおもいます。
次回は「世界に魁た江戸のエコ社会」です。

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鉄砲伝来の図



筆者が尊敬してやまぬ、さくらの花びら大兄様の秀逸記事、 日本兵は“鬼畜”のような存在 沖縄県教職員組合の反日教育でも述べられていますが、我国の歴史教育は15世紀を「大航海時代」と教えています。
しかし、実態は
白人種による有色人種への暴力と収奪の歴史でした。西欧文明と出合う前、中央アメリカの人口は7千万人から9千万人あったと推定されていますが、スペイン人の侵入後、わずか1世紀の間に、350万人に激減したと見積もられます。またアフリカから奴隷として拉致された黒人は、3千万人から6千万人に及び、その3分の2が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれます。有色人種の犠牲者数は、世界大戦の死亡者数さえ上回ります。暴力と収奪によって、西欧文明は、大陸間の支配構造を作り出したのです。
近代世界システム」は、1450年頃から1540年頃までに形成されました。この支配体制は、西欧を中核とし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを半辺境または辺境とし、この構造の中で、近代資本主義が発達し、産業革命によって支配体制を完成させたのです。
外に向かって侵略と搾取をし続ける西欧諸国は、お互いの間でも戦争が絶えず、17世紀前半の三十年戦争(1618-48)は、キリスト教の新教国・旧教国が参戦して大戦争となり、ドイツの人口が3分の1になるという悲惨さでした。

近代世界システムでは「戦争と平和」という観点から世界秩序が構想されました。この構想を最初に体系化したのは、オランダのグロチウスの著書『戦争と平和の法』(1625)でした。時まさに三十年戦争のさなかでした。この理論をもとにして、1648年にウェストファリア条約が結ばれました。以来、ヨーロッパでは、戦争を世界観の柱として国際関係が律せられることとなりました。これが現在に続く主権国家体制です。主権国家同士の戦争は、1480年から1950年までの460年間に278回にのぼります。約1年8ヶ月に1回の割合で戦争が起こっていた計算となり、勿論それらに伴う、莫大な軍事支出が必要となります。
1650年代のイングランドは歳出の90%を、フランスのルイ14世は75%を軍費に充てていたといいます。
 

これら侵略的・攻撃的な西欧文明から自らの文明を守ることは、容易でなく、力には力で対抗して身を守らないと、虐殺あるいは支配されてしまいます。ラテン・アメリカでマヤ文明・アステカ文明などが滅ぼされ、アフリカやインドの有色人種が家畜のような奴隷労働をさせられたのは、力に対し自らを防衛する能力を欠いていたためでした。今日の我国がその様相を呈しています。


何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ、もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなども歴史教育では教えていません。
我国は海洋国家ですが、
単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのでしょうか?

また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのでしょうか?
先人の生き様を教えずして歴史教育とはいえません。
過去の日本の歴史を、単なる史実、時系列として捉え、先人の生き様を教えようとしない、侵略、略奪、売国を肯定した赤い教職員組合の弊害と言っても過言ではありません。

本題に戻りますが、
我々の先祖は西欧文明に出会った時から、見事に対応し、自衛を行いました。13世紀の元寇の記憶が働いたのかも知れません。天文12年(1543)、ポルトガル人が種子島に鉄砲(火縄銃)を伝えると、領主・種子島時堯(ときたか)はポルトガルから鉄砲を購入し、刀鍛冶に命じて1年後には10挺の鉄砲を作らせています。それから10年もすると、日本中の刀鍛冶が鉄砲を大量に製作し始めました。そして、16世紀後半には、日本は世界最大の鉄砲の生産・使用国となっていました。当時、地球を二分割していたポルトガル、スペインも、日本の軍事力を見て侵略を諦めざるをえませんでした。
米国のダートマス大学教授ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫)には次のように記述されています。

「…アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用では日本人よりずっと先んじたのであるが、ひとり日本人だけが鉄砲の大量生産に成功した。そればかりか、みごと自家薬籠中の武器としたのである。」

「…今日もそうだが、日本は当時も優れた工業国であった。…日本で、もっとも大量に製造されていた物がなにかというと、それは武器であって、二百年ぐらいは世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。」

「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。」


「たとえばイギリス軍全体をとってみても、その鉄砲所有数は、日本のトップの大名六名のうちどの大名の軍隊と比べても少なかった。…1569年イギリス枢密院がフランス侵攻の際に動員できるイギリス全体の兵隊と武器の数を決定すべく総点検を行った時のことだ、…フランス大使はスパイを通じてその情報をつかみ、「機密にされている兵隊の集計値」は二万四千、そのうち約六千の者が銃を所持している、とパリに報告した。」

