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京都・下鴨神社 流しびな
明日はひな祭りです。
この記事は昨年9月に投稿した記事ですが、改めて投稿させていただきます。
昔の我国には、五つの節句がありました。この節句という行事が、季節の節目の身の汚れを祓う大切なものでした。
人日(じんじつ) → 1月7日「七草がゆ」 上巳(じょうし) → 3月3日「桃の節句」 端午(たんご) → 5月5日「端午の節句」 七夕(たなばた) → 7月7日「七夕祭り」 重陽(ちょうよう) → 9月9日「菊の節句」 (※「菊の節句」は現在はなくなっています) 上の日にちからもわかるように、「上巳の節句」が、現在の「ひな祭り(桃の節句)」になっています。平安時代、上巳の節句の日は薬草を摘んで、その薬草で体のけがれを祓って健康・厄除けを願いました。 「雛祭り」の「雛」とはもともと雛形のことで、人間の雛形を意味します。 平安時代には、出産の際の死亡率が高かったので、命を持っていかれないよう、枕元に身代わりの人形を置く風習がありました。人形(ひとがた)とは、身代わりという意味で、この風習は、自分の災厄を引き受けてくれた人形を流す「流し雛」へと発展し、今日も残っています。
源氏物語にも、人形流しの故事が描かれています。ここには、「穢れと清め」という日本文化の核をなす観念が見られます。
古代の人々は、人形(ひとがた)を作ってそれで身体を撫で、自分の病や罪・汚れを背負わせて、川や海に流して祓い清め、健康や安寧を祈るという行事を行っていたようです。こうした古代の行事と、子供の人形遊びが結びついたことが、雛祭りの始まりと言われます。 紀の川 流しびな(和歌山)
鳥取 流しびな
「穢れ」とは、生命力を衰弱させるもので、「清め」とはそれを祓い清めて、生命力をよみがえらせることです。この生命観は、神道の深底にあるものです。そして、やまと民族は、清らかで明るく素直な心を理想としてきました。それは清明心とも呼ばれていますが、もし「穢れと清め」の観念を否定するならば、日本固有精神・文化の重要部分を破壊することになります。それは、日本固有の伝統を否定し、お国柄を否定することであり、自らのアイデンティティを自ら否定する愚かな行為です。
雛人形のひな(ひいな)とは、小さくてかわいいものという意味があります。平安時代、「紙の着せ替え人形」で遊ぶ「ひいな遊び」が行われていました。
今日のような雛人形は、室町時代ごろ宮中や貴族の間で始まり、江戸時代に武家、やがて国民全体に広まったといわれます。 当初の雛人形は、立ち姿で紙でつくられたようなもので、人形は、はじめは男女一対でした。江戸時代初期の寛永時代(17世紀)に、寛永雛と呼ばれる公家風の雛人形が表れました。これが改良されて、元禄雛、享保雛と、徐々に大型化し、優雅な人形になっていきました。また、雛祭りの習俗が、大名家を始めとする武家にも広まっていきました。そして、18世紀の半ば、1755年頃に、有職故実にのっとった正確な装束を着た人形が、つくられました。これは、有職雛と呼ばれるものです。
江戸時代の後期には、豪華な装束を身につけた雛人形を祀り、雛壇に調度品を飾る今のようなスタイルが出来上がりました。そして、雛祭りは、商家や地方にも普及し、全国に広がり、国民的な行事となりました。
現在の雛人形
旧暦の3月3日は桃の季節でもありますが、それだけで「桃の節句」になったわけではありません。昔から桃には邪気を祓う力があるとされ様々な神事に取り入れられていたので、邪気祓いをする上巳の節句が桃の節句になったのです。
また、桃は不老長寿を与える植物とされており、百歳(ももとせ)まで長生きできるよう、桃の節句には桃花酒を飲む風習もありました。 昔から邪気の象徴は鬼とされており(だから節分には鬼を祓います)、邪気を祓う力のある桃には鬼を退治する力もあると考えられてきました(節分に桃を使って邪気祓いをする神事も多数みられます)。これが土台となり、桃から生まれた桃太郎が鬼退治をする民話が誕生しました。 余談になりますが、雛人形を早く片づけないといけない理由
