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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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神社のお話(六)

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香取神宮
 
香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市にある神社である。式内社、下総国(しもうさのくに)一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約400社ある香取神社の総本社です。
前節、鹿島神宮(かしまじんぐう)でも述べましたが、一宮(いちのみや)とは、神社・神宮のある地域の中で最も社格の高いとされる神社をいいます。下総国(しもうさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県の東辺、東京都の東辺(隅田川の東岸)にあたり、平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式のなかで定められた、延喜式(えんぎしき)での格は大国、遠国になります。大国とは、古代日本の律令制が布かれた時代に定められ、朝廷は中央集権体制を確立することを目的とし、地方行政区画の一環として国力により諸国を四等級に分けたもので、大国 - 上国 - 中国- 下国の順で、大国は一番上の位の国です。
延喜式が策定された当時、大国に分類されたのは国は13ヶ国で、大和国(やまとのくに)、 河内国(かわちのくに)伊勢国(いせのくに)河内国(かわちのくに)武蔵国(むさしのくに)上総国(かずさのくに)下総国(しもうさのくに)常陸国(ひたちのくに)近江国 (おうみのくに) 上野国 (こうずけのくに)陸奥国 (むつのくに)越前国(えちぜんのくに)播磨国(はりまのくに)肥後国(ひごのくに)を言いました。
遠国(おんごく、えんごく)も律令国の等級区分の一つで、畿内(近畿地方)からの距離によって国を分類し、「遠い位置にある国」が遠国とされた。「近国」「中国」「遠国」の3分類の中で最も数が多く、現在の中国地方五県は、この地方のほとんどが「中国」にあたる名残といえましょう。
 
前節の鹿島神宮(かしまじんぐう)と香取神宮(かとりじんぐう)息栖神社(いきすじんじゃ)は、東国三社と呼ばれています。
また、平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったことからその格式の高さが窺えます。
創建は、神武天皇十八年(皇紀十八年)現在が皇紀二千六百七十一年ですから二千六百五十三年の歴史があります。
前節、鹿島神宮でも述べていますが、
畏くも、今上天皇陛下が元日の夜明けに、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)と呼ばれる束帯(そくたい)を着用あそばされ、宮城の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入りあそばされ、伊勢の神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝されます。この祭祀を戦前には四方節、現在は、四方拝(しほうはい)と言います。
この時に畏くも天皇陛下が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇伏見桃山陵大正天皇多摩陵昭和天皇武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮氷川神社)・山城国一宮(賀茂別雷神社賀茂御祖神社)・石清水八幡宮熱田神宮鹿島神宮香取神宮です。
 
香取神宮(かとりじんぐう)は、経津主神(ふつぬしのかみ)を祭神として、祭祀されています。。『日本書紀』のみに記載があり、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)などと表記されています。
経津主神(ふつぬしのかみ)が、鹿島神宮の武甕槌神(たけみかずちお)共に武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二軸の掛軸が対になって掲げられているのをご覧になられたことも多いとおもいます。
国譲り神話では、経津主神(ふつぬしのかみ)は、武甕槌神(たけみかずちお)とともに葦原中国へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしています。神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神であると言われています。
 
 
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 要石(かなめいし)
 
古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。貞享元年水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが鹿島神宮同様、根元を見ることが出来なかったといわれています。(写真上)
 
 
 
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香取神道流
 
 
前節の鹿島神宮、香取神宮は、古くからの剣術の流派として「香取の剣・鹿島の剣」が、葦原中国を平定した神として日本神話に登場する経津主神と武甕槌神を祀った、香取神宮と鹿島神宮の神職に伝承されていました。
 
飯篠 家直(いいざさ いえなお)(元中4年) - (長享2年))は、下総国香取郡飯篠村郷士、父親は飯塚金兵衛。日本武道の源流の一つである天真正伝香取神道流の創始者で、「日本兵法中興の祖」ともい言われています。香取神宮の奥の宮に近い梅木山に篭り、1千日の厳しい修行の末、ついに「兵法とは平和の法なり」との悟りを得たとされる。 この修行で梅の古木の上で「汝、後に天下剣客の師とならん」と経津主神の啓示を受け、一巻の神書を与えられたとし、このことから経津主神に由来する名を冠した「天真正伝香取神道流」を創始しました。
 
武神の地たる由縁です。
 
この系統の春日大社は、香取・鹿島の二柱の神さまの他に、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめかみ)とをあわせて四柱の神々を祭祀しています。昔、藤原氏が香取・鹿島の二柱の神さまを奈良に勧請(かんじょう)して氏神とされ、まもなく皇室・国家の守護神とされたのが春日大社です。
 
