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富士山の別名を芙蓉峰と言います。
古くは往々にして蓮(ハス)の花を意味しました。美女の形容としても多用された表現です。その優美な風貌は日本国内のみならず日本国外でも日本の象徴として広く知られています。 富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われ、特に富士山の神霊として考えられている浅間大神と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)を主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在します。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っています。 世界文化遺産に登録された富士山は日本人にとって特別なものです。 この山には、命をかけても成し遂げたい尊い夢がありました。
「富士山と強力」 登山者らの荷物を背負い、山の案内をする人を「強力(ごうりき)」といいます。かつて富士山でも、多くの強力たちが活躍しました。 明治中期、この富士山頂での観測に先鞭(せんべん)をつけた若き気象学者とその妻がいました。野中到(いたる)、チヨ夫妻です。
野中夫妻を題材とした作品で最も知られているのは新田次郎氏の小説『芙蓉の人』です。 下の画像は野中観測所のものですが、これらも強力の協力なくしてはありえません。
芙蓉の人著者、新田次郎の小説『強力伝』は、昭和16年8月、花崗岩製で重さ50貫(約187.5kg)の2基、30貫(約112.5kg)の2基からなる展望図指示盤(風景指示盤)を標高2,932mの白馬岳山頂に白馬大雪渓ルートで担ぎ上げた強力の実話を基に書かれています。
野中観測所 富士山の強力として活躍した「小見山 正」さん
一度に数十キロ、時には100キロにもなる荷物を背負子(しょいこ)にくくりつけ、背負って登頂したといいます。御殿場口の強力たちは、山頂で越冬観測をおこなう気象観測者たちに生活物資を運び続けました。富士山レーダードーム建設の際は、重い建設資材の荷揚げもおこない、富士山測候所の陰の立役者として語り継がれています。
冬の富士山は、突風が吹く危険な山。それは、まさに命がけの仕事でもありました。その他にも、講を中心とする登山者たちを山頂へ導いた吉田口の強力、神社へ祭祀品などの物資を運んだ富士宮口の強力(「宮強力」と呼ばれた)が活躍しました。 登山道の整備により強力たちは姿を消しましたが、山を愛し、山に人生を捧げた人々の夢は、今もこの山に息づいています。 |
誇り高き日本
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井上八千代氏=京都市東山区
栄典として、国家または公共に対して功労のある者を勲等に叙して勲章を授けることを叙勲、社会の各分野における優れた行いや業績のある者に褒賞の記章を授与すること(あるいはその記章)を褒章と言います。
現在、勲章の主な種類には大勲位菊花章、桐花章、旭日章、瑞宝章、文化勲章があり、勲等によって天皇陛下から親授、または内閣総理大臣・各府省大臣等から伝達され、褒章の主な種類には、紅綬・緑綬・黄綬・紫綬・藍綬の各褒章がある。紅綬褒章は人命の救助に尽力した人、緑綬褒章は社会奉仕活動において顕著な実績のある人、黄綬褒章はその道一筋に業務に精励し模範となる人、紫綬褒章は学術・芸術・スポーツ等で顕著な業績を上げた人、藍綬褒章は様々な分野で公衆の利益のために尽力した人を、それぞれ対象として授与されます。
紫綬褒章 拙ブログ筆者ゆかりの方が紫綬褒章(しじゅほうしょう)を授与されました。
井上八千代氏は謙虚に受章の報を喜ばれています。
人間国宝の能楽師を父に持ち、2歳で井上流に入門。指導を受けた人間国宝で四世の祖母が2004年に亡くなった時は「どう舞に取り組むか。先輩の芸妓(げいこ)さんにどう教えるか」。悩むことも多かったと聞いております。 褒章授与に関し、氏はまた次のように述べられています。
「先人に偉い人が多かったので、その余慶をいただいたのやと思っています。」
京文化の伝統を担う氏の舞は、凛とし、品と伝統に培われた精神性があります。
これからも流派のみならず、日本の伝統文化の発展に大いなる寄与されんことを願ってやみません。
四世家元と親交があった筆者の京都時代の師匠も四世家元同様、鬼籍に入られましたが、今回の紫綬褒章授与を大いに喜ばれていることでしょう。
本当におめでとうございます。