「節句を過ぎたら雛人形を早く片づけないと婚期を逃す」といった話を聞いたことは有りませんか? まあ大きなお世話だと言えなくもないのですが、「早く片づけないとよくないことが起こる」という考えには理由があります。 本文でも説明したとおり、雛人形のルーツは、形代(人形)に身の穢れを移してこれを流し汚れを払った、その形代です。本来なら、穢れを移し、これを流すことによって穢れを払い、禍を遠ざけたのですから、その人形をいつまでも飾っておくことは、穢れと禍をいつまでも身近におくのと同じです。 ですから、早くしまわなければならないと考えられたわけです。 今日も皇室は国民から崇敬の念を集めていますが、江戸時代には、今日我々が想像する以上に、多くの人々が皇室への憧れを抱いていました。皇室への憧れは、明治になって初めて、政府が上から浸透させたというようなものではなく、江戸年間に、庶民の間に広く行き渡っていたものなのです。だからこそ、幕末の危機の時代には、天皇陛下を中心とする国をつくろうという目標が、明治維新の原動力となったのです。
江戸時代には、雛祭りだけでなく、百人一首なども民間で広く親しまれています。また皇室の仁愛や雅に憧れる心は、一部の特権階層や近畿地方など一部地域のことではなく、国全体に浸透していたのです。皇室への憧れが、いかに広く深いものであったかは、江戸時代のあらゆる庶民文学や娯楽の中に、はっきりと表現されています。
お内裏様とは、内裏つまり宮中ですから、天皇陛下のことを意味します。これに対するお雛様は、皇后陛下のことを意味します。そうした雛人形が、全国に広まりました。
雛祭りは女子の祭であり、健やかな成長、幸福な結婚、子孫の繁栄を願う行事となりました。親王とは、本来、皇子のことですから、お内裏様とお雛様は、皇太子殿下の結婚の儀を表したものといえましょう。より広く言えば、天皇・皇后両陛下がご結婚されたときの姿なのです。
ちなみに三人官女、五人囃子等の人形は、皇室に仕える女官や雅楽の楽師等に当たり、また、雛壇に飾られる調度類は、結婚の際の嫁入り道具に当たるのです。
今日の我々は、皇太子徳仁親王殿下、同妃雅子殿下のご結婚の際に、平安絵巻さながらの装束を目の当たりにしました。また、昭和天皇から皇位を継承された今上陛下のご即位の儀式においても、天皇陛下・皇后陛下に、雛人形の源である「みやび」の姿をご拝顔しました。こうした模様は、世界中の国々に報道され、驚異・賞讃の声が寄せられました。万世一系、天穣無窮の
皇室の「みやび」の文化が、自然と庶民の生活に浸透し、皇室と国民が一つの文化を作り上げているところに、わが国の国柄が表れています。
雛まつりは、桃の節句とも呼ばれます。古来、桃は桃源郷という理想郷に生えるものといわれ、邪悪(穢れ)を祓い清める霊力が宿るとされてきました。『古事記』には、妻のイザナミを亡くしたイザナギが黄泉国(よみのくに 死の国)から逃げ帰るときに、追ってくる黄泉醜女(よもつしこめ 黄泉国の女、死の力が擬人化されたもの)に桃の実を投げ付けるくだりがあります。これは、桃のもつ霊力を物語っています。死の穢れを祓う「清め」の力です。 この話に出てくるイザナギ・イザナミは、日本列島の「国生み」をした男女両神とされます。またイザナギの「みそぎ」(=水による清め)によって、天照大神・須佐之男命や自然の神々が生まれたと、日本神話に記述されています。
こうして、3月3日の桃の節句に雛祭りを祝うことは、私たちの祖先が建国以来、数千年もの間、語り継いできた神話にも連なり、「日本の伝統」「皇室の伝統」「神道の奥義」を感じることができましょう。
いつまでも、伝統を護り、継承せねばなりません。
「お國柄を・・・・」
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皇室の記事
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天皇陛下、皇后陛下 御尊影(平成24年一般参賀)
君が代 奉 祝
皇紀2672年
浦安国 紀元節 皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
皇祖 伊勢神宮御正宮(ごしょうぐう)
建国の地橿原の宮 橿原神宮 外拝殿
橿原宮跡とは? 橿原宮畝傍山の東南にある。葛上郡と高市の境で、神武天皇が始めて本朝の国土を治めて宮都をここに造られた場所で建国の地です。 神武天皇畝傍山東北御陵 我國は世界最長、最古万世一系、畏くも天皇陛下を戴き、仰ぐ世界最古の國です。
