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淵沢能恵(ふちざわのえ)女史



淵沢能恵(ふちざわのえ)女史は嘉永3年(1850年)岩手県石鳥谷町に生まれました。
女史は米国留学経験もある近代的な女子教育者でした。
東京、下関、熊本、福岡の女学校の教鞭をとられ
ましたが、苦しい生活の中にも常に故郷の養母を思い、幾度となく帰郷し、感謝に意を表す日本女性の範でもありました。明治37年(1904年)、養母永眠を見届けた後、明治38年5月韓国に渡り、韓国の女子教育に残りの人生を捧げようと決意されたのでした。
韓国女性の、あまりにも低い地位に同情されたのです。
ときに能恵女史55歳でした。平均寿命50歳前後であった明治期、齢55歳にして海を渡り、異国の女子教育への挺身を決意し、学校を設立するといったことは正に壮絶な人生であり、「韓国女子教育の母」と呼ばれた、その功績は日本の偉人として顕彰するにふさわしい人物であります。
能恵は明治39年(1906年)、「明新女学校」を創立。学校長に李王朝の李貞淑を迎え、自らは学監となりました。後、「淑明高等女学校」(現、淑明女子中高等学校の前身)と改称。能恵も理事長として活躍し、韓国女子教育の礎を築きました。


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淑明高等女学校






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淑明女学校朝礼での李貞淑校長と淵澤能恵女史 昭和5年(1930年)





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昭和10年(1935)年9月の新聞記事(京城日報)
女史が亡くなる直前に,その功を表彰されたときの新聞記事です。
女史が学校を創立した事も書いてあります。


以下に新聞画像の詳細を現代語訳にて記載します。
朝鮮を育んだ人々
施政25周年記念開発功労者紙上表彰


女子教育を天職に身心を打込む
今は86の高齢で病床に 
女子教育の母,淵沢能恵女史



 わが大勝利に帰した日露大戦の余燼まだ収まらぬ明治38年に朝鮮へ渡って以来、雨の日も風の日も熱心に教育事業に携わり、今や86歳の高齢に達して病床に横たわる淵沢能恵さんは、一生を学校経営、女子の教育に投じた人と言える。
 そして前年、病に倒れた時、勲六等を授かった。しかし、そこまで漕ぎつけるには血涙を絞るような苦境に立った事も度々有ったようだ。決して愚痴を言わない淵沢さんは、自分から、あれこれと言わないが、第一に朝鮮へ来た早々頭を悩ませた。
 女子の教育の必要は言うまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった。自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に話をもちかけて見ると、趣旨には賛成するが、それだけの話で一向に動いてはくれなかった。


 悲観した、といって、誰が助けてくれよう。そこでまず厳妃(高宗の継妃)を総裁に迎え、日韓婦人会を創設して、日本、韓国双方の婦人を交際させて、お互の智識の啓発と、今後の女子教育について、大いに説いて見た。ついに時機が到来して支援してくれる人も現われ、ようやく学校を開設することになって、李太王(高宗)に 校名をつけていただくことになった。すると快く『晋信館』とおつけになったが、どうも学校名としてはふさわしくない。それでこれを一旦、お返しして再び校 名をご依頼したところ『曹信館は淵沢家の号にして学校の方は明新としてはどうか?』と言われた。これで『明新女学校』の木の香りもゆかしい看板をかがけて 学校運営を開始したが、結果はなかなか軌道に乗らなかった。


 しかし、淵沢さんが朝鮮で女子教育を施そうとしたのは、『日本は朝鮮から文化を輸入して、色々お世語になっていま すから、そのお礼の意味で私の力で出来ること、つまり女子教育を普及しようと思って朝鮮に来たのです』と言うから、確固として動かない信念があった。如何 なる障害に当面しても、それを乗越え、 突き破らねばならぬ。しかし思い叶って学校を開設して見ると、生徒はたった5名という状態に人知れず溜息を洩らすより仕方がなかった。そこで更に各方面を必死に勧誘して新入生も増加した。その努力を評価された英親王殿下(李垠・高宗の第7男子、韓国最後の皇太子)から学校財産として1000町歩(1000ヘクタール)の田畑を贈与されたので、学校の経営はようやく本格的になり、現在では547名の生徒を擁するに至った。


淑明という今の校名は、李太王(高宗)から付けていただいた『明新』は李王垠殿下(李垠)の雅号と同字なので改めようと思っている矢先、明治44年11月朝鮮教育令が実施され、教育内容を充実させると共に淑明女子高等普通学校と改めたものである。


