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富士山本宮浅間大社



「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」

と万葉の歌人高橋蟲麻呂(たかはし の むしまろ)
は清らかで気高く美しい富士山を詠んでいます。
霊峰富士と呼ばれていますが、
富士山本宮浅間大社は富士山を御神体としています。
神体(しんたい)とは神道で神が宿るとされるもので、礼拝の対象となるものをいいます。本ブログ神社のお話(九)でも述べさせていただきました、我国最古の大神神社(おおみわじんじゃ)では三輪山が神体とされ、皇大神宮では三種の神器の1つの八咫鏡とされるなど様々です。
神社の中で最も重要な「本殿」を持たず、背後の山そのものを御神体としており、神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とされています。
神奈備とは、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさし、神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や山(霊峰富士)をさし、または(夫婦岩)や滝(那智の滝)などの特徴的な自然物がある神のいる場所をいいます。


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霊峰富士


富士山の名前は古代からいろいろな表現がなされています。一般的なのが「不二山」。他に比べようがない唯一無二の高峰という意味。
「不尽山」は、余りの大きさを“尽きることなき”と表現しました。万葉集の山部赤人の歌「田子の浦ゆ、うち出でて見れば真白にぞ、不尽の高嶺に雪はふりける」で有名です。
万葉集ではこのほか、「布士」「布自」の文字が使われていますが、「ふじ」と呼ばれていたことだけは事実のようです。
「不死山」は竹取物語のように、不老不死の伝説からも由来し、「福寿山」というめでたい名前がなまったという説、「富慈山」からきた説など、いずれもあて字のように思われます。
「富士山」という今日の書き方は、士に富む山という意味で、武士道が発達する鎌倉時代以降のものとみられています。
やまとことば”とは、漢字が日本に入ってくる以前の、日本語本来の言葉ですがやまとことば”として考えてみた場合、富士の「ふ」は「吹く、噴く」のように、何かが吹き出すという意味として、「じ」は「地面、大地」の意味として捉えることができるのではないか。つまり、富士山とは「地面から吹き出た山」であるという説もあります。

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮で、旧社格は官幣大社。日本国内に約1300社ある浅間神社の総本宮です。前述していますが、富士山を御神体としています。主祭神として鎮まりますのは浅間大神(あさまのおおかみ)と木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)、夫神の天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、父神の大山津見命(おおやまつみのみこと)を配祀まします。
富士山本宮浅間大社由緒によると、木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神とされています。
木花という御神名から桜が御神木とされています。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わいます。また、申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれています

社伝によると、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火し国中が荒れ果てました。その後、11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが浅間大社の始まりと伝えられています。
当初は特定の場所で祀られていたのではなく、その時々に場所を定めて祭祀が行われていたが、景行天皇の御代に現在地の北東6kmの場所の山宮に磐境が設けられた。伝承では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭ったときに、浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮に浅間大神を祀られました。
現在の地にお鎮まりなられたのは、大同元年坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。
富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えられます。
(社伝より)
またこの水源は灌漑としても用いられ、水徳や農業の神としての祭礼が行われてきました。それが現在も行われる御田植祭です。



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山宮鎮座


平安以降は、源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて浅間大社に詣き、流鏑馬を行った。このことから浅間大社では現在でも毎年流鏑馬祭りが行われている。公家や武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇の土地の寄進や後奈良天皇の奉納の他、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われました。
鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営、南北朝時代には足利尊氏や足利直義による社領の寄進、今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や寄進などが行われた。その後武田信玄・勝頼親子が社殿の修造を行い、豊臣秀吉も社領を寄進し、徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営しました。



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富士山頂 浅間大社奥宮


噴火を繰り返す富士山を、鎮め奉る浅間大神への敬慕の念によって信仰され、その頂きは浅間大神の御神域として尊ばれてきました。富士山の噴火が収まるに従い、その敬慕の念が富士登山という形に変化していきました。


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富士曼荼羅図(重要文化財


末代上人が、浅間大神の本地仏が大日如来との本地垂迹説により、富士山頂上に大日寺を建てるなどし、富士登山信仰の素地となったと思われます。大日寺は程なく頽廃しましたが、室町時代には修験者による富士登山が盛んになると、再び大日堂・薬師堂などの祀堂が建てられ、崇敬されるようになりました。江戸時代中期、関東を中心に広がり、富士講へと発展していき、富士登山は急激に増えていきました。各地では浅間神社が祀られ、富士塚などをつくって登るなど、独特の信仰も生まれました。
前述のように、富士登山が盛んになったのは江戸時代に「富士講」が広まってからです。講ですから、何年も登山資金を積み立てて、やがて自分の順番がまわってくると先達に従って登りました。平均寿命が今より短かった当時、一生に一度か滅多に登れませんからそれこそ一歩一歩大切に登ったそうです。当時女性はまだ登ることが禁止されていましたが、60年に一度の庚申の年だけ四合目までの登山が許されました。女性が自由に登れるようになったのは明治に入ってからのことです。

