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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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日本三大桜の一つ山高神代桜、推定樹齢は1,800年とも2,000年とも言われ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折に植えたと言われています。(山梨県北杜市武川町山高)





日の本の国がまだ神代の時代、富士の頂から、花の種をまいて花を咲かせたとされる木之花咲耶姫(このはなさくやひめ:さくらのように美しい姫の意)は、日本最古の書、「古事記」に登場した女神です。そして、桜の語源は、一説によると、この「さくや」が転化したのではないかともいわれています。
美しい、世界に誇る桜の品種のほとんどが我が国にあり、このはなさくや姫の子ども達が「日の本の国」をところせましと咲き誇っています。


四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
例えば、山の神は、生産をつかさどる神です。それもありとある全てのものをつかさどっているといえます。なぜなら猪、鹿などの獲物や山の樹木、銅や鉄、田を潤す水に至るまで、山からもたらされるものは全て山の神のお陰だと祖先は信じ、崇めてきました。狩猟や林業、炭焼きなど山仕事をする人々にとっては、大切な生活の糧(かて)を与えてくれる神として厚く信仰されています。また、田の神と山の神は同じ神さまだともいわれ、山の神は春になると人里に降りて田の神となり、稲を守り豊穣(ほうじょう)をもたらし、秋に収穫が終わると山に帰ると信じられています。
山におられた田の神さまが 春が訪れあたたかになる頃になると山から里の降りてきて桜の木のてっぺんにお座りになられます。
そして・・・「さぁ〜〜里の民たちよ 稲作の準備をするのじゃ」 と民たちに
お知らせするために桜を咲かせられるとも言われています。
さくら の 「さ」は 稲  「くら」 は 神座(かみくら)のくら で神さまがお座りになるところで、「さくら」 は田の神さまが宿る木と言われ、日本人が太古より桜を愛でた淵源とも言われています。
稲を植える月を、「サツキ」と言い、苗のことを早苗(さなえ)というように、稲にまつわる言葉にはほとんどといっていいほど「サ」がついています。
毎年稲作りの作業が始まるのは、桃の節供、つまり旧暦の三月三日、今でいうと四月中旬の頃でした。山に桜の花が咲くのはそれよりやや早い四月初めの頃です。長い冬が終わり、いよいよ今年も稲作を始めようというとき、人々は農閑期には山に帰ると信じられていた「田の神さま」をお迎えするために山に行きました。そこで見たのが、まるでたわわに稔った稲穂のように白い花をいっぱいにつけている桜の木でした。
人々は、この桜の木にきっと稲の霊が宿っているに違いないと感じて、桜の木にお供えものをして田の神さまに豊作を祈願したのです。こうしてお花見は、稲作と切り離せない重要な行事になってきたのです。
桜に関しての明確に記述されているのが、履中天皇の時代で、履中3年11月に、天皇陛下と皇后陛下が磐余の市磯池に舟を浮かべ宴を催されたとき、その盃の中に、サクラの花びらがはいったと記されており、最古の記述とされています。
奈良時代になると、美しい花の代表として桜を愛でる習慣が生まれました。万葉集には、サクラを詠んだ歌が41首登場します。萩の140首、梅の118首には及びませんが、中国からの渡来種である梅などは、当時文化人や貴族たちに、珍しがられたものと推察されます。また、明らかに、庭に植えている梅とちがい、野山に咲いている桜をこの時代、好んで庭などに移植し、鑑賞する風潮が生まれてきたことがうかがい知れます。