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西郷南洲翁 座右の銘「敬天愛人」 「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」
(現代訳)「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」
詳(つまびらか)らかに解釈すると、「人それぞれには、天から与えられた「天命」というものがあり、それに従って、人は生きています。だからこそ、人はまず天を敬うことを目的とするべきです。天というものは、「仁愛」すなわち人々を平等に、かつやさしく愛してくれるものであるので、「天命」というものを自覚するのであれば、天が我々を愛してくれるように、人は自らも他の人に対して、天と同じように、「慈愛」を持って接することが何よりも必要である」
筆者はここにいう、「天」とは我国の畏くも天皇陛下の「大御心」であると解釈しております。
畏くも今上陛下におかせられましては、すべての人々、目に見えるすべての物に対し、慈しみ、愛を注がれておられます。
陛下の「大御心」をもって人と接せよと、南洲翁は説いておられるのです。
筆者が尊敬し、目標とさせていただいておりました敬天愛人大兄様が逝去されたのが平成23年10月13日、享年56歳、あれから2年の刻をきざんでいます。
敬天愛人大兄様が南洲翁遺訓よりハンドルネームとされていたことは皆様ご存知だと思います。
筆者がブログを初めてから、さくらの花びら大兄様と共に、拙ブログへご訪問いただき、ご指導くださいましたのがつい最近のように思えてなりません。
「天」即ち、國體(こくたい)であられる畏くも天皇陛下の神聖さ、偉大さを両氏にご教授いただきました。
、故郷「福島」を心より愛し、荒廃してしまった政治家の資質、国の怠慢さを憂い、警鐘を鳴らすべく発信されておられました。
風評被害に苦しみ、死活問題となっている「福島」の現状をも、切実に訴えておられた志半ばの逝去でした。
震災直後、被災地の皆さんは、全世界からも賞賛されました。
今もなお、厳しい状況下におかれながら、立ち上がろうとされている被災地の皆さんの姿を素晴らしく思います。
最悪だった民主党政権も去り、自民党が政権を担っています。
しかし一朝一夕にわが国を取巻く厳しい状況は好転するわけでもなく、一進一退の攻防が続いています。
敬天愛人大兄様の肉体は滅びても、氏の「魂」は永遠に生き続けます。
敬天愛人大兄様の「天」を敬い、人を愛し、故郷「福島」を愛する崇高な「魂」は生き続けています。
どうか、祖国「日本」をお護りください。
そして、心ある人々は、敬天愛人大兄様のご遺志を引継いで行って欲しいと思います。「敬天愛人」の「こころ」を・・
筆者も人間である限り、いつか辞世の刻を迎える時がきます。
黄泉の国で敬天愛人大兄様に会えるでしょう・・・
あの頃に比べ、「日本はよくなった」・・・・ そう敬天愛人大兄様に言ってもらえるよう遺志を継承し、日々精進を重ねていく所存であります。
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昭和21年1月14日、大東亞戰爭終結ノ詔書発布の翌年、在極東英国領事ら8人を乗せた英空軍のダコタⅢ/FL510が上海から連合軍マッカーサー元帥を表敬訪問するために東京へ向けて出発した。しかし悪天候によって佐渡島上空まで流されて外海府の高千海岸に不時着しました。
着陸時に機体は左主翼を軽く損傷。砂に埋もれたダコタを掘り起こすまでは、ここに止まらざるを得なくなったのです。つい半年前まで敵国であり、大東亜戦争で家族を失った遺族、帰らぬ息子を待つ者など、さまざまな想いを島民たちの多くは胸に抱いていたと筆者は推察いたします。
しかし、島民達は、驚き戸惑いながらも、乗組員8名を迎え入れ、機体の引き揚げ修理整備を手伝い、老若男女、村人総出で手づくりの滑走路建設に奮闘しました。
戦後の貧しき混乱期にあっても、困った人を助けるのは『世の常道』。
国も言葉も文化も超えて、40日間に及ぶ心の交流は、その「絆」を載せて再び『ダコタ』を大空へ飛び立たせたのです。
村人たちは機体の引き上げから修理、海岸に長さ500メートル、幅50メートルの滑走路も作った。滑走路用の石運びをした3千人のうち600人は子供たちでした。「わら草履を履き、寒さで鼻水を垂らしながら指先に息を吹きかけて運んだ」と当時を振り返る。
【修理が完了し飛び立つ前の昭和22年当時の記念写真】
窮鳥懐に入れば猟師これを撃たず
追い詰められ、逃げ場を失った者が 助けを求めてくれば、どんな理由があれ、見殺しにするわけにはいかないということ。「窮 鳥」は逃げ場をなくした鳥を意味します。かって戦前のわが国の精神教育でした。
杉原千畝がナチスの迫害から逃れてきたユダヤ系難民6000人にビザを発給してその命を救ったのも日本の精神でした。
