両陛下、草津で音楽ご鑑賞 皇后さまはピアノのレッスンをお受けに 静養のため長野県軽井沢町に滞在していた天皇、皇后両陛下は27日、
群馬県草津町へ移動し、
「第32回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」
のコンサートを鑑賞された。
これに先立ち、皇后さまはワークショップ(体験型講座)で
ピアノのレッスンに参加し、
クラリネットとビオラの世界的な演奏家とモーツァルトの曲をご演奏。
テンポや強弱について英語で質問し、
「ここが難しいところ」と話しながら、繰り返し練習された。
快いひと時を過ごされたようでとても嬉しく想います。
両陛下にはお心お体を大切にいつまでもお元気でいらして欲しいです。
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皇室の記事
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國譲り
日本は古来より、「大和の国」と言われ、日本人は「和」を重んじる国民です。そのことを、私たちは、日本の神話や歴史の中に見出すことができます。日本神話には、天照大神の子孫がこの国を治めるようになる前に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国を治めていたことが書かれています。
「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、豊かで住みよい国でした。大国主命とは、天照大神の弟で出雲に住みついた須佐之男命の子孫であり、神話「因幡のしろうさぎ」の主人公でも知られています。
天照大神は、この国は自分の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治めるべきだと考え、大国主命に国を譲るよう求めましたが、大国主命はこれに従い、「国譲り」が行われます。この日本の国の起源を伝える話に、古来より日本人の「和」の精神を見ることができます。
天照大神は、話し合いによる「国譲り」を試み、建御雷神(たけみかずちのかみ)を使者として送ります。これに対し、大国主命は「私の一存では決められません。子供の事代主命(ことしろぬしのみこと)に聞いてください」と言います。親である大国主命は独断で物事を決めずに、子供の意見を尊重しました。
長男である事代主命は、国譲りを承諾しましたが、しかし、弟の建御名方命(たけみなかたのみこと)は反対し、建御雷神に力比べを挑みます。結局、建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。
建御名方命はそのまま、諏訪の地にお鎮まりになり、諏訪神社のご祭神として祀られておられます。また、建御雷神と、建御名方命との「力比べ」が日本の国技となる相撲の起源となったと伝えられています。
「力比べ」
子供たちが同意したと聞いた大国主命は「私には何の異存もありません。この国を高天原の神にお譲りしましょう」と、「国譲り」は行われました。
このように、「国譲り」は、話し合いを主として行われ、「力比べ」などの部分的に抵抗はありましたが、双方の合意という形で実現したと描かれています。しかも、単なる併合ではなく、譲り受けた側が譲った側に対し、最高の礼を尽くしています。国を譲ったとはいえ、おそらく大国主命には恨みが残ったことでしょう。それに対し、天照大神は、天日隅宮(あめのひすみのみや)という大宮殿をつくり、自分の第二子の天穂日命(あめのほひのみこと)を大国主命の霊に仕えさせます。この宮殿が、出雲大社の起源です。そして天穂日命の子孫である出雲国造が代々の出雲大社の祭祀、宮司を務め、現在まで続いています。現在の宮司は、84代国造千家尊祐氏。
出雲国造が代替わりした際には、はるばる朝廷にまで参向し、宮中において天皇の御代を言祝ぐ「出雲国造神賀詞」が新しい国造によって奏上されました。
国造(くにのみやつこ)というのは全国にたくさんいたわけですが、この神賀詞の奏上を行うのは出雲国造のみで、特別な扱いをされていたことがわかります。 また、現在も、皇室といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。 天日隅宮(あめのひすみのみや)
大国主命は、国譲りをされて、この世(顕事)は皇孫が治めることになりましたが、代わりに、幽世(かくりよ)に退かれて神事(かみごと)を治められることになりました。幽世とは目には見えない、耳には聞こえない神や霊魂の世界のこと、神事とはそのような神の働きのことを言います。つまり、大神さまは神々の世界を治める神さまになられたのです。そして