 また卒業生の指導について卒業後、教育事業に携わるものに対しては自費を投じて奈良や東京の女子高等学校師範に入学させたが、その数20数名にのぼっている。これらの教え子は、今いずれも公私立の女子高等普通学校に教鞭をとっている。また一般卒業生のためには淑女会を組繊して、きめ細やかに指導しているの で、慈母の如く親まれている。天職に身心を打込むとはこういう人をいうのだろう。そこで『若き女性に求むるところ』を求めて見ると、肺炎後に扁桃腺炎をわ ずらって、ひからびては痛む咽頭をおさえつつ『私は女性から政治家が出てもいい思っています。しかしそれは100人に1人とか1000人に1人で、政治家 となるべき特質をもったものに限られるべきで、例外の部類です。一般の女性は、家庭にあって夫を助け、妻として又母として自然性に、そむかぬ本分を磨き、 且つその範囲の生活を完全に生活してゆくべきだと思います。女子は家庭という範疇の中で縁の下の力もちとなることを喜び、信仰の生活を忘れてはいけないと 思います』
 なお同女史は愛国婦人会の役員や婦人□風会(朝鮮)の会長をしている。

日本の朝鮮政策に抗する反日運動のさなか、「日韓婦人会」活動をとおして、日韓融和に努めるなど、その功績は大きく、大正4年(1915年)、「従七位勲六等宝冠賞」を贈られました。
昭和11年(1936年)、永眠。齢86歳でした




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女史の人柄を表す証言が村上淑子著『淵澤能恵の生涯』に記載されています。


穏やかな笑顔を絶やさない人

お婆さん(能恵)は、年中笑っているような穏やかな顔をしている人でした。笑うと目が三角になって、笑い皺さえもがとても素敵でした。一緒に生活して、その笑顔を見ると心が温まる思いがして、それだけでも楽しかったものです。

また、お婆さんは、寒い季節になると教え子が編んだ毛糸の帽子をいつもかぶっていました。
そんなわけなので、教え子は、かわるがわる毛糸の帽子をプレゼントしたので、お婆さんは、いろいろな帽子をかぶせられたそうです。この一事をみても、お婆さんが生徒に好かれていた様子が分かります。
私が感激したのは一人の少女(卒業した生徒)がお婆さんを頼ってきたときの出来事でした。

お婆さんは「ああ、よく来た。よく来た」といってとても喜んで少女を抱きしめました。

その少女はみすぼらしくて、とても不潔な感じのする子でした。少女が帰ったあとでお婆さんは虱をもらってしまいました。

お婆さんはそれを知って「いい置き土産をもらったよね」といって明るく笑ったのです。

その後、その少女が見違えるように綺麗になって訪ねてきてくれたとき、お婆さんは以前と同じように「よく来た、よく来た」といってとても喜びました。相手が不潔でも綺麗でもまったく同じように喜んだのです。

お婆さんは、相手がどんな風体の人であれ分け隔てなく愛の言葉をかけ、あたかも自分の子供のように可愛がりました。
その根底には、深い信仰があったからだと思います。すべてが神様の御意志で動いているような人でした。感謝の心を忘れることなく朝な夕なに神様にお祈りをしていました。




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昭和元年(1925)3月朝鮮総督府内 2列目左より5人目より、淵澤能恵女史、後藤新平、齋藤實総督、留守邦太郎水沢藩主、志賀潔京城帝国大学総長



しかし、八紘一宇、博愛の精神で晩年の生涯を朝鮮の近代女子教育に捧げた女史の偉業は
学校設立者、淵沢能恵女史は戦後、設立の時に参加しただけの日本人教師の一人という事に歪曲され設立は高宗王室 厳皇貴姫が行ったものと捏造され淑明女子大学のサイトでは、学校の歴史を載せたページに一ヶ所学校設立の時の協力者・淵沢能恵として歪曲し目立たないように残されるのみとなりました。
「テレビ岩手」は『淵澤能恵 五十五歳で海峡を渡った』を制作、女史の功績は現在、地元岩手で顕彰されています。

現在、韓国の中央日報が日本への原爆投下を「神の懲罰」とする記事を記載し大きな波紋を呼び、外交問題に発展しそうな様相を呈しています。
恩人であっても歴史の一幕から抹消してしまう戦後朝鮮民族。
韓国の近代教育に慈愛の精神で寄与された女史は天界で韓国の現状をどう見ておられるでありましょうか?


