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「斎庭舞(ゆにわまい)」
第62回式年遷宮を奉祝した舞楽が内宮、外宮で奉納されました。
曲目は「斎庭舞(ゆにわまい)」「延喜楽(えんぎらく)」。
「斎庭舞」の由来についてご紹介します。
畏くも今上陛下の姉君、元神宮祭主の鷹司和子様(旧名、孝宮和子内親王殿下(たかのみや かずこないしんのう)が読まれた御歌に曲と舞がつけられています。現在、神宮大宮司である尚武氏は養子。
昭和49年、神宮祭主に就任。昭和63年に体調が芳しく無く退任、妹池田厚子様が就いた。先帝陛下の後を追うように、平成元年5月26日、心不全のため亡くなった。
みそのふは 秋(あき)の夜(よ)ふけて みかぐらの
笛(ふえ)の音(ね)たかく ひびきわたりぬ
曲と舞は宮内庁式部職楽部に依頼し製作されました。
楽曲は宮内庁式部職楽部首席楽長・大窪永夫氏、舞は同楽長・池邊五郎氏がそれぞれ担当し、装束もオリジナル。
歌・舞ともにいにしえの「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」を基調としたもので、浄闇の中で奏される御神楽の神遊びがしのばれる清らかなものです。
もちろん今回の神楽祭が初公開です。 斎庭とは、斎(い)み清めた所。祭りの庭。
皇祖 天照大御神は天孫降臨の際、
一、天壌無窮の神勅 『豊かな葦原の水(瑞)穂の國は皇孫のしらしめす國です。天つ神の日嗣(ひつぎ)である皇孫と御國は天壌無窮に榮ます。』
二、宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅 鏡をお授けになり、『この鏡を私とおもって、常に側において斎祭(いつきまつり)なさい』
三、斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅 皇孫に稲穂をお授けになり、『大切に育て継承しなさい』
と、三大神勅を下されました。
天皇陛下所知めす皇國は、水穂の瑞々しい穂の國であり、稲穂を神鏡と同じく、天照大御神からの授かりとして大切にし、稲作を継承していけば、いつまでも豊かな稲穂の実りのある國なのです。
天皇陛下 所知(しろし)めす。わが神國日本、豊葦原瑞穂國、豊葦原之千秋長五百秋之水穂國において、神嘗祭の十月十七日、新嘗祭の十一月二十三日は御國をあげての大祭日です。
皇尊 (すめらみこと) 彌榮(いやさか) 彌榮(いやさか) 彌榮(いやさか) |
神宮
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「お伊勢さん」 神領民の心意気
内宮の遷御の儀が行われました。
新宮のお社に敷き詰められた白い石。清流・宮川の川原で拾われたものです。 拾うのは、旧神領民と呼ばれる 神宮のおひざ元である神領の人々、伊勢市民です。 数年前から何度も川原へ行っては白石を探し、集めてきた。
社殿の御用材を運ぶ「御木曳」とともに、御正殿のまわりに敷き詰めるお白石を運ぶのは、神領民の役割とされてきた。 神領民は課役・傭役のかたちでこの仕事に従事していたが、戦国時代になって遷宮すらおぼつかない世情となると、せめて労力奉仕でお伊勢さんのお役に立とう、という敬神の心から、お木曳行事が始まったのです。今では運ぶ「労役」の必要は無く、トラック輸送になってしまった現在では、お木曳で運ぶ用材は、ごく一部になってしまったのですが、この行事の根底には、われらの"お伊勢さん"を誇りに思い、地域の伝統行事として続けている、神領民の心意気が流れているのです。 お木曳には、川曳と陸曳があります。
川曳をするのは、旧内宮領の神領民。内宮の神域から流れ出る五十鈴川を、流れにさからって用材を積んだソリを曳く。 木の台座(ソリ)に御用材の檜一本を載せ、御側橋の付近から宇治橋下まで約1.5キロを曳くが、浅瀬もあれば深みもあり、時には首まで水に浸りながらの奉曳となります。 陸曳の方ですが、これは奉曳車といわれるお木曳車に檜材三本(役木曳は1本)を積み、宮川堤防から外宮の工作所まで約2.1キロをえんえんと時間をかけて奉曳する。 式年遷宮にちなむお祭りや行事は遷宮諸祭と呼ばれます。 33を数える諸祭の中で、御木曳、お白石持行事は旧神領民といわれる伊勢市民と全国からの崇敬者、特別神領民が参加できる行事です。 とりわけ、新しい御正殿が建つ敷地に白石を敷き詰めるお白石持行事は、新宮を拝見できる唯一の機会、二十年に一度とあって、人々は楽しみにし、こころ新たに取組ました。 平成25年夏のお白石持行事は、各町77の奉献団が結成された。
この2大行事に参加できるのは、神領民の特典であり義務でもある、という意識が地元には今もって根強い。五百年の長い歴史をもつこの2つの行事は、先年、文化財保護法が定める無形民俗文化財の指定を受けている。 式年遷宮は伊勢の旧神領民の心意気あってこそのものです。
そして式年遷宮によって世代を超えて伊勢のみならず、日本の国に新しい息吹を吹き込み連綿と繋がっていく日本人の命と魂のリレー。
日本人の「たましいのふるさと」なのです。
