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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
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名古屋フィギュアスケートフェスティバルの引退セレモニーで、花束を手に笑顔を見せる(左から)織田信成、安藤美姫、鈴木明子選手=3日、愛知・日本ガイシアリーナ




国を背負って死力を尽くして戦った三選手、日本の誇りです。
幾たびかの感動をありがとうございました。

今後の人生に幸多かれと祈ります。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)

荒川静香 「仙台に希望を」故郷への思い


you tubeで見るでご覧ください。


筆者は冒頭の動画を視聴するたびに感動を新たにします。
「日本人は素晴らしい」と・・・
そして、時間が許す限り、動画は是非ご覧いただきたいと思うのです。
ソチ五輪のフィギュアスケート男子で金メダルに輝いた羽生結弦選手(19)は、一夜明けた15日の記者会見で、故郷へのあふれる思いを口にしました。男子フィギュア界に誕生した若きプリンスは、熱い声援で背中を押してくれた東日本大震災の被災地の人たちに向けて、「金メダルで活気づいてくれれば、うれしい」とメッセージを送ったのです。
日本代表選手団の橋本聖子団長とともに、紺の公式ウエアで姿を見せた羽生選手は、一礼した後、まだ19歳とは思えない落ち着いた表情で、しっかりと質問に答えました。

約30分間に及んだ会見。羽生選手が切々と語ったのは、出身地・仙台への強い愛着心だった。「僕はそこで生まれ育って、スケートと出会った。それがなかったら、野球をやって、今頃、無名の選手になっていたかもしれません」。言葉を選ぶようにそう話し、「僕は仙台への思いが強いのかと……」と笑顔を見せた。羽生選手は以前、「幼い頃は野球をやりたかった」と打ち明けていたが、スケートを始めたのは「スケートをしていた姉について行って、自然な流れ」と振りました。

金メダルを取った直後の記者会見では、震災に関して「メダリストになっただけでは、復興の手助けにならない。何もできない無力感を感じた」と心境を述べた。しかし、この日は自らの被災体験について、「あまり振り返りたくないので、コメントを控えさせていただきます」と多くを語らなかった。

ただ、被災地の現状については「ボランティアや募金がだいぶ途絶えてきてしまった」と心配し、「金メダルを取ったことで、復興に対する一歩を踏み出していただけたら、それが一番うれしい」と力を込めた。

先日も本ブログで記事としましたが、 同じ東北高校の卒業生で、仙台市のリンクを練習場にしていた荒川静香さん(32)に触れ、「ずっと追いかけてやってきた」と話した。フィギュアで日本女子初の金メダリストとなった荒川さんと並び、自らが男子初の金メダリストになったことを「夢がかなった」と喜びました。
「日本女子初の金が荒川さんで、日本男子初めての金メダルが僕で、2人とも宮城県出身、というのが夢。僕が生まれ育った町だからこそ、仙台への思いは強い」と・・・
羽生選手に限らず、仙台出身のスケーターたちの故郷に対する思いは格別です。
また、日本男子フィギュアは一歩ずつ、一歩ずつ、後輩へとバトンを託しながら階段を登ってきました。誰が欠けても羽生選手の金メダルは無かったでしょう。そしてその重みを羽生選手自身が一番感じているのです。
一夜明け、興奮から少し気持ちを落ち着かせた羽生選手は次のように述べました。

「昨日の演技には納得していませんが、最終的には金メダルという評価をいただいたことを誇りに思います。僕はスケートが好きなのでまだまだ現役を続けます。日本男子らしく、敬意の気持ちを忘れないようにありたいと思います。日本国民として恥じない人間になれるように日々努力していきたいです」

羽生選手の快進撃はまだ終わらない。日本フィギュアの新しい歴史をこれからも刻んでいくことでしょう。
弱くなったとはいえ、まだまだ日本男児、日本人は素晴らしい・・・・


天皇彌榮(すめらぎいやさか)

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東京都知事選に関わる話題がメデイアを賑やかしています。
脱原発を選挙の焦点にしようとマスコミは躍起になっていますが、果たして国家の存亡、興隆に関わる問題かと筆者は疑問に思います。
この程度のことしか争点にならぬことが、平和ボケした現在の日本を現しています。
今から遡ること150年以上、わが国は国家存亡の危機にありました。
しかし、我々の祖先はこの危機を命懸けで乗り越えたのです。



