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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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がれきの中から見つかった今上陛下の御製を刻んだ歌碑=29日午後、岩手県大槌町




畏くも今上陛下が平成9年10月、大槌町で開かれた「全国豊かな海づくり大会」に行幸あそばされ、マツカワやヒラメの稚魚を放流したときのことを詠まれ、大槌町が陛下行幸を記念し、10年3月、大会会場に造った公園に御製碑を建てました。
岩手県大槌町を訪問した際に詠まれた御製を刻んだ歌碑が今月初め、同町のがれきの中から見つかっていたことが29日、分かりました。東日本大震災の津波で行方不明になっていた。関係者は「復興の象徴になる」と喜んでいます。
  御製碑の一首は

「放たれしまつかはの稚魚は大槌の海の面近くしばしただよふ」


 今月初め、うずたかく積まれたがれきの中で、処理業者が幅約3.5メートル、高さ約1.5メートルある歌碑を発見。大きな破損はなく、海づくり大会当時、担当係長だった碇川豊町長は「町民一丸で両陛下を迎え、形になった歌碑。再び町民一丸となり震災から乗り越えるシンボルにしたい」と話しています。


我々日本人にとって、精神的支柱は畏くも今上陛下、ご歴代の天皇陛下であります。
いかなる善政を施す為政者であっても、ご歴代の天皇陛下の御遺徳に優るものは存在しません。帝都以外の地方臣民にとって、陛下の地方行幸は至宝であるのです。陛下の大御心は敷島の国を覆い護ってくださっているのです。





平成4年山形べにばな国体 発炎筒投擲事件の時の動画です。
皇后陛下は陛下の為には盾にもなる覚悟、尊敬の涙が耐えません、同様の事件が皇太子殿下時代にもありました。

昭和五十年七月十七日、沖縄解放同盟(黒ヘル)と戦旗派(赤ヘル)の過激派二人が、沖縄のひめゆりの塔の壕内に数日前から潜み、慰霊のためひめゆりの塔を訪れた皇太子ご夫妻に火炎瓶を投げつける事件があったとき、警備責任者としてその現場にいた佐々淳行氏は次のように述べています。
「いきなり火炎ビンを投げつけられれば、男性でも後ずさりするのが一般的だろう。実際、沖縄県警は退避してしまい、残ったのは皇宮警察本部の警衛官十七名のみだった。
その時、皇太子妃(皇后陛下)は皇太子殿下(今上陛下)の前に半歩進まれ片手を殿下(陛下)の前に差し出し、身を呈して暴漢から守ろうとされたのである。
その光景は、今も私の目に焼き付いて離れない。」と・・・


佐々淳行氏が「天皇ー最高の危機管理機構」と題し、(ワック出版「歴史通」五月号掲載)次のように述べられています。
三月十六日に今上陛下が国民に向けて発せられたお言葉を踏まえて、「我が日本民族は、一世紀に一回ぐらいの割合で起こる国難に直面するたびに、救国の危機管理機構=天皇によって危機を乗り越えてきた。
平時、我が国では、天皇陛下を『権威』としていただいている。しかし、一旦緩急あって非常事態に直面すると、時の政権は、天皇に『権力』をもっていただいて事態を収拾してきた。そして、体勢が安定すると、また権威に戻っていただく形を繰り返してきた。代々、天皇陛下は、神道において天と国民を結ぶ仲保者・祭祀長という立場を占めてこられたのである。」と・・・

畏くも両陛下におかせられましては、東日本大震災後、避難所の人々を親しく激励あそばされた。激励された人々の顔は皆すがすがしく、異口同音に元気を戴きました、勇気付けていただきました、と感激を語っていました。
また陛下のご不例ご平癒ならぬ御身で、東日本大震災追悼式典へのご親覧、訪英、地方行幸とご高齢にも関わらず、ただひたすらに御国の安寧と、臣民の幸せ、世界平和を願われています。

この天皇皇后両陛下のお姿と被災地の国民の様子、地方行幸を見ているとき、この光景は、「日本でしかあり得ない尊い光景だ」と感じました。
北畠親房公が神皇正統記に記したように、「(万世一系の)我が国のみこのことあり。異朝にはこの類なし」とはこのことです。
日本は、一国一文明一王朝の国です。これは他国ではあり得ない誇りです。日本人にしか感じられない至福です。
 今上陛下は、被災地の人々を慰め励まし、自衛隊をはじめ救助復興にあたる組織の人員の労苦をねぎらい努力に感謝され、さらに、全国民に一致協力して復興にあたるように呼びかけられました。
これは、まさに、非常時における「統治者」として呼びかけられておられ、ここから、真の危機克服が始まってきている。このことは、世界が感嘆する紛れもない事実です。今上陛下のお言葉に直に接した被災地の人々の表情や言葉、地方行幸の臣民の表情から明らかです。


