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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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戦後間もない昭和二十二年(一九四七年)、乗客の命を守るため、バスの車掌(しゃしょう)だった鬼塚道男(おにづかみちお)(当時二十一歳)は、自ら体を張って輪止(わど)め(車のブレーキ)となり殉職(じゅんしょく)しました。
事故現場となった長崎県時津町元村郷(とぎつちょうもとむらごう)の国道二○六号線沿いの打坂峠(うちざかとうげ)には、鬼塚車掌の勇気をたたえて建てられた「愛の地蔵」が、道ゆく人々の交通安全を静かに見守ってくれています。
当時の打坂峠はくねくねと曲がっていて、バスの運転手からは「地獄坂(じごくざか)」と呼ばれていました。道路はまだ舗装(ほそう)されておらず、勾配(こうばい)が二○度もあり、馬力(ばりき)のない木炭バスにとってはつらい急な坂道でした。木炭バスというのは今のようなガソリンでなく車体の後ろに大きな釜(かま)を付け、木炭を焚(た)いて走るバスで、三○人も乗れば満員になるほど小さなものでした。
鬼塚車掌は、長崎自動車株式会社大瀬戸(おおせと)営業所の二階に住み込んで働き、彼が車掌を務めるバスは、大瀬戸から長崎までの道を一日一回往復していました。
朝八時の大瀬戸発であれば二時間前の六時には木炭をおこして準備をし、火の調子を整えておかなければなりません。また、走っていてもよくエンジンが止まり、そのたびに釜のなかの火を長い鉄の棒で突いて木炭をならしながら走っていました。このように釜の火の調子を整えることが、木炭バスの車掌の仕事でした。
事故の起こった昭和二十二年九月一日、鬼塚車掌が乗ったバスは、打坂峠の頂上までもう少しのところでギアシャフトがはずれ、ついに動かなくなってしまいました。ギアシャフトがはずれると、バスのブレーキはまったく効きません。バスはズルズル、ズルズルと急な坂道を後ろに下がり始めました。
「歯止めの石をかませ!」
と絶叫する運転手の声で飛び降りた鬼塚車掌は、手近にあった石をバスの車輪の前に置きましたが、加速のついたバスは石を粉々に砕(くだ)き、あと数メートルで高さ二○メートルの険しい崖(がけ)のふちというところまで迫りました。崖にバスが落ちれば乗客の命が危ない…。
その日、最初に事故現場に駆けつけたのは、長崎自動車株式会社時津営業所に勤めていた高峰貞介(たかみねさだすけ)です。朝の十時を少し過ぎたとき、自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちているぞ。早く行ってくれないか」といって、時津営業所に駆け込んできたのです。
高峰が木炭トラックに乗って急いで駆けつけると、バスは崖っぷちギリギリのところで止まっていて、運転手が一人真っ青な顔をして、ジャッキでバスの車体を持ち上げていました。
高峰は後に事故の状況をこう語ってくれました。
「鬼塚車掌は自分が輪止めにならなければと思ったんじゃないでしょうか。体ごと丸くなって飛び込んで、そのままバスの下敷きになりました。鬼塚車掌の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。十秒か二十秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろ、しっかりしろと声をかけて…。九月といっても一日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇(さいだん)と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たのです」
鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最期でした。買い出し客や、市内の病院へ被爆(ひばく)した子どもを連れて行く途中の母親たち三○人あまりの命と引き換えに、若い生涯を閉じたのです。

この悲しい事故から二七年の月日が流れた昭和四十九年十月十九日、長崎自動車株式会社は、鬼塚車掌の勇気をたたえ、交通事故をなくそうと、時津町元村郷の事故現場に唐津(からつ)石でつくった慰霊地蔵尊(いれいじぞうそん)を建て、入魂式(にゅうこんしき)を行いました。



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鬼塚道男(おにづかみちお)氏遺影と地蔵尊



 この慰霊地蔵尊「愛の地蔵」は、赤いよだれ掛けを風に揺らし、鬼塚車掌の命日である九月一日には毎年供養祭(くようさい)が行われています。

東日本大震災でも多くの方々が自らの命を犠牲にし、多くの方の命を救われました。
人が誰かの為に、自らの命を捨てること・・・
これ以上の至上の愛があるでしょうか?
これら至上の愛に散華された方々の死を風化させることなく、後世に語り継いでいかなければなりません。
民族の誇りとし・・・