君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行末



文久3年4月、坂本龍馬は、勝海舟の使いで福井藩の松平春嶽公を訪れました。目的は海軍の軍資金の調達でしたが、龍馬は、「海軍おこし兵威強くせよ」と説く横井小楠(よこい しょうなん)の助力を受けて、多額の軍資金を得ることができました。この時、龍馬は小楠を自宅に訪ねました。小楠は龍馬を連れ、由利公正の家を訪れました。三人は国を憂い、大いに語り合いました。その際に、龍馬が詠んだと伝えられるのが、冒頭の歌です。

昨今の政治家は、維新、革命と軽々しく口にしますが、近代日本を開いた英傑は、岩倉具視を除く全員が明治10年前後の紀尾井坂の変までに暗殺もしくはなんらかの理由で死亡しています。
筆者が明治維新についていつも思うことは「これは神々が仕組んだ奇蹟のシナリオだということです」と言うことです。同じ危機意識をもった思想家、学識者が全国に同時に出現したこと。水戸藩の藤田東湖、越前藩の橋本左内、松代藩の佐久間象山、小浜藩の梅田雲浜、長州藩の吉田松陰、肥後藩の横井小楠等々。
そしてそれを行動に移した英傑達。
坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、大村益次郎等、列挙すればきりがありません。

彼らは天が遣わし天が容赦なく召された人々でした。明治の御一新の為に生まれて来たのです。ある役割を終えるとアッと言う間に天に召されたのです。
ペリー艦隊来航から十三年後、大政奉還が行われました。明治大帝を中心とした統一国家が出来たのです。諸藩、諸大名が明治大帝の下に一つになり、領地から家臣領民まで返上するという世界史上類をみない奇蹟を成し遂げたのです。明治の御一新が一種の革命だとしたら、これほど不思議なものはありません。

ヨーロッパで起こった革命は「我々にパンを与えよ!」でした。「人民が飢えているのは政府が悪い、国王が悪い、人民よ蜂起せよ」この場合の革命は何ら知識が無くても、字が読めなくても済みます。しかし明治維新の場合、国を取り巻く外国情勢、欧米列強の体質、侵略の脅威、日本の国柄、歴史、伝統、文化、魂、尊皇思想から攘夷思想等々、複雑で理屈の必要な変遷でした。

他国に類をみない複雑な理屈を国民が受け入れるには、高度な教育とインテリジェンスが必要でした。この倒幕、維新の理念が日本国中を風靡(ふうび)したのは江戸期の教育力の高さ、識字率の高さ、感性豊かな民度にありました。明治の御一新は今日の我々が学ぶべきことが、色々と示唆に富んだヒントがいっぱい詰まっているのです。

現在は、第四の国難の時代と言われています。神がつくった芸術品の如く御一新の英傑たちが出現したように、そしてその人々が奇蹟の明治御一新を成し遂げたように、現代もまさにそれを再現する時が来たのです。薩摩出身の歴史作家、故 海音寺潮五郎先生は述べています。「英雄は人生が全て英雄だったのではない。人生のある時期、その短い時期が英雄だったのである」。
わが国は危機に直面すればするほど、天から遣わされた人々が出現します。日本の歴史の中に働く神の御意志を痛感してなりません。
明治御一新の英傑は「天命」によって命を賭け、後世の我々に御国を遺されました。

現代、肇国始まって以来の危機だと言われております。神からの召命です。好むと好まざるとに関らず我々は歴史のうねりの中に宿命的に立たされているのです。






国士(こくし)とは、国中の人物の中でも特に優れた人物のことをいう。転じて、その国を憂い、その国のために私財を投げ打つなどして貢献する人のこと。憂国の士とも呼びます。
小野田氏はまさに国士でした。
争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)氏が16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で亡くなられました。享年91歳でした。
衷心よりご冥福をお祈りいたします。






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出光佐三翁


平成二十四年も大晦日を迎え、今日一日を残すのみとなりました。
年を追うごとに日本のよき伝統が失われ、現世の我々は「日本のこころ」まで置き去りにしてしているように筆者は思います。
多くの同胞の尊い命を奪い、美しい国土を襲い、未曾有の大災害となった一昨年の東日本大震災。
平成の国難と言っても過言ではありません。
その同じ年の六月、出光興産は新聞紙上に次の広告を記載しました。