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沖永良部島(おきのえらぶじま、おきえらぶじま)







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ウジジ浜


平成12年(西暦2000年)9月、カナダ政府と鹿児島県大島郡知名町の人々との心温まる交流がありました。
1890年(明治23年)9月15日、カナダ帆船「リジーCトゥループ号」は長崎から米国のワシントンに向かう途中台風に遭遇し進路を失った。そして、7日後の9月22日早朝、ウジジ浜沖にて操船不能となりウジジ浜東海岸に乗揚げ船体は直ちに大破した。



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ウジジ浜で遭難したトゥループ号


 乗組員22名のうち10名が行方不明、残りの12名はウジジ浜の入り江に漂流していたため、荒れ狂う波浪の中で島民が懸命の救助活動を行った。しかし、、船長と1名の水夫は島民の懸命の介護の甲斐もなくまもなく死亡し、ウジジ浜の西方に埋葬され墓石が建てられた。
島民は、生き残った乗組員に対して温かい食べ物や飲み物・衣服を与え、元気になるまでの17日間世話をし沖縄経由でカナダに帰国させたのです。
2年経過した明治25年にカナダ政府から、その時の島民の救助と介護に対しての謝礼として望遠鏡と英国紙幣42ポンド(日本円換算272円42銭7里)が贈られた。そのお金は、遭難の時に尽力された島民たちに細かく配分された。当時の戸長は自分に贈られた4ポンドとさらに私財を加えて、島で最初の石橋(久平橋)を建設したのです。

現在、沖永良部島に住む二つの家にトゥループ号の乗組員たちの世話をした話が先祖から語り継がれています。このものがたりは、その島に住んでいる子どもが話を聞く形で進んでいきます。

明治23年(1890年)、おばあが七つのころだよ。
その年の九月に大きな台風が来てね、その台風が去った朝、大人たちがさわいでいたんだって。
「ウジジ浜に 異国船 ( いこくせん ) が打ち上げられた!」
「ケガ人がいるぞ、早く助けに!」
おばあは、
「子どもはじゃまになるから家にいろ」
って言われたけれど、こっそり見に行ったんだって。
そしたらね、そこには髪の毛のいろも、肌のいろも全然ちがう、見たこともない大男たちが、頭や足なんかから血を流して運ばれていたんだ。
その時、女の人がひとりいて、すごく悲しそうに泣いていたんだ。
後でわかったことだけど、その人のだんなさんが船長さんで、その船長さん、助けられたあとすぐに亡くなったんだって。
二歳の男の子も、海におちて助からなかったって。
それで泣いていたんだよ。
かわいそうだね、おかあさん。
それからね、島にいるあいだ、おばあのおかあさんたち、いっぱいごちそう作ってあげたんだよ。おイモやおサカナ、塩づけのブタやタマゴ……。
着物を作ってあげたら、ふたり分くらいの布でひとり分がやっとだったって!
ほんとに大きかったんだね。
おばあたちすぐに仲よしになって、いっぱい遊んでもらったんだってよ。
言葉わからないのにね。言葉が通じなくても仲よしになれるの?おかあさん。
船長さんの奥さん、アルフレッタさんって言うんだけど、その人もとってもやさしくて、一緒に遊んでくれたって。
おばあたちがえらぶの子守歌歌ってあげたら、とっても喜んでくれたんだけど……
やっぱり泣いてたって。
男の子に届いたかな、子守歌。
みんなが元気になってカナダっていう国に帰るとき、アルフレッタさんが手に大事そうに何か持って、島の人にこう言ったんだよ。
「私は今までのお世話に対して、何のお礼もできません。どうか、この指輪を受け取ってください」
島の人は首を横にふって、こう言ったんだ。
「夫婦のきずなは永遠です。そんな大切なものを受け取ることはできません。困ったときはお互いさまです」
あのねおかあさん、その指輪亡くなった船長さんのだったんだよ。
おばあが言ってた。
「言葉や肌のいろがちがったり、信じる神様がちがっていても、人の心はおんなじさ。やさしくされるとうれしいし、きずつけられるといたいんだ。世界中の人たちが思いやりながら仲よくしていけたらいいねぇ」
ねぇおかあさん、
わたし、 泉家 ( いずみや ) のおばあにありがとうって言ってくるよ

(「海の道むんがたい」より)


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慰霊祭・除幕式で挨拶するエドワーズ駐日カナダ大使





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献花する乗組員の遺族




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110年の時を経て姿を現したリジー・C・トゥループ号の
釘に見入る乗組員の遺族(ウジジ浜公園の交流会で)





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先人の「博愛の精神」で実現した110年祭。レナード・J・エドワーズ駐日カナダ大使は学校訪問や地元の文化・芸術に触れて大感激し、日本とカナダの友好がさらに深まることを強調。遭難した乗組員の4人の遺族は、当時介護にあたった泉川家の墓参をし、花束を捧げてお礼をしました。
海上慰霊祭や交流会を通して110年前の悲しい出来事が今、国際交流という大事業を産み出したのです。

かって日本人は美しかった、博愛の精神を持っていました。
現在、こころない国から批難をされていますが、現在の日本人よりも数倍、崇高な精神を持っていたのです。
先人、先祖を信じずして、文化、歴史の継承ができるでしょうか?