平安時代から安土桃山時代にかけては桜の時代といえます。古今集には、春の歌134首のうち、ほとんどが桜の歌となり、梅の歌はわずかばかりとなっています。現代のように、「花は桜」といったイメージが定着していることがうかがえます。その表れの一つとして、仁明天皇の御代、御所の紫宸殿の前庭にあった左近の梅が、桜に代わったことでもうかがえます。そして、このころ都大路にも桜が植えられていたという記述も残っています。つまり、桜の優美さを素直に愛で、日本古来の自生種を大切にする文化が生まれたともいえます。殿上人の自然を愛する風流な姿が目に浮かぶようです。花の宴、桜狩など風流な行事が催されていたのもこの時代です。
平安時代後期から鎌倉時代を経て安土桃山時代は、貴族の支配する時代から武士が支配する時代へと替わりました。この時代の桜への考え方は、素直に優美さを愛でるだけではなく、武士の潔さ、散り際のよさなどといった精神的象徴としての「花」、そして、桜を通して自然への賛美と憧憬といった、思想が広く、支持されていったのです。
太平の世であった江戸時代は、学問、芸術、文化が栄えた時代でした。そして、桜の世界もかつてない賑わいをみせました。桜の花見も、武士などの支配階級だけであったものが、庶民の中にも広がり、上野、浅草、隅田川堤、新吉原などが桜の名所として発展しました。京においても嵐山、仁和寺、平野神社など、多くの名所が誕生し、現在も名所として残っています。
現在の花見といえば、桜の下、そうとも限らない場所でも、飲めや歌えやの大騒ぎされている姿を見かけますが、花見のシーズン、目をおおいたくなるような状況を目にします。花より団子という言葉がありますが、今一度、桜を神宿る木と崇め、御供をし、五穀豊穣を祈ったと先人の歴史を振り返り、大東亜戦争で護国の神となられた先達を偲び、感謝し、毎年花をつける桜を尊敬の念を込め、花を愛でてみたいものです。

わが国は「桜」の国です。








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3月20日は彼岸の中日です。彼岸は日本独自の文化です。
彼岸の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言われ、日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教に発し、仏教語の彼岸は後から結びついたものであると言われています。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、朝日に祈り、西方に沈む太陽に感謝・礼拝し、祖霊に思いをはせたのが彼岸の始まりです。
シナの固有の思想・宗教は、儒教であり、道教です。わが国でこれに当たるのが、神道です。

「神道」という言葉は、シナから入ってきた漢語ですが、漢語でこの場合の「神」は、鬼神つまり死霊の意味し、「神道」の原義は、墓場への道と言います。我国では、この言葉をまったく違う意味にしてしまったのです。「神の道」「神ながらの道」として、わが国古来の信仰を表わす言葉に使ったのです。
そのことは『日本書紀』に見ることができ、聖徳太子の父・第31代用明天皇の段に、「仏法を信じ、神道を尊ぶ」とあり、「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先祖を敬うことです。
聖徳太子について書いた太子伝では、補註に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり」と記されている。ここで「神道」というのは、日本古来の道を言います。日本固有の宗教を、神道という漢語で呼んだのです。

漢語の「神道」にある「神」の字を、日本人は「かみ」という大和言葉で読みました。しかし、日本の「かみ」とシナの「神」は違います。日本人は、人間を超えた力を持つ存在、人知で知りえない働きや現象をすべて「かみ」と呼んできたのです。自然の事物や現象、即ち、森羅万象すべての現象、祖先や偉人・英雄の霊などを、一様に「かみ」と名づけたのです。漢字であれば、天・霊・鬼・神・社・稷等をすべて「かみ」と呼び、その総称として「神」という漢字を使用しました。
「神道」は、「かみ」としての「神」に「道」という漢字が結合した言葉ですが、「道」は、シナの文献とともに入ってきた外来の観念ですが、神道という漢語がわが国固有の伝統を表す言葉とされ、聖徳太子伝の補註に見られるように、儒道・仏道に対比して、神道が使われたのです。

「神道」という文字は、「神の道」または「神ながらの道」と言います。
「神ながら」とは、万葉集や祝詞に見える言葉です。

「神ながら」は、「神でおありになるまま」「神として」「神の御心のままで人為を加えないさま」(『広辞苑』)を意味する。「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」と大伴家持が歌った句が、万葉集にあります。

「葦原の瑞穂の国」とは、我国の古称です。その日本の国とは、「神ながら言挙げせぬ国」である。大伴家持は、そうわが国の特徴を表現しています。
そういうわが国に古来伝わる道が、「神ながらの道」であり、「神の道」、神道なのです。



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道祖神


道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神です。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されてきました。
道祖神は、出雲神話の故郷である島根県には少ないですが、日本全国至るところに存在します。

6〜7世紀頃のわが国に、シナから儒教・道教・仏教が入ってきたとき、日本人はわが国固有の神道を保ちながら、外来の思想・宗教を取り入れ、我国固有の神道を土台として、その上に、儒教・道教・仏教が融合されました。しかし、固有の精神を失うことなく、外来の文化を摂取して、精神文化を豊かに発展させてきた民族なのです。
神道は、「神の道」「神ながらの道」であり、神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道です。自然崇拝・祖先崇拝を元にしたものです。
古代のシナにも、自然崇拝・祖先崇拝の宗教がありました。天神地祇への信仰であり、祖先の霊への信仰である。これは、日本風に言えば、シナの神道となるだろう。古代のシナでは、「神ながらの道」を踏んで政治を行った聖王の治世が理想化され、「先王の道」とされた。儒教では「先王の道」の復活を目指して「修己治人の道」が発達しました。これに対して、老子の「無為自然の道」が思索されもしました。