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「伊勢に行きたい伊勢路が見たい せめて一生に一度でも わしが国さはお伊勢に遠い お伊勢恋しや参りたや」 と伊勢音頭で唄われたように、 昔から神宮参宮は日本人の憧れでした。 江戸時代は長旅には通行手形がないと関所を通れなかった。冒頭の画像は幕末のころ実際に使用された通行手形です。 差上申手形一札(さしあげまうすてがたいっさつ)の事 白須甲斐守知行所 武州幡羅郡原ノ郷村 名主 権左衛門組下 百姓 庄八 弟 龍三 当年三十五才 右の者壱人 今度(このたび) 伊勢参宮 罷(まかり)通り候(さうらふ)間(あひだ) 御関所 無相違(そういなく) 御通し被遊候(あそばされさうらふ) 仍て如件(よってくだんのごとし) 元治元年 右名主 権左衛門 子 六月 組頭 惣右衛門 七右衛門 横川御関所 御役人衆中様 昔の伊勢参宮の時期は、正月を過ぎ、稲の種蒔きが始まる前までの、新暦では1月から4月までの時期が多かったようです。 江戸時代、国民の6人に1人が神宮に参宮したと言われています。
日本人は元来伊勢神宮に対する崇拝心が強く、神宮参宮は、特別にご利益があるとされていました。
江戸からは片道15日間、大阪からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。岩手の釜石からは100日掛かったと言われています。
お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これがお蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しをうけることができた時期もあったのです。
江戸時代、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったのですが、神宮参宮に関してはほとんどが許される風潮でした。特に商家の間では、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていたのです。また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、神宮参宮をしてきた証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていました。
また、庶民の移動には厳しい制限があったといっても、神宮参宮の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参宮をすませた後には京や大坂などの見物を楽しむ者も多かったのです。
明和8年の群参のときから、広く「おかげまいり」と言われるようになり、それ以前の群参については「おかげまいり」と呼ばずに、前述していますが、「ぬけまいり」と呼んでいました。皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たちの伊勢まいりが始まったとかの噂が立つと、子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けました。その旅姿は、白衣に菅笠で一本の杓を持ったりもしました。また、彼らは多く集団を作って旅し、のぼりや万灯を押し立て、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩きました。日頃の生活を離れて自由に旅ができ、十分な旅行費用を用意しなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。それを神のおかげとし、妨げると天罰が下るとされました。
山田三方会合所の記録や本居宣長の『玉勝間』によれば、宝永2年の群参は50日間で362万人に達し、京都から起こった群参の波は、東は江戸、西は現在の広島県や徳島県にまで及ぶほどでした。次の明和8年の「おかげまいり」の総人数は、不明確ですが、宮川の渡し人数から見ても200万人以上に達し、東北地方を除く全国に及んだと言われています。さらに、文政13年の場合は、約500万人が伊勢へ伊勢へと押し寄せています。 当時の庶民にとって、伊勢までの旅費は相当な負担でした。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難です。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたのです。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立ちました。旅の時期は、農閑期が利用されました。
伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪や京の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産を購入したのです。無事に帰ると、帰還の祝いが行われ、江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組み、相互扶助の精神が役立っています。 筆者の生まれ故郷では、つい近年まで伊勢講が存在していました。
お蔭参りに行く者はその者が属する集落の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事が憚るられ、当時の、最新情報の発信地であったお伊勢で知識や技術、流行などを知り見聞を広げるための旅でもあったのです。お蔭参りから帰ってきた者によって、最新の装束(織物の柄)や農具(新しい品種の農作物)がもたらされ、箕に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まったのです。
また迎える伊勢近辺ではどうだったでしょうか?