明日は、紀元節です。
建国の理念を今一度胸に刻み、お祝い、畏くも今上陛下のご不例のご平癒を祈りましょう。
【神武天皇・皇都經營の詔・紀・紀元前二年三月】橿原奠都・八紘一宇の詔。
我れ東に征きしより、茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威を頼(かゝぶ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。邊りの土、未だ清まらず。餘(のこ)りの妖ひ、尚ほ梗(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)、復た風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を恢(ひろ)め廓(ひら)き、大壯(みあらか)を規り摸(つく)るべし。而るに今、運(とき)、此の屯(わか)く蒙きに屬ひ、民(おほみたから)の心朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住む習俗(しわざ)、惟れ常となれり。
夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)、必ず時に隨ふ。苟くも民に利(さち)有らば、何にぞ、聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且た當に山林を披き拂ひ、宮室を經營(をさめつく)りて、恭みて寶位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭め、上は則ち乾靈(あまつかみ)の國を授けたまひし徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(たゞしきみち)を養ひたまひし心を弘むべし。然て後に六合(くにのうち)を兼ねてを開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)と爲むこと、亦た可からずや。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を觀れば、蓋し國の墺區(もなか)か。治之(みやこつく)るべし。
※現代語訳
『東征についてから6年になった。天津神の威勢のお蔭で凶徒は退治された。しかし周辺の地はまだ治まらない。残りの災いはなお根強いが、内州の地は騒ぐものもない。皇都(みやこ)を開き広めて御殿を造営しよう。今世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。そもそも大人(聖人)が制(のり)を立てて、道理が正しく行われる。人々の利益となるならば、どんな事でも聖(ひじり)の行う業(わざ)として間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人々を安ずべきである。上は天津神の国をお授け下さった御徳に応え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その後国中を一つにして都を開き、天の下を覆いて一つの家とする事は、また良い事ではないか。見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。ここに都を造るべきである。』
「日本書紀」のの神武天皇の条に「安国」の文字が見えます。「昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、此の国を目(なづ)けて曰(いわ)く、日本は浦安国(うらやすくに)、細(くはし)戈千足国(ほこちたるくに)、磯輪上秀真国(しわかみのほつまくに)」とあります。「浦安国」の「うら」は心を意味し、「安国」は安らかに治まる国、泰平の国の意味であり、『延喜式祝詞』の「祈念祭」には、「四方(よも)の国を安国と平らけく」とある。国の内外の平和を祈る言葉として、「安国」が使われています。
「浦安国」とは、古の日本を意味します。神祇の安寧慰撫と国の平穏無事 が「浦安の舞」に込められています。
2月11日は宮城(皇居)・橿原神宮・神宮を遥拝し、国旗を掲げてお祝いをしましょう。