山宮浅間神社と浅間大社の間では「山宮御神幸」という神事が行われていました。

浅間大社と山宮浅間神社間を往復する行事です。
この儀式の解釈として、神が4月に旧跡(山宮)に戻るという解釈、または山の神が4月に田の神として里(大宮)へ降りるという解釈がなされています。

四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはな らないでしょう。

先人、先祖の叡智とともに・・・






 
 
 
 
本年12月11日に投稿させていただいた記事の再記載です。
今年も残り2日を残すのみとなりました。
海外でお正月を迎えられる方々、故郷でお正月を迎えられる方々、様々なお正月の迎え方があります。
戦後、年を追う毎に様変わりしてしまったお正月・・・
永い民族の歴史の中で日本人は「お正月」を大切にし、伝統を大切にしてきました。
現在ではお正月の意義すら薄れていくように思えます
 
 
正月とは本来、その年の豊穣〔ほうじょう〕を司る歳神様〔としがみさま〕をお迎えする行事で、1月の別名です。現在は、1月1日から1月3日までを三が日、1月7日までを松の内、あるいは松七日と呼び、この期間を「正月」と言っています。地方によっては1月20日までを正月とする(二十日正月・骨正月)ところもあります。
かっての日本人は、お正月を迎えるにあたり、家中が歳神さまをお祭りする祭りの場になったものです。そのため年末には、煤払(すすはら)いをして神棚や祖霊舎(みたまや)、仏壇などもきれいにし家中を清めました。そして注連縄(しめなわ)を張ったり注連飾(しめかざ)りを飾ったりして、不浄なものの侵入を防ぎ、家全体を神聖な場所にしなければならないとしたものです。
 家の門や玄関に注連飾りや門松を飾るのは、そこが清浄な場所であることを示すし、歳神さまが家においでになるときの依り代(よりしろ、目印)とするためです。そして、床の間には鏡餅を飾って、歳神さまにお供えします。
 お正月飾りはなるべく三十日までに済ませ、大晦日に飾ると「一夜飾り(いちやかざり)」といって忌み嫌いました。二十九日も「苦」に通ずるところから、お餅つきなどもこの日にはしないところが多かったようです。
現在でもこの風習は残っています。
 そして歳神さまをおまつりするわけですから、家族一人一人が清浄な心身でお正月を迎えなければなりません。そのため神社では、十二月三十一日には「年越祓(としこしのはらえ)」というお祓いの神事が行われます。これは知らず知らずのうちに身についた罪や穢れを祓い清めて、清々しい心と体でお正月を迎えるために行いうものです。
 
 
 
本ブログ神社のお話で幾度も述べてきましたが、私たちの祖先は森羅万象(しんらばんしょう)すべてのものに神々が宿り、魂が存在すると信仰してきました。
作物の生命〔いなだま〕と人間の生命〔たま〕は1つのものであると考え、そのため人間が死ぬとその魂はこの世とは別の世界に行き、そう遠くへは行かず子孫見守っています。
死の清まる期間(弔い上げ)が過ぎると人の個性が無くなり「祖霊」という大きな集団、いわゆる「ご先祖様」になると信じられていました。この祖霊が春になると「田の神」に、秋が終わると山へ帰って「山の神」に、そして正月には「歳神」になって子孫の繁栄を見守ってくれているのだと言います。
 
正月は、日本の行事の中で最も古くから存在するものだと言われていますが、その起源はまだ詳しく分かっていません。仏教が伝来した6世紀半ば以前より正月は存在していたと言われています。「お盆」の半年後にやってくる正月は、かってはお盆と同じく「先祖をお祀りする行事」でした。しかし、仏教が浸透しその影響が強くなるにつれて、お盆は仏教行事の盂蘭盆会〔うらぼんえ〕と融合して先祖供養の行事となり、正月は歳神を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」としてはっきり区別されるようになったと考えられています。
また、現在のようなお正月の行事(門松やしめ飾り、鏡餅などを飾ること)が浸透したのは、江戸時代に入り庶民にも手軽に物品が手に入るようになってからのようです。
1年の始めである正月は春の始まりを意味し、すなわち「立春」とも考えられており、人々は春の訪れがもたらす生命の誕生を心から喜びました。「めでたい(芽出度い)」という言葉は「新しい春を迎え芽が出る」という意味があり、また新年に言う「明けましておめでとうございます」という言葉は、実は年が明け歳神様を迎える際の祝福の言葉、つまり、神様への感謝の言葉を人々の間で交わすことにより、心から歳神様を迎えたことを喜ぶものでありました。
 
門松は、お盆の迎え火と同じで、「祖霊(ご先祖様)」、「歳神様」を松の枝、つまり門松に乗せて家々にお迎えする行事でした。前述していますが、門松は依り代(よりしろ)として、そこにご先祖さまや歳神さまをお迎えしてお祭りするという意味をもっているのです。したがって正月の歳神祭りは非常に重大な儀式であり、依り代としての門松は欠かせないものでした。もともと、お正月もお盆も共通の行事で先祖の御霊をお迎えし、丁寧にお祭りすることが本義でした。つまり、門松も迎え火もともに先祖の御霊をお迎えするための目じるしとしたものなのです。
 
