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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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昭和4年 金婚式での頭山翁夫妻



江戸、明治、大正、昭和激動の時代駆け抜けた頭山満(とうやま みつる)翁は、わが国の近代・現代史に数々の足跡を残した人物でありながら、一般にはあまり知られることがありません。その理由は、翁が枠に収まり切らない人であったからであり、表舞台に立つことなく自由に振る舞う故翁には謎めいた印象がつきまとい、「右翼の大物」「影の実力者」等と呼ばれたりもするが、もちろんそれは頭山満の正当な姿を伝えるものではなく、翁の呼称をあえて求めるなら、頭山満は一人の人間であり、日本人であった。翁への誤解を一掃し、是は是、非は非としてありのままの人物像を見つめることは、歴史への理解を深めるばかりでなく、未来の日本と日本人像、「アジア」に厳然とした足跡を残して、従容と天に帰っていった1人のサムライを、平成のこの時代に忘れてはならないと強く筆者は思うのです

翁の足跡は到底この拙記事の文中に収まりきれるものではありません。
翁の偉大さの一端をご紹介できればと思う次第です。
極東軍事裁判においてインド側主席弁護人だったデサイ博士は、次のように述べましました。
 「インドはまもなく独立します。その切っ掛けを与えてくれたのは日本です。インドの独立は、日本のお陰で30年早まりました。これはインドのみならず、ビルマ、インドネシア、ベトナムをはじめとするアジア諸民族共通のことです。インド4億人の民は、これに深く感銘しています。インド国民は、日本の復興にあらゆる協力を惜しまないつもりです。その他の東南アジア諸民族も同じだと思います」
 
戦後、インドの人々は、連合国が日本を裁いた極東軍事裁判において、アジアの一員として、日本の立場を理解し独立インドの首相となったネルーは、東京裁判のインド代表判事にパール博士を任命しました。パール博士は、東京裁判の矛盾を突き、日本の戦犯全員の無罪を判決しました。
 インド政府のチョプラ教育相事務次官は「パール博士の判決は、当時も今もインド政府の立場を語っています。我々はパール博士の判決を支持しています」と語っています。
 今日、パール博士の所説は欧米の多くの国際法学者たちにも支持され、極東裁判の誤りが認められています。
 ネルー首相は戦後間もなく来日し、インドの独立に協力した日本人に感謝を表わしました。その一人が、頭山満でした。昭和19年10月5日に89歳で亡くなっていたので、ネルーは代わりに黒竜会代表の葛生能久氏に謝意を表しました。
 頭山満翁こそ戦前の日本において、国家社会のために生きる在野の巨人として、広く国民的敬愛を受けた人物です。の名は玄洋社とともに記憶されていますが、明治以来、日本国民の名誉や自尊心にかかわる事件には、つねにの姿があったので
 をはじめとする人々は「大アジア主義者」と呼ばれ、脱亜論を唱えた福澤諭吉翁とは対極をなす存在でした。
明治時代からアジアの解放のために努力しました。 らは、支那、インド等のアジア諸国の独立運動家を、命懸けで支援した真の国際人でした。は犬養毅(元首相)と親しく、両者は一心同体となって、日本とアジアのために尽くしたのです
 頭山翁は、東京・赤坂霊南坂にあった家の隣家に、「革命いまだ成らず。同志すべからず努力すべし」のい言葉を残し支那の建国の父と呼ばれ、日本に亡命していた革命の父・孫文をかくまったことがあります。孫文は、その家で4年間ほどすごし、宋慶齢との結婚式も挙げました。その間の生活費も頭山翁が世話をしました。



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昭和2年 蒋介石と頭山翁


 頭山翁は、またインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースらが英国政府から追われていたときには、官憲の手から身柄を守り、新宿の中村屋にかくまいました。ボースは中村屋の長女・相馬俊子と愛し合い、日本に帰化して頭山の媒酌で結婚し、祖国独立のために力を尽くしました。彼が伝えた中村屋のインド式カレーは有名ですが、その陰には、頭山翁という真に国際的な精神を持った愛国者がいたのです。ネルー首相は、こうしたインドに対する頭山翁の支援に感謝したのです。
 竜馬・海舟・西郷の息吹を受け東洋のルソーと呼ばれた自由民権運動家、中江兆民は、頭山翁を大人物と認め、大いに期待し親交を結びました。
中江氏は頭山満翁のことを「一年有半」という著書の中で、
「頭山満君、大人長者の風あり、かつ今の世、古の武士道を存して全き者は、独り君有るのみ、君言わずしてしかし知れり、けだし機知を朴実に寓する者といふべし」
と評しています。