「日本人」よ、誇りを持とう・・・「美し国、日本、美しい国、日本」を・・・



参考文献
知名町HP
「海の道むんがたい」白川清乃(南方新社)
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杉坂史跡(杉坂峠)






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杉坂峠は播磨(兵庫県南西部)と美作(岡山県)を結ぶ交通の重要な場所で鎌倉時代には関所が置かれていたところです。
元弘の変(鎌倉幕府の滅亡〜建武政権の樹立に至までの内乱)の失敗で後醍醐天皇は、隠岐(島根県)に流されることになり、児島高徳という備前の武士が天皇を救出しようと杉坂峠(作東町)についた時には、後醍醐天皇はもう院の庄(津山市)に入った後でした。高徳が成し遂げようとして成し遂げられなかった無念の地が杉坂峠(すぎさかとうげ)です。
杉坂峠には、もうひとつ、あまり知られていませんが「涙の杉坂峠」という物語があります。

岡山県落合町鹿田 ( おかやまけんおちあいちょうかった ) にある 太平寺 ( たいへいじ ) の 境内 ( けいだい ) に、 石黒小右衛門 ( いしぐろこえもん ) 翁の 碑 ( ひ ) があります。
石黒小右衛門は、 元禄 ( げんろく ) 二年(一六八九年) 美濃国 ( みののくに ) (現在の岐阜県)に生まれ、 寛延 ( かんえん ) 二年(一七四九年)六十歳のとき鹿田代官に着任し、自分の身を 犠牲 ( ぎせい ) にして住民のためにつくしました。当時の日本では数少ない代官でした。
石黒代官が第四代鹿田代官として着任して七年目の 宝暦 ( ほうれき ) 五年(一七五五年)の九月、中国地方一帯を 襲 ( おそ ) った集中豪雨は三日三晩降り続き、中国山地を源に 瀬戸内海 ( せとないかい ) に流れる 旭川 ( あさひがわ ) は大洪水を引き起こし、各地に被害が出ました。特に 向津矢村 ( むかつやむら ) (現在の落合町向津矢)は、三七戸のうち二戸を残しただけで、ことごとく流されてしまいました。収穫間近の田畑も全滅し、村人や家畜もその多くが命を奪われました。
石黒代官は、領内の 被災地 ( ひさいち ) を見て回りましたが、家や田畑、家畜などの生活 基盤 ( きばん ) のすべてを失い一番大きな打撃を受けた向津矢村については、幕府の救いを求める以外に方法がなく、急ぎの使いを江戸に送り、指示が来るのを 一日千秋 ( いちじつせんしゅう ) の思いで待っていました。
いろいろ検討した末幕府が命じた内容は「向津矢村を 復興 ( ふっこう ) することはあきらめて、村民全員が遠く離れた 日本原 ( にほんばら ) へ移住せよ」というものでした。
この知らせを聞いた村民はひどく落ち込み、 先祖 ( せんぞ ) が眠り、長い間耕し守り続けてきたこの土地を捨てるにはしのびないとして、口々に向津矢村の復興を石黒代官に訴えました。
近隣 ( きんりん ) の村々からの 救援物資 ( きゅうえんぶっし ) も底をつきかけ、わずかな 余裕 ( よゆう ) もない状況になっており、村民の並々ならぬ決意を聞いた石黒代官は幕府の命令に 背 ( そむ ) いて向津矢村を復興することを決断します。
石黒代官は向津矢村の 結 ( むすび ) 神社 ( じんじゃ ) へ村民全員を集め、代官所が全責任を負って向津矢村の復興を何としても成しとげること、復興へのめどが付くまで 租税 ( そぜい ) を半分 免除 ( めんじょ ) することをいい渡しました。
さらに、働くことは一村一家をもう一度立て直すための原動力であり、真に家業に精を出せば神は必ず守ってくださると 訓示 ( くんじ ) し「心だに誠の道に 叶 ( かな ) ひなば祈らずとても神や守らん」という歌を書いて村民に渡しました。