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有栖川宮 熾仁親王 御真影


有栖川宮家は書道と歌道を家学とする名門で、四親王家のひとつであり、8代目幟仁(たかひと)親王の御代に有栖川御流を確立されました。
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)は孝明天皇の皇女和宮親子内親王と婚約していたことで知られています。
しかし、和宮との婚約は時の政治情勢(公武合体)により反故となりました。
幟仁親王は明治大帝の書道と歌道の師範を務められていました。


明治大帝は、遠近を問わず皇族に対しては家族に接するかの如き態度をもって接せられた。
当時数多くの皇族の中でも、左大臣、参謀総長などを務められた幟仁親王
は、明治大帝と最も関わりが深かった皇族です。

天保6年(1835年)幟仁親王の第一王子として京都に生まれた9代目の熾仁(たるひと)親王は、父幟仁親王のあとを継いで明治大帝の御手習助教から師範となられました。
このように、明治天皇とゆかりの深い有栖川宮熾仁親王は、慶応3年(1867年)12月、王政復古と同時に後新政府の総裁に就任し、慶応4年(1868年)戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが起こると東征軍大総督に任命され、明治3年(1870年)4月には兵部卿となり陸海軍を創設。翌4年7月、福岡藩知事となられ、同8年7月には元老院議官、ついで議長を務め、同10年(1877年)2月の西南戦争では征討総督となり、鎮定後には西郷南洲翁に次ぐ史上2人目の陸軍大将に任ぜられました。

西南の役のさなか、佐野常民や大給恒から「博愛社」(後の日本赤十字社)設立の建議を受けられ、官軍のみならず逆徒である薩摩軍をも救護するその精神を熾仁親王は嘉し、中央に諮ることなくこれを認可されました。また自由民権運動にも興味を示し、河野敏鎌の案内で嚶鳴社の演説会を傍聴もされたのです
また、明治13年2月、左大臣を兼任、国会開設、憲法制定に寄与され、同15年には明治大帝の名代としてロシア皇帝の即位式に参席され、帰途欧州各国を訪問して親善に努め、同18年、新設の参謀本部長となり、近衛都督、参謀総長を歴任されるという、たいそう功績のあったお方でした。

明治大帝は皇族方に対し、家族同様の感情を持たれたゆえに、皇族方に甘えは許されず、皇族は一生を御国のために尽くすのが当然であり、安易に老を貪ることは許さないという姿勢で皇族方と接せられたのです。
幟仁親王に対しては、特にその信任が厚かったこともあり、幟仁親王が明治25年頃より健康上の理由を以て度々お役御免を申し出され、同27年5月には強く公職よりの辞職を申し出されましたが、極東アジア情勢の急迫を理由に明治大帝はお許しになられませんでした。
日清戦争が勃発すると
幟仁親王は明治大帝の信任に応えるべく精勤、参謀総長として広島大本営で明治大帝を補佐されました。
健康上の不安のあるなか、
幟仁親王の精勤ぶりは周囲を驚かせました。
この地で腸チフス(当初はマラリアと診断された)を発症し、兵庫県明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸にて静養に入られました。症状は一旦軽快したものの翌明治28年(1895年)に入って再び悪化し、池田謙斎やエルヴィン・フォン・ベルツらによる治療もむなしく1月14日にはついに危篤に陥。その知らせを受けた明治天皇はこの日、熾仁親王への大勲位菊花章頸飾授与を決定した。翌1月15日、熾仁親王は終戦を待たずして舞子別邸にて61歳で薨去されました。国葬。
まさに皇族として、一命を国家の為に捧げられられたご一生でした。
明治大帝は尋常ならざる憂色を示され、熾仁親王の薨去を悲しまれたのです。

熾仁親王薨去の地、舞子別邸は明治21年の夏、熾仁親王が妃殿下とご一緒に避暑に来られ、柏山へお登りになられた時、丘陵を登りつめ、ふりかえってご覧になった海の景色に「これこそ天下の絶景だ」と感嘆され、たいへん気に入られました。そして明治26年には柏山にご別邸の建造を始められ、造成中には熾仁親王も自ら工事現場にお越しになられた。


