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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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正月以降、紅白歌合戦での桑田某が話題となっていますが、同時に平成21年4月10日に憲政記念館で開催された「天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝いする集い」での宇崎氏の祝辞が話題となっています。

以下に文章として記載いたします。
天皇皇后両陛下御大婚五十年、まことにおめでとうございます。心よりお祝いを申し上げます。昭和三十四年四月十日、私は十三歳で、御成婚パレードを中継するテレビの前で家族と一緒に、馬車に乗られた両陛下の輝く笑顔に見とれておりました。

あの日から半世紀たちまして、私は作曲家をしております。私の妻は阿木燿子(あきようこ)というペンネームで作詞をしております。平成十八年(二 〇〇六)秋、妻は紫綬褒章(しじゅほうしょう)を頂きました。授賞式には配偶者も来て良いということでしたので、私は妻に同行して、新調したモーニングを 着て初めて皇居に伺いました。間近で拝聴いたしました天皇陛下のお声は、低音と高音が同時に発せられる倍音(*以下に注釈)でした。深く心に響く素晴らしいお声で、 お歌もお上手でいらっしゃるのではと想像いたしました。

(*)倍音とは・・
一つの音を構成する部分音は、最小振動数の基音と、それ以外の上音である。上音のなかでも、基音の整数倍振動数を持ついくつかの部分音(たとえばオクターブ上)を倍音という。ハーモニックス(harmonics)。

翌年春、妻は園遊会にもお招きをいただきました。配偶者も出席して良いとのことでありましたので、今度は背広を新調して、赤坂御苑の方に同行いた しました。美しい雅楽、荘厳な吹奏楽が奏でられ、参列者は皆、その風景に溶け込んでおりました。私は、もうそれだけで幸せ一杯でしたが、妻の方は、発言に 失礼があってはならないとそればかりを考えて緊張しておりました。天皇ご一家は芝生の丘の上からゆっくりと下りていらっしゃいました。私たちの緊張もピー クに達していました。陛下はにこやかにゆっくりと、「お二人で歌をお作りになるのはご苦労もおありでしょうね」と妻にお声かけ下さいました。妻は「はい。 仲良く喧嘩をしながら作っております」と申し上げたのですが、陛下には一部お聞きとりづらいところがあったご様子で、少し身を乗り出されるような姿勢にな られました。慌てた妻は、「離婚を考えたことも度々でございます」などと申し上げてしまいました。

おかしな発言は慎むようにと申しておりましたのに、あとの祭りでございました。夕方のニュースでは園遊会の模様が録画中継で放送されていました が、私たちのところはその件(くだり)ばかりでございました。陛下から私の方へは「作曲もご苦労がおありでしょうね」とお声かけ頂き、勇気のわく心に響く お優しいお声でございました。皇后陛下からは「あなたは俳優もなさっておられるのですね。明日、あなたの出演していらっしゃる映画の試写会にお招きを頂い ております」という内容のお言葉を頂きまして、私はレコーディング中でしたので試写会には欠席する予定でしたが、慌てて出席にさせて頂きました。三枝健起 監督の『オリヲン座からの招待状』という映画です。二時間あまりの上映中、皇后陛下はシートに背中をもたれることなく背筋をまっすぐにのばされ、ご覧に なっておられました。そのお姿に非常に感激いたしました。別室にて製作者、出演者にお声かけがございました。この作品での私の役柄は映画館の映写技師で、 前半三十分ほどで病死してしまう役でした。皇后陛下は「あなたはすぐに亡くなられてしまわれたけれども、こうして生き返ってこられて良かったですね」と仰 いました。そして、「昔は映画館が町に何軒もございましたね。三本立ても見に参りました。一本目二本目とチャンバラでございました。三本目は何かなと思っ ておりましたら、エノケンでございました」とユーモアたっぷりに思い出をお話下さいました。

二日続けて皇后陛下にお声かけ頂いたこと、私の大いなる喜びで大いなる自慢でございます。特集記事などの報道写真で改めて拝見する両陛下の仲むつまじ いお姿は、心に安らぎをお与え下さいます。
天皇皇后両陛下、御大婚五十年、ますますのご健康をお祈り申し上げ、僭越ながら私のお祝いのご挨拶とさせ て頂きます。
おめでとうございます。