石黒代官の取ったこの行動に村民は感激し、昼も夜も問わず 精魂 ( せいこん ) 込めて復旧作業に取り組みました。そのおかげで、約一年後には荒れ果てていた農地もほぼ被災前の姿を取り戻しつつありました。
しかし、石黒代官の行動は幕府の許可なしに行ったものでしたから、その事情を幕府に報告して改めて許可を受けようと江戸に向かいました。その結果はというと、 越権行為 ( えっけんこうい ) (許されていた権限を越えて事を行ったこと)として、幕府は厳しい処分を下したのです。
望みがかなえられないまま 帰途 ( きと ) についた石黒代官の乗ったかごが 播磨 ( はりま ) (現在の兵庫県)と 美作 ( みまさか ) (現在の岡山県)の国境にある 杉坂峠 ( すぎさかとうげ ) に差しかかったとき一台のかごが追い抜こうとしました。
呼び止めて行き先と用件をたずねると、他の代官に鹿田代官の仕事も兼務させるという内容の幕府の命令を伝えに行くところだとの返事がありました。
石黒代官が行なったことは、たとえそれが善行であったとしても、おかみの命に背いたとあれば、それは処罪にあたります。
もしかすると事情を賢察し、更迭で済むかもしれない。
しかし、たとえ更迭であったとしても、自分をとりたててくれた京都所司代土岐丹後守にご迷惑をおかけすることになる。
あるいは、後任の代官によって、おかみの命が年遅れでそのまま実行せられるかもしれぬ。
そうなれば、せっかく自分を信じて村の復興のために必死に働いてくれた村人たちの努力を水泡に帰させてしまう。

かくなるうえは、自分の一死をもって全責任を負う他はない。  これを聞いて自らの運命を 悟 ( さと ) った石黒代官は、かごのなかで 自害 ( じがい ) (自ら命を断つこと)したのです。
石黒代官の亡きがら( 遺体 ( いたい ) )は、 遺言 ( ゆいごん ) のとおり鹿田村の太平寺に手厚く 葬 ( ほうむ ) られました。この知らせを聞いた向津矢村の村民も、石黒代官の厚い恩に 報 ( むく ) いるべく結神社の 境内 ( けいだい ) に 末社 ( まっしゃ ) (神社に付属する小さい神社)として石黒神社を建て、村の 守護神 ( しゅごしん ) として 参拝 ( さんぱい ) を欠かしませんでした。その後この結神社は、明治四十二年(一九〇九年)、 垂水神社 ( たるみじんじゃ ) と一緒にまつられるようになりました。
鹿田においても自分の命をかけてまで領内の民を救った石黒代官の 偉業 ( いぎょう ) は、三〇〇年の歴史を持つ鹿田踊りの一節にも歌われ、現在まで語り継がれています。





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石黒小右衛門末社







2012鹿田おどり





一昨年、わが国を未曾有の惨事とも言える大津波が関東から東北にかけて、美しい国土を襲い、多くの同胞が亡くなりました。
時の政権が右往左往し、被害をことさら大きくしてしまいました。
しかも、被災地の復興は遅々として進みませんでした。
被災地の復興を願い、死をもって責任を貫いた、石黒小右衛門は天界で、現世の官吏(かんり)をどう見ているでしょうか?


 
 
 
反省どころか言い訳のオンパレード。民主党は5月11日、東京・日本橋で「公開大反省会」を開催した。菅元首相と枝野元官房長官、長妻厚生労働相の3人が30歳以下の若者の質問に答え、民主党政権を振り返った。だが、菅氏らから真(しん)摯(し)な反省はほとんど聞こえず、目立ったのは官僚批判、自民党批判、自己弁護ばかりでした。
このような連中が国政を担っていたかと思えば、本当に悪夢の3年間でした。
 