「日本人にかえれ。」
これは、創業者出光 佐三のことばです。

日本人が古くから大切にしてきた和の精神・互譲互助の精神、自分たちの利益ばかりを追求するのではなく、世のため人のためにことを成す。
佐三の信念によって、出光はいまも、そうした日本人らしさを心に活動しています。

東日本大震災に襲われた日本に向け、海外から届いたたくさんの励ましの言葉。
その中にも、佐三が大切に考えていた日本人らしさを称賛するものがありました。
その数々の言葉によって、私たちは勇気づけられ、日本人であることの誇りをあらためて認識することができました。

一方で、震災を経たいま、本当のゆたかさとは何か、私たちは何を大切にして生きていくべきなのか、これからの日本人のあるべき姿はどのような姿か、一度ゆっくり立ち止まって、向き合う必要があるのではないでしょうか。

本日、出光は創業100周年を迎えました。
これからの100年、私たちに何ができるのか。
世界が日本に注目するいま、私たちはこれまでの歩みを振り返り、新たな一歩を踏み出し、次の100年の社会づくりに貢献する企業を目指してまいります。
私たちは、日本人のエネルギーを信じています。

出光創業100周年
2011年6月20日 


昭和の国難と言われた大東亜戦争。
先帝陛下の「ご聖断」で終戦となったその2日後の昭和20年8月17日、佐三翁は社員20名を前に次のように訓示します。


「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」
「泣き言をやめ、日本の偉大なる国民性を信じ、再建の道を進もうではないか!」



さらに「海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしない!」と宣言しました。
当時の出光の全従業員数は、約一千名、約800名が、外地からの復員者でした。
終戦前の出光興産は満鉄を経由して朝鮮、台湾に進出し、さらにシナ事変の拡大と共に、シナ本土が拠点でした。
外地で力を伸ばした企業が、その外地の販路をすべて失い、資産もなく、事業もなく、膨大な借金が残っただけだったそうです。
出光興産は、復員者してくる社員のクビを切らないため、ありとあらゆることをやりました。
ラジオも売り、醤油も売り、酢も売り、畜産や養鶏、思いつく限りのことに手を出し復員してくる社員の為に頑張りました。
勿論、佐三翁も私財はおろか借金までして、給料を払い続けました。

昭28年3月、出光興産は、石油を国有化し英国と抗争中のイランへ、日章丸二世を極秘裏に差し向けました。同船は、ガソリン、軽油約2万2千キロℓを満載し、5月、大勢の人の歓迎を受けて川崎港に帰港しました。
これに対し、英国アングロ・イラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、出光を東京地裁に提訴。この「日章丸事件」は、法廷で争われることになりました。裁判の経過は連日、新聞でも大きく取り上げられ、結局、アングロ・イラニアン社が提訴を取り下げたため、出光側の勝利となりました。イラン石油の輸入は、その後、イランにおいてメジャー(国際石油資本)の結束が再び強化され、昭31年に終了しました。
しかし、この「事件」は、産油国との直接取引の先駆けを成すものであり、日本人の目を中東に向けるきっかけになりました。また、敗戦で自信を喪失していた当時の日本で、国際社会に一矢報いた「快挙」として受け止められたことも歴史的事実です。

昭和56年、出光佐三翁は波乱万丈の生涯を辞世されました。
佐三を支え続けた側近の一人石田正實は、安らかに眠る佐三の横顔を見ながら、

「この人は、生涯ただの一度も私に『金を儲けろ』とは言われなかった。
40年を越える長い付き合いだったのに……」と呟いて落涙したそうです。
出光佐三翁は生涯、「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の一介の「店主」を押し通されました。


晩年、出光佐三翁は次のように語られています。


「私は70年にわたって事業を営んできたが、その根底を成したのは終始 一貫して人間の尊重、人間本位のやりかたを貫いたことにある。本来、日本人は金銭のためにのみ働くのではなく、どの民族にもみられぬ協和の精神を持ってい る。この美徳が敗戦によってぶち壊され、今の世の中は金のみがすべてという風潮になり下がっておる。戦争前にもそんな輩(やから)はウヨウヨいたが、そん な連中はしょせん一時の徒花(あだばな)、長く続くものではない。出光が志向したことは、事業人として、また出光人として、この乱れた世の中に清廉の花を 咲かす。それを体現することにより、国家社会に大いなる示唆を与えたい・・・自分の一生はそのためにあったようなものです」