昨日は阪神淡路大震災より二十年の日でしたが、昨年10月23日は新潟県中越地震(にいがたけんちゅうえつじしん)より10年の年でした。
宇崎、阿木夫妻は
越後長岡応援団で以下の動画で復興を願っておられます。

長岡市 越後長岡応援団「宇崎竜童さん・阿木耀子さん」


阿木燿子氏は、平成20年の「米百俵デー市民の集い」で、「幸福へのパスポート〜今を豊かに生きるために」という演題で長岡で講演されました。その際、阿木氏が主宰する合唱団「ひふみレインボー」の名前は、良寛の「つきてみよ、ひふみよ」と始まる短歌にちなんでいるということがきっかけとなり、和島地域との交流が始ま りました。
和島という土地は、良寛が晩年島崎の木村家に身を寄せ、足掛け6年間地域の人々と穏やかな日々を送られました。自らを厳しく律し、決して名利に走らず修行をし続けてきた良寛が生涯で唯一気を許したといってもいい尼僧、貞心尼と出逢ったのが和島であり、終(つい)の地でもあります。その後、和島小学校の校歌の制作を約束し、平成22年3月に阿木燿子氏作詞、宇崎竜童氏作曲の和島小学校の新校歌が発表されました。
以下の動画が
和島小学校の新校歌です。
 

和島小学校 校歌発表会




宇崎、阿木夫妻は越後長岡のHPで次のようにコメントされています。

縁というのは不思議なものです。“感じた”瞬間から繋がっています。
人の心が温かくて、空気が澄んでいて、お酒が美味しい長岡は、
今や私達にとって、とても近しいところ。
大好きです、長岡。このご縁が長く続きますように。


ご夫妻の謙虚で真摯なお人柄は知られるところです。
地道に地域との繋がりを大切にし、尊皇のこころを忘れず活動を続けられる
宇崎、阿木夫妻の益々の発展を願ってやみません。

かって先帝陛下は折を見て我々臣民に諭されました。

立派な日本人として生きるように──
日本人としての矜持、心意気、「やまとごころ」を失わぬようにと・・・


天皇彌榮(すめらぎいやさか)

「歴史に学び、国を愛し、徳に生きる」 中條高徳 アサヒビール株式会社 名誉顧問

中條高徳(なかじょう・たかのり)先生が昨年12月24日に呼吸不全のために亡くなられました。享年87歳でした。
昨年の小野田先生に引き続き日本の誇り回復の為に戦って来られた中條先生に謹んで哀悼の意を評します。
中條先生は、
「勝者の論理で歪められてきた歴史を見なおし日本民族の誇りと公の精神を取り戻さなければ明日の日本は無い。今がその最後に残された機会である。」と仰せでした。
また、攻撃は防御の最高の在り方であるが、その逆に防御は攻撃のかわりになりえない。と・・・

「歴史に学び、国を愛し、徳に生きる」
後世の我々への提言であり、日本人が歩む道です。

合掌。

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2009年スケートアメリカで「スパルタクス」を演じる村主さん


2002年ソルトレークシティー、06年トリノ両冬季五輪のフィギュアスケート女子で入賞した村主章枝さん(33)=Kappa=が13日、現役引退を表明した。千葉県出身。豊かな表現力で全日本選手権を5度制覇。世界選手権では銀1、銅2と3つのメダルを獲得。03年に日本人で初めてグランプリ・ファイナルで優勝し、五輪は02年大会で5位、06年大会は4位に入った。6歳から始めた競技生活は28年目に入り、日本女子で現役最年長でした。1学年年下で長年のライバルでもあった荒川静香さんと日本女子フィギュアの屋台骨を支えた。