被災地の復興を願われ、万民の幸せと、安寧、彌榮を願われる両陛下の御意そのままと拝し、拙き両目にも、心の汗溢れ来る思いを禁じえません。
すべての日本人が、天皇陛下の大御心の下(もと)に結集する時、敷島の國は息を吹き返し、世界に冠たる道義国家として復活するでありましょう。









天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳




天皇陛下 叡慮

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天皇、皇后両陛下 御尊影











謹んでお伝えいたします。


畏くも、天皇陛下におかせられましては、英国行幸(ぎょうこう、みゆき)にあたり叡慮を臣民に賜わりました。

以下全文


この度、エリザベス二世女王陛下より、即位60周年に当たり、各国の君主を招いて催す午餐会に御招待を頂き、皇后と共に英国を訪問することになりました。ここに女王陛下の御招待に対し深く感謝いたします。

女王陛下の戴冠式が行われたのは、戦後、日本との平和条約が発効した翌年、1953年6月のことでした。当時19歳の私は、昭和天皇の名代として式に参列し、その機会に欧米諸国を訪問いたしました。様々なことを学び、経験した旅でしたが、戦争により荒廃した国土から訪れた者として、訪問した多くの国の人々が豊かに生活していることに胸をつかれ、そのことが深く心に残りました。当時の英国の対日感情は、厳しい状況にあると聞いており、事実、英国の一地域においては訪問が受け入れられなかったような事態もありましたが、チャーチル首相始め、知日英国人、在英大使館員などの尽力により、私自身はそのような雰囲気をあからさまに感じるようなことに遭遇することはありませんでした。関係者の心配りによるものであったことと思います。戴冠式では女王陛下を始め、英国の王族、外国からの代表とお会いし、興味深く、楽しい時を過ごすことができました。それからほぼ60年、女王としてのお務めを今もお元気に果たしていらっしゃる女王陛下に、この度お祝いをお伝えする機会を持てますことを誠にうれしく思います。この時の戴冠式に出席しておられた外国からの代表で、私と同じく、この度再びお祝いの席に出席される方は、ベルギーの現国王アルベール二世陛下お一方と聞いています。この時、ボードワン国王陛下の名代として参列しておられたアルベール陛下は18歳、私は19歳という、参列者の中でも最も若いうちの2人でした。この度午餐会に出席なさる方々には、これまでに日本や、それぞれの国でお会いした方が多く、その方々との旧交を温めることも楽しみにしています。


今回の旅行に先立ち、この2月に心臓の手術を受けたことで、多くの国民に心配を掛けました。沢山の人々が心を寄せ、お見舞いの気持ちを表してくれたことに深く感謝しています。現在運動を通してリハビリに努めているところですが、健康を取り戻してきているように感じています。


この度訪れる英国からは、東日本大震災に当たり、まず救援隊が派遣され、その後も、様々なチャリティ活動を通じて被災者への支援が行われてきました。訪英に当たり、関係者とお会いし、私ども、そして日本国民の感謝の気持ちを伝えたいと思います。





畏くも、天皇、皇后両陛下におかせられましては本日、第14回IACIS(国際コロイド・界面科学者連盟)国際会議の開会式ご親覧の為、宮城県へ行幸啓あそばされます。
2月に冠動脈バイパス手術を受けあそばされて以来、公務での地方行幸は初めてですが、13日午前には津波で被害を受けた仙台市若林区の仮設住宅で暮らす被災者を見舞われる予定です。
畏くも天皇陛下におかせられましては、「どうしても被災者を見舞いたい」との強い叡慮を示しあそばされたものです。
常に臣民(国民)とともにあられる、陛下の叡慮にただ感謝、感激であります。
ご不例ご平癒ならぬ玉体、過密日程にあって粛々とご公務をなされる両陛下。
常に日本国の安寧と、臣民が幸せであることを願われる両陛下。

日本人として、陛下の臣民として生をうけたことを幸せに思います。
そして、皇室とともに歩んだ先人・先祖を敬い感謝し、よい国を子孫へと願ってやまないのです。





君が代が千代に八千代に続くことを願ってやみません。

天皇陛下、皇后陛下、皇族方におかせられましては、いつまでもお健やかであられるよう祈念いたします。


尊 彌榮 彌榮 彌榮

日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・


天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳








聖寿萬歳


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神宮(内宮)