八十万の神たちを率いて、永く皇孫の為に守って欲しい〔日本書紀〕 と、天つ神よりお願いされました。こうして、たくさんの神々を率いて、皇室、そして日本の国をお護りされる神となられたのです。ですから、朝廷からは格別の崇敬を受けてきました。 古くから我が国では10月を神無月(かんなづき)と言います。これは10月に日本中の神様が、出雲の国に集まり会議を開き、他の国には神様が居なくなってしまうことからそう呼ばれてきました。神様の集まる出雲の国では反対に10月は神在月(かみありづき)と呼ばれています。この会議は旧暦の10月11日から17日までの間、出雲大社で開かれ、その後、佐太神社に移動し26日まで会議の続きを行うと言われています。 現在は大社と名乗る神社はたくさんありますのが、平安時代の「延喜式」の神名帳には式内社と呼ばれる全国で2,861社の神社の名前が掲載されていますが、大社を名乗るのはただ一つ出雲大社だけです。
また、明治時代より、第二次世界大戦まで続いた神社の近代社格制度においても、大社を名乗れたのは出雲大社だけでした。 如何に歴代皇室が、「国譲り」に対して、礼節を重んじてこられたかがよくわかります。
皇后陛下 御歌
日本ではこのように遠い神話の時代から、「和」が重んじられてきました。私たちはこうした世界に希な「和」の國の国民なのであります。
胸をはり、誇りをもつべきです。
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■御所を廻る数万の人々■
それは、天明7(1787)年6月7日に始まった。京都の御所の築地塀の周りを廻る人々が現れた。ある記録によれば、どこからか老人が来て、御所の周囲12町(1300メートル)を廻る「御千度(おせんど)」をしたのが、発端だという。 7日には50人ほどの程度であったが、次第に数を増し10日には1万人もの老若男女が集まって塀の周りを廻った。その人数は、18日前後の数日間にピークを迎え、一日7万人に達したという。 人々は南門にたどり着くと、その少し低くなった柵の垣根から、銭を南門前面の敷石に投げ入れ、その向こうにある紫宸殿に向けて手を合わせた。現代の初詣と同じ光景である。 噂は大阪や近国にまたたく間に広まり、大阪から伏見までの淀川を行く船の業者は、運賃を半額にした「施行船」を仕立てて、客を運んだ。沿道では参拝者に茶や酒、食事が振る舞われた。 暑さの厳しい頃なので、御所では築地塀の周囲の溝に、冷たい湧き水を流して、手や顔を洗えるようにした。後桜町上皇は、3万個のりんごを配らせたが、昼前になくなってしまったという。隣接する有栖川宮家、一条家、九条家、鷹司家は、茶や握り飯を配った。菓子や、酒、トコロテン、瓜などを売る露天商が5百人ほども出た。 人々は御所、すなわち天皇に何を祈ったのか。当時の資料では「飢渇困窮につき祈誓」「米穀不自由につき」「米穀段々高値になり」などと記している。天明の飢饉で米価が高騰し、差し迫った生活苦からの救済と、五穀豊作を祈願したのである。 米価が高騰し、餓死者まで出るという困難な事態に、人々は、幕府の京都所司代や京都町奉行所に繰り返し嘆願した。ところが、これらの役所はいっこうに救済策をとらなかった。 前月5月には、怒った大坂の町民が数十軒の米穀商人の家を襲った。堺、播磨、紀伊でも同様の打ち壊しが起こった。そして5月19日から5日間、将軍のお膝元の江戸でも数百人が鉦かね)や太鼓を打ち鳴らし竹槍で武装して、騒擾を起こした。 江戸時代で最悪と言われる天明の大飢饉だが、いずれの地においても、幕府は有効な施策をとっていなかった。幕府の威光は地に落ちた。もはや幕府に頼んでも埒(らち)が明かないと悟った人々は、御所千度参りという形で、天皇に救済を訴えたのである。 ■光格天皇の幕府への前例なき申し入れ■ 光格天皇は、これを見て、すぐさま行動に移った。御所御千度参りが数万人の規模に達した6月12日、関白・鷹司輔平を通じて、対幕府の窓口である武家伝奏に、幕府方の京都所司代に対して窮民救済に関する申し入れをするよう、命じた。 世上困窮し、飢渇死亡の者数多これあるのよし、内院(天皇と上皇)ははなはだ不憫に思し召され、、、 賑給(しんごう、古代の朝廷が毎年5月に全国の貧窮民に米や塩を賜った儀式)などはできないか、関東から救い米を差し出して貧窮を救うことはできないか、との申し入れであった。 朝廷が江戸幕府の政治に口を出す、などという事は、まさに前代未聞の申し入れであった。 