28年という長い、長い、現役生活でした。
かってのライバル荒川さんも現役を去り、引退のニュースに接し、「まだ現役だったのか」と驚きの声をあげる者もいるでしょう。
トリノ以降にフィギュアスケートにふれるようになった世代の方々からすれば、引き際を誤った、時代に取り残された選手と呼ぶ人たちもいるでしょう。
村主さんの人格やアスリートとしての実績を非難する者も少なくありませんでした。筆者は言いたい、村主章枝さんは、日本のフィギュアスケート史に残る偉大な選手のひとりでした。村主さんや荒川さんが牽引してきたからこそ今日の女子フィギュアスケートの隆盛があるのだと。
表現力の豊かさから「氷上の女優(アクトレス)」と称えられ、村主さんの代名詞とも言われた高速スピンも素晴らしいが、何より爽快だったのがあの高速サーキュラーステップでした。
ぐんぐんスピードを増しながら躍動する姿は、スポーツらしい爽快感がありました。
引退後、村主さんは振付師を目指すと宣言しました。
村主章枝さんの未来に幸多からんことを祈り、その名演技のひとつを紹介したい。
数々の大舞台で結果を出してきた村主さん、今回はあえてマイナーなこの一戦、動画からでも十分に伝わる疾走感を。
数々の感動をありがとう、そしてお疲れさまでした。








天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)
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大東亜戦争や災害など幾多の困難を乗り越えて、昨今日本各地で長く歴史を刻んできた老舗企業が注目されるようになりました。
長い年月を生き延びてきたこと自体が信頼の証となっているのです。
皆さんご存じのように、わが国は世界最古、最長の国家であり、世界最古の王朝にして、天壌無窮の皇室を君主として仰ぐ国です。
また、日本人の平均寿命が世界一なら、日本企業の寿命も世界一なのです。
創業100年以上の日本の企業は、約50.000社、200年以上は約3.000社存在します。企業には「30年生存説」というものがありますが、日本とドイツではこれらはあてはまりません。
創業100年なんて当たり前、創業300年ぐらいは事業を運営していないと老舗とは言えないという国です。これだけ多くの老舗企業が存在する国は、世界広しと言えど例がなく、創業200年以上の企業は、世界総数の約40%を占め、世界の約半数が日本企業です。ちなみに隣国の韓国は100年以上続いている企業は1軒も存在しません。
創業200年以上では、日本の次が、2.ドイツ(約800社)、3.オランダ(約220社)の順です。老舗イメージの強い欧州では、ブランドが継続しても、実際には他企業に売却されるなどして、創業者一族が経営から手を引いているケースが多々見受けられます。
老舗企業には、共通する3つの要素があると言われています。
1.ひたすら愚直なまでに、真面目に正直に、毎日の仕事を続け、浮利を追わない。
2.時代の変化を恐れない、動じない。
3.自社の発展だけではなく、地域社会の発展にも寄与し、そこには、身の丈に合った経営、人間関係の重視、そして、地域性と時代性を併せもっていることが共通していると言われています。
昨今、マスコミ等は決まり文句のように「100年に1度の大不況」というフレーズを用いますが、果たしてそうでしょうか。これらのフレーズはわが国の企業にあてはまるのでしょうか?
この100年の間には、昭和恐慌や大東亜戦争など現在以上に深刻な不況要素がありましたが、日本全国約50.000社以上の企業は、それを必死に乗り越えてきたのです。老舗企業は、「成長する」ための戦略だけでなく、「生き延びる」ための戦略を必要とする時期を、何度も経験してきました。特に、戦争や大災害は、インフラや人材、販売する商品が欠け、再起を果たすための原動力は、成長戦略よりも今日明日をどう生き延びるかという日々。幾多の不況期を乗り越えた経験は、時代を超え、世代を経て、会社継続のための教訓、家訓となり、後世にしっかりと根付いているのです。
 多くの文献等は日本に老舗企業が集中した最大の要因は、極東の島国で被侵略と内戦が無かったことが最大の要因と言いますが、筆者はこれらの見解とは異にします。 
先人や先祖が世界の情報等を分析し、国をよく護った精華だと思う
のです。
老舗企業経営者のアンケート調査として、「老舗企業として大事なことを漢字一字で表すと」の問に、「信」と回答が最多でした。「真心を込め、長い年月をかけてお客様や取引先と信頼関係を築いてきた」「地域の信頼関係を築いてこそ、企業は活かされていく」。一方、「変」「新」といった文字も上位に並んでいます。
「老舗と言われるけど、先祖代々、革新的事業を行なってきた、しかし核となる家訓等は護持したきました。

そしてこれからも続いていくのです。






天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)