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神宮最高位、池田厚子祭主 左の大きな体のお方が鷹司尚武大宮司昭和49年から同63年まで神宮祭主をお務めになられた鷹司和子様孝宮和子内親王殿下)の養嗣子。






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 平成21年11月3日宇治橋渡始式  神宮最高位、池田厚子祭主






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黒田清子 様



神宮(三重県伊勢市)は7日、祭祀(さいし)をつかさどる臨時神宮祭主に、畏くも天皇、皇后両陛下の長女であられる黒田清子様が4月26日付で就任したと発表しました。神宮祭主を務める陛下の姉君、池田厚子様が高齢であることを考慮したもので、黒田様は池田様を補佐あそばされます。

祭主とは、神宮にのみ置かれている神職の役職です。

古は令外官のひとつであったもので、近代以前は、代々中臣氏が任命され、神祇大副が兼任しました。
神宮の祈年祭・月次祭・神嘗祭において、奉幣使として参向し、祝詞を奏上され、畏くも天皇陛下のご意思を祭神に伝えることを主たる役目とあそばされます。




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右より順宮厚子内親王殿下、今上天皇陛下、清宮貴子内親王殿下 御尊影(皇紀2610年)







皇后陛下のご養蚕

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「山つけ」の作業をなさりあそばされる皇后陛下 御尊影=7日午前、宮城(宮内庁提供)




皇后陛下におかせられましては7日、宮城内の養蚕施設で「天蚕」と呼ばれる蚕の卵を、クヌギの木に付ける「山つけ」の作業をなさりあそばされた。
 皇后陛下におかせられましては、網で囲われた「野蚕室」で、それぞれ25粒の蚕の卵が付いた短冊状の和紙15枚を丁寧にクヌギの枝に巻き付けられた。羽化して10日ほどで幼虫が生まれ、6月中旬から7月にかけて繭になります。

皇室のご養蚕の始まりは、西暦450年、今から1500年前のことであり、日本書紀に「雄略天皇が皇后に蚕を飼うようにすすめた」という記述があります。
現在は歴代の皇后が引き継ぐ形になっていますが、明治4年、昭憲皇太后が宮城・吹上御苑内で復興されたのが最初です。
ちょうど鎖国政策が解かれ、横浜、長崎、函館との貿易が始まった時代です。当時、輸出品の大部分は生糸、茶、蚕種でしたが、なかでも生糸は輸出額が特出していました。蚕糸業は殖産工業と外貨獲得の両面から、国の重要な産業となっていたのです。
皇室のご養蚕は、英照皇太后、昭憲皇太后、貞明皇后、香淳皇后、美智子皇后陛下へと引き継がれています。
宮城内にある紅葉山御養蚕所は、木造二階建ての簡素な造りで、桑園は宮城内に3カ所、赤坂御用地に1カ所あります。
毎年200キログラム以上の繭を生産していますが、この量は大きな養蚕農家に匹敵する収穫量です。皇后陛下は2カ月弱の蚕期中、「養蚕始めの儀」「養蚕納めの儀」「給桑」「上蔟」「初繭掻き」のほか、まぶし編み、桑とりなど、20回以上のお出ましがあります。
明治38年から飼育されている「小石丸」という品種の蚕があります。これは繭形が美しく、飼いやすいけれど収穫量が少ないのが難点です。この品種を維持していくべきか否かを、皇后陛下にお伺いしたところ、「残しておきたい」というお言葉があり、現在も飼い継がれています。この小石丸がのちに、正倉院の絹織物を復元するのに役立つことになりました。
皇后陛下がご養蚕に携わっているお写真を見ることがあると思いますが、あのときの服装は、写真撮影用に着替えているのです。作業でお出ましになるときは、ズボンをはいたり作務衣などを着たり、一般の人の服装と変わるところはありません。

上州(群馬県)は養蚕の地としても知られました。
明治4年、境町島村の田島武平氏らが、手ほどきして以来、数多くの上州人(群馬の方々)が養蚕にかかわってきました。御養蚕所で奉仕したことのある人々でつくるのが紅葉山会。会員およそ200人のうち50人以上が群馬県人です。
養蚕の期間中は毎日、夕方5時に作業予定を当直の女官に報告することになっています。作業での苦労は、皇后陛下がお出ましになる朝10時に、そのときどきの仕事をいかに山場に持っていくことができるかということです。たとえば熟蚕の山を朝10時にすることなどです。また飼育時期が外国訪問と重なることも多く、その日程を考慮して掃立日(養蚕始めの日)を決めなければなりません。
紅葉山の御養蚕所で収穫された繭は絹織物となり、外国訪問のときの贈答品や宮廷祭事などにも使われます。最近では、敬宮愛子内親王殿下がお生まれになったとき、産着として使われました。