江戸の幕府は、申し入れ以前から米500石(7.5トン)を救済手当てに使っても構わないと京都所司代に指示を出していたが、朝廷からの申し入れを受けて、さらに千石(15トン)の救い米放出を命じ、これを朝廷に報告した。 この年の11月に挙行された大嘗祭では、光格天皇の次の御製が世上に流布し、評判となった。 身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ 飢饉に対して手をこまねいて民の打ち壊しに見舞われた将軍と、ひたすらに万民の安寧を祈り、幕府に救済を命ずる天皇と、鮮烈なコントラストが万民の目の前に明らかになった。 尊皇倒幕の大きなうねりは、ここから始まった。 光格天皇は9歳という幼少で、閑院宮家という傍系から、はからずも皇位についた方だった。閑院宮家は宝永7(1710)年に新井白石の意見により、皇位継嗣の安定のために創設された宮家であった。東山天皇の第6王子直仁親王が初代であり、その3代目の第6王子が佑宮(さちのみや)、後の光格天皇であった。皇位につく可能性はほとんどないため、わずか2歳にして、いずれ出家し聖護院門跡を継ぐことが予定されていた。 佑宮が9歳の時に、運命は急転した。当時の後桃園天皇が、病気のために急逝してしまった。わずか22歳の若さであり、子供もその年に生まれた女子しかいなかった。朝廷は幕府と秘密裏に交渉して、佑宮を後継とした。後桃園天皇の死から一月も経たないうちに、佑宮は御所に連れてこられ、新天皇となった。まさに青天の霹靂の即位であった。 傍系から幼少にして皇統を継いだために、朝廷や幕府の中には、光格天皇を軽んじる向きがあったという。それを案じたのか、先々代の後桜町院(*)は天皇に学問を熱心にするよう勧めた。光格天皇もその期待に応え、熱心に学問に励んだ。傍系として軽んぜられている、という事を幼少ながら感じ取っていたのであろう。理想的な天皇像を追い求め、それを立派に演じよう、という志をお持ちだったようだ。 *先代・後桃園天皇の伯母。後桃園天皇は父・桃園天皇が亡くなった時、まだ5歳だったため、成長するまでの中継ぎとして皇位についた。 御所御千度参りが起きた天明7(1787)年には、光格天皇は数え17歳。関白として九条尚実がいたが、老齢にして数年前から病気となっていた。この頃には、近臣の補弼を得ながら、自ら朝廷の中心となって、政務を取り仕切っていたようである。この点も、ここ数代の天皇とは異なっていた。 ■天下万民への慈悲仁恵のみ■ 寛政11(1799)年、後桜町上皇から与えられた教訓への返書に、光格天皇は次のように書いている。 仰せの通り、身の欲なく、天下万民をのみ、慈悲仁恵に存じ候事、人君なる物(者)の第一のおしえ、論語をはじめ、あらゆる書物に、皆々この道理を書きのべ候事、すなわち仰せと少しのちがいなき事、さてさて忝なく存じまいらせ候、なお更心中に右のことどもしばしも忘れおこたらず、仁恵を重んじ候はば、神明冥加にもかない、いよいよ天下泰平と畏(かしこまり)々々々入りまいらせ候・・・ (仰せの通り、自身の欲なく、天下万民への慈悲仁恵のみを思うことは、君主たる者の第一の教えであると、論語をはじめ、あらゆる書物に、みなこの道理が書かれていることは、仰せと少しの違いもなく、さても有り難く存じます。さらに心中にこの事をしばしも忘れ怠ることなく、民への仁恵を重んずれば、神のご加護も得られて、いよいよ天下泰平と、つつしんで承りました) 無私の心で、ひたすらに天下万民の幸福を祈ることが、皇室の伝統であり、光格天皇は学問を通じて、それを強く意識していた。「身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ」という御製も、ここから出たものである。 ■ロシア軍艦の来襲■ 天明の飢饉による各地での打ち壊しとともに、幕府の権威をさらに失墜させた事件が起きた。文化3(1806)年のロシア軍艦の北辺からの攻撃であった。 寛政4(1792)年に来日したロシア使節ラックスマンに対して、幕府は通商許可をほのめかしていたが、文化元(1803)年に来訪した使節レザノフには、全面的な拒否回答を行った。 これに怒って、ロシア軍艦が文化3年9月に樺太、翌年4月に樺太と択捉(エトロフ)、5月に利尻の日本側施設、船舶を攻撃し、幕府は東北諸大名に蝦夷地出兵を命ずるなど、軍事的緊張が一気に高まった。江戸ではロシア軍が東海地方から上陸するとか、すでに東北地方に侵入した、との噂が立っていた。また、外国との戦争で、わが国開闢以来の敗北を喫したことは、日本国の大恥だと、幕府を批判する言動も登場した。 