若水とは、元日早朝に一番初めに汲む水のことで、人を若返らせ邪気を祓う力があると信じられてきました。 若水は、福水(ふくみず)・若井(わかい)・初井(はつい)などとも呼ばれ、地方によっては、元日の朝早く、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に出会っても口をきかないしきたりであったといいます。
 平安時代の宮中では、立春の日に御門(天皇陛下)に差し上げた水(立春水)を若水といいましたが、後世になり元日に汲む水を呼ぶようになりました。
この行事は新しい年を迎えるにあたって、生命を育む水の力に対する信仰がもとになっているといわれ、水神が生命誕生や再生に大きな役割を果すことは、日本神話に見られるように古くからの伝承です。
 
 
 
 
 
お節料理(おせちりょうり)は酒の肴(さかな)ではありません
 お正月の料理にも、それぞれに祈りが込められ、例えば、お屠蘇(とそ)には、山椒、桔梗などの薬草が含まれており、これをいただくと一年の邪気が祓われ、寿命を伸ばすことができると信じられてきました。筆者は現在50歳ですが、往古(おおこ)の昔では、天寿を全うした歳にあたります。現在のように医学が進歩していない時代、寿命とは天から授かったものであると考えられてきました。

 お節料理のいわれをあげてみると、据わり鯛(すわりだい) 尾頭付きの焼いた鯛で、二尾の鯛を腹合わせにして頭と尾を高くかかげたもので、目出度いに通じ、数の子 鰊(にしん)の腹子で、その由来は二親から多くの子供が生まれるという縁起をかついだもので、子孫繁栄の願いが込められています。
芋頭(いもがしら) 里芋の親芋で、家の芋ともいいます。小芋をたくさんつけるため、子宝につながり、また頭は人の上に立つ「かしら」に通じることから縁起がよいとされています。
昆布巻き 「喜ぶ」に通じ、現在でも目出度い席に使われます。
 本来おせち料理とは、お正月や節句に神さまにお供えするご馳走のことをいいました。
 
お年玉は、お正月にいただくお小遣(こづか)いのことではありません
 お年玉の語源は、古来の習慣であった歳神さまに供えられた鏡餅を人々に分け与えたことに由来し、鏡餅はもともと鏡をかたどったものであり、その鏡は、魂を映すものといわれてきました。古代の日本人は「魂」と「玉」は同じものと考えていたのです。このことから、歳神さまの魂は玉に通じるので「年玉」と呼び、神さまから頂くお下がりなので、敬って「お」をつけ「お年玉」と呼ぶようになったといわれています。
 お年玉は、古くは現在のようにお金ではなく丸い餅でした。出生率の割に成人まで達する生存率の低かった昔、私たちの祖先は、子供たちの健全な成長を願い、歳神さまのお力がこもった丸餅を贈りました。
 今はお金をあげますが、筆者の子供の頃は、まず神棚にお供えして祈りと感謝を込めて、神さまの前で一人ひとりに手渡しでいただいたものです。
初詣は、年が明けると、まず家族揃って地元の神社にお参りに行きます。年が明けてから始めて神社に参拝することを初詣といいます。氏神さまや、その年の恵方(えほう)にあたる神社などにお参りして今年一年の無事と平安を祈る行事です。
 近年は、除夜の鐘が鳴り終わると同時にお参りする習慣が一般化してきていますが、古くは年籠もり(としごもり)といって、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、氏神さまにお籠もりするのが慣わしでした。やがて、この年籠もりは除夜詣でと元日詣での二つに分かれ、初詣のもとの形となったのです。現在でも、除夜に神社などに一度参拝したのち家に帰り、元旦になって改めてお参りに出かけるという地方もあります。
 お参りの順序としては、まず、一番身近な氏神さまをお参りしてその年の幸を祈り、それから日頃崇敬する神社や、恵方のお宮へ行かれるのが順序とされています。
 
 
お正月が一段落した十五日には、小正月の行事が行われます。
 代表的なものは、左義長(さぎちょう)・どんと焼き・鳥小屋(とりごや)などです。これはお正月にお迎えした歳神さまをお送りする行事です。お正月に飾った注連縄や門松、古いお神札(おふだ)などを焚き上げます。その火や煙に乗って歳神さまがお帰りになるといわれています。
 
日本人は太古の昔より、祈りと感謝を本義とした民族でした。
和を尊び、謀(はかりごと)を良としませんでした。
 
本来の日本人のよき精神、よき日本の文化を子孫に伝えていくことが現世の我々の使命ではないでしょうか・・・・
 
 
 
 

 
画像は日本会議「日本の息吹」よりお借りしました。
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浦安の舞(本装束)





神楽 浦安の舞


浦安の舞(うらやすのまい)は、神楽(巫女神楽)の一つで、昭和十五年十一月十日に開かれた皇紀二千六百年奉祝会」に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、祭典中に奉奏する神楽舞を新たに作ることが立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝国風歌舞や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞です。