その頭山翁は、維新の英雄・西郷隆盛翁を深く尊敬していました。
「萩の乱」への関与によって捕らえられることも、翌年に、尊敬していた西郷隆盛翁の決起を獄中で知ることもなく、皮肉にも、西郷隆盛翁が城山で自決したその翌日に、頭山らは釈放されたのです。
「西南戦争」への、福岡藩士500名の決起(福岡の変)に馳せ参じることが出来なかったことが、地団駄を踏んだ頭山らにエネルギーを与え、玄洋社を生み出す原点になるのです。
24歳になった頭山翁は、突然、薩摩の西郷家を訪ねています
「西郷先生に会いに来ました」と頭山
「西郷はもうなくなったよ」と応対した家人。
「いえ!西郷先生の身体は死んでもその精神は死にません。
私は西郷先生の精神に会いに来たのです」
と、頭山青年は答えたと家人によって記録されており、西郷隆盛への思慕の念を髣髴とさせています。

頭山翁は「ただ一心の天に通ずるものあらば、布衣といへども決して王者に劣るものはない」と語ったと伝えられます。大西郷に似て、地位や名誉や金銭を求めず、ひたすら日本とアジアのために尽くしたらしい言葉です。
 「頭山翁の偉大なる人格の至極の根源は、実に翁の『天に通ずる心』に求めねばならぬ。……唯だ『一心天に通ずる』生涯が頭山翁の生涯であり、それは大西郷が常に『天を相手』に生きたのと同じく、真実の日本人に共通なる宗教的境地である」と、大川周明博士は、書いています。そして、頭山翁を「真個の日本人」と呼んでいます。
 インドが生んだ偉大な詩人タゴールは、大正13年に来日した際、頭山翁と会談しました。タゴールは、頭山翁について、「インド古代の聖者を目のあたりに見る感じである」と語っています。
支那の蒋介石との和平工作も、東久邇宮が頭山満翁を頼みとして企図されたのです。
 しかし、大東亜戦争の後、アジア諸民族は白人種の支配から独立できました。アジアの解放は、それに協力した日本人がいたから実現できたのだと考える人々が、今日もアジアの国々には、多々いるのです。

翁の呼称をあえて求めるなら、頭山満翁は一人の人間であり、日本人でした。翁への誤解を一掃し、是は是、非は非としてありのままの人物像を見つめることは、歴史への理解を深めるばかりでなく、未来の日本と日本人像を探る上での大いなる一助となると筆者は思うのです。

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出光佐三翁



多くの同胞の尊い命を奪い、美しい国土を襲い、未曾有の大災害となった一昨年の東日本大震災。
平成の国難と言っても過言ではありません。
その同じ年の六月、出光興産は新聞紙上に次の広告を記載しました。


「日本人にかえれ。」
これは、創業者出光 佐三のことばです。

日本人が古くから大切にしてきた和の精神・互譲互助の精神、自分たちの利益ばかりを追求するのではなく、世のため人のためにことを成す。
佐三の信念によって、出光はいまも、そうした日本人らしさを心に活動しています。

東日本大震災に襲われた日本に向け、海外から届いたたくさんの励ましの言葉。
その中にも、佐三が大切に考えていた日本人らしさを称賛するものがありました。
その数々の言葉によって、私たちは勇気づけられ、日本人であることの誇りをあらためて認識することができました。

一方で、震災を経たいま、本当のゆたかさとは何か、私たちは何を大切にして生きていくべきなのか、これからの日本人のあるべき姿はどのような姿か、一度ゆっくり立ち止まって、向き合う必要があるのではないでしょうか。

本日、出光は創業100周年を迎えました。
これからの100年、私たちに何ができるのか。
世界が日本に注目するいま、私たちはこれまでの歩みを振り返り、新たな一歩を踏み出し、次の100年の社会づくりに貢献する企業を目指してまいります。
私たちは、日本人のエネルギーを信じています。