出光興産のモットーは、「人間尊重」「大家族主義」「黄金の奴隷たるな
かれ」「生産者から消費者へ」である。
 出光佐三は常々語られています。

「君達、店員を何と思っておるのか。店員と会社は一つだ。家計が苦
しいからと家族を追い出すようなことができるか。事業は飛び借金
は残ったが、会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後
の事業を作る。人を大切にせずして何をしようというのか」


会社は、ひとつの家族。地域も家族。国家も家族。
それが日本流の考え方です。
かって日本の企業はほとんどが終身雇用でした。
かっての日本企業は今日と違い、逞しく、頼もしい限りでした。
企業は、資本家(無産階級)と労働者(有産階級)の闘争の場である、と説いているのは、共産主義です。

経営者が(CEO)と称して巨利を得、景気が悪くなると生産調整と称して簡単にクビを切るのが、外国の企業であり、今日の日本企業の多くもこれを追従している有様です。
日本の流儀は違います。
日本人にとって、会社は「家族」です。

欧米の資本主義でもない。共産主義でもない。
古来より、日本の商家の考え方は、「社員は家族」という考え方です。
暖簾分けなどはその最もたる証左です。

なにごとも欧米かぶれ、追従するのではなく、わが国の先人に学ぶべきです。


出光佐三翁は、皇室を崇敬することが極めて篤く、また出光興産の東京本社には佐三翁の郷里の氏神である宗像神社が祭られています。

佐三翁が逝去したおり、先帝陛下(昭和天皇陛下)は、佐三翁に次の歌を賜っています。


国のため
ひとよつらぬき 尽くしたる
きみまた去りぬ
さびしと思ふ

(出光佐三逝く 三月七日)



筆者は常々思うのです。スイッチ一つで湯を張ったり、ご飯を炊いたりできる生活は便利ですが、機械任せの生活では、考えることも工夫することも必要なくなります。生活が一つ便利になるたびに、私たちは大切なものを一つずつ失っているような気がしてなりません。
筆者の生家はもちろん、戦前の日本では3世代同居が当たり前でした。夜は薄暗い電球の下、大家族がそろってラジオや普及間もないテレビの声に耳を傾けたものでした。分からないことがあれば、その場で大人に聞けました。テレビも一部屋1台の現代、パソコンや携帯メールの利用も増え、同じ部屋にいてさえ、顔を見て会話をすることは少ないという人が多いと聞きます。使われない言葉が廃れるのは当然ですが、カタカナ語やメールの絵文字の普及で言葉が崩れ、若者の思考まで単純化しつつあるのではないかと危惧しております。

高齢者は、先祖から受け継いだり長年の経験で身につけたりした知恵を持っています。核家族化が進み、お年寄りを施設にまとめてしまうような今の日本には、高齢者が若者と交流する場所がありません。せっかくの知恵、精神、魂が次の世代に引き継がれないのはもったいないと筆者は残念でなりません。
農耕民族である日本人は、昔から季節の移り変わりに合わせて生活してきました。「海の日」が制定されるまで6、7月には祝日がありませんでした。田植えを終えても草取りで忙しいこの時期、農家は休む間もなく働きます。その代わり暑い8月は休んで盆の行事をし、コメの収穫を終えた秋に盛大な祭りをしたわけです。6月の結婚「ジューンブライド」は、5月に麦の収穫を終えて一息つける欧米ならではの習慣です。近ごろは、日本のコメ文化が欧米のムギ文化に負けているのが残念でなりません。
人間だから忘れることもあります。忘れたものは思い出せばすみますが、捨ててしまったものは二度と取り戻せません。取り返しがつかなくなる前に、忘れかけているものをもう一度、引っ張り出してみることが必要ではないかと思います。

出光佐三翁は後世の我々に語りかけておられます。
「日本人にかえれ」と・・・





拙記事が本年最終の更新となります。
拙ブログへご来訪、ご支援、コメント等頂いた皆様、本年もありがとうございました。

来る新年が、わが国、同胞にとって安寧であることを願ってやみません。
来る新年が皆様にとって、日本國同胞にとって素晴らしい年であることを祈ります。



天皇 彌榮(すめらぎいやさか)


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