現在我が国には昭和の軍人全員を批判的に見る史観が定着しています。
昭和十七年三月一日、駆逐艦「雷」は英重巡洋艦「エクゼター」(一万三〇〇〇トン)、「エンカウンター(一三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流を開始した。
翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷」に発見されたのです。工藤俊作 艦長は、救助を指示しました。
日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪しようともせず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労る光景であった。
当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていたが、艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。
戦闘海域における救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも遭難するケースが多々ある。この観点から温情ある艦長でさえごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識であった。ところが工藤艦長は違った、しかも相手は敵将兵である。
さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。 救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。 「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストである」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。
駆逐艦「雷」による救助
戦時中米軍機、B29が撃墜され、落下傘で米兵が数人降りてきた。皆で殴った。誰かが、「この人にも子供も妻もいる。やめよう」と言って米兵を助けたという話も聞きます。
日露戦争当時、帝国海軍上村彦之丞という艦長が、撃沈したロシアの軍艦の水兵たちを救い上げた。追撃戦に移って行けば更に戦果を拡大できたのに、そこで戦闘を中止して敵兵の救助活動にあたったのは世界から賞賛されました。
これが本来の日本人の姿なのです。戦時中の支那人、朝鮮人虐殺だのバターン死の行進だのなんだの日本人を鬼畜のように仕立てあげたのは、わが国を貶めるためのものだったのです。
映画は「飛べ!ダコタ」(油谷誠至=あぶらたにせいじ=監督)。ダコタとは英空軍機「ダグラスDC−3」の愛称で、同機整備士の息子が現地を訪問したのをきっかけに映画化が企画されました。
先行上映中の新潟県では、宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」を抜く観客動員を記録した映画館もあるという。地元を舞台にした作品に加え、5カ月前までは敵だった相手に手をさしのべた人間愛が共感を呼んでいるようです、10月5日からは全国で上映されます。もし、映画を見られる機会があれば、戦前の日本に思いを少しでも馳せて欲しいと筆者は願うのです。
戦後、極東軍事裁判で心ならずも多くの日本人が無実の罪で処刑されました。しかも弁明もせず、潔い最後だったと聞きます。
これからも「飛べ!ダコタ」のような同様の美談はメディアによって取り上げられるでしょう。
「日本人は争いを好まず、平和を愛し、命の大切さを知る民族」であることを覚えていて欲しい・・・先人・先祖を信じて欲しいのです。
私たちが日本人なら、同じ日本人だからです。
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第59回掃海殉職者追悼式_同期の桜 平成25年・5月25日・土曜日・呉地方総監執行の下、香川県中多度郡琴平町金刀比羅宮境内に於いて、第62回掃海殉職者追悼式が執り行なわれました。
冒頭の動画は第59回の時のものです。 魂が込められた音色に筆者は思わず、涙しました。 一昨年3月11日多くの同胞の命を奪った東日本大震災が発生しました。 3月28日付け産経新聞は、一面トップに「黙して任務全う自衛隊員 『国民守る最後の砦』胸に」との見出しで、黙々と被災地救援の任務につく自衛隊員たちの活動ぶりを詳細に伝えています。