 繭からひいた糸で織られた絹布は、外国元首への贈り物となり、皇后陛下の養蚕を慈しむ思いは周知ことです。
「皇后陛下の原風景に養蚕があるのかもしれません」
皇后陛下がご幼少のころの思い出を素直に語った「橋をかける子供時代の読書の思い出」(すえもりブックス・98年刊)にそのことを示す記述があります。

〈田舎での生活は、時に病気がちだった私をすっかり健康にし、私は蚕を飼ったリ、草刈りをしたり、時にはゲンノショーコとカラマツ草を、それぞれ干して4キロずつ供出するという、宿題のノルマにも挑戦しました〉

皇后陛下におかせられましては、大東亜戦争中に館林市に疎開あそばされ、地元の小学校で学びあそばされた。 
桑苗商の大竹文明さんは、上毛新聞「繭の記憶」で、養蚕について次のように述べています。

昔は鎮守の森のお祭りで桑苗を売った。日に1万本、2万本とはけた。それが昨年は年間3万本足らず。大学の試験研究などに使われるものが多いが、「『糸』に『冬』って書くと、『終』って漢字だよね。養蚕も冬が来て終わりかな。おれは皇居に苗を配達するだけだけど、おれの作った桑が皇居に残るんだ」と語る。

かっては日本の産業の基幹を為した養蚕。
今や断ち切れそうな細い糸だが、そこに夢を託す人々がいる限り養蚕に「冬」は来ない。
畏くも天皇陛下の稲作への叡慮、皇后陛下の養蚕にかけられる思い、御養蚕所で奉仕される紅葉山会会員の方々の思いを日本人は忘れてはならないでしょう。
お国柄を失わないために・・・

同時に、今の時代に合わない、利益がでないと古きよき伝統、産業を簡単に捨て去る風潮に危なさを感じるのは筆者だけでしょうか?




天皇陛下、皇后陛下はじめ、皇族方がいつまでもお健やかであられることを、臣民の一人として祈念します。


尊 彌榮 彌榮 彌榮

日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・

天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳

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昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 御尊影



今日は昭和の日、先帝陛下の誕生日にあたります。
かって我国は、畏くも天皇陛下の誕生日を「天長節」皇后陛下の誕生日を「地久節」として国家挙げて祝い慶びました。
戦前の祝祭日は、根拠、目的、由緒がはっきりとしたものでしたが、戦後の祝日法によって定められた祝日は、目的、由緒が漠然としており、これでは何の為の祝日かわかりません。
昭和の日を「昭和節」文化の日を「明治節」とし、皇室祭祀にまつわる祭日も本来に戻すことこそ愛国心を涵養し、今の日本にとって大事なことです。
過去にご紹介させていただいた、先帝陛下のエピソードですが、先帝陛下の御遺徳を偲び、「大御心」に常に護られている国民として、感謝の意を捧げ、国旗を掲揚し、声高らかに、聖寿萬歳を唱える
ものです。




公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王殿下

――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。

――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。

殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。
義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
「太賀吉は元気でおるか?」
とおっしゃったのです。
実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。

――国民に対するお気遣いも有名でした。

殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。

――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?

殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。
ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。


■[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥

 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
 後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。



ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「五つの佳話」/加瀬英明


※昭和天皇は生涯にわたって、ご自分が行なわれたことを自慢されたことなど、一度もなかった。また、終生にわたって名誉や栄誉を求められたことも、まったくなかった。ご自分についてはじつに無欲な方だった。
天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。

「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、いたしかたがあるまい。
それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)のなかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい」

そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月〜21年5月)を通じてマッカーサーに伝えられた。しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。

昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、記者団から当時のことについて質問が出された。
「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、あまり公にしたくはありません」
これが天皇のご返事であった。


※昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。
そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。
すると、天皇はいとも簡単に「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。これはわが家の伝統である」とお答えになった。

※天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。


※皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。
「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」
といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。


※昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。
時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」と申し上げた。
天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。
「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」
と嬉(うれ)しそうに示された。その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。


※昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた昭和3年11月だった。天皇は27歳。
翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、天皇が御親閲されることになった。天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。

「もしも当日、雨が降ることがあったら、青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」
とお命じになった。当日は早朝から大雨であった。そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、天皇は「天幕を取りに除いてほしい。司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。今日はわたしのいうことに従ってほしい」と要望された。

午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。
やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。

天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。
当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。










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