昭和天皇陛下が昭和八年に詠まれた御製


天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を


が歌詞となっています。皇紀二千六百年奉祝臨時祭に合わせて奉奏するために日本全国で講習会が開かれ、海外鎮座の神社でも奉奏されるべく、当時日本領であった台湾・朝鮮へも講師が派遣されました。
十一月十日の奉祝会当日午前10時には全国一斉に奉奏されました。以降全国の各神社で舞われるようになり、現在に至っています。

「日本書紀」のの神武天皇の条に「安国」の文字が見えます。「昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、此の国を目(なづ)けて曰(いわ)く、日本は浦安国(うらやすくに)、細(くはし)戈千足国(ほこちたるくに)、磯輪上秀真国(しわかみのほつまくに)」とあります。「浦安国」の「うら」は心を意味し、「安国」は安らかに治まる国、泰平の国の意味であり、『延喜式祝詞』の「祈念祭」には、「四方(よも)の国を安国と平らけく」とある。国の内外の平和を祈る言葉として、「安国」が使われています。
「浦安国」とは、古の日本を意味します。神祇の安寧慰撫と国の平穏無事 が「浦安の舞」に込められています。

浦安の舞は舞姫(巫女)によって一人舞、二人舞、四人舞で舞われる女舞で、正式は四人舞です。舞は前半の扇舞と後半の鈴舞とがあり、装束は、装束については千早と緋袴を略の装束と、本装束からなっています。

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左が神楽鈴、右が鉾(ほこ)先鈴


鈴については鉾先鈴を正式とし、神楽鈴を代用してもよいこととなっています。

鉾先鈴は柄に20cm程の鉾と鍔が付けられ、鍔の部位に6個、または8個の鈴が付けられる。これは三種の神器を模したものであり、鉾は天叢雲剣、鍔は八咫鏡、鈴は八尺瓊勾玉とされる。


神楽鈴は輪が3つ付けられ、上から3個、5個、7個の鈴が付けられる。これは稲穂を模したものであり、五穀豊穣の祈願の意味がある。
どちらの鈴にも柄の端には5尺〜6尺の五色の鈴緒が付けられています。


本装束は高額であり、転用も利かないため経済的な側面でこれを調達できる神社は限られ、ほとんどが成人女性用に仕立てられるため、装束の重量や小忌衣や裳の長さの点で後述の略装束よりも舞の難易度が高く、そのため年少者が本装束を着用して舞うのは希少な例と言われています。

浦安の舞などの近代に作られた神楽は国風歌舞舞楽神楽舞を下地に創作されたものであり、広義では雅楽の延長線としても捉えられているが、神社祭祀に特化した新たな創作神楽であることから、狭義では雅楽と明確に区分されています。
神楽(かぐら)舞は、神道の神事において神に奉納するために奏される歌舞、「かぐら」の語源は、「神座」(かむくら・かみくら)と言われています。
神座とは「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が集まった人々の穢れを祓ったり、神懸かりとなって神の意志を伝えたり、また人の側からは願望が伝えられるなど、神人一体の宴を催す場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったと考えられています。記紀においては、岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞ったという神話が神楽の起源であるとされています。


神祇の安寧慰撫と国の平穏無事 が「浦安の舞」が込められ、神楽にも伝統と、文化、魂の継承が込められています。
神である皇室を崇め、共に歩んだ先人の叡智に誇りを感じ、舞を舞う日本女性の美しさは讃える言葉が見つかりません。



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新たに造り替えられ、白く輝く内宮の御正殿(平成五年の第六十一回式年遷宮で)



来る平成二十五年には第六十二回目の御遷宮が行われます。
神宮式年遷宮 は二十年ごとの日本民族の再生を意味します。
神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)とは、悠久(ゆうきゅう)二千年の時を超えて、今もなお清々(すがすが)しい神気漂う伊勢の神宮最大のお祭りです。
 式年遷宮の制度は、今から約千三百年前に第四十代天武(てんむ)天皇の御発意により、次の第四十一代持統(じとう)天皇の御代四年に皇大神宮の第一回目の御遷宮が行われました。以来、長い歴史の間には(室町・戦国時代)に一時の中断はありましたが、二十年に一度繰り返され今日に至っています

遷宮とは、上記の画像のように、新しいお宮を造って大御神(おおみかみ)にお遷(うつ)りを願うことです。
式年とは定められた年を意味し、神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、二十年に一度同じ形の御社殿を交互に新しく造り替えます。また神さまの御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)も新しく調製されます。


明治天皇陛下の御代のことです。当時の芳川内務大臣と田中宮内大臣の二人が、神宮の式年遷宮に必要な御用材の不足を理由に、土台に礎石を置き、コンクリートで固めれば二百年は保つことが出来ると、明治天皇に上奏(じょうそう)しました。
しかし、明治天皇陛下は、この上奏をお聴きとどけになられないで、質素な御造営に祖宗建国の姿を継承すべしと、お諭(さと)しになられ、二十年ごとに斎行される式年遷宮の大切さをお説きあそばされたのです。
明治天皇陛下は次のような御製(ぎょせい)をお詠みあそばされた。