「我が身顧みず被災者第一」との小見出しでは、「自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉もない」と・・・ 東京電力福島第一原子力発電所で、被曝(ひばく)の恐怖に臆することなく、17日からの放水活動の口火を切ったのも、自衛隊でした。無能な政府はなすすべもなかったのです。 ある隊員からは、こんなメールが届いたという。「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」と・・・ 「国民を守る最後の砦」として「危険を冒してでも黙々とやる」とは、まさに武人の覚悟です。そして、その精神は終戦後まもなく、自衛隊の萌芽期から発揮されてきたのです。 余り知られていませんが、大東亜戦争終戦後、機雷に閉ざされた日本の港を開くべく命をかけて掃海作業にあたってきた部隊員たちがいたのです。
大東亜戦争末期、米軍は「対日飢餓作戦」を実施した。これは東京、名古屋、大阪、神戸、瀬戸内海、さらには新潟など日本海側の主要港に約1万2千個の機雷を敷設し、海上輸送ルートを根絶して、日本の息の根を止めようという作戦でした。 終戦までに、これらの機雷により日本が失った艦船は357隻。たとえば神戸港ではそれまでに毎月114隻が入港していたのが、機雷敷設後は31隻に減少し、満洲などからの物資・食糧補給が大幅に阻害されたのです。 米軍の戦史は「対日飢餓作戦」の成果を次のように記しています。
機雷敷設により日本周辺の海上交通は完全に麻痺し、原材料や食糧の輸入は根絶して、日本を敗戦に追い込んだが、もし終戦にならず、あと一年この作戦が続いたら、機雷のために日本本土の人口7千万の1割にあたる7百万人が餓死したに違いない。 海軍の掃海部隊が機雷の除去に務めていたが、終戦を迎えた時点でも、ほとんどの機雷が全国の主要港を封鎖していた。 当時を知る人々以外はご存知ないでしょうが、終戦からわずか9日後の昭和20年8月24日、大湊から朝鮮へ帰国する朝鮮人を乗せた「浮島丸」(4730トン)が舞鶴沖で触雷沈没し549名が死亡しました。10月7日には、関西汽船の「室戸丸(1253トン)が大阪から別府に向かう途中に神戸の魚崎沖で触雷し、336名が死亡、というように被害が続いていたのです。 戦後日本の復興のためには、まずはすべての機雷を除去し、港湾と海路を安全にしなければならなかったのです。 終戦直後に、進駐軍は帝国陸海軍を解体させましたが、機雷除去は海軍の掃海部隊しかできないため、この部隊だけはそのまま残し、すべての機雷の速やかな除去を命じたのです。 戦時中から機雷除去にあたっていた掃海部隊はそのまま危険な除去作業を続けることになった。ただ、終戦後はB29爆撃機が新たな機雷を落とさなくなった、というだけの違いでした。 徳山での掃海作業の指揮官は、終戦時に次のような訓示をしている。 諸子はこれまで危険な機雷の掃海作業に日夜辛酸をなめたのであるが、終戦を迎えた今日この時から、さらに本格的な掃海隊員としての仕事が始まることを覚悟しなければならない。それが我々掃海隊員に課せられた責務であり、国家同胞に報いる所以である。と・・・ 当時の機雷掃海艇
昭和24年5月23日、関門海峡で触雷し沈没するMS27号、右は救助作業中のMS22号
掃海艇自身が機雷で被害を受けることもしばしばでした。終戦時から昭和24年5月までの約4年間で、掃海艇30隻、死者70余名、重軽傷者2百名の被害が出ています。 昭和24年5月23日、関門海峡東口で起きた掃海艇MS27号の触雷沈没事故もその一つでした。同じ現場にいた僚船の艇長であった浜野坂次郎氏は、手記に記しています。 午後1時45分頃、MS27号の船底から水柱が沸き上がった。水柱が落ちると、すでにMS27号の煙突から後方が水面下に沈んでいた。
浜野艇長のMS22号がすぐにMS27号に近づいて生存者救助に務めた。負傷者3名を救助したが、どうしてもあと4名が見つからない。その後1週間をかけて、沈んだ船内に潜水夫を入れて、4名の遺体を収容しました。 明治40年にオランダのハーグで締結された条約では、商業上の航海を阻むような機雷敷設は禁止されており、連合軍の行為は原爆投下同様に国際法違反そのものでした。 当時、極東軍事裁判で日本の国際法違反が厳しく問われていたが、占領軍総司令部は自らの国際法違反は厳重に秘匿していたのです。 掃海部隊員は殉職しても、名誉の戦死者でも、戦没者でもなかった。靖国神社に祀られることもなかったのです。 しかし、それでも彼らは危険を承知で、黙々と掃海に取り組んだのでした。 祖国、日本の為に・・・ しかし、彼らの活動が報われる時がきたのです。昭和25年3月、戦後、全国の国民を励ますために巡幸を続けられていた先帝陛下が、四国巡幸の途上で小豆島土庄(とのしょう)に立ち寄られることになった。 しかし、この海域はまだ掃海が済んでいなかった。ただちに掃海艇6隻、木造曳船6隻、掃海母船「ゆうちどり」が急派された。