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有栖川宮 舞子ご別邸


この地は皇室とはたいそうご関係が深く、熾仁親王がご逝去された後も弟君の威仁(たけひと)親王は兄殿下への追慕の情もあったのでしょうか?、この別邸がたいそうお気に入られてしばしばご逗留になられました。威仁親王の第二王女は、徳川慶久公に降嫁されました。最後の将軍である徳川慶喜の孫にもあたる、そのお子さまが高松宮喜久子妃殿下です。
喜久子妃殿下は「高松宮妃癌研究基金」設立に関与され名誉総裁となられ、日仏会館の総裁として日仏交流につくされていましたが、平成16年12月18日に薨去あそばされました(享年92歳)。明治大帝もたいそうこの別邸を懐かしがられて、明治33年4月兵庫県下行幸、同35年11月の陸軍特別大演習、同41年1月の海軍特別大演習の際など、いずれもこの別邸にお泊りになられました。
先帝、昭和天皇も東宮(皇太子)時代の大正5年4月関西地方行啓のみぎりご宿泊、昭和29年4月兵庫県緑樹祭式典のときには、天皇皇后両陛下がお泊りになられました。



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「市民いこいの家 舞子ビラ」





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建物は変わってしまいましたが、姫小松の庭は昔の面影を残してくれています。


大正6年7月には住友家がこれを譲り受けて、迎賓館として用いられました。
終戦直後、米軍に接収され館内は洋式に改められ、昭和25年解除後ホテルトウキョウの支店となりましたが、昭和34年11月にオリエンタルホテルがこれを引き継ぎ「オリエンタルホテル舞子ビラ」と名付けて経営されていました。昭和41年11月に神戸市が買収、同45年10月「市民いこいの家 舞子ビラ」として鉄筋コンクリート造5階建で新発足しました。その後、昭和56年3月に別館8階建を増館し、有栖川宮ご別邸跡としての由来で広く親しまれています。


筆者はこの地を訪れる度、一命を国家の為、明治大帝を補佐された熾仁親王の遺徳を偲び、明治大帝と共に歩んだ先人に思いを馳せ、肇国以来、他国に支配されることなく、歩んだ御国の歴史を誇りに思う次第です。




宮さん宮さん


とことんやれ節
作詞・品川弥二郎 作曲・大村益次郎

宮さん宮さんは熾仁親王を意味しています。


犬塚

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兵庫県神崎郡神河町長谷「犬塚」
 
 
 
 
 
 
 
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兵庫県神崎郡神河町長谷「犬塚」
 
 
 
映画「ノルウェイの森」 大河ドラマ「平清盛」のロケ地、 砥峰高原(とのみねこうげん)は兵庫県神崎郡神河町にある高原です。
山野草の宝庫、ススキの大群生地として知られ、筆者はこの地域に度々仕事で訪れています。
神河町はNHKの朝ドラ「あまちゃん」のヒロインの能年玲奈さんの出身地でも知られ、砥峰高原は、標高800〜900m 90haに及ぶススキの草原が広がる高原で、砥峰高原は独特の起伏に富んだ地形は、200万年前以上前の氷河期に氷河によって、削られて出来たと言われています。
その高原の麓に長谷地区があり、長谷地区の一角に犬塚が祀られています。
 
神河町の法楽寺は古くから「播州犬寺」の縁起として地域ではよく知られ、法楽寺の南、福山集落には、豪族牧夫長者の屋敷跡と伝承されてきたところがあり、稲荷の祠がまつられている。大化元年、豪族牧夫長者の妻が、夫の地位を奪おうとした家来に味方したことを恥じて出家し、この地に清水寺という寺を建てて隠棲したとのものである。夫が家来に襲われたときに二匹の犬が夫を助けたのであるが、そのうちの一匹が年老いて長谷に迷い込んで死んだ後、哀れんだ住人が犬を葬ったことから長谷(はせ)の犬塚は伝承されました。この長谷地区は、江戸時代までは犬見村と呼ばれ、長谷を流れる市川の支流を犬見川と呼んでいます。
 
古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取り、崇敬しました。
この感覚は今日でも神道の根本であり、小泉八雲はこれを「神道の感覚」と呼びました。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼす。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り(祟り)と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになったのです。
 
しかし、キリスト教は神道とは対極を為します。
キリスト教において博愛が及ぶのは、人間のみです。他の動物達は、その対象にはならず、彼らは人間の所有物であるとの記述が、旧約聖書(創世記第一章、二十節から二十八節)にあります。
 