岡山で20年前にフィギュアスケートに出会い、出発点でもあった故郷、岡山の地で高橋大輔選手は14日、現役引退を表明しました。高橋選手の決意に、地元関係者やファンらは「お疲れさま」と温かいエールを送りました。
 また高橋選手のソチ五輪の6位入賞を祝う会が14日夜、スケートリンクのあるヘルスピア倉敷(同市連島町西之浦)で開催され、県内外から約500人のファンがつめかけた。この日昼に岡山市内で引退を表明した高橋選手に、ファンから「お疲れさま」「お帰りなさい」労いの声援を贈りました。高橋選手は「ただいま」と笑顔で応え、「(今後の進路が)どういう形になっても、応援してくれるとうれしいです」と答え、岡山でアイスショーをしてほしい」とのファンの要望にも「タイミングがあればできたらいいな」と応えました。
動画でインタビューに答えられているスケター高橋選手の「育ての親」の一人でもある、長光歌子コーチは中学卒業後、寝食を共にし、指導にあたられました。高橋選手が初めて長光コーチの家に泊まりに来た時の高橋選手のことを次のように回想されています。「先生、僕はここにくるまでにたくさんの人に支えられてきた。これからどんなふうに恩返ししたらいいでしょうか?」と聞かれたことを明かされました。
長光コーチはその高橋選手の感性に驚かされるとともに、高橋選手に次のように諭されました。
「あなたが頑張ることが恩返しだと」
支えてくれた皆さんの期待に応えるように高橋選手は世界王者まで駆け上がった。長光コーチは引退する高橋選手に「十分恩返しできたと思う。本当にお疲れさま」と労った。高橋選手を8歳でスケートの指導を受けたもう一人の「育ての親」佐々木美行さん、「生みの母」である高橋清登さんも高橋選手の新たな門出にエールを贈りました。


2008年3月31日、奇跡を起こした伝説のエキシビションの動画です。倉敷のスケートリンクが廃止決定になり存続を願う倉敷FSC他が存続を願う会を結成、全国からたくさんの応援をいただきスケート選手及びファンの熱い­想いを込めたイベントを決行しました。高橋選手も支援に駆け付け、スケートリンクの存続を訴えた。


資金難で存続が危ぶまれていたアイススケートリンクなどの複合施設「大阪府立臨海スポ­ーツセンター」(同府高石市)への支援を求め、募金活動をしていたフィギュアスケート­の高橋大輔選手らが14日、府庁を訪問し、耐震工事費1億5千万円の寄付目録を松井一­郎知事に手渡し存続に導いた
アイススケートリンクが廃止されることは高橋選手らが練習拠点をを失うだけでなく、世界を目指す後進の夢を摘んでしまうだけでなく人材を失うことも意味します。
アイススケートリンク存続を働きかけ、後進に道を開いたのは高橋選手だけではありません。トリノ五輪メダリストの荒川静香さんもかって練習拠点としたアイスリンク仙台の窮状を救いました。



トリノオリンピックイナバウアーで世界を魅了した荒川静香選手がオリンピックのフィギュアスケートで日本人初の金メダルに輝いた直後の会見、荒川選手は世界のメディアを前にし、
「私が基礎を作り上げてきたリンクは閉鎖されてしまいまして、小さい子たちが練習場所を探すのに非常に困っている状況です…」
「リンクの状況が今後良くなっていくことをいつも願っています」と惨状を訴金メダリストの訴えは、一気に事態を動かしました。
宮城県と仙台市が合わせて1億円を支援し、金メダリストを育てたリンクは2007年に再開されたのです。
 その1ヶ月後、再開されたリンクで金メダリスト:荒川選手がスケート教室を開きました。
そこには当時12歳の羽生選手の姿がありました。羽生選手は荒川選手の前で得意のイナバウアーを披露してみせました。そして荒川が得意としたイナバウアーを自身の演技に取り込んで今日に至っています。そしてソチ五輪で金メダリストに輝きました。
 
男子のトップ選手でイナバウアーをやるのは羽生選手以外にはいません。
金メダリスト、「羽生結弦選手」を救ったのは金メダリスト荒川選手の「後に続く後進のため」への思いでした。
今回リンクを去って行く高橋選手や多くの選手が、先輩、先人への感謝の意を述べています。
わが国のフィギュアスケートは世界に比肩なき層の厚さを誇っています。
日の丸を背負った日本人は強く、逞しく、美しい。
何よりも故郷への思い、恩人への感謝、何よりも後に続く後進のため」への思い、そして、日本人としての矜持を持ち続けているのです。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)



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