橿原神宮 奈良県橿原市久米町。 旧官幣大社(現、別表神社)。祭神は神武天皇。同皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の二柱。明治八年(一八七五)奈良県は教部省に対し、神武天皇即位の地である畝火山東南の橿原宮の旧地に神宮創建の請願に及び、同二一年橿原宮の旧跡の考証成り、同二二年仰せ出された。明治天皇は、社殿として京都御所の内侍所及び神嘉殿を奉献され、同二三年橿原神宮の宮号を宣下し御鎮座。時あたかも神武天皇即位紀元二五五〇年に当たる。その後、昭和一五年紀元二六〇〇年記念事業として境内地、社殿及び付属建物が整備拡充され、雄大かつ荘厳な現在の規模に改められた。例祭は二月一一日の紀元祭で、勅使の参向がある。
神楽 浦安の舞 |
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先帝陛下 御尊影
大東亜戦争終戦の年、昭和20年、戦後の混乱のなかで、国民は塗炭(とたん)の苦しみを味わっていました。特に食糧難は深刻でした。この年、成人に必要なカロリーは、配給ではわずか半分しか摂取できず、残りはヤミ市で補うという状況でした。人々は、テレビドラマ等でも見られる金になるものは何でも売って食いつなぐ、いわゆる「たけのこ生活」を強いられていました。
しかもこの年は、明治43年以来最悪の不作の年となりました。天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、そして肥料や農薬生産の減少により、米の収穫が例年より40パーセント近くも減少していました。
しかも、終戦により国家機能が低下、混乱していたため、農民は収穫した穀物を政府に供出せずに、闇のルートに横流ししました。その結果、ついに政府からの配給米が底をつく事態となりました。大蔵大臣はマスコミに対して「食糧がすぐに輸入されなければ、1千万人の日本人が餓死するであろう」と述べました。国民は迫りくる飢餓の恐怖に陥っていました。
このようななか、国民の食糧事情に最も胸を痛めあそばされたのが、先帝陛下であられました。戦後、農地改革や日中友好に活躍した政治家・松村謙三は、当時を次のように回想しています。
昭和20年12月、宮城からお召しがあり、天皇からお言葉がありました。
「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」との叡慮であられました。
幣原喜重郎首相が、連合軍司令官マッカーサーに面会してこれを伝えると、感動したマッカーサーは「自分としても、米国としても、その面目にかけても御物を取り上げることはできない。断じて国民に餓死者を出すことはさせないから、ご安心されるよう申し上げて下さい」と答えたといいます。 食糧を求める国民の声は、ますます高まっていました。昭和21年5月19日には、「食糧メーデー」が行われました。共産党に扇動された参加者は25万人といわれ、坂下門から宮城内にも群集が押し入りました。教科書にも載っている「国体は護持されたぞ。朕はたらふく食っているぞ。汝、臣民飢えて死ね。御名御璽」というプラカードはこの時のものです。プラカードを持った者は、不敬罪に問われました。プラカードの表現は、共産党によるものでした。
宮城前広場では、トラックを3台並べ、その上にテーブルをのせて演壇がつくられました。演説が続き、最後に、共産党の指導者・徳田球一が演壇に立ちました。徳田はおもむろに宮城を指さし、「オレたちは餓えている。しかるに彼らはどうだ」と叫んで、群集をアジりました。
翌20日、マッカーサーは、「規律なき分子がいま開始している暴力の行使は、今後継続を許さない」と警告し、「食糧メーデー」はGHQ(連合国軍総司令部)の命令で収拾されます。そして、21日、マッカーサーは吉田茂をGHQに招き、「自分が最高司令官であるかぎり、日本国民は一人も餓死させない」と約束しました。 その約束通り、GHQは6〜7月にかけて20万トンの輸入食糧を放出しました。8〜9月には、それぞれ20万トンの食糧が放出されました。これによって、日本国民は、大量餓死という最悪の危機を乗り越えることができたのです。
戦後の数年間、世界の食糧事情は悪化しました。中国・インドでは飢餓が起こり、ヨーロッパでさえ飢餓が囁(ささや)かれました。当時の世界の風潮として、降伏した我国は、懲罰として飢餓を強いられても不思議ではない状況でした。それにもかかわらず、国民が餓死から救われたのは、先帝陛下の叡慮が大きかったのです。