 いにしへの姿のままにあらためぬ
神のやしろぞたふとかりける

 この式年遷宮の制度こそは、天武天皇が崇高なご精神でお定めになって以来、万代不易の制度として伝えてゆかねばなりません。
式年遷宮の制度が確立された時代の歴史的な背景は、仏教や儒教など外来の文化を積極的に受け入れた遣唐使などによる文明開化の花盛りの時代でした。。こうした中で、日本固有の文化を堅持し、日本本来の精神を自覚する、最も確かな方法が、この式年遷宮の制度でした。
二十年に一度、御社殿を新しく造り替える式年遷宮は、皇租の天照大御神が常に瑞々(みずみず)しくあってほしいと願う表象でありますが、同時に私たち日本民族の「いのちの甦り」の祈りが込められているのです。

神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)は「皇家(こうけ)第一の重事(じゅうじ)」といわれ、戦前は国費で行われていたほど、日本の国にとって極めて重要なお祭りです。
神宮の建物は、掘立柱(ほったてばしら)に萱葺(かやぶ)き屋根という素朴で清純な建物です。神道は清らかさを重んじますが、大御神(おおみかみ)さまに常に清浄な所にお鎮(しず)まりいただくために遷宮は行われます。
常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい)をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れなのです。
日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
エジプトのピラミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消滅しているのです。
しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久しく伝えてきたのです。 式年遷宮の考えは日本民族の叡智(えいち)として世界から賞賛されています。

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明治以降は神宮式年遷宮にあわせて架け替えられていた宇治橋、昭和24年に架け替えられ、以降は神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになりました。別名御裳濯橋(みもすそばし)ともいいます。



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平成21年11月3日、宇治橋渡始式、渡女は三世代健在の一族の女主人が務められました。これは長命を寿(ほとと)ぎ、三世代であることが和合を意味する呪い(まじない)である。参列員は全国の三代夫婦61組である。写真の先頭あたりを歩かれる緋袴の方が齢81歳の渡女(わたりめ)です。伊勢在住で、三世代健在でお孫さんまで参列できる崇敬心篤い人が選ばれました。



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宇治橋渡始式での神宮御祭主、池田厚子さま。旧名、順宮 厚子内親王(よりのみや あつこないしんのう)殿下、畏くも今上陛下の姉にあたられます。




「式年(しきねん)」とは前にも述べましたが、「定められた年」という意味です。二十年に一度というのは、人生の一区切りと考えられ、一世代を意味します。
技術や思想を伝承するためにも合理的な年数とされ、御社殿の建築に携わる宮大工をはじめ、御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)をつくる職人たちが技法を学び、技術を高め、その技術を若い弟子に伝えるためには年月が必要とします。
二十代で弟子入りして、技術を習得し、四十代で熟練工として活躍し、そして六十代で指導者になるという営みを繰り返してきました。平均寿命の短かった昔にも同じことが言えるでしょう。
式年遷宮が行われた第四十一代持統天皇の御代(みよ、約千三百年前)には、世界最古の木造建築として今なお現存する法隆寺は、すでに建造されていました。
当時の技術を持ってすれば、半永久的な御社殿を造ることが出来たはずです。しかし神宮では、二十年に一度、御社殿を造り替え続けていく式年遷宮の制度を守り伝えることで、日本の文化を絶やすことなく次の世代に伝え、「悠久」を目指しつづけてきたのです。ここに
日本民族の先人の叡智(えいち)が窺わます。

先に述べましたが、式年遷宮(しきねんせんぐう)は国を挙げての最大のお祭りです。しかし、戦後は神道指令により、政府と神宮の関係が断たれましたので、国民の真心込めた浄財によって御奉賛申し上げる事になりました。今回の第六十二回式年遷宮には約五百五十億円の費用がかかり、そのうちの三分の一程度を募財しています。
 神宮大宮司を総裁とする「神宮式年造営庁」が神宮司庁内におかれ有識者からなる大宮司の諮問機関「遷宮委員会」が設置され、さらに「(財)伊勢神宮式年遷宮奉賛会」が結成され、各都道府県においてもの地区本部が組織化されます。この記事をご覧の皆様の地元の神社の神職・総代が、奉賛をご依頼の際には、ご協力をお願い致します。


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式年遷宮において新しくなる建物は、皇大神宮、豊受大神宮の御正殿と、東宝殿・西宝殿・御饌殿(みけでん)・外幣殿(げへいでん)・四丈殿・宿衛屋などの殿舎に、これらを取り囲む四重の御垣と御門、そして十四の別宮。
遷宮に必要な御用材の檜は約一万平方メートル、一万本あまり、なかには直径一メートル余り、樹齢四百年以上の巨木も用いられます。屋根に葺く萱(かや)は二万三千束、神宮の萱山で十年がかりで集められます。昔は神宮備林が木曽の山にあったそうですが、今は国有林となり、次第に良い材料調達するのも困難になっていとのことです。そこで、神宮では大正時代の末から二百年計画で神宮宮域林において檜を育成しています。宮大工や、屋根を葺く職人の養成など、技術的な伝承についても考えなければならない時代にもなっています。