作業は3月7日に開始され、巡幸2日前の13日に完了すべく、寒風吹きすさぶ中で不眠不休の掃海作業が続けられた。安全を確認するために、最後は「ゆうちどり」が、御召船の航路を試航した。 15日、行幸の日、御召船が小豆島に向かった時には、24隻の掃海隊がやや離れた播磨灘の掃海を実施していた。隊員たちは、御召船の安全航行を願って、遙拝した。 お召し船の同乗した元掃海部長の池端鉄郎氏は、次のように手記に記しています。 高松出港後、陛下は左舷甲板にお出ましになり、私はご前に進み、左舷北方遙かに小豆島北航路掃海中の姫野掃海隊指揮官が率いる24隻8編隊による整然たる磁気掃海の状況を望見しながらご説明申し上げ、・・・隊員一同危険を顧みず懸命の努力をいたしていることを申し上げたところ、陛下におかせられてはそのつど頷かれ、次のようなご質問があった。 「話を聴くと危険な作業のように思うが、殉職者は何人か」 「76人でございます」と申し上げると、続いて「今、殉職者の遺族はどうしているか」とお尋ねになり、私は「それぞれの郷里において暮らしておることと存じます」と申し上げると、「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」と仰せられ、私はご温情に感激してご前を下がり急ぎ船橋に向かった。 戦時中の先帝陛下 ご答礼
乗員一同精一杯の準備をすすめていた。とにかく隊員は、大感激の一日であった。旧海軍時代はともかくとして、天覧艦船式とか天覧海自演習などの行事は一度も行われていない。これらのことから考えてみても、画期的な行事であった。と・・・先帝陛下は、その後、高松、高知、徳島、鳴門を巡幸され、3月31日に徳島市の南の小松島港から、淡路島の洲本に向かわれた。寒さが続いたため、感冒にかかられて、1日だけ休養をとられた後だった。しかし、この日は大時化(しけ)でした。 海上では、関門、瀬戸内海の掃海作業にあたっていた掃海部隊32隻が、二列縦陣を作り、荒天の中、登舷礼(とうげんれい、乗員が艦上に整列して出迎える)で御召船をお迎えしていた。 海上保安庁長官・大久保武雄は次のように記しています。 私は天皇に、「掃海船隊が編隊航行をしつつ登舷礼を行っておりますが、非常な時化でありますから、天皇はおとどまりいただき、登舷礼に対しては私どもがこれにこたえるようにいたします」と申し上げて、私は甲板に立っていたところが、私の上着の裾をうしろから引っ張る者がある。 ふり返ると天皇が、揺れる船の甲板の、しかも吹き降りの雨風に揺れながら立って、掃海隊の登舷礼に答えておられた。私は、びっくりして天皇陛下のうしろにさがって侍立した次第であった。 巡幸の間、先帝陛下のお側から離れなかったカメラマンたちも、この時化には参ってしまい、下の船室にもぐり込んでいたのだった。 荒れる海で小さな掃海艇32隻は見事に一定の距離を保ち、その揺れる船上で隊員たちは直立不動の姿勢を保ち続けた。遠目にも御召船上の陛下のお姿が見えたであろう。登舷礼に加わっていた掃海部隊の一人は、こう記している。 昭和27年、日本沿岸の全ての主要航路と100余ケ所の港湾に対して「安全宣言」が発せられた。これにより、各港が一般船舶に開放され、港湾都市からは歓呼の声があがった。この「安全宣言」による経済効果は絶大であり、復興を大きく後押しすることになりました。 しかも、日本側で掃海した海面からは、一度も触雷事故が起こっていないという。掃海部隊員がいかに緻密に、辛抱強く、自らの責務を果たしたかの証左である。 同年6月、79名の殉職隊員を顕彰するため、32の港湾都市の市長らが発起人となって、海上交通の守り神として信仰されている香川県金刀比羅宮に「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、以後、毎年追悼式が行われている。 掃海殉職者顕彰碑
世のため人のために、危険を顧みずに挺身する人々の活動を、天皇が励まされ、そして不幸にして殉職した人々に対しては、末永く顕彰するのが、我が国の伝統であり、お国柄です。 先日、大東亜戦争に出征された方にお話を聞く機会をいただきました。 老師は次のように語られました。 「我々は戦地では命を賭して戦った、復員後は亡き戦友の分まで頑張った、生きている我々はよい、しかし、戦地で亡くなった戦友の名誉をいつ回復してくれるのか? 我々は時間がもう残り少ない、後を頼む」と・・・ わが民族の護るべき「誇り」の為に、莞爾として散りし御霊に国家は何を以って報わんや・・・・ 敢然と散りし御霊に幾多の御霊に、後世の我々は如何に応えん・・・ 第62回掃海殉職者追悼式 儀状隊 参考文献、桜林美佐『海をひらく 知られざる掃海部隊』より 次回は、朝鮮戦争に参戦していた日本掃海部隊について・・・ |