先帝陛下は、餓えに苦しむ国民を思い、皇室財産を差し出して食糧に替え、国民を餓死から救いたいと申し出ました。その無私仁愛の心が、マッカーサーの心を揺り動かし、GHQによる食糧放出が行われたのです。当時の国民はこのことを知る由もありませんでした。今日も多くの国民は、ただ米軍が食糧を供給してくれたと思っているようです。実はその陰には、国民の身の上を思う先帝陛下の存在があったのです。
こういう真実をこそ、私たちは語り継いでいかなければならないでしょう。
昭和天皇は、昭和21年2月より実に9年間にわたって、全国411個所、総行程にして3万3千キロの巡幸を行いあそばされた。
先帝陛下の巡幸は、敗戦によって廃虚の中にあった国民に大きな力を与えました。この世界史に類例のない出来事は、先帝陛下自身の発意で行われたものでした。
上述していますが、当時共産党が各地で国民を扇動していました。
労働争議が各地で吹き荒れていましたが、とにかく陛下がお出でになられる工場では、ストライキがことごとく解決していきましたし、これは調べれば分かると思いますが、物資や食糧の生産が、陛下のおいでになるところことごとく向上していくのです」と元宮内次官の加藤氏は、実話を伝えています。
我が国には、天皇陛下と国民が深い家族的な感情で結ばれてきたという伝統があります。それは、君民一体ということもできます。
先帝陛下のお御心は、終戦直後、塗炭の苦しみにあった国民を力づけられ、国民の飢えを救くわれたのです。
このことが戦後日本の復興に大きな力となったのです。
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明治大帝 御尊影 これは原本の控えです。文頭の「一」が五箇条にもかかわらず6個もあり、6個目は訂正の筆が入っています。 近代日本は、明治維新より始まりました。 明治維新において、政治の御一新に当たって、明治大帝が大方針を打ち出しあそばされたのが、五箇条の御誓文です。御誓文は、その言葉のとおり、天皇が天神地祇(てんしんちぎ)に誓いを立てあそばされ、それを国民に発表されたものです。 一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
一、 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」 大意は、次の通りです。
一、広く人材を集めて会議体を設け、重要政務はすべて衆議公論によって決定せよ。
一、身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国策を遂行せよ。
一、朝臣武家の区別なく、さらには庶民のすべてにわたって、各自の志を達成できるようにはからい、人々を失意の状態に追いやらぬことが肝要である。
一、これまでのような、かたくなな習慣を打破して、普遍性のある道理に基いて進め。
一、知識を世界に求めて、天皇の大業を大いに振興せよ
戦前世代の方々は殆ど暗誦(あんしょう)されていました。
日本人として見逃してはならないのは、これに続く明治大帝の叡慮(えいりょ(天皇陛下の思い))です。
「我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆に先じ、天地神明に誓ひ、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ」
すなわち、「わが国に前例のない変革を行おうとするにあたり、私は自ら国民の先頭に立って、天地の神々に誓い、重大な決意をもって国政の基本条項を定め、国民生活を安定させる大道を確立しようと思う。国民もまたこの趣旨に基いて心を合わせて努力せよ」
ここには、明治大帝が自ら先頭に立って国民とともに新しい国づくりをしていこうという決意が、打ち出されています。こうした決意のもとに、明治大帝は神に向かって五つの誓いを立てあそばされ、それを国民に明らかにしたのです。率先垂範、有言実行の精神が、溢れています。
これは単なる官僚による作文ではありません。明治大帝が自らの叡慮を国民に伝えようとしたものでした。そのことを裏付けるものが、五箇条の御誓文が発表された、明治元年(1868)3月14日に出された御宸翰(ごしんかん)です。宸翰とは天皇直筆の文書のことを言います。