これに対し、わが国では、神話の神々を祖先に持つ皇室が、肇国以来、民族の中心にあって、現代まで脈々と続いています。シナで言えば、三皇五帝が単に神話・伝説上の存在ではなく、彼らの子孫である王家が、古代から一貫して継承され、現代においてなお存在しているようなものです。しかし、易姓革命が繰り返され、
三皇五帝の末裔すら存在しません。

しかし、わが国においては、「神ながらの道」が途切れることなく、歴史を貫いてきました。「御神勅」は失われることなく、代々の天皇陛下に継承・実践されてきました。臣民(国民)は仏教や儒教、道教を養分として取り入れて、独自の精神文化を発達させてきました。
このような文化発展が可能となったことには、聖徳太子の功績が大きいです。太子は、シナから流入する思想・宗教の文献を読破し、日本独自の理念を打ち立てられました。それが「和の精神」です。太子が制定し十七条憲法は、「和をもって尊しとなし」と始まり、「和」をわが国の基本理念に定められました。

「和」は、シナの儒教では徳目ではなく、三徳・五常・五倫には挙げられません。『論語』には、「礼の用は和をもって貴しとなし」とありますが、これは礼という徳目のもたらす効果として和をいうものである。すなわち、礼つまり儀礼は社会に和合をもたらすというのが趣旨である。「和して同ぜず」という言葉」もあるが、協調はするが妥協はしないといった意味で、「和」が徳目とされているわけではありません。
「和」は、仏教の徳目とも言えません。仏教には、「和敬」「和合」等の言葉がありますが、そのもとは仏の慈悲です。太子は仏教の興隆に努められはしましたが、我国を仏教国にしようとしたのではありません。皇室に伝わる固有の神道を根本として、外来の思想・宗教を取り入れてわが国の精神文化を豊かにしようとされたのです。

シナから思想・宗教の入ってくる以前より、わが国の社会では調和が大切にされてきました。その中心には、天皇陛下があり、国民全体が一大家族のような共同社会を形成したのです。
古代の日本人は、国名を「わ」と言いました。「わ」は、環濠集落を意味する。「輪」であり、輪になった集団のことです。「わ」と聞いてシナ人が「倭」の字を当てたのでしょう・・・日本人は、その文字を嫌って、「和」の字を当てたものと思われます。太子の「和」は、こうした日本固有の理念を「和」という漢字を借りて表わされたのです。
「和」の国・日本に伝わってきた道が、「神ながらの道」「神の道」であり、神道です。人々は、調和を心がけながら、知らず知らずにこの道を踏み行ってきた。そこに自ずと育成された徳が、日本人の美徳なのです。

日本人をよく知る外国人は、日本人の特徴として、正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等を挙げる。これらは、日本人の具体的な美徳と言えよう。
日本人は、四季の変化に富む、豊かな自然のなかで、人々が天皇陛下を中心として、一大家族のような社会を構成して生きてきました。そこに自ずと発生・成長したのが、人と人、人と自然が調和して生きる日本精神、即ち「やまと魂・やまとごころ」です。
「やまと魂・やまとごころ」の根底には、自然を愛し、自然を畏れ、また祖先を大切に祀る敬神崇祖の「こころ」がある。その宗教的な表現が神道です。「神の道」「神ながらの道」です。


我国固有の神道は、自然崇拝・祖先崇拝の生き方です。自然の事物や現象を神と感じ、神を敬い、神を畏れる。また祖霊を尊び、大切に祀る。古代の日本人は、清明心つまり「清き明き直き心」を大切にしました。自然神・祖先神には心身を清めて向かい、人には邪心なく接する。罪けがれを忌み嫌い、正直、勤勉、誠実、約束を守る、親切、清潔、礼儀正しさ等の日本人の美徳は、「清き明き直き心」の働きと言えます。
人々が「清き明き直き心」をもってともに生きる社会に実現されるのが、「和」である。聖徳太子が基本理念とした「和」は、人々が「清き明き直き心」を大切にし、「神ながらの道」に沿って生きる社会の理念と言えます。
人々が、人と人、人と自然の調和を心がけて、和をもって日本古来の道を踏み行ってきたところに、徳が育成され、日本人の美徳が豊かに継承されてきました。