出光創業100周年

2011年6月20日 

昭和の国難と言われた大東亜戦争。
先帝陛下の「ご聖断」で終戦となったその2日後の昭和20年8月17日、佐三翁は社員20名を前に次のように訓示します。

「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」
「泣き言をやめ、日本の偉大なる国民性を信じ、再建の道を進もうではないか!」

さらに「海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしない!」と宣言しました。
当時の出光の全従業員数は、約一千名、約800名が、外地からの復員者でした。
終戦前の出光興産は満鉄を経由して朝鮮、台湾に進出し、さらにシナ事変の拡大と共に、シナ本土が拠点でした。
外地で力を伸ばした企業が、その外地の販路をすべて失い、資産もなく、事業もなく、膨大な借金が残っただけだったそうです。
出光興産は、復員者してくる社員のクビを切らないため、ありとあらゆることをやりました。
ラジオも売り、醤油も売り、酢も売り、畜産や養鶏、思いつく限りのことに手を出し復員してくる社員の為に頑張りました。
勿論、佐三翁も私財はおろか借金までして、給料を払い続けました。

昭28年3月、出光興産は、石油を国有化し英国と抗争中のイランへ、日章丸二世を極秘裏に差し向けました。同船は、ガソリン、軽油約2万2千キロℓを満載し、5月、大勢の人の歓迎を受けて川崎港に帰港しました。
これに対し、英国アングロ・イラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、出光を東京地裁に提訴。この「日章丸事件」は、法廷で争われることになりました。裁判の経過は連日、新聞でも大きく取り上げられ、結局、アングロ・イラニアン社が提訴を取り下げたため、出光側の勝利となりました。イラン石油の輸入は、その後、イランにおいてメジャー(国際石油資本)の結束が再び強化され、昭31年に終了しました。
しかし、この「事件」は、産油国との直接取引の先駆けを成すものであり、日本人の目を中東に向けるきっかけになりました。また、敗戦で自信を喪失していた当時の日本で、国際社会に一矢報いた「快挙」として受け止められたことも歴史的事実です。

昭和56年、出光佐三翁は波乱万丈の生涯を辞世されました。
佐三を支え続けた側近の一人石田正實は、安らかに眠る佐三の横顔を見ながら、

「この人は、生涯ただの一度も私に『金を儲けろ』とは言われなかった。
40年を越える長い付き合いだったのに……」と呟いて落涙したそうです。
出光佐三翁は生涯、
「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通されました。

晩年、
出光佐三翁は次のように語られています。


「私は70年にわたって事業を営んできたが、その根底を成したのは終始 一貫して人間の尊重、人間本位のやりかたを貫いたことにある。本来、日本人は金銭のためにのみ働くのではなく、どの民族にもみられぬ協和の精神を持ってい る。この美徳が敗戦によってぶち壊され、今の世の中は金のみがすべてという風潮になり下がっておる。戦争前にもそんな輩(やから)はウヨウヨいたが、そん な連中はしょせん一時の徒花(あだばな)、長く続くものではない。出光が志向したことは、事業人として、また出光人として、この乱れた世の中に清廉の花を 咲かす。それを体現することにより、国家社会に大いなる示唆を与えたい・・・自分の一生はそのためにあったようなものです」
出光興産のモットーは、「人間尊重」「大家族主義」「黄金の奴隷たるな
かれ」「生産者から消費者へ」である。
 出光佐三は常々語られています。

 
「君達、店員を何と思っておるのか。店員と会社は一つだ。家計が苦
しいからと家族を追い出すようなことができるか。事業は飛び借金
は残ったが、会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後
の事業を作る。人を大切にせずして何をしようというのか」
会社は、ひとつの家族。地域も家族。国家も家族。
それが日本流の考え方です。
かって日本の企業はほとんどが終身雇用でした。
その当時に日本企業は今日と違い、逞しく、頼もしい限りでした。
企業は、資本家(無産階級)と労働者(有産階級)の闘争の場である、と説いているのは、共産主義です。

経営者が(CEO)と称して巨利を得、景気が悪くなると生産調整と称して簡単にクビを切るのが、外国の企業であり、今日の日本企業の多くもこれを追従している有様です。
日本の流儀は違います。
日本人にとって、会社は「家族」です。