上記でも述べましたが、
式年遷宮には約八百種、千六百点の御装束・神宝を古式により新しく作りお供えいたします。これは平安時代に定められ、その時代の最高の刀工、金工、漆工、織工などの美術工芸家に調製を依頼します。太刀の原料の玉鋼(たまはがね)も入手困難ですし、砂鉄をたたらで操作する和鉄精錬の技法も継承者が少なく、草木などを用いる染色家も少なくなり、技術の保全が実に困難になっており、やはり伝承技能の維持・継承が大きな課題となっています。
当代の至高の材料・技術をもって大御神さまにお供えするということは、伝統文化・技術の継承であり多くの国民の誠の結晶であり、先人の叡智、魂をも継承することです。

「式年遷宮」は、建て替えのご用材を山から伐り出す安全を祈る山口祭というお祭りを皮切りに、平成二十五年十月の「遷御(せんぎょ)」の儀が行われるまでの八年間にわたって数多くの祭典や行事が行われます。
遷御の儀は、今の御社殿から新しく立て替えられた御社殿へ大御神さまにお遷りいただくお祭りで、夜すべての灯りが消された浄闇(じょうあん)の中、百名を越える束帯や衣冠に身を包んだ奉仕者が付き従い、荘厳な古代絵巻が繰り広げられます。


「式年遷宮(しきねんせんぐう)」には、たくさんの祭典や行事がありますが、一般国民が参加できる行事は二つあります。「御木曳(おきひき)行事」と「御白石持(おしらいしもち)行事」です。この二つの行事は、数ある遷宮の行事の中でも、唯一私たち国民が関わることができる行事です。



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「御木曳(おきひき)」 旧神領にあたる伊勢市・二見町・御薗村の住民が2ヶ月間にわたり御用材を両宮に曳き入れる盛大な行事。旧神領地の町内総出の晴れの舞台で、数日前に揃いの法被姿で二見浦に「浜参宮」をして心身を清めて行事に臨む。内宮の領民は木橇に御用材を積載して五十鈴川で「川曳き」を行い、外宮の領民は巨大な御木曳車で「陸曳き」を行う。全国の「一日神領民」も多数参加し、期間中の伊勢の街は勇壮な掛け声と木遣音頭で包まれる。前回は翌年の第二次御木曳行事とあわせ20万人が参加した。





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「御白石持(おしらいしもち)」  完成した正殿が建つ御敷地に敷く白石を奉献する行事。御木曳行事と同様に、旧神領の住民が揃いの法被姿で「浜参宮」の後、内宮は川曳き、外宮は陸曳きで御白石を運び、御敷地に奉献する。「御木曳行事」と同様、地元の旧神領民に加え、全国の「一日神領民」も参加する。前回(平成5年)は21万人が参加しました。



本ブログにも転載させていただきました、さくらの花びら大兄の「大切な日」には、日本人として忘れてはならない祝祭日についての本義が述べられていました。
そして、神宮の
「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を始めとする祭祀も氏神さまの祭りもその本義を日本人としては忘れてはならないでしょう。
太古の昔より、連綿と紡(つむ)いできた伝統と、魂なのですから・・・






(1/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―







(2/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―









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神宮(内宮)


筆者は一年に数回神宮に参拝しています。
嫁いだ娘が歩けるようになってからですから、二十数年毎年続けています。

何故なら、神宮に行きたいと魂がそうさせるのです。筆者のみならず、多くの日本人はそうであると思うのです。

神宮は、一般的には「伊勢神宮」、「お伊勢さま」などと呼ばれ親しまれていますが、正式な名称は「神宮(じんぐう)」です。全国には多くの「〜神宮」の称号がつくお社(やしろ)がありますが、神階が授与されたことがなく、石清水八幡宮と共に二所宗廟の一つとされました。
「神宮」とのみ称されるのは、伊勢の「神宮」だけです。それだけ特別なお社なのです。
大和朝廷(奈良県)から東に位置する伊勢は、太陽の昇る地であり、また、常世(とこよ、理想郷)から波が打ち寄せる聖なる海が広がっていました。その海からは豊かな幸(さち)がもたらされます。伊勢は当時の都の人にとってまぶしく映る別天地だったと思います。
『古事記』・『日本書紀』が物語る壮大な天孫降臨(てんそんこうりん)の神話。天照大御神(あまてらすおおみかみ)の神勅
(しんちょく)を受けた皇孫(こうそん)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降(あまくだ)る場面では、天上の高天原で大御神がつくられた田の稲穂を下の画像のように手渡されます。そして、米を作る暮らしこそが瑞穂(みずほ)の国に繁栄と平和をもたらすのだと託しました。天壌無窮の神勅です。
かって我国は、
豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の國と呼ばれました。
神宮では春先の祈年祭(きねんさい)から秋の神嘗祭(かんなめさい)まで、稲作に関わる神事(かみごと)が多く行われます。
春に祈り、秋に感謝する。瑞穂の国のありようが神代のままに伝えられています。