戦後、大東亜戦争に敗れたことで、日本古来の伝統、慣習が否定され欧米の価値観を押し付けられました。
その結果が、今日の荒廃した社会なのです。
世界から賞賛された日本人に戻りましょう・・・・



「清き明き直き心」  神ながらの道へ・・



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昨今、人生とは何のためにあるのだろう、何を目的に生きているのだろう、と悩む方が急増しています。
経済的な豊かさを手に入れることが目標とし、実際に手に入れてきた高度経済成長期には、多くの人はその命題について、あまり深く悩まずに済みました。また、社会のしきたりや慣習が弱まり自由奔放に暮らす人々が増え、モラルも低下してきたように思います。
昔はある年齢に達したら働かなければならないし、結婚もしなければならない空気がありましたが、それも薄れ、結婚もしない、子供も生まない自由さえ煽る風潮が存在します。
ですが、経済的な豊かさと自由を得て、日本人は幸せになったはずが、どうもそうではありません。
豊かさと自由を追い求めている間は、追い求めていること自体が人生の目標となり、それに沿った生き方をすればよかったわけですが、しかし、実際に手に入れてしまって、そしてそれが当たり前になってしまうと、何を目的にして生きていけばわからなくなってしまった、というのが日本人の不安感の根底にあるものだと思われます。一度「人が生きるとは」を考え直してみるべきではないか、と思います。

では、神道においては人生の目的とはいったい何なのでしょう。神道は昔からの日本人の思想が連綿と引き継がれたものです。

簡素なものですから、次の一言で言い表せます。


 「日本を良い国にして次代に引き継ぐこと」


大切なのはこれを日々の暮らしの中で実践していくことなのです。
働くということも単にお金を得る、ということだけでなく、自分の仕事がお客さんのためになっているか?社会に役に立っているのか?考えて行うことが必要です。他人を騙しても自分さえ儲ければそれでいい、というのではやはりいけません。

来る皇紀二千六百七十参年は神宮の
式年遷宮の年です。
「式年(しきねん)」とは「定められた年」という意味です。二十年に一度というのは、人生の一区切りと考えられ、一世代を意味します。
技術や思想を伝承するためにも合理的な年数とされ、御社殿の建築に携わる宮大工をはじめ、御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)をつくる職人たちが技法を学び、技術を高め、その技術を若い弟子に伝えるためには年月が必要とします。
二十代で弟子入りして、技術を習得し、四十代で熟練工として活躍し、そして六十代で指導者になるという営みを繰り返してきました。平均寿命の短かった昔にも同じことが言えるでしょう。

式年遷宮が行われた第四十一代持統天皇の御代(みよ、約千三百年前)には、世界最古の木造建築として今なお現存する法隆寺は、すでに建造されていました。
当時の技術を持ってすれば、半永久的な御社殿を造ることが出来たはずです。しかし神宮では、二十年に一度、御社殿を造り替え続けていく式年遷宮の制度を守り伝えることで、日本の文化を絶やすことなく次の世代に伝え、「悠久」を目指しつづけてきたのです。ここに
日本民族の先人の叡智(えいち)が窺わます。


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平成21年11月3日、宇治橋渡始式、渡女は三世代健在の一族の女主人が務められました。これは長命を寿(ほとと)ぎ、三世代であることが和合を意味する呪い(まじない)である。参列員は全国の三代夫婦61組である。写真の先頭あたりを歩かれる緋袴の方が齢81歳の渡女(わたりめ)です。伊勢在住で、三世代健在でお孫さんまで参列できる崇敬心篤い人が選ばれました。



神宮の式年遷宮の意味するものは、宇治橋渡始式にも見られるように、二十年に一度というのは、人生の一区切りに新しい世代に新しい息吹、世代間継承を伝えることが最大の目的なのです。
日本全国、どこの
橋渡始式でも、三世代健在は必須条件とされているはずです。
長命を寿(ほとと)ぎ三世代和合を尊しとした我国の伝統なのです。

 そして、やはり社会の基本である家庭が大切です。家庭を営み子供を産み育てていく、というのは日本を次の時代に引き継いで行くためにはもっとも重要なことです。最近は家事や子育てを軽視したり、家庭さえも解体していこうという動きもありますが、これに左右されず、良い家庭を自分たちで築き上げるというのが、社会に対してのもっとも基本的な、大切な貢献であるといえましょう。