欧米の資本主義でもない。共産主義でもない。
古来より、日本の商家の考え方は、「社員は家族」という考え方です。
暖簾分けなどはその最もたる証左です。

なにごとも欧米かぶれ、追従するのではなく、わが国の先人に学ぶべきです。


出光佐三翁は、皇室を崇敬することが極めて篤く、また出光興産の東京本社には佐三翁の郷里の氏神である宗像神社が祭られています。

佐三翁が逝去したおり、先帝陛下(昭和天皇陛下)は、佐三翁に次の歌を賜っています。


国のため
ひとよつらぬき 尽くしたる
きみまた去りぬ
さびしと思ふ

(出光佐三逝く 三月七日)







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君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行末



文久3年4月、坂本龍馬は、勝海舟の使いで福井藩の松平春嶽公を訪れました。目的は海軍の軍資金の調達でしたが、龍馬は、「海軍おこし兵威強くせよ」と説く横井小楠(よこい しょうなん)の助力を受けて、多額の軍資金を得ることができました。この時、龍馬は小楠を自宅に訪ねました。小楠は龍馬を連れ、由利公正の家を訪れました。三人は国を憂い、大いに語り合いました。その際に、龍馬が詠んだと伝えられるのが、冒頭の歌です。

昨今の政治家は、維新、革命と軽々しく口にしますが、近代日本を開いた英傑は、岩倉具視を除く全員が明治10年前後の紀尾井坂の変までに暗殺もしくはなんらかの理由で死亡しています。
筆者が明治維新についていつも思うことは「これは神々が仕組んだ奇蹟のシナリオだということです」と言うことです。同じ危機意識をもった思想家、学識者が全国に同時に出現したこと。水戸藩の藤田東湖、越前藩の橋本左内、松代藩の佐久間象山、小浜藩の梅田雲浜、長州藩の吉田松陰、肥後藩の横井小楠等々。
そしてそれを行動に移した英傑達。
坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、大村益次郎等、列挙すればきりがありません。

彼らは天が遣わし天が容赦なく召された人々でした。明治維新の為にに生まれて来たのです。ある役割を終えるとアッと言う間に天に召されたのです
ペリー艦隊来航から十三年後、大政奉還が行われました。明治天皇を中心とした統一国家が出来たのです。諸藩、諸大名が明治天皇のに一つになり、領地から家臣領民まで返上するという世界史上類をみない奇蹟を成し遂げたのです。明治維新が一種の革命だとしたら、これほど不思議なものはありません。

ヨーロッパで起こった革命は「我々にパンを与えよ!」でした。「人民が飢えているのは政府が悪い、国王が悪い、人民よ蜂起せよ」この場合の革命は何ら知識が無くても、字が読めなくても済みます。しかし明治維新の場合、国を取り巻く外国情勢、欧米列強の体質、侵略の脅威、日本の国柄、歴史、伝統、文化、魂、尊皇思想から攘夷思想等々、複雑で理屈の必要な変遷でした

他国に類をみない複雑な理屈を国民が受け入れるには、高度な教育とインテリジェンスが必要でした。この倒幕、維新の理念が日本国中を風靡(ふうび)したのは江戸期の教育力の高さにありました。明治維新は今日の我々が学ぶべきことが色々と示唆に富んだヒントがいっぱい詰まっているのです

現在、第四の国難の時代と言われています。神がつくった芸術品の如く維新の英傑たちが出現したように、そしてその人々が奇蹟の明治維新を成し遂げたように、現代もまさにそれを再現する時が来たのです。薩摩出身の歴史作家、故 海音寺潮五郎先生は述べています。「英雄は人生が全て英雄だったのではない。人生のある時期、その短い時期が英雄だったのである」。
わが国は危機に直面すればするほど、天から遣わされた人々が出現します。日本の歴史の中に働く神の御意志を痛感してなりません。
明治維新の英傑は「天命」によって命を賭け、後世の我々に御国を遺されました。

現代、肇国始まって以来の危機だと言われております。神からの召命です。好むと好まざるとに関らず我々は歴史のうねりの中に宿命的に立たされているのです。


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ありし日の大横綱「大鵬」
 
 
 
 
 
 
 