神は彼ら(人間)に仰せられた。
「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ」
と・・・
 
この世に生きている動物達はすべて、神が人間のために造ったものであり、人間にはそれらを支配する権利が認められていると教義されています。
 動物愛護史を紐解くと、キリスト教圏では、人間の身勝手な都合で正当化された動物虐待が長らく横行していた事実がわかります。「人間のため」という大義名分があれば、動物達をどう扱おうとキリスト教徒にとっては何の罪でもなかったのです。
 
森羅万象、生きとし生けるものに神が宿り、神仏とともにあろうとした私たちの先人の感性が「犬塚」には脈々と生きています。
 
 

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拙稿をご覧いただいている皆様は、明治維新の英傑・西郷南洲翁(隆盛)には、これといった著書、お寫眞すら残されていないことはご存知だと思います
わずかに南洲翁の言葉を伝えているのが、『西郷南洲遺訓です。『遺訓南洲翁が生前語った言葉や教訓を集めたものであり、南洲翁が書かれたものではありません
編集は、薩摩人によってではなく庄内藩(山形県鶴岡市付近)の藩士たちによってなされました。

内村鑑三は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者ですが、世界に向けて書いた英文の名著『代表的日本人』で、第一に西郷南洲翁を挙げ、次のように述べています


 「維新における西郷の役割をあまさず書くことは、維新史の全体を書くことになるであろう。ある意味に於いて、明治元年の日本の維新は西郷の維新であった。…余輩は、維新は西郷なくして可能であったかどうかを疑うものである」
 このように西郷南洲翁を称える内村は、西南戦争における西郷南洲翁の死を悼み、「武士の最大なるもの、また最後のものが世を去ったのである」と書きました。


維新前夜の戊辰戦争の時、庄内藩は最後まで抗戦しましたが利あらず、遂に城を明け渡すことになりました。厳罰を覚悟した庄内藩でしたが、官軍から何ら恥辱を受けず、きわめて寛大な処置だったのです
後日それが南洲翁の指示によるものであったことを知り、庄内藩士たちは南洲翁の度量の大きさに魅了されたのでした。庄内藩は親書をもった使者を薩摩に派遣し、藩主酒井忠篤以下76名が南洲翁を訪ね面談しました。その後も庄内藩士は南洲翁に教えを受け、薫陶を受けました。やがて彼らは南洲翁から聞いた言葉をまとめ、『西郷南洲遺訓を作成したのです。これが南洲翁の偉大さを今日に伝える珠玉の文集となっているのです

 南洲翁は、無私の人です。『遺訓には、その南洲翁の公と私についての考え方が表れています。

 「小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ」

小人とは徳のない人間です。君子は徳の高い人間、大人物です。西郷は自分の利益を図ることは私であり、人民の利益を図ることは公だといいます。民利公益を追求する者は栄えるが、私利私欲を追求する者は亡びると、彼は言っています。

 「廟堂(びょうどう)に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些(ちつ)とも私を挾みては済まぬもの也」
 廟堂とは政府のことです。国の政治を行うことは、天地自然の道を行なうことであるから、たとえわずかであっても私心を差しはさんではならない、と南洲翁諭されています

 「草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷(まじき)也。今となりては戊辰の義戦も、偏(ひとえ)に、私を営みたる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻(しき)りに涙を催されける」
 南洲翁は明治政府の指導者が、公を忘れ私に走る姿を見て、悲嘆していました。維新創業の時というのに、贅沢な家に住、衣服を飾り、きれいな愛妾囲い、私財を蓄えることばかり考えるならば、維新の本当の目的は遂げられないだろう。今となっては戊辰戦争もひとえに私利私欲を肥やすためとなり、国に対しても、戦死者に対しても申し訳ないことだと言って、南洲翁はしきりに涙を流されたのです

 南洲翁は「児孫のために美田を買わず」という七言絶句の漢詩を示し、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと行いとが反していると見限りたまえと言われたそうです。実際、南洲翁はその言葉どおりに実行しました。こうした南洲翁の姿勢は、まさに奉私滅公の精神の表れでし。その精神は、次の一句に最もよく示されていると思われます。
 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
 命も名誉もいらない、官位も金もいらないというような人は扱いに困る。しかし、このような人物でなければ困難をわかちあい、国家のために大きな仕事を成し遂げることはできない。この言葉は、山岡鉄舟のことを語ったともいわれますが、南洲翁自身がこのように私利私欲を超え、誠をもって公に奉じる人間だったのです
 今日、わが国では、南洲翁のように「公」の精神をもつ若者の活躍が、期待されているのです。誠をもって公に報じる人にとって、『西郷南洲遺訓は座右の書となるはずです