言われてみれば当たり前のことだと思われたかもしれません。
この当たり前の、そして自然な真理にみんながもう一度気が付いた時、日本はずっと良い国になり永遠に発展していくことになるのです。



神社のお話(十六) 神道、 を先日投稿しましたが、拙稿に筆者が師と仰ぐ、さくらの花びら大兄さまに、次のようにコメント頂戴いたしました。

>日本人は大事なものを失いかけています。
日本は変えることばかりで原点に返ろうとは思わないようです。
これでは日本の衰退明らかです。

また、今日の日本を憂い、警鐘されておられる民族主義者の近野滋之先生からは、

日本が求める豊かさが間違いで、国が豊かになっても国民の心が貧しくなっています。

変な輩が次々と「維新」を名乗っていますが、本来あるべき日本へと今こそ本当の平成維新断行すべきです。



とコメントを寄せていただきました。

両先生が述べられているコメントの要旨は、本来あるべき日本、日本人は原点に返ろうと呼びかけられておられます。
すなわち、神道の教えに立返れと言われているのです。




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浦安の舞い



また、さくらの花びら大兄さまの秀逸記事、「終戦の詔書」の精神への復帰 の文中に歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長をされておられる福地惇先生「終戦の詔書」の精神への復帰について記述されておられ、核心の一部をご紹介させていただきます。

今後帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も朕善く之を知る。然れども朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。
朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り。
若し夫れ情の激する所、濫に事端を滋くし、或いは同胞排擠、互に時局を乱り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家、子孫相伝へ確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓って國體の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。


後悔先に立たずではあるが、過ちを改めるに憚ることなかれ、は大切な心構えだ。
我々は昭和天皇の「終戦の詔書」の精神を奉持すべきであった。

抜粋ここまで


先帝陛下は、やはり現人神(あらひとがみ)であられた・・
「終戦の詔書」は皇孫、先帝陛下の叡慮であり、皇祖天照大神、やおろずの神々の御神意であり、日本人が取戻さなければならないことなのです。


人が生きるとは、

 「日本を良い国にして次代に引き継ぐこと」

昔からの日本人の思想が連綿と引き継がれたものであり、先人・先祖が望まれていることであり、現世に生きる我々の使命だからです。




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神道に教えというものはないのか、と聞かれることがあります。
なぜなら、神道には教義や教典、教祖が存在しないからです。だから教えが一切無い信仰だと誤解している人が殆どではないでしょうか?
仏教やキリスト教イスラム教のように煩雑な教えこそありませんが、人としての生き方を教えてくれる言葉が「古事記」や「日本書紀」「万葉集」はじめ、多くの古典に記されています。
神典である「古事記」「日本書紀」をはじめとして、「万葉集」「古今和歌集」のような歌集、「徒然草」のような随筆、そして「竹取物語」や「源氏物語」のような物語など、古典を読むと確かに日本人が昔から持っていた思想、倫理観や道徳というのがよくわかります。
しかし、体系的、教義的なものにはなりませんでした。理由はいろいろありますが、古代は文字がなかった時代も長く、さらに皆が自明のことでしたから神道の思想を言葉でまとめる必要もありませんでした。そして中国から思想が入ってきます。論理的な言葉を持つ仏教と儒教に圧倒された日本人はそれらをうけいれました。しかし、神祇の道はやめることなく続けてきました。
仏教は除災招福の理屈にも長け、また死後の世界についての形式も担当することになりました。儒教は全面的に受容はしませんでしたが、日本人の気に入るところだけその言葉を借りました。神道はただ、現世の除災招福に限定された存在として残ることになりました。この神儒仏一体体制が長らく続いた結果、神道はその教え、思想を体系的にまとめる必要が無かったのです。


神道の思想を表わした言葉はいくつかあります。「敬神崇祖」「明浄正直」など良い言葉が代表的です。その他に神道を説明する上で重要な言葉が三つあります。それは「自然」「成長」「永遠」です。
ここで言う「自然」とは、森や川といった自然環境だけでなく、「不自然」という言葉があるように、自然というのは人間社会や科学の法則なども含めた、この世のすべての環境を含んだ言葉です。日本人はあるもの、あることについて自然、不自然を感じてきたわけです。やはり不自然なものは速く壊れる、というのも一つの真理です。自然というのをありのままに認める、というのが神道では重要なのです。