ロシアとの本格的な戦争に備え、幕府は諸大名に大規模な軍事動員を覚悟しなければならない情勢となった。そのための布石であろう、幕府は進んで朝廷にこの事件を報告した。いざという時には、朝廷の権威を借りて、国家一丸となって戦う体制を作ろうと考えていたのかも知れない。朝廷に報告するのは、初めての事であった。この先例が根拠となって、後に幕府が外国と条約を結ぶ場合は、朝廷の勅許がいる、との考え方が広まっていく。 この時期に、光格天皇は石清水八幡宮と加茂神社の臨時祭再興に熱意を燃やしていた。この二社は、伊勢神宮に継ぐ崇敬を朝廷から受けていた。石清水臨時祭は、天慶5(942)年に平将門・藤原純友の乱平定の御礼として始められたが、永享4(1432)年に中絶されたままであった。加茂神社は皇城鎮護の神を祀り、国家の重大事には、かならず皇室から奉幣、御祈願があった。しかし、こちらの臨時祭も応仁の乱(1467-1477)後に中断していた。 光格天皇は早くから、両社の臨時祭再興を願っていたが、ロシア軍艦の襲撃のあった文化3年から幕府との交渉を本格化させた。開催費用がネックとなったが、幕府の老中は「禁中格別の御懇願」と光格天皇の熱意を受けとめた。その結果、文化10(1813)年3月、石清水臨時祭が約380年ぶりに挙行され、翌年11月には加茂神社臨時祭も約350年ぶりに再興された。 この石清水八幡宮と加茂神社には、幕末に次々代の孝明天皇が将軍家茂を同道して、攘夷祈願のため行幸されている。 こうした国家護持祈願に立つ天皇の姿は、危機の中で国を支えているのは皇室である、と改めて人々に印象づけたであろう。 こうして、内憂外患に十分対応できない幕府の威光が低下する一方、光格天皇の努力により朝廷の権威は徐々に増していった。この傾向を学問的にも定着させたのが「大政委任論」だった。 本居宣長は天明7(1787)年に執筆した『玉くしげ』の中で、「天下の御政(みまつりごと)」は朝廷の「御任(みよさし)」により代々の将軍が行う、すなわち国土と国民は天皇が将軍に預けたものであって、将軍の私有物ではない、と主張した。大坂の儒者・中井竹山、後期水戸学の祖・藤田幽谷も、同様の論を展開した。 学者・思想家だけでなく、老中首座・松平定信は、天明8 (1788)年に当時16歳の将軍・徳川家斉に対して「将軍家御心得十五カ条」を書いて、同様の主張をしている。 六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候。 この論は、委任された大政を幕府がしっかり果たせない場合には、それを朝廷に奉還すべき、という主張に発展する。幕末の「大政奉還」論がここに兆していた。 ■約900年ぶりの「天皇」号復活■ 天保11(1840)年11月、光格天皇は在位39年、院政23年という異例の長きにわたった70歳の生涯を終えた。この間に、天皇の権威は大きく向上した。 「光格天皇」との称号は、崩御後に贈られたものである。これは当時の人々を驚かせた。江戸時代、天皇のことは通常「主上」「禁裏」などと称し、そもそも「天皇」とは馴染みのない呼称だった。また第63代の「冷泉院」から先代の「後桃園院」まで「院」をつけるのが通常であり、「天皇」号の復活は、57代約900年ぶりのことであった。皇室伝統の復活に捧げられた光格天皇の御生涯を飾るにふさわしい称号であった。 日本近世史を専門とする藤田覚・東京大学文学部教授は、もし江戸時代中期にペリーの黒船がやってきたならば、そもそも幕府が条約勅許を朝廷に求めることもなかったろうし、外様大名や志士たちが攘夷倒幕のために、尊皇を持ち出すこともなかったろう、と述べている。 その場合、幕府と外様大名の間で長く内戦が続き、日本が植民地化されていた可能性が高い 光格天皇の孫にあたる孝明天皇が、幕末に尊皇攘夷のエネルギーを結集し、明治天皇が、王政復古のもと近代国家建設の中心となった。9歳から70歳まで「朝な夕な民安かれ」と祈り続けた光格天皇が、その基を作られたのである。
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神武天皇畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)
古来より、わが国の美称として、「豊葦原瑞穂国」と言ってきましたが、正式には、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(とよあしはらの ちあきのながいほあきの みずほのくに)と言い、千年も五百年も悠久に続く、 稲穂の実る美(うま)し国という意味でもあります。