「1584年、…戦国大名の竜造寺隆信が島原方面で有馬晴信・島津家久と対戦したが、率いていた軍勢は二万五千、そのうち九千が鉄砲隊であった。…」

すなわちイギリス国全体の軍隊の銃の数よりも肥前国の竜造寺氏の銃の数の方が五割も多く、しかも日本は独自の工夫により銃の性能を高め、「螺旋状の主動バネと引金調整装置を発達させ」「雨中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置を考案し」、当時のヨーロッパにおける戦闘と比較して、「武器においては日本人の方が実質的に先行していたのではなかろうか」とまで記述されています。


鉄砲だけでなく、刀も鎧も日本の物の方が優れており、ヨーロッパ製の剣などは日本刀で簡単に真っ二つに切り裂かれるということが正しいかどうかを実験したそうです。
 「今世紀(20世紀)の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣を真二つに切る実験に立ち会ったのがそれだし、また15世紀の名工兼元(2代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。」
とまで紹介されています。

これほど早く鉄砲製造の技術を習得し、また自力生産、大量生産できた理由は何でしょうか?武士が政治・社会の担い手であり国防意識が高かったこと、戦国時代だったので武器の需要があり、高級な刀剣の作成により技術水準が高く、国内で品質の高い銅・鉄を産出していたこと、人口が当時の西欧のどの国より多く教育水準も高かったことなどが挙げられます。
日本人は物真似ばかりで独創性がないといわれますが、単にコピーするのではなく、さらに良いものに改良してしまうところに、日本人の真骨頂があります。
アメリカの銃砲専門家のロバート・キンブローは、次のように言っています。「この改造銃は、近代の火薬を使っても暴発しなかった。昔の日本の職人の技術は、最高級の賛美に値する」と。
 
鉄砲を使った戦法も世界一でした。天文3年、織田信長は、当時最強の軍団と呼ばれた武田氏を長篠の戦いで駆逐しました。この時、信長は3千人の鉄砲隊を3分隊に分けて、一斉射撃を繰り返す戦法を用います。長篠の戦いの12年後、フランスのアンリ4世が勝利を収めたクトラの戦いで25名の鉄砲隊を各槍隊の間に配置した程度に過ぎなかった事も見ても、鉄砲使用の規模と質において、当時の日本がいかに進んでいたかが分かるこの戦法などを見ても、当時の西欧の数段上を行っており、西欧で同様の戦法が見られるのは約350年後の第1次大戦のドイツ軍だったといいます。それほど日本の軍事技術は先駆的でした。
豊臣秀吉は、この軍事力をもって戦乱の世を治め、国内を統一しました。さらに朝鮮の役で海外に進出を試みました。しかし、これに失敗すると、徳川家康は対外的な進出を止め、内政充実の政策を取ります。さらに、幕府は「鎖国」をして「近代世界システム」から離脱します。そして、西洋諸国が内では戦争を繰り返し、外へは植民地獲得に明け暮れていたころ、江戸日本は、戦争のない平和な社会を実現していくのです。

投稿文字数に制限がありますので、続きは次回に述べさせていただきます。
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胡錦濤主席が野田首相との個別会見を拒否しました。




日中韓首脳会談のため訪中した野田佳彦首相でしたが、中国側が十四日の胡錦濤主席との個別会談を拒否するという侮辱行為に及んだのは、東京都内で14日開幕した世界ウイグル会議の出席者に対し、日本政府が査証(ビザ)を発給したことに、中国側が反発したためとされています。
また、シナの程永華駐日大使が、14日から東京都内で開催中の「世界ウイグル人会議」の第4回代表大会に出席した国会議員に対し、「後ろ向きの動きがみられ、中日関係の妨げになっています」などとする抗議文を送ってきました。

またシナの外交部の洪磊報道官も十四日の記者会見で、こう述べています。
「世界ウイグル会議はテロ組織と密接な関係を持つ徹頭徹尾の反中分裂組織。日本側が中国の断固たる反対を顧みず、意地になって日本での関連会議を開催し、反中分裂活動を行うことを許したことに強烈な不満を表明する」

「新疆の事務は中国の内政であり、いかなる外部勢力の容喙も許されない。我々は日本に対し、中国の重大な関心を切実に尊重し、悪劣なる影響を取り除く措置を採るなど、実際の行動で中日関係の大局を守ることを要求する」と・・
言うまでもなく、中共が世界ウイグル会議をテロ組織であるかのように宣伝するのは、自らのウイグル民族弾圧を国際社会の前で正当化するためです。
その要求に忠実に応えているのが、中国への迎合姿勢で知られるメディア各社なのである。

たとえばNHKは十四日、「中国 ウイグル会議で日本非難」と題し、上記の洪磊報道官の談話を無批判に詳報し、シナが言う日中の「友好」とは日本の「譲歩」「妥協」「従属」を意味し、NHKの報道は、まさにそうした要求に従ったものとしか受け取れないのです。