本ブログでも幾度となく述べてきましたが、神話において、我国のことを豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)、葦原中国(あしはらのなかつくに)とも呼んでいます。いずれも葦が出てきます。これは古代の日本が葦が非常にたくさん茂っていたということもありますが、葦の成長力、繁殖力に古代の日本人は大いに敬服していた、と言うことだと思われます。また、日本は四季がありますが、冬には葉が落ちて死んでしまったようになる木々が、春になるとまた葉が出てくる、ということを見て、古代の人はそこに生命力の復活、強さを見て、また神の力を感じたのです。
そのため生産、繁殖、繁栄といったものが成長する力を尊んできたわけです。

ですから、人間も子孫を残して繁栄するということを重要視してきましたし、また世の中も成長していき、よりよい社会を作り上げていく、ということが必要と考えてきました。一人の人間としても成長してより優れた人間になるよう日々努力する、たとえ老人になっても、ということが神道では大切なのです。

永遠の命が欲しくて、不老不死の薬を探し求めた中国の始皇帝などの権力者がたくさんいましたが、今まで生きている人はいません。やはり初めがあるものは必ず終わりがあります。では神道における「永遠」とはなんでしょうか。それは「世代をつないでいく」ということです。伊勢神宮や出雲大社といった神社も木造であり、古代のものがそっくりそのまま残っているわけではありません。本ブログ神社のお話(十二)神宮でも述べていますが、伊勢神宮では二十年、出雲大社では六十年と定期的に遷宮や立替え、修復を行い、新たに清新な力を得て、後代へ引き継いでいきます。
日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
エジプトのピラミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消滅しているのです。
しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。
 人間も同じように祖父母、父母から得た命を子や孫に伝えて、引き継いでいく、これが神道においての「永遠」です。

神道でもっとも重要なもの、それは「祭祀」です。

祭りにはいろんな祭りがあります。まず第一に挙げられるのは畏くも天皇陛下がお仕えされる宮中祭祀。神社のお祭りでは、一年に一度の例祭が一番大きなお祭りです。また、出雲大社の神在祭のようなその神社の特殊なお祭りもあり、元旦祭や大祓などの日によるお祭りもあり、毎月行う月次(つきなみ)祭もあります。それから、神葬祭やみたままつりといったご先祖のお祭り、七五三や地鎮祭、各種ご祈願のような、いわば個人のお祭りも多々あります。


では、祭りとは何なのか。改めて考えてみます。

 そもそも「マツリ」という言葉は、神に食事や酒、貴重な品々を「タテマツル」(奉る)という言葉や、神の来臨を「マツ」(待つ)という言葉、服従する・仕えまつるという意味の「マツラフ」という言葉に由来するとされる。 人は神に仕えまつることで神霊の威力を増し、その恩恵を享受できると考えてきた。
井上順孝編著『図解雑学神道』ナツメ社より


つまり、神さまのために捧げる祭りを熱心に行えば行うほど、神さまの霊威が上がって私たちもお力を頂くことができるのです。


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幣帛(神饌)


祭りでまず大切なものは、神さまへの捧げもの「幣帛(へいはく)」です。食べ物である神饌を始め、その昔は布や珍しいもの、あるいは武具や馬などもお供えしましたが、現在では幣帛料としてお金を捧げることも多くなっています。




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修祓(しゅばつ)



お祭りに先だって修祓(しゅばつ)を行います。修祓とは祓(はらえ)を行うことです。神職が大麻(おおぬさ)を左右左と振って、奉仕者、参列者の祓を行い、心身を清らかな状態に帰ることを目的とします。お祭りや参拝の前に手水で手を洗い、口をすすぐのも祓の一つです。なお、形だけでなくて心も清らかにならないといけません。



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祝詞(のりと)


日本の国は「言霊の幸はう国」ということで、言葉には事を動かす力があると考えてきました。祭りでは必ず神職が祝詞を奏上します。独特の古い言葉で書かれていますが、神さまを讃え、神さまのご加護を祈る言葉です。祝詞奏上中は静粛にし、また平伏します。


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玉串


玉串は神さまの御霊と自分の霊とをつなぐもの。大切な瞬間です。心をこめて祈りましょう。



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直会



神さまが召し上がった神饌を私たちが頂くのが直会(なおらい)です。神人共食し、神さまの御霊に触れた食べ物を人間が頂いて、またお力をいただきます。

日本人は概ね神道の信徒です。ぜひお祭りに参列下さい。自分の住むところの氏神様のお祭りに参加することは非常によいことです。どなたでも参列になれますのでお越し下さい。一緒にお仕えいたしましょう。