建国以来、我国は皇尊(すめらみこと・天皇陛下)による慈愛と和の国でした。
紀元前660年2月11日(皇紀元年)初代神武天皇が畝傍山の東南、現在の橿原神宮に都を開かれるにあたり、詔を発せられた。この「即位建都の詔」に、以来連綿として継承される日本国の理念と天皇の御心を伺う事ができます。
即位建都の詔
「夫(それ)大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に従う。苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば何んぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わん。且た当(まさ)に山林を披(ひ)き払い宮室(おおみさ)を経営(おさめつく)りて恭みて宝位(たかみくら)にのぞみ、以って元元(おおみたから)を慎むべし。」 「大人(ひじり)の制(のり)を立て」とは、正に天照大神から連綿とつづく「神の子」の自覚と、謙遜の徳を表わし、「苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば」とは、国民の利益になることが大前提とお考えであり、「民の為の政治」の原則を謳う詔です。
天皇政治下の民主政治であり、神武天皇の御心は歴代の天皇に受け継がれ、
第16代 仁徳天皇
「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ 天のかまどは賑わいにけり」 まず、国民がちゃんと食べるものがあるかどうか、ご飯の用意をするかまどの煙にも御心を使われ、そのかまどから立ち昇る煙を見られ読詠まれた御製です。 第56代 清和天皇 「災いは偶然に起きるものではない。みな朕の不徳の致すところからである」 肥後の国熊本地方で起きた洪水に際して、天災さえもご自身の不徳から国民を苦しめたのだと、心より反省なさっている大御心です。 第59代 宇多天皇 「天をうらまず、人をとがめず、神を責めず、朕が不徳の致すところである。」 「国を富ますはただひとつ、体を臣民にあわせるのみである。」 やはり、当時に起きた洪水や疫病の蔓延にお心を痛められての玉音です。 自分の考えを国民に押し付けるのではなく、あくまでも国民の立場になって心を合わせなければならないと話されている記録があります。 第122代 明治天皇 「罪あらば吾をとがめよ天津神 民はわが身の生みし子なれば」 大逆を侵そうとして捕らえられた、社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製。 自分を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇う心をお持ちなのが、天皇陛下という存在なのだと、臣民は知るべきです。
昭和天皇陛下・香淳皇后陛下は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住されておられました。
そこは、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、天皇は戦後もそこに住み続けられました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、昭和天皇陛下は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けられました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、神武景気も過ぎた昭和36年の11月、昭和天皇陛下はようやく現在の吹上御所に移られました。
新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
そして昭和天皇陛下は、
「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」 と仰られたそうです。
民の「くらし」を思い、願われる昭和天皇陛下の慈愛です。
聖徳太子は7世紀に、十七条憲法を制定しました。これは、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。
太子の憲法には、神話に伝えられ、大和朝廷に形作られた日本のお国柄と、それに基く日本の「公と私」のあり方が、よく表されています。 十七条憲法は、天皇陛下の統治を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説いています。その理念が「和」です。憲法は、第一条の「和を以て貴しとなし……」という言葉で始まり、以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説いています。