明治大帝は直筆で次のような意味のことを記されています。
「今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任である。今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ,困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤める。そうしてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかないものとなる。自分はそのように行う」と記されています。
すべての国民が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。明治大帝の決意は、崇高であり、偉大です。
また、御宸翰の文章の先の方には、次のように記されています。
「朕いたづらに九重のうちに安居し…百年の憂ひを忘るるときは、つひに各国の陵侮(あなどり)を受け、上は烈聖を恥しめ奉り、下は億兆を苦しめんことを恐る」と。
すなわち、「天皇である自分が宮殿で安逸に過ごし、…国家百年の憂いを忘れるならば、わが国は外国の侮りを受け、歴代天皇の事績を汚し、国民を困苦に陥らせることになってしまう」。
明治大帝は、こうした事態に至らぬよう、国家の元首として、最高指導者として、自らを律し、国家の独立と発展、国民生活の安寧を実現するために尽力あそばされました。
五箇条の御誓文と、同日に出された御宸翰には、明治大帝の真摯誠実な精神が現れています。ここに、私たちは「公」の体現者としての天皇陛下の姿を見ることができます。
そして、肇國以来、国民を「おおみたから」と呼んで、大切にしてきたわが国の皇室の伝統が、ここに生きています。
明治大帝は、和歌を好まれ、優れた歌を多く残されました。
生涯に詠んだ御製(ぎょせい)の数は9万3千余首。
いくつかをご紹介させていただきます。
あしはらの 国とまさむと 思ふにも 青人草ぞ たからなりける
(大意:日本の国を富ませたいと思うにつけても、第一に貴い宝はわが国民である)
この歌は、臣民を「おおみたから」つまり宝と呼んで、大事に思う皇室の伝統です。
照につけ くもるにつけて おもふかな わが民草の うえはいかにと (大意:照れにつけ、曇るにつけて思うのは、わが国民の生活はどうであろうかということである)
臣民一人ひとりの身の上をわがことのように思う、思いやりと慈しみの心が表されています。それが「仁」であり、仁慈とも仁愛です。
夏の夜も ねざめがちにぞ あかしける世のためおもふ こと多くして
(大意:短い夏の夜も、国のため世のため思ひめぐらすことが多く、
安らかに寝通すことが出来ず、夜を明かしてしまうよ)
明治大帝は常に臣民のことを思い、国家社会のことが頭を離れませんでした。
世の中の 人のつかさと なる人の 身の行ひよ ただしからなむ 大意:世の中の人の上に立つ人は、身の行いが殊に正しく
ありたいものだ)
明治大帝は臣民に期待を寄せあそばされるる一方、指導的立場にある者に対しては、厳しく自覚を求められました。
国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき 事なわすれそ (大意:我が国のために敵は打ち砕くとも、敵に対しても慈愛をたれる
ことを忘れてはならないぞ)
乃木大将が水師営の会見で敵将に見せた礼節は明治大帝の大御心でもあるのです。
明治大帝の偉業の一つに、「教育勅語」によって、教育の目標と道徳の基本を示したことが挙げられます。明治大帝はまた、和歌の内に人の道を詠み、臣民に人としてのあり方を諭(さと)されました。
荒廃してしまった平成日本、「心の教育」が求められるなか、その御製(ぎょせい)は今日に歌い継がれる価値あるものです。
あさみどり すみわたりたる 大空の ひろきをおのが 心ともがな
(大意:浅緑色に澄みわたった大空のように、広々とした心を自分の心
としたいものだ)
(大意:目に見えぬ神に向って恥じないのは、人の誠の心であるよ)
久かたの 空に晴れたる 富士の根の 高きを人の こころともがな
(大意:晴れた大空にそびえる富士山の高根のように、気高い心を自分の心としたいものだ)