「昭和の英雄」が、また1人逝った。
昭和の大横綱、元大鵬の納谷幸喜さんが19日、亡くなった。史上最多32回の幕内優勝など圧倒的な強さで数々の記録を打ち立てられました。
北の大地から上京し、努力を重ねてその地位を築かれた納谷さんは、元気な「日本」の象徴でもあったように筆者は思います。また、社会奉仕活動に力を注ぐ優しい人柄でも周囲を魅了されました。
納谷の名、幸喜の名は生まれられた年が皇紀2600年にあたり、皇紀2600年に因んで名付けられた。
昭和30年代から40年代に活躍され、ライバルといわれた柏戸とともに 「柏鵬 (はくほう) 時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築かれた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれる事もある。幕内最高優勝32回は現在、最多優勝記録である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕昭和35年から引退 昭和46年 までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は 「一番破られにくい記録」 と言われています。
 
 
 
引退後は大鵬部屋を創立され、関脇巨砲・幕内嗣子鵬たちを育成。定年後、部屋は娘婿の貴闘力(現役時代は二子山部屋)に譲られ、部屋名は「大鵬」が一代年寄であったので、もともと所有していた「大嶽」部屋とした。現在は、貴闘力から大鵬の直弟子の大竜が継がれています。
現役時代より慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売して、その収益は、昭和42年から昭和43年までは老人ホーム・養護施設へテレビを寄贈、昭和44年から平成21年までは、日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」を贈られ、血液運搬車の寄贈台数は昭和44年から昭和51年までと昭和54年から平成13年まで毎年2台ずつ、平成14年から平成21年まで毎年1台ずつで、平成21年9月に70台目の贈呈を終えたところで活動も終えた。
また東日本大震災の被災者支援の為、自ら街頭で募金活動されたことは記憶に新しいです。
 
 
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近年は日本人力士が外国人力士に席巻される状況を憂い、「日本人力士が体力的に劣っているからではなく、稽古をしないから。自分たちのころのようなハングリーさがなくなっている」と、苦言を呈されていました。
筆者が子供の頃、流行語になった「巨人・大鵬・玉子焼き」。しかし、このフレーズを「私は1人で勝ち取った。団体競技の巨人とは違う」と、納谷さん嫌っていたという。それは人の何倍も努力や鍛錬を積み重ねたという気概の現れでもありました。
巨人の元監督でOB会長の王氏は「巨人、大鵬、卵焼きと言われた時代、私たちはチームでしたが、親方は一人で国技である相撲を支えてこられた。同じ時代を生きてきただけに寂しい」と偲び、納谷さんの功績を讃えられた。
 
 
▽優勝回数 32回は史上最多。
 ▽全勝優勝 8回は双葉山、白鵬と並んで史上最多。
 ▽連続優勝 6場所連続は朝青龍、白鵬の7場所に次ぐ史上3位。6場所連続優勝2度(昭和37年名古屋場所〜38年夏場所、41年春場所〜42年初場所)は大鵬だけ。
 ▽年間最多勝 白鵬と並ぶ6回は、北の湖の7回に次いで年6場所制となった昭和33年以降で2位。
 ▽連勝 45連勝は昭和以降で双葉山の69、白鵬の63、千代の富士の53に次いで4位。
 ▽通算勝利 872勝は歴代5位。
 ▽幕内勝率 83・8%で歴代1位
 ▽年少初優勝 20歳5カ月(昭和35年九州場所)は貴花田(19歳5カ月=平成4年初場所)に次ぐ史上2位。
 ▽年少新横綱 21歳3カ月(昭和36年秋場所)での昇進は北の湖(21歳2カ月=昭和49年名古屋場所)に次いで昭和以降2位。
 ▽年少新大関 20歳6カ月での昇進は貴ノ花(20歳5カ月)に次いで昭和以降で2位。
 
 
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昭和35年11月の九州場所で初優勝し、賜杯を手に喜ぶ関脇大鵬
 
 
 
国技、「大相撲」の淵源は神代の時代に遡ります。
 
天照大神は、話し合いによる「国譲り」を試みられ、武甕槌神(タケミカヅチオ)を使者として送ります。これに対し、大国主命は「私の一存では決められません。子供の事代主命(ことしろぬしのみこと)に聞いてください」と言います。親である大国主命は独断で物事を決めずに、子供の意見を尊重しました。
長男である事代主命は、国譲りを承諾しましたが、しかし、弟の建御名方命(たけみなかたのみこと)は反対し、武甕槌神(タケミカヅチオ)に力比べを挑みます。結局、建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。
建御名方命はそのまま、諏訪の地にお鎮まりになり、諏訪神社のご祭神として祀られておられます。また、武甕槌神(タケミカヅチオ)と、建御名方命との「力比べ」が日本の国技となる相撲の起源となったと伝えられています。
 