筆者は神職ではありませんが、神道について学びたいと尋ねられますが、まずは古事記と日本書紀を読んで下さいと答えています。、そして、神道についての基本的な本を1、2冊読むのがいいでしょう、とお話ししています
混沌とする世の中が続く今の日本で、かって日本人がもっていた「清き美しいこころ」は、日本人の道徳、そして祖先の生きる指針となっていました。

今一度、日本人は日本人の原点に立返る時ではないでしょうか・・・
「神さまに対して恥じない眞(まこと)のこころ」へ・・



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神勅(しんちょく)



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神勅とは天照大神の御教えです。御親の神、天照大神は国づくりの前に、宗像の神に「歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いおまつりを授けられよ」と示されたという記述が、日本最古の史書、日本書紀に見られます。(宗像大社HPより)


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沖津宮(島全体が御神体です)





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中津宮(なかつみや)







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辺津(へつ)宮








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宗像三社位置図





宗像・沖ノ島と関連遺産群 神宿る島 沖ノ島



宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)。 日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。全国の弁天様の総本宮でもあります。

上記の画像にも記載していますが、「宗像大社」は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称です。
宗像大社は天照大神の三柱の御子神(みこがみ)をおまつりしています。この三女神(さんじょじん)のお名前は、田心姫神(たごりひめのかみ)湍津姫神(たぎつひめのかみ)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申し上げ、沖ノ島の沖津宮には田心姫神、大島の中津宮には湍津姫神、田島の辺津宮には市杵島姫神がそれぞれおまつりされています。
記紀にも記載されている、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔男尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)の際、天照大神の息から生まれたのが宗像三女神です。
三女神は天照の神勅を奉じ皇孫を助けるため筑紫の宗像に降りこの地を治めるようになったのが宗像大社の起源とされています。
上記の動画に誓約(うけい)について述べられていますのでご参考にされてください。

三女神(さんじょじん)は朝鮮への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、大和朝廷によって古くから崇敬された神々です。ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表されています。
地図上で辺津宮・中津宮・沖津宮を線で結ぶと、その直線は朝鮮半島の方向に向かっており、古代から半島と大陸の政治、経済、文化の海上路でありました。
14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后(きさき)神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐(さんかんせいばつ)際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれ、事あるごとに国に幣使を遣わす習いになったとされています。またこの逸話からは航海安全の守護神として崇められるようになった経緯がうかがえます。

宗像大社は、またのお名前を「道主貴(みちぬしのむち)」と呼ばれています。
「貴(むち)」とは神に対する最も尊い呼び名で、すなわち宗像大神は最高の道の神であると日本書紀は記しています。
大社には二千数百年前に交通安全のためにお供えされた、人形(ひとがた)馬形、舟形といわれる石製の形代(かたしろ・実物に代わるもの)が、現在国宝として保存されています。
これは古代より、道の神様としての篤い信仰を集めていたことを表し、遠く大陸に渡った遣唐使などの使節団も安全祈願のために必ず参拝をしていました。
明治時代になり、全国に鉄道が敷かれるようになると、鉄道関係の人々の参拝も多くなり、現在では、自動車交通の発達に伴い、車を運転される多くの人々が安全運転を誓って参拝しています。

今日大化の改新と呼ばれる、乙巳の変(いっしのへん)以降、国郡の制が敷かれると、宗像一郡が神領として与えられ、豪族宗像氏が神主として神社に奉仕し、神郡の行政も司ることになりました。

辺津宮は宗像市田島に鎮座する辺津宮は、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)をおまつりしています。また、古くから三宮の総社として、数々の祭祀を行っています。 境内には、重要文化財の辺津宮本殿、辺津宮拝殿のほか、宗像神領の七十五末社、百八神(やおよろずのかみ)もおまつりされています。
辺津宮には、宗像大神ご降臨の地と伝えられる「高宮祭場」があります。悠遠のいにしえより、この地でお祭りが行われて以来、現在も古式にのっとって続けられています。 神籬(ひもろぎ)・磐境(いわさか)というお祭りの原点を今に残す、全国でも数少ない古代祭場です。高宮へと続く宗像山入り口に、沖津宮、中津宮の御分霊をお祭りする、第二宮・第三宮が鎮座しています。第二宮、第三宮は、伊勢神宮の第60回御遷宮古材によって再建された唯一神明造の社殿です。 伊勢神宮の別宮である伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)・伊佐奈弥宮(いざなみのみや)の古殿で造営され、第二宮が沖津宮(沖ノ島)、第三宮が中津宮(大島)の御分霊をお祀りしています。