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天壌無窮の神勅


別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた、合計125の社宮を「神宮」と総称します。所在地は三重県内の4市2郡に分布しています。
皇大神宮(こうたいじんぐう)は、内宮(ないくう)と呼ばれ、御祭神は皇室の御祖神(みおやがみ)であり、また、私たち日本民族の大御祖(おおみおや)の神でもある天照大御神(あまてらすおおみかみ)です。皇孫の葦原中津国(あしはらのなかつくに)への降臨に際して、天照大御神が皇孫にお授けになった八咫鏡(やたのかがみ)に由来し、天照大御神はこの御鏡を自らの御霊(みたま)として皇孫(天皇)と同じ御殿でまつるように命ぜられたのです。
しかし、第十代崇神(すじん)天皇は、その御神威を畏(かしこ)み、皇女によって皇居外の神聖な地を選んでおまつりするようになり、大和の国(奈良県)の笠縫村(かさぬいむら)におまつりしました。
神社のお話(九)でも記述していますが、日本最古の大神神社の摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の一つとなっています。
元伊勢とは、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮内外両宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所をいいます。
やがてその御社殿でおまつりのご奉仕をしていた豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が年老いたので、第十一代垂仁(すいにん)天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)がそのおつとめをかわりました。
倭姫命は天照大御神さまがお鎮まりになるのにふさわしい土地を探して諸国を尋ね歩かれました。上述の元伊勢の由来です。
宇陀(うだ、奈良県)の篠幡(ささはた)、近江(おうみ)の国(滋賀県)、美濃(みの、岐阜県)と諸国を巡られた末に伊勢の地に入り、現在の地にお鎮まりになりました。このことは、日本で一番古い歴史書である『日本書紀』に記載されており、そのなかで「この伊勢の地は、大御神の御心にかなった、最も美しい永遠の宮処としてふさわしい場所であると、天照大神のお告げがあった」と書かれています。今から二千年前のことです。
そこで倭姫命は、この地に御社殿を建てて天照大御神さまをおまつりしました。以上のことから、伊勢の神宮の御鏡と、宮中の賢所におまつりされている御鏡は、一体にして不可分のものとされ、現在でも皇室の御祖先である天照大御神さまにお仕えする神宮の祭主は天皇陛下のお定めにより皇族、また元皇族の方がおつとめされています。現在の祭主は、今上天皇陛下の姉にあたる池田 厚子(いけだ あつこ)様が御祭主であられます。
古は令外官のひとつであったもので、近代以前は、代々中臣氏(大中臣氏)が任命され、神祇大副が兼任していました。


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豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮、げくう)


豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は、外宮(げくう)と呼ばれています。御祭神の豊受大御神(とようけおおみかみ)は、私たち日本民族の主食であるお米をはじめ五穀、衣食住のめぐみを与えてくださる産業の守護神でもあります。豊受大御神は第二十一代雄略(ゆうりゃく)天皇二十二年(今から約千五百年前)に、天照大御神のお告げによって丹波(たんば)の国(現在の京都府・天橋立(あまのはしだて)現在の元伊勢籠神社(丹後国の一之宮)から、現在の地に迎えられてお鎮まりになられました。
外宮には御饌殿(みけでん)という御社殿があり、ここで天照大御神さまに毎日朝夕二回のお食事がお供えされています。

別宮(べつぐう)とは、十四社あり、両正宮(りょうしょうぐう)に次いで格式のあるお社(やしろ)です。内宮に十社、外宮に四社あり、これらは祭祀(さいし、お祭り)・祭神などにおいて両正宮と特別な関係にあるお宮で、正宮の「わけみや」とされ、特に重んじられています。別宮の中でも「遙宮(とおのみや)」とよばれる大紀町に鎮まる瀧原宮(たきはらのみや)と志摩市の伊雑宮(いざわのみや)の二つの宮は地元からも篤く崇敬されています。

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伊雑宮(いざわのみや)




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瀧原宮(たきはらのみや)


 摂社(せっしゃ)は、延喜式(えんぎしき)の神名帳(じんみょうちょう)に所載されている神社をいい、両宮あわせて四十三社、末社(まっしゃ)は、延暦(えんりゃく)の儀式帳には記載されているが延喜式の神名帳には記載されていない神社で、同じく二十四社あります。
所管社(しょかんしゃ)は、前記以外で神宮の祭祀に直接関係のある神々をまつっている神社で、四十二社あり、いずれのお社においても天照大御神の祭祀を行う上で重要なお社です。参詣者を内宮へといざなう宇治橋(うじばし)をお護りする橋の神さま、塩作りの神さま、織り物の神さまなど御正宮や別宮の御料(ごりょう)や祭典に関わる神々がおまつりされています。