参宮人の宿泊を認めたお触書きが残存しています。
参宮人の宿泊を認めた触書き(駒田家文書「御用状写帳 二」)
伊勢別街道に近い久居藩領多門村(現芸濃町)の「御用留」閏3月14日付けの大庄屋から村への触れには、「参宮人が多く、旅籠屋での宿泊に差し支える場合は、宿続きの村方に宿泊させるようにし、難渋している者がいたならば、志のある者が宿泊させてもよい」とあり、同時に「火の用心」「農業の手抜きがないように」との記述が見られる。
また、藩から村への触れでは、「参宮人が多く、旅人や難渋者への施行は、奇特なことである。中には施行を進められ、やむを得ず行っている者もあるが、それは心得違いである。施行駕籠も異様な客には出してはならない。ただし、病人や足が痛く歩行困難な旅人に施行することはよい。もちろん、農業に差し支えないように心得るように」とある。多少、藩と大庄屋との間で村への触れの内容が違うが、いずれも困っている旅人への施行を認め、農業に差し障りがないように心がけることとしている。 また、伊勢国紀州藩田丸領でも、「銘々門に立つ者へ合力等を致すように」「宿に困る者については、明家を用意し無賃にて泊まらすように」「施行は心次第、多少によらず施すように」などの通達が見られる(『玉城町史』下巻)。一方で、田丸代官からの各村落への触れには、「参宮人が多く、往還筋の飯米が差し支えるため、領内での米の売買は認めるが、他領への米の移動は禁止」とある。ただ、同じ紀州藩尾鷲組大庄屋記録には、「お蔭参り」に関する記述は見られない。 これらのことから、同じ藩であっても、地域差によって参宮客への対応が異なったことがわかる。 これらを迎え入れる神宮領の資料を見てみると、閏3月ごろの記事に「参宮人で病気になり難渋している者は介抱すること」「宿がない難渋者に対する宿施行を行うこと」「旅籠屋の宿泊料を安くすること」「商人が諸色値段を高くしないように」などの触れが、宇治会合から各村に対して出されている。神宮のお膝元では、こうした参宮人を迎え入れるための準備を行っていたのである。 また大坂の豪商鴻池家は一人50文ずつ、計700万両を施し、空き家はすべて宿泊施設とし、伊勢路では各所で粥を炊いてお蔭参りの人々に奉仕したと言われています。
ござを丸めて、その先にひしゃくを背負う姿はお伊勢参りの定番のスタイルでした。
その姿をみた主要街道、伊勢路の人々は施行(おもてなし)を行い、無銭でお伊勢参りが可能にしました。 そして、そのうちに、人間ではなく自分の犬に代参を託す人も出てくるようになり、近所でおかげ参りに行くという人に自分の犬を預けて連れて行って貰ったり、もしくは、道中の人々がその犬を伊勢へと案内してくれる事を期待して、犬一匹だけで送り出される事もあったようです。こういった犬のおかげ参りは江戸時代後期に流行り、おかげ参りをしている犬である事がすぐ判別できるよう、上記画像にあるように、犬には御幣や注連縄が付けられ、また、犬の首には道中のお金などがくくりつけられて送り出されました。
伊勢へと通じる道々では、そうした犬が来ると皆で餌をあげたり泊めるなどして、その分のお金を少し貰ったりもするのですが、逆に「これはとても立派な犬だ」と言ってお金を足してあげる人も多く、犬の首に掛けられている袋のお金が増えてくると、袋が重くて犬が可愛そうだと一枚の銀貨に両替してくれる人までいたそうです。当時の人々はとても信心深かったので、おかげ参りをしている犬からお金を盗むような人はなく、こうして犬は人々の善意に支えられながら伊勢へと送り届けられていったのです。
神宮の「おかげ参り」「参宮」に思いを馳せる時、いかにかっての日本人が大らかで、崇敬心が篤く、同じ日本人を労わるこころがあったかお解りいただけるでしょう。
神宮が「日本人」の「こころのふるさと」と言われている由縁です。
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拙ブログにご訪問いただいている皆様いつもありがとうございます。
昨日、神宮参宮させていただきました。 ※二見興玉神社→神宮(外宮)→神宮(内宮) ご神恩、皇恩に感謝申し上げ、日本国の隆昌・安寧、皇室の彌榮を奉告させていただきました。 第一鳥居(外宮)
神宮・春の神楽祭 作曲は藤原忠房、舞の振り付けは敦実親王と伝えられています。内宮神苑に設けられた特設舞台で、神宮楽師らによる舞楽の一般公開がされました。
日本人は世界各国から「忍耐強い」「礼儀正しい」と賞賛されていますが、まさにそのとおりです。
多くの参宮者で溢れるご神域では、正しく歩き、誰も押し合う事なく騒がず静かに順番守っており、老若男女を問わず、正しい参拝の作法をほとんどの参拝者が心得ています。 心無い人の姿は見たことがありません。 改めて日本人の素晴らしさを再確認した次第です。 ※天照大神の御杖代として皇大神宮を現在の地に定め、神宮の基盤を築かれた倭姫命のご神徳を仰ぎ、毎年5月5日と11月5日には倭姫宮で神恩に感謝を捧げる例大祭が執り行なわれます。
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