宗像市大島に鎮座する中津宮は、湍津姫神(たぎつひめのかみ)をお祭りしています。海運漁業者の信仰が、とりわけ篤いお宮です。 大島の北側には「沖津宮遙拝所」があります。沖津宮の鎮まる沖ノ島は、島全体が御神体とされ、今でも女人禁制の伝統を守っているため、往古(おうこ)の昔より、女性の方々は遙拝所で祈りを捧げました。


イメージ 7
沖津宮遙拝所

拙稿、神社のお話(十四)富士山では、富士山そのもの御神体であることを述べさせていただきました。
前述していますが、沖津宮の鎮まる沖ノ島は、島全体が御神体とされています。
今でも女人禁制です。また、男性でも毎年5月27日外の上陸は基本的に許されず、その数も200人程度に制限されています。
宗像大社の神職が1人で10日ごとに
常時滞在している以外は、誰もいない無人島です。

動画にもありましたが、一般人の上陸が許可されるのは、通常毎年5月27日に日本海海戦を記念して開かれる現地大祭の時に限られています。上陸できるのは事前に申し込みを行った中から抽選で選ばれた200人の男性のみです。
但し、海が荒天の場合はとりやめ、順延はありません。
上陸はすべて神事の一環として行われるため、前日に筑前大島の中津宮に参拝して事前の手続きを受け、船で現地に着いたあとは裸で海に入って禊(みそぎ)をします。
玄界灘に浮かぶ孤島であるため、荒天時などに付近を航行中の船が避難できるよう港湾設備が整備されていますが、そうした際に寄港して上陸する場合にも、社務所に許可を取って禊をすることが必要とされています。


イメージ 8
禊(みそぎ)


島全体が御神体の神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とされていますので、島内の「一草一木」たりとも持ち帰ることは許されていません。ただし、島内の湧き水(ご神水)は例外とされています。
現地大祭が日本海海戦記念日に行われるのは、日本海海戦の戦勝記念と英霊の鎮魂が祭礼の発端であったからである。現在は、神への感謝と交通安全の祈願が主目的となっているが、神官より沖ノ島沖で繰り広げられた日本海海戦が紹介される。 これは、沖津宮の神官に仕えていた佐藤市五郎氏が、樹上から日本海海戦の始終を目撃したことに由来し、仔細は、創建以来書き継がれている沖津宮日誌に記されています。
かっては神宿る島として、
島の有様については一切口外が許されなかった神聖な島であるのです。
戦後、宗像大社復興期成会が結成され、三次の発掘調査が行われ、古代祭祀跡から約8万点の祭祀遺物が出土(そのほか約2万点の縄文時代、弥生時代の遺物が出土)し、第一次、第二次調査出土品は昭和37年に国宝に指定、第三次調査出土品は重要文化財に指定された。
国宝と重要文化財を統合、未指定物件が追加指定され、関連遺物全てが国宝に指定されている。こうしたことから、沖ノ島は海の正倉院と称されています。
平成21年1月5日に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成遺産の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載されています。

宗像大社の秋季大祭は毎年10月1日〜3日の3日間行われます。放生会(ほうじょうえ)ともいい、国家の平穏、五穀の豊穣と海上安全及び大漁を感謝する祭りで宗像最大の祭りです。
初日の10月1日の初頭を飾るのが海上神幸「みあれ祭」です。この「みあれ祭」は田島の辺津宮(宗像大社)で宗像三女神が一同に会して秋祭大祭を行うために、辺津宮にお祀られている(三女)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が沖の島にある沖津宮にお祀りしている(長女)田心姫神(たごりひめのかみ)と筑前大島の中津宮にお祀りしている(次女)湍津姫神(たぎつひめのかみ)を乗せた2隻の御座船をお出迎える祭りです。
宗像三女神それぞれの御輿を載せた3隻の御座船を中心に大規模な船団が周回します。




宗像市伝統の祭り 海上神幸 みあれ祭.avi



四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族、海洋民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。


自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはなりません

神宿る島、宗像大社はそれを語っています。





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