しかし、我々の先人は尊敬され、後世に語り継がれる偉人が多く存在します。
一命を賭して神宮領の「神域」に水路を引いた、福井文右衛門もその一人です。
今から約300年前、このあたりは、名張藤堂藩(なばりとうどうはん)の領地(りょうち)で、藩主藤堂高吉の家臣{かしん〕福井文右衛門が保津(ほうづ)村に代官所(だいかんしょ)を設け、保津、上、下御糸五郷や法田、櫛田(くしだ)村といった御糸39カ村の代官として治めていました。
「農民は米を食うな。着物は 木綿 ( もめん ) にせよ。朝は早くから起きて草を刈り、昼は田畑の耕作に精を出せ。晩には縄を 編 ( あ ) め、美人でも 怠 ( なま ) け者の女房とは離婚すべし…」
 これは江戸幕府が農民に対して出した「 慶安 ( けいあん ) の 御触書 ( おふれがき ) 」の一部です。農民たちは 飢 ( う ) えと貧困に苦しんでいました。
当時、 名張藤堂藩伊勢領 ( なばりとうどうはんいせりょう ) だった 出間村 ( いずまむら ) (現在の 松阪市出間町 ( まつさかしいずまちょう ) )の農民たちもそんな飢えのどん底にありました。この地は 櫛田川 ( くしだがわ ) 流域にあるにもかかわらず、耕地は畑ばかりで、水田はほんの少ししかありませんでした。出間村へは、 機殿神社 ( はたどのじんじゃ ) を 迂回 ( うかい ) した用水がありましたが、土地の形が悪いため、十分な水が流れていませんでした。当然、稲作はうまくできなかったのです。
 農民が生活に困っていることを耳にした当時の代官、 福井文右衛門 ( ふくいぶんえもん ) は、ある日こっそりと出間村におもむき、農家の食卓をのぞいてみました。すると真っ白な白米のようなものを食べています。
 「何だ、米の飯を食べているじゃないか」
 福井代官は首をかしげて役所に帰りました。そして 庄屋 ( しょうや ) を呼び寄せ、自分の見たままを話すと、庄屋は福井代官をさとすようにいいました。
 「それは白米ではなく、豆腐のおからの 粥 ( かゆ ) です」
 福井代官は言葉を失いました。それから、農民を救うため、ある決意を固めたのでした。
 水の利用の悪さを解決するため、機殿神社を迂回せず、直接、出間村に水路を引こうと考えたのです。技術的にも難しいことではありません。しかし、これには 厄介 ( やっかい ) な問題がありました。
 機殿神社の神域(神社の境内)は「泣く子も黙る…」といわれた 伊勢神宮 ( いせじんぐう ) 領です。昔から神域は木の一本も草の一つも動かすことを禁じられています。その神域をおかして水路を引けばただではすまず、へたをすれば命も失いかねません。神官の 権威 ( けんい ) と政治力の前に、 外様大名 ( とざまだいみょう ) (徳川氏の家門やもともとの 家臣 ( かしん ) ではない大名)の一代官がたちうちできる道理はありませんでした。
 時は慶安三年(一六五〇年)五月二十日の日暮れ。
 にわかに福井代官は、出間村の村民全員に集まるよう 厳命 ( げんめい ) を出しました。村民たちはなにごとが起こったのかと代官所に集まりました。
 「夜を 徹 ( てっ ) して一晩のうちに機殿神社の神域の東側、なかほどから北に直線に近いくの字形に貫く水路を開け!」
と、福井代官は 号令 ( ごうれい ) をかけました。これは完全に神域をおかすことになります。伊勢神宮のおとがめを恐れて村民たちは取り合いませんでしたが、「村民には決して 難儀 ( なんぎ ) をかけない、安心して工事を実行すればいい」
との福井代官の言葉に力を得て、水を得る工事に取りかかりました。村民たちは福井代官の 陣頭指揮 ( じんとうしき ) のもと、かいがいしく働きました。
 そして翌二十一日の夜明けまでに予定の水路はすっかりできあがりました。水は日の出とともに勢いよく流れました。
 
 
 
 
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今も当時のまま残る「福井水路」
 
 
「水が来たぞ」「これで米をつくれる」
 村民たちから歓声がわき上がります。
 ところが、先ほどまで工事の監督と励ましにあたっていた福井代官の姿が見えません。何をおいても、代官に知らせなくては……と村民一同が代官所に来てみると何ということか、福井代官はすでに 割腹 ( かっぷく ) して果てていました。福井代官は神域をおかした罪を一人で背負って一命をなげうったのです。後をうまく治めるための策のいっさいを次席代官に任せるという内容の 遺言状 ( ゆいごんじょう ) も見つかりました。
 
その遺書には「けさほど流したあの水は、この文右衛門が命に替えて出間村へ贈ったもので、孫子の代まで末長く豊作続けて下され。」と書いてありました。
 
 「村民には絶対に難儀をかけない」
 福井代官が一命を 賭 ( と ) して正義のために起こした行動だったのです。村民は 遺体 ( いたい ) にとりすがって 号泣 ( ごうきゅう ) しました。
 福井代官の 葬儀 ( そうぎ ) は、その半年後に行われました。半年の間に、 藩 ( はん ) と神宮側との間にいろいろな交渉があったのではないかといわれています。
 その後、この水路は「福井水路」「ぶんよむどい(文右衛門樋)」 と名付けられました。福井水路は今も当時のまま堂々と残っており、出間の水田をうるおしています。出間では代々、福井代官のことを言い伝え、毎年田植えの通水初めには「 神事掘 ( しんじほり ) 」といって溝さらいをした後、福井代官をまつっている 神福寺 ( しんふくじ ) で 念仏 ( ねんぶつ ) を 唱 ( とな ) えての 供養 ( くよう ) を実に三〇〇年間ずっと続けています。出間の人々は、いまだに福井代官のことを忘れていません。
伊勢神宮も、下機殿の東の隅(すみ)に、大きな顕彰碑(けんしょうひ)を建ててくれた。

文右衛門の崇高な精神は、いまも立派に出間村に生きているのです。
 
 
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神服織機殿神社東隅にある福井文右衛門の顕彰碑
 
 
筆者は思うのです。
国際人というのは自国の立場でものを話すということ。そのためには自国の歴史や文化、伝統への理解がなければならず、また相手国の歴史、文化を歴史を認識した上で交流していく人を言います。
決して冒頭の動画のような民主党の政治家のようになってはならないのです。
 