人は親に育てられ、やがて自らの人生を歩みます。
誰にとっても両親は、人生について教えてくれた最高の恩人です。明治大帝は親について次のように詠まれています。
たらちねの みおやのをしへ 新玉の年ふるままに 身にぞしみける
(大意:年々、新しい年を重ねるにしたがって、身に染みわたるのは、
自分を育ててくれた親の有り難い教えである)
そして臣民一人、一人の努力も詠まれています。
つもりては 払ふがかたく なりぬべしちりばかりなる こととおもへど (大意:心の汚れというものは、僅かなる塵ほどのことと思っても、
そのままにしておくと積もり積もって、払うことができなくなって
しまう。だから、自分の心を常に清めなければならない)
思ふこと おもふがままに なれりとも身をつつしまん ことを忘るな (大意:なんでも自分の思うようになるようになったとしても、人はわが身を慎むことを忘れてはならないぞ)
詠まれた御製は、明治大帝自らも実践あそばされました。
明治大帝の御心は、大正天皇陛下、昭和天皇陛下、今上天皇陛下へと継承されています。
その下に、国民が教育に、自己啓発に努めたのが、近代日本の初め、明治という時代でした。その伝統は、昭和・平成と進むにつれ、見失しなわれてきています。「心の教育」が求められる今日、明治天皇の御製に込められた教訓、明治の教えに学び、取戻すべきです。
明治日本が輝いていたのは、英明なる明治大帝の下(もと)神への誓い、民への思いを臣民が明治大帝の大御心の下に結集し、実践したことによります。
これがお国柄なのです。
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昭和天皇陛下、香淳皇后陛下 御尊影
天皇陛下崩御 明日一月七日は昭和天皇祭です。
先帝陛下が崩御あそばされてから二十三年になります。 先帝陛下の御遺徳を偲び、皇室の彌榮を祈念します。 やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるか きざしみゆれど
昭和六十三年に、「全國戦没者追悼式八月十五日」と題されて詠ませられた畏くも、昭和天皇陛下の御製です。
陛下最晩年の御製であり、公に発表された御製でこの後に詠まれた御歌は二首のみです。
畏くも、昭和天皇陛下のお嘆きの深さを痛感致します。
ご病状も進み、那須の御用邸でご療養中であられたにもかかはらず、八月十五日の『全國戦没者追悼式』にヘリコプターで移動あそばされ、御親覧あそばされたのであります。
畏くも、昭和天皇陛下はそれほどまでに戦没者に対する慰霊と感謝の思いをお持ちになっておられたのであります。有難き限りであります。
畏くも、昭和天皇陛下はこの2年前に、
この年のこの日にもまた靖國の
みやしろのことにうれひはふかし
と詠まれあそばされ、必死の力をふりしぼり全國戦没者追悼式の壇上にのぼられたのであられました。
六十三年間もご在位になり、この全く異例の恐れ多い最後の國事に対しての御製になったことは臣下として全く申しわけなく思います。
出雲井晶さんは、「『やすらけき…』を拝誦しますとき、申しわけなさに身のちぢむ思いがするのは私だけではないでしょう。…國民みなが思し召しを自分の問題としてとらえ、無私の大御心をみならおうと努めるとき、現今の様々な危機的状況は次第に消えましょう。
わが國の本当の姿である『明き清き誠の心』がみなにあらわれ、わが國は新しくよみがえりましょう。天上にいます昭和天皇にご安堵いただける日のくることを祈らずにはおられません。」(『昭和天皇』)と書かれています。
國父の大御心、臣民知らず、最も恥ずべきことであります。
國家のことに一身に背負われるのは、行政の長、内閣総理大臣でも、政治家でもありません。肇國以来、天皇陛下ただお一人なのです。
先帝陛下の御製、
やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるか きざしみゆれど
心ある臣民の皆様には、今一度熟考いただきたい。
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
天皇陛下、皇后陛下 万歳! 万歳! 万歳!
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