 南洲翁を敬愛した内村鑑三は、南洲翁の内面に深く思いを致します。『代表的日本人』に内村は書いています。尊敬する徳川斉彬と藤田東湖を失ったとき、西郷は孤独の中に住み、自己の心を見据えました。そして、「西郷はその心のなかに自己と全宇宙より更に偉大なる『者』を見出し、その者と秘密の会話を交わしつつあった、と余は信ずる」と。そして内村は、「天との会話」の中から、西郷の次のような言葉が生まれたといいます。

 「人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
 すなわち、人を相手にせず、常に天を相手にするよう心がけよ。天を相手にして自分の誠を尽くし、決して人の非をとがめるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ。
 「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり」

すなわち、道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人は道にのっとって行動すべきものであるから、まず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も同じように愛するものだから、自分を愛する心をもって人を愛することである。

 
れは、有名な「敬天愛人」の思想ですが、内村は、明治維新における「出発合図者」(スターター)「方向指示者」(ディレクター)としての西郷の常人に絶した活動力は、この信念から発していると述べています
 「敬天愛人」とは、南洲翁が創った言葉ではなく、支那の古典にある言葉です。「道」という概念も同じです。しかし、南洲翁の「天」や「道」は、支那思想の受け売りではありません。

幕府の官学は、朱子学でした。南洲翁も四書五経や朱子を学ばれた。

しかし、薩摩藩では、国学も盛んであり、国父と言われた島津久光は、国学の大家とも言われていました。
南洲翁は、やがて先輩・友人・同志の影響によって、本居宣長や平田篤胤を学び、なかでも先輩の竹内伴右衛門は篤胤生前の門人でした。竹内は「皇道唯一(すめらぎの道ただ一つ) こをおきて仇の小径に よためやも人」という篤胤直筆の和歌を、座右にかかげていました。
このようなことから、南洲翁の「敬天愛人」には、わが国固有の思想が含まれていると考えられるのです。その傍証として、南洲翁は36歳から38歳まで、第2回の島流しの身となりました。沖永良部島の獄中で、死を覚悟された南洲翁は、「獄中有感」と題する詩を詠まれました。その一節に、「生死何ぞ疑わん、天の付与なるを。願わくは魂魄をとどめて、皇城を護らん」とあります。「皇城」とは、宮中のことです。自分が死んでも魂となって、天皇を護りたいという願いを歌っています。こうした勤皇の精神は、外国思想(儒学)のみで養われるものではありません。

君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行末


文久3年4月、坂本龍馬が詠んだと伝えられる歌です。
君とは、当時の志士において孝明天皇です。龍馬の尊皇と愛国の思いが滲みでています。
尊皇、勤王の「志」があってこそ、明治維新は成り、近代国家への道が開けたのは言うまでもありません。

 このように見てくると、南洲翁の「敬天愛人」は、天地自然の道に従う思想というだけではないことがわかります。大西郷の「敬天愛人」には、わが国に伝わる神の道に従うという意味があり、また天皇への忠義の念が込められていたのです。南洲翁に限らず、維新の志士たちは、わが国の伝統・国柄を学び、そこから新しい変革のエネルギーを得ていたことを忘れてはならないでしょう。

心血を注ぎ、命を賭け、先人は我々に近代国家を残していただいた
現世に生きる我々は後世の子孫に何が残せるでありましょうや?