「温故知新」とは、昔のことをよく研究し、それを参考に、今つき当たっている問題や新しいことがらについて考えることです。
今日本人に求められているのは、先人の英知に学び、顕彰し、生かし、後世へと紡いでいくことではないでしょうか?
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小野太三郎  翁(おのたさぶろう)
 
 
平成21年度末現在の社会福祉法人数は18,674法人(厚労省)ですが、わが国で社会福祉事業を個人として日本で最初に実践したのが石川県金沢市の小野太三郎翁です。
 太三郎翁は24歳のとき、飢饉によって困窮した人々に自宅に開放するという自費での救護活動を始めました。そして、明治6年には「小野救養所」を開設し、目の不自由な人の受け入れを開始、明治12年にはあらゆる困窮者の救護活動を始めました。明治38年には卯辰山へ移転し、「小野慈善院」として活動を続け、生涯を社会福祉事業にささげました。
 
その志のはじまりは少年時代に遡ります。
小野太三郎翁 (おのたさぶろう ) が、母の使いで 近江町 ( おうみちょう ) 市場へ行った十一歳のときです。人だかりのなかに、大きな海亀がいました。近江町には人がたくさん集まるので、見せ物になっていたのです。
  縁起 ( えんぎ ) のよい亀に自分もあやかりたいと、お金をあげる人、まんじゅうを 供 ( そな ) える人、お酒を飲まそうとする人、亀の周りには、次々と人々が集まってきます。
 息苦しくなった太三郎翁が人だかりを抜け出たそのとき、かたわらに、じっとうずくまって、やせ細った手をさし出している老人に気付きました。
 「あわれな老人に、何か食べる物をめぐんでください」
と、老人はぼそぼそとした声をかけてきました。さっきの亀にはお金がたくさん集まっていたけれど、この老人には声をかける人もなく、汚いからと足で 蹴 ( け ) る者すらいました。
 「亀にお金を与える人がいても、この老人に与える人はいない。こんなおかしなことがあっていいのだろうか」
 子どもの太三郎翁にはどうすることもできなかったのですが、この日太三郎翁は「大きくなったら、このような人たちを助ける仕事をしよう」と、心に固く決めました。
 さて、十三歳で 加賀藩 ( かがはん ) に仕え、仕事を持つようなった太三郎翁ですが、翌年、重い目の病にかかり、一時視力を失います。そのころの太三郎翁は日常生活の不都合や将来への不安に苦しんでいました。その後、幸いにも目はよくなり仕事を続けることができましたが、体の不自由さがどれほどつらいものかを身をもって体験したのです。
  元治 ( げんじ ) 元年(一八六四年)、太三郎翁が二十四歳のころ、加賀藩は来る年も来る年も 凶作 ( きょうさく ) に見まわれ、人々のなかには食べる物もなく、道にさまよう人、道ばたに倒れる人が次々と出てきました。太三郎翁は少年時代の気持ちを忘れず、 中堀川 ( なかほりかわ ) にあった自分の家を 空 ( あ ) けて、貧しい人々を住まわせます。また、明治二年(一八六九年)、今まで加賀藩が面倒を見てきた 卯辰山 ( うたつやま ) の 撫育所 ( ぶいくしょ ) (貧しい人たちの生活する施設)が閉じられて、行くところがなくて困っている人たちを自分の家へ温かく迎えました。
 明治六年(一八七三年)、太三郎翁が三十三歳のころには、 木 ( き ) の 新保 ( しんぼ ) (現在の 金沢市本町 ( かなざわしほんまち ) )に一軒の家を買い、目の不自由な人ばかり二〇人を住まわせて世話をするようなります。このころから、不幸な人々を救おうとする太三郎翁の苦しい闘いが本格的に始まります。
 
まず、この人たちには仕事がない。食べ物など生活費は太三郎翁が稼がなければなりません。自分の家で大切にしていた古道具を次々と売り払い、売る物がなくなると、今度は武士だった人の家から古着や家具、 調度品 ( ちょうどひん ) (日常使う身の回りの道具)を買い集め、農家の人たちに売りました。町や村へ菓子を売って歩くこともしたのですが、その生活費は大変な額になります。
 太三郎翁はただ世話をしていたのではありません。働ける者には仕事を探し、若い人たちにソロバンを教え、字を学ばせました。健康な人には商品を売り歩いたり、人力車を引くなどの仕事を与えました。その利益は、将来その人が自立をするために貯金していたのです。
 