 
 
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「力比べ」
 
 
平成21年に文化功労者に選ばれた際、納谷さんは社会奉仕を続ける理由を、次のように述べられた。
 
 
 
 「自分だけじゃなく、みんなで喜びを分かち合いたかった」と・・・
 
 
 
 
昭和の大横綱「大鵬」納谷さんの御冥福を衷心より祈り、国技「大相撲」の発展を願ってやみません。

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1・17希望の灯り

「1・17希望の灯(あか)り」





「1・17希望の灯(あか)り」碑文


【1・17希望の灯り 碑文】

1995年1月17日午前5時46分

阪神淡路大震災

震災が奪ったもの

命 仕事 団欒 町並み 思い出

…たった1秒先が予知できない人間の限界…


震災が残してくれたもの

やさしさ 思いやり 絆 仲間

この灯りは

奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ





平成7年、1月17日午前5時46分。
「阪神、淡路大震災」。
筆者が誇りとした美しい港町・神戸は、一瞬にして崩壊し、そして、多くの尊い人命が失われた・・・。
その震災から、1年が経つ。
神戸の町は完全に復興した。だが、人々の命は返らない。
その御霊を祀るため、各地に慰霊碑が建立されています。

「震災モニュメントマップ」には、震災関連のモニュメントの位置が、細かく記されています。
学校ごとや自治会・地域など、様々な形で建立されたモニュメント


「震災モニュメントマップ」


阪神大震災の犠牲者の慰霊と復興を願い神戸市中央区の公園「東遊園地」でともされているガス灯「1・17希望の灯(あか)り」の分灯が10日に始まりました。
1月17日午前5時46分。各地の追悼行事などで灯されています。
 「希望の灯り」は震災から5年を迎えた平成12年に建立され、全国から種火を集めて火をともした。

 神戸・三宮の東遊園地にある「1・17希望の灯り」をモデルにしたガス灯が3月11日、宮城県川崎町と福島県いわき市に建立される。岩手県陸前高田市、同県大槌町、福島県南相馬市に続き、計5カ所に拡大し、宮城県では初となる。

東日本を襲った大震災の発生から一10ヶ月が過ぎました。
国難ともいえる大災害。
自衛隊、各国の救助隊はじめ、関係者一同の皆様の懸命の努力は記憶に新しいです
年頭に宮城(皇居)で行われた新年の一般参賀においても、畏くも天皇陛下は被災地に思いをよせられる叡慮を賜わりました。
阪神淡路の震災よりも被害が甚大であり、被災された同胞の方々の苦難を思う時、胸がしめつけられる思いです。
私の兄一家が、阪神・淡路大震災で被災いたしましたが、当時も安否の確認がなかなかとれなかったことを記憶しており、建設業を営んでいる関係から、被災地「神戸」の復旧にも従事させていただきました。

多くの尊い人命の犠牲をはらいながらも、神戸は復興を成し得ました。
今も尚、こころに傷を背負いながらも、懸命に生きておられます。
阪神・淡路大震災で被災された方々に、生きる希望、前向きに生きる力を与えていただいたのは、政治家でも、宗教でもありません。
畏くも天皇陛下、皇后陛下はじめ皇族の方々なのです。
我々の祖先は、太古の昔より、天皇陛下の下、幾多の国難を乗り越えてきました。
戦後の復興も、先帝陛下の全国ご巡幸により、臣民に生きる希望、心の拠り所を与えていただいたお陰です。
我々兵庫県民は、まだ危険な状況にある被災地に入られ、被災者を励まされた天皇陛下、皇后陛下の大きなご慈愛を忘れていません。
東日本大震災で被災された、被災者の皆様、いつでも天皇陛下、皇后陛下はそばにおられます。
一日も早く、こころの復興をされんことを、願ってやみません。
















頑張ろう兵庫、頑張ろう神戸の象徴ともなった曲です。


最後に、阪神淡路、東日本大震災はじめ、多くの災害で犠牲となられた御霊の安らかなることをお祈りします。
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