明治のジャーナリスト

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陸羯南(くが・かつなん)


今日のジャーナリスト、とりわけ戦後のジャーナリストは邪悪な輩が多いことは、拙稿をご覧いただいている皆さんはご存知だと思います。
明治の時代、文筆に従事する人著述家・記者・編集者などを操觚者(そうこしゃ)と訳しました。
日本人は江戸時代までは、主に支那との対比によって、自己認識をしました。「東洋の中の日本」、今日で言う「東アジアの中の日本」という感覚だったのです

しかし、明治維新によって西洋文明を採り入れ、欧化を進めた段階で、初めて「世界の中の日本」という自覚をもつように至ったのです。これは21世紀に続く世界史の舞台に登場した日本人の自己認識でした。ここに出現したのが、日本主義(Nipponism)、日本精神論(Study of Japanese Spirit)です。

 維新後、文明開化によって、日本の近代化が推進されました。明治20年代の初めには、近代国家としての基礎づくりができました。この段に至り、維新以来の20年を振り返って、反省と評価がわが国でも盛んに行われるようになりました。そして、それまでの西洋・欧米への傾斜から、日本への回帰をめざす思潮が現れてきたのです。それは日本人が、「世界の中の日本」を自覚する動きだったのです



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この時、現れた思潮が、国粋主義と国民主義(Nationalism)であり、それが、さらに発展して日本主義となりました。また、日本主義の中から、日本精神という言葉が現われます。

「国粋」とは、nationality の訳語ですが、今日では、国民性・民族性等と訳します。「国粋主義」は、政教社の雑誌『日本人』が、「国粋保存」を唱道したのに始まります。政教社は、明治21年、当時の代表的な言論人、志賀重昂・三宅雪嶺・杉浦重剛らを中心に作られたグループです。彼らは、「国粋」の「保存」、つまり日本国民固有の特性を維持・発揚することを主張しました。そして、鹿鳴館外交に象徴される欧化主義、欧米追随路線に反対し、内政外交ともに日本自らの立場をとることを主張しました。

杉浦重剛翁は若き日の先帝陛下、秩父宮親王殿下、高松宮親王殿下の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講されたことでも今日知られています。
雑誌『日本人』に呼応して、陸羯南(くが・かつなん)は、正岡子規を育てたことで知られていますが、明治22年に、新聞『日本』を発行し、「国民主義」を唱えました。「国民主義」とは、日本が維新後、一旦失った国民精神を回復し、また発揚しようとする思想でした。外に対しては国民の独立を、内においては国民の統一を求めます。これは、上記の画像のように、後進国の近代化の課題を明らかにしたものでもありました。
 
「国粋主義」と「国民主義」は、名前は異なりますが異語同質のもの、実体は同じです。人脈的にも密接な関係にあります。陸羯南は、両者をまとめて「国民論派」と称しました。彼らの代表的な著作は、新聞『日本』によった陸羯南の『近時政論考』(明治23年)、雑誌『日本人』の同人である、三宅雪嶺の『真善美日本人』(明治24年)や志賀重昂の『日本風景論』(明治27年)などです。これらの著作は、当時のわが国で、大きな影響を及ぼし、近代日本人の自覚を高めたのです
その後、明治40年には、雑誌『日本人』が新聞『日本』を吸収し、『日本及日本人』に改名されました。
日清戦争(明治37〜38年)の前後からは、欧化への批判・抵抗の段階から一歩進んだ「日本主義」が、高山樗牛(ちょぎゅう)・井上哲治郎らによって提唱されました。
ここでは、国粋主義・国民主義を含めた総称として、日本主義と呼ぶことにします。
明治20〜40年代の日本主義は、昭和戦前期の超国家主義(Ultra-nationalism)のような独善的・排外的な偏狭さはなく、国際的・世界的な視野をもっていました。陸・志賀・三宅らは、政府の欧化主義には反対するが、西洋の科学技術を排斥せず、これを採り入れました。彼らが批判したのは、西洋崇拝・欧米追従のような行き過ぎに対してでした。民族や文化の独自性を主張しながらも、それを国際社会の中でいかにして実現するかを、彼らは考えたのです。そのために、日本人の主体的な自覚を高めようとしました。そして、日本がその固有性を保持・発展させることによって、世界人類に寄与しようとしたのです。

そこには、江戸時代末期、「東洋道徳、西洋芸術」を唱えた佐久間象山や、「大義を四海に布(し)くのみ」とうたった横井小楠に連なる、日本人としての主体的な態度が連綿と受け継がれています。
明治の日本主義者にとっては、ナショナリズムとインターナショナリズム、あるいは伝統的な精神文化とデモクラシーの総合が理想であり、また目標でもありました。この理想・目標は、混迷、迷走する今日の日本、21世紀を生きる我々にとっても、共通のものです。明治の日本主義を振り返ることは、今日の私たちに多くのヒントを与えてくれているのです
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