以上のように神宮は一二五社にも及ぶ大神社群です。その中でも内宮御正宮におまつりされている天照大御神(あまてらすおおみかみ)は皇室の御祖神(みおやがみ)として貴いご存在であるとともに、常に我々国民をお守りくださっている日本の総氏神さまです。
年間千五百回ほどにおよぶ祭典では、皇室国家の繁栄と国民の幸せを願って篤い祈りが一途にささげられています。
悠久の歴史の流れの中で、深く静かにささげられてきたこの無垢(むく)の祈りこそが、神宮の森厳(しんげん)を醸成(じょうせい)し「日本人の心のふるさと」として人々をいざなってきました。
神宮は全国で八万社ある神社の中でもその根本となるお社です。しかし神社の場合、寺院などのような本山末寺といった上下関係を表すものはありません。
古来の日本人の考え方が平等であった証でもあるのです。

 神道の祝詞(のりと)のなかでも、非常に古い形態を残している「大祓詞(おおはらえのことば)」に、八百万(やおよろず)の神々が集まり、話し合いの結果、皇孫に豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国(みずほのくに、日本の国)を安らかな国として治めるようにと御委任なされたことが記され、天孫降臨(てんそんこうりん)に際して、国つ神である大国主命(おおくにぬしのみこと)が天照大御神の御子孫に国を譲り渡したように、多くの神々との関係においても、それぞれの神々の立場、役割が尊重され、話し合いの精神をもって諸事が決められています。こうした考えは現在の私たちにも受けつがれており、「和」をもって尊しと為したわが国の美風の淵源がここにあるのです。
こうした神々の関係は同様に神社についてもいえることで、現在、全国の神社の多くが「神社本庁」のもと、それぞれに祭祀が厳粛に行われるよう努めており、神社界全体として、伊勢の神宮をはじめ、全国神社の振興をはかるための諸活動が行われています。
伊勢の神宮を格別のご存在として、神社本庁でも特に「本宗(ほんそう)」と仰いでいるのは、そういった全国の神社の総意にもとづいているのです。 

一般の神社の「神社祭祀(じんじゃさいし)」と別けて、神宮での祭祀を「神宮祭祀(じんぐうさいし)」と呼ばれています。
神宮では、新年の歳旦祭(さいたんさい)から大晦日の大祓(おおはらえ)まで、年間を通じて千五百回ほどのお祭りがおこなわれています。これらの祭りは、十月の神嘗祭(かんなめさい)、六月・十二月の月次祭(つきなみさい)などの「恒例祭(こうれいさい)」と、皇室・国家及び神宮の重大事に臨んで行われる「臨時祭(りんじさい)」、そして「遷宮祭(せんぐうさい)」に分ける事ができます。どのお祭りも古い儀式を重んじておごそかに奉仕されています。
神宮の祭りの本義は、天皇陛下が御親(おんみずか)ら皇室の祖先の神である天照大御神をおまつりされることです。第十代崇神(すじん)天皇の御代(みよ)までは皇居内で、また皇居を離れられた約二千年前からは伊勢の地で、どの時代も皇室の彌榮(いやさか)、国家の安泰、国民の平安、五穀の豊穣を祈るお祭りが変わることなく行われているのです。


豊受大御神(とようけおおみかみ)を伊勢の地にお迎えになった天照大御神(あまてらすおおみかみ)は「我が祭りに仕え奉る時は、まず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕(つかえまつる)べし」と重ねて命ぜられました。この御神託(ごしんたく)によって神宮では古くから重要なおまつりである「三節祭(さんせつさい、六・十二月の月次祭、十月の神嘗祭)」においても、まず外宮でおまつりした後、内宮でおまつりするという「外宮先祭」によって祭祀(さいし)が行われ、現在に至っています。一般の参拝もこれにならって、外宮・内宮の順にお参りするのが慣わしになっています。

 
内宮・外宮の両御正宮(ごしょうぐう)はともに唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)ですが、少しずつ違いがあります。まず屋根の棟に飾られた丸い鰹木(かつおぎ)を数えてみると、内宮は十本、外宮は九本(御正宮以外の社殿は、内宮が偶数、外宮が奇数)。また、屋根の両端から空高く伸びる千木(ちぎ)も、内宮は「内削(うちそぎ)」といって地面に対して水平に切られていますが、外宮では垂直に切られる「外削(そとそぎ)」です。このほか内宮には御饌殿(みけでん)がなく、外幣殿(げへいでん)が板垣(いたがき)の外に建てられているのに対して、外宮では御饌殿と外幣殿が共に板垣の中にあります。
また、外宮では「左側通行」、内宮では「右側通行」というのが慣例となっています。これは手を洗い、口を漱(すす)ぐための御手洗場(みたらし)が、外宮では参道を進んで左側に、内宮では参道を進んで右側(五十鈴川、いすずがわ)にあるためで、内宮では五十鈴川に架かる宇治橋もまた右側通行です。
外宮・内宮の御正宮とともに、別宮・摂社・末社を巡拝(じゅんぱい)し、日本の息吹を確認されるといいでしょう・・


神宮はまさに、日本人の魂と、文化、伝統の淵源なのです。





投稿文字数に限りがありますので、遷宮については次回に述べさせていただきます。


参考文献 多岐に渡ります。


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