しかも、「政府は関与していない」と主張しました。情けない限りです。
シナによる不当にして残忍なウイグル民族弾圧、虐殺に対して懸命に抵抗の声を上げる世界ウイグル会議の人々に入国ビザを発給しただけで、日中の「関係修復」「友好」が達成できないと言うのなら、そもそも「日中友好」とは何を意味するのでしょうか?。

今回のシナの非礼行為は、我国が自由、民主主義、基本的人権、法の支配と言った普遍的価値を否定してシナに従属し、宗主国と崇め、そのウイグル民族に対する浄化政策に加担して初めて成り立つものであることを意味します。




イメージ 2
世界ウイグル会議で挨拶するラビア・カーディル主席=14日、東京都千代田区の憲政記念館



シナから亡命したウイグル人の組織を束ねる「世界ウイグル会議」(本部ドイツ・ミュンヘン)の第4回代表大会が14日、都内で開幕し、ラビア・カーディル議長は開会式後に記者会見を開き、2009年7月の新疆ウイグル自治区での暴動を機に「中国の流血政策は激しさを増している。自治権を与えず、ウイグル人を絶滅に追い込んでいる」とシナ政府を批判しました。
また、議長は「日本は強い民主主義国家であり、自由と民主主義を求める私たちを支援してくれると思った」とも述べました。

ラビア・カーディル議長の言葉は、我国を信頼してくれている証しでもあります。
かって同じように、ドイツより迫害を受けたユダヤ人を人道的な精神から救った日本人がいます。

ユダヤには古くから『ゴールデン・ブック(金欄簿)』と『シルバー・ブック(銀欄簿)』の2種類のブックがあり、前者のブックには同族(ユダヤ人)の出身で世界的に傑出した人物の名を代々登録し、後者のブックにはユダヤのために貢献した第三国(ユダヤ人以外の人々)の名をそれぞれ登録して、その功績を永遠に顕彰しています。
 この登録によって、全ユダヤから永遠に感謝と敬慕を受けることになり、非常な名誉とされている。それは単にノーベル賞などの如く現界的栄誉にとどまらず、神聖な「神の記録」の如く扱われるところに大きな特徴があります。

元外交官、杉原千畝氏、元陸軍中将、樋口季一郎氏、元陸軍大佐、安江仙江氏の三名です。
杉原千畝氏は有名なのであえてここでは述べませんがが、樋口季一郎氏と安江仙江氏はあまり知られておりません。軍人だったということもあるのですが、この二名は昭和13年にヨーロッパからナチスドイツの迫害を恐れて脱出したユダヤ人2万人を満州国に受け入れたのです。

またゴールデン・ブックに記載されていませんが、前述したシナからA級戦犯の代表とまで言われ、いわれなき罪状で裁かれ、大東亜戦争の敗戦の責任を負われた東條英機氏。
東條氏が合祀されている靖国神社への小泉元首相の参拝を、「戦後ヒトラーやナチスを崇拝したドイツの指導者はいない」と非難したのは、シナの李肇星外相ですが、その東條氏は、ユダヤ人から「英雄」と称えられていたのです。
ナチスの暴挙を世界に喧伝するためにハルビンで開催された極東ユダヤ人大会。ハルビン特務機関長だった樋口季一郎らが大会に出席したことに対し、当時、同盟国であったドイツが抗議。その抗議を東條が握りつぶし、更に、ナチスの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に入国させたことに対するドイツ外務省の抗議を、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したことを評価したものです。

特務機関の幹部として、ハルビンのユダヤ民族協会を通してユダヤ人社会との交流があった樋口氏、安江氏。一方、東條氏はユダヤ人に満州国の門扉を開いたものの、ユダヤ人と親交を結ぶ機会がなかった。

それゆえ東條は氏「ゴールデンブック」入りができませんでした。しかし、もしユダヤ民族協会との交流があれば、「ゴールデンブック」入りは勿論のこと、東京裁判の判決に対し世界中のユダヤ人から助命嘆願書がマッカーサーのもとに寄せられたことだろうと言われています。

また、「ユダヤ人対策要綱」の制定に際して板垣征四郎陸軍大臣は「我国は八紘一宇の国である。ユダヤ人だからといって、特定の民族を差別することはできない」と述べています。

また我国は世界に魁て、1919年1月18日、「パリ講和会議」にて「人種差別を撤廃」を唱えた最初の国でもあるのです。
先人の汚名は少しづつ雪がれていますが、これらの偉業を知る日本人は余りにも少なすぎます。

我国はかって道義国家でした。
先人の偉業を継承し、大国シナの恫喝に屈することなく、シナの圧政に苦しむ民族に救いの手を差し伸べるべきです。
きっと護国の神々のご加護があるでありましょう。・・・
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