憲法第15条に「私に背きて公に向かふは、是れ臣の道なり」(第15条)とあります。これはシナの「公と私」をよく表す『韓非子』の「ム(わたくし)に背くを公と為す」によく似ていまが、意味は、正反対です。
シナが支配と搾取の国であるのに対し、わが国は「君民一体」の国柄だからです。
第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主とす」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。天皇陛下が国民統合の中心であるということです。
太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を打ち出したのです。そして、国民は、天皇陛下を主と仰ぎ、一方、天皇は「民」を「おおみたから」つまり大御宝としています。
第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇陛下の言葉に従うように、記してあり、上記の十五条に、「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いて再確認されておられます。
現在の為政者に欠けている精神の最もおおきな課題です。
「和」の理念に基く、天皇陛下の慈愛の大御心に沿うた家族的共同体が我國のお国柄であり、その精神が東日本大震災でも大きな混乱を招くことなく、苦難に立向かうこころの支えとなっています。
慈愛と和の心こそが、やまとの心であり、
世界最古の國にして、世界最古の民主主義國家であり、世界最古の王朝、皇室を頂く我國の誇りであります。
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永井博士を見舞われた昭和天皇陛下 御尊影
永井隆博士という人を皆さんはご存知だろうか。長崎では知らない人はいない。恥ずかしいことに、私はこの記事を作成するにあたって初めて知りました。
永井隆博士は、助教授をつとめる長崎医科大学付属病院で被爆されました。
自らも重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組まれたそうです。 やがて、彼の思いは医師としての役割から、長崎の町と文化の復興、そして平和の願いへと広がっていきました。 被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化するが「余命3年」、病床についてからも、執筆活動を通してその実践を貫かれた。 ご来訪の皆様は昭和天皇陛下が、47年2月の神奈川県を振り出しに、全国を訪問され、戦争で疲弊した国民を見舞われ、励まされたことはご存知だと思います。
長崎県には、49年5月24日から4日間滞在され、佐世保、川棚、大村、島原、雲仙、諫早、長崎などをつぶさに視察し、県民を励まされた。特に長崎市では歓迎に集まった5万人の市民を前に昭和天皇陛下は、「長崎市民が受けた犠牲は同情にたえないが、われわれはこれを礎として平和日本建設のために、世界の平和と文化のために努力しなければならない」と玉音賜りました。
昭和天皇陛下は5月27日永井隆博士を見舞いあそばされました。
「どうです、ご病気は?」 1948年(昭和23)10月 へレン・ケラー女史が訪れ、1950年(昭和25)教皇ヨハネ・パウロ二世からロザリオを贈られる。首相の表彰を受け、昭和天皇陛下より銀盃を贈られる。 1951年(昭和26)白血球39万となる(正常値7千)。5月1日午後9時50分 長崎医大で亡くなる。著書に「長崎の鐘」「この子を残して」 昭和天皇陛下の大御心に永井博士が感動し、日本人は斯くありたいと述べられたものです。
現世の我々は昭和天皇陛下、今上天皇陛下の大御心を忘れてはいまいか?
先人の教えを忘れてはいまいか?
日本のこころを忘れてはいまいか?
常に国民とともに、国民は皇室とともに・・これが日本のお国柄です。
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
天皇、皇后両陛下 萬歳 萬歳 萬歳 日本国民は(やまと民族)は皇室と共に
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