太三郎翁は疲れ果て、夜になるといろいろなことを思います。
 「みんなに人間として生きる希望を持ってもらうことが大切だ。私一人では限度がある。もっとたくさんの人たちの協力が必要なんだ。みんなにお願いしてみよう」
 太三郎翁が、毎日毎日、血のにじむような苦労を続けていることを知っている人たちは、進んで協力を申し出ました。呉服屋、医者、床屋たちが、今でいうボランティアを買って出てくれたのです。そして、明治三十八年(一九〇五年)、卯辰山のふもとに財団法人「 小野慈善院 ( おのじぜんいん ) 」がつくられました。長い一生をこの仕事に注いできた太三郎翁の喜びは、どれほどであったでしょうか。
 

 
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小野慈善院
 
 
 それからも、太三郎翁は院長として、身寄りのない貧しい人たちのためにつくし、明治四十五年(一九一二年)七十二歳で亡くなります。
 
 
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大正二年の東京朝日新聞は小野太三郎翁を上記画像のように伝えています。
 
一部を記載します。
金沢の名物は蓋し兼六園にあらず、御所落雁長生殿にあらず、況や巻鰤、やなぎ団子にあらずして、実に我が小野太三郎翁である、而して翁は一両年前故人となったが、其事業は炳乎して遺っているのである
僕は大聖寺附近の温泉地を辞して、将に東京に帰らんとするの午後、特に汽車を金沢に棄てて、そぼ降る雨の中を小野慈善院を訪うた、幾長橋の虹の如く架してある浅の川の右岸に沿うて溯ること少許、道は卯辰山臥竜山の麓にかかって、□崎□たる坂路を登ること町余、その登り詰めたところにある粗末な木造平屋建の数棟がすなわち小野慈善院である
時や既に午後四時を過ぎていたが、刺を通じて窪事務長に会い苦茗を啜りつつその来歴現況の一斑を聞いた、窪氏の語るところに拠れば、翁の慈善院は遠くその濫觴を今より五十年前即ち元治元年の飢饉に発するのだそうだが、屋舎を此処に新築して現今の形態を備うるに至ったのは明治三十八年県令を以て教育所取締規則を発布してからだという
ソレでそもそも小野翁とは奈何なる人物であったかと言うことになる、翁は天保十一年の生れ、嘉永五年歳十三にして藩公に仕え卒力小者組に入ったが、これより先二年歳十一の時某月某日金沢市安江町に放生亀があった、偶翁は―否十一歳の少年はである―其処を通り蒐ったが見れば衆人相群って放たるる亀を囲み雨の如くに銭を投じている、すると傍に一老翁あり、衣は破れてその体を掩わず、履は磨滅してその踵を露わしている、鬢は霜の如く、腰は弓の如く、大地に額づいて憐みを乞えども、人は亀にのみ厚くして誰一人としてこの窮余の老翁を顧みるものがない、これを見た少年太三郎は●然として人情の薄きに泣いたか泣かなかったかは知らないが、兎も角その天賦の同情素即ち慈善素を刺戟されたことが大だったと見えて、私かに我袂を探って巾着をあらためて見たが、折悪く一文半銭の持合せもない、この義にして勇ある美しい本能の衝動を満足せしむることが出来なかった彼は、撫然として涙を抑えつつ此処を去った―というのである、これが翁の慈善史を飾る第一頁だ、それまでの生立に就ては余り知られていない
軈て安政二年十六歳の彼は会々悪性の眼病に罹って殆どその明を失った、而して医療いたずらに効無きを知った彼は一日潔斎して市内野町明神に詣で其後祈願を続くること正に一百日、不思議や忽然として明を復した、当時明神の境内に坐頭座というものがあって、無慮三百人の瞽者盲者が相集り、鍼を習い破絃を弾いて纔にその日の生を保っていた、祈願の折々に少年太三郎は彼等の間に交ってその語るを聞けば、跛者聾者素より憐憫に値するに相違なけれども、未だ以て瞽者盲者の不幸に及ばざること遠しというにあった、すなわち彼はその得る所を挙げて商人某に託し利銀を以て毎年彼等に恵んだ―これ翁の慈善史を飾る第二頁、ソンナ人もあったかなァぐらいで読んでいては、後生の悪いことは請合である
 
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社会福祉法人「陽風園」
 
 
 
「小野救養所」の経営方針は「飢えと寒さを訴える者には衣食を」「病気の者には医薬と診療を」「老人の庇護を」「幼児の教育を」「職業の斡旋を」などでした。また、授産事業として、陶器製造・機織(はたおり)・肥料造りなどを行っていました。このような経営方針は、現在の社会福祉事業の原形といえます。
 
 
慈善院は、その後、社会福祉法人「 陽風園 ( ) 」として入園者も一〇〇〇人を超え、職員四五〇人となり、わが国で最も古い社会福祉施設として全国的に知られるようになっています。
 生涯をかけて貫き通した、翁の遺志、その仁愛のこころと強い意志は、建物や人が変わっても引き継がれています。
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