 
神をも畏れ、敬わない人々が増えた昨今ですが、かっての日本人はすべてのものに神が宿り、支配しているものと信じ、崇敬していました。
 
 
 
続く・・・・(次回は春日大社)
 
 
 

神社のお話(五)

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鹿島神宮
 
鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。
一宮(いちのみや)とは、神社・神宮のある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことですが、一の宮・一之宮とも書きます。
通常「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多いですが、律令制において国司は任国内の諸社に神拝することが定められており、一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われている。律令制崩壊の後も、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続けているのです。
鹿島神宮は、同県神栖市にある息栖神社(いきすじんじゃ)、千葉県香取市にある香取神宮(かとりじんぐう)と合わせて東国三社と呼ばれています。
また、平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式神名帳によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったことからその格式の高さが窺えます。
創建は、神武天皇元年(皇紀元年)現在が皇紀二千六百七十一年ですから建国以来の歴史があります。
畏くも、今上天皇陛下が元日の夜明けに、黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、宮城の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入りあそばされ、伊勢の神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝されます。この祭祀を戦前には四方節、現在は、四方拝(しほうはい)と言います。
この時に畏くも天皇陛下が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇伏見桃山陵大正天皇多摩陵昭和天皇武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮氷川神社)・山城国一宮(賀茂別雷神社賀茂御祖神社)・石清水八幡宮熱田神宮鹿島神宮香取神宮です。
 
 
鹿島神宮は、武甕槌神(タケミカヅチオ)を祭神として、祭祀されています。『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記されています。
武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神(ふつぬしのかみ)と共に武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二軸の掛軸が対になって掲げられているのをご覧になられたこともあるでしょう。
武甕槌神(タケミカヅチオ)は、「国譲り」神話に、記されている神です。
日本神話には、天照大神の子孫がこの国を治めるようになる前に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国を治めていたことが書かれています。
「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、豊かで住みよい国でした。大国主命とは、天照大神の弟で出雲に住みついた須佐之男命の子孫であり、神話「因幡のしろうさぎ」の主人公でも知られています。
天照大神は、この国は自分の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治めるべきだと考え、大国主命に国を譲るよう求めましたが、大国主命はこれに従い、「国譲り」が行われます。この日本の国の起源を伝える話に、古来より日本人の「和」の精神を見ることができます。
 
天照大神は、話し合いによる「国譲り」を試みられ、武甕槌神(タケミカヅチオ)を使者として送ります。これに対し、大国主命は「私の一存では決められません。子供の事代主命(ことしろぬしのみこと)に聞いてください」と言います。親である大国主命は独断で物事を決めずに、子供の意見を尊重しました。
長男である事代主命は、国譲りを承諾しましたが、しかし、弟の建御名方命(たけみなかたのみこと)は反対し、武甕槌神(タケミカヅチオ)に力比べを挑みます。結局、建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。
建御名方命はそのまま、諏訪の地にお鎮まりになり、諏訪神社のご祭神として祀られておられます。また、武甕槌神(タケミカヅチオ)と、建御名方命との「力比べ」が日本の国技となる相撲の起源となったと伝えられています。
 
 
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「力比べ」
 
また神武天皇が熊野で窮地に陥ったとき、武甕槌神(タケミカヅチオ)が降した霊剣・師霊剣(フツノミタマ)の神威により救われました。この神恩に感謝した神武天皇は、即位の年武甕槌神(タケミカヅチオ)を鹿島の地に勅祭されたのです。
 
 
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塚原卜伝
 
武甕槌神(タケミカヅチオ)は武芸の神ですが、戦国時代の剣豪、兵法家で名高い塚原 卜伝は、鹿島神宮の神官・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢)の子として常陸国(現在の茨城県)の鹿島に生まれました。
先祖は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)に連なります。
『卜伝百首』の後にある加藤信俊(相模守)による序では、三十九度の合戦、十九度の真剣勝負に臨みながら一度も負傷しなかったと記述されています。
父から国摩真人が、神事によって授かった日本最古の鹿島伝来の鹿島の太刀(鹿島中古流太刀)を、養父の塚原土佐守安幹から飯篠長威斎の天真正伝神道流を学び、さらに大永2年34歳のとき、鹿島の神前に1000日参籠して、「一の太刀」の妙術を感得し、剣(つるぎ、けん)六十七手・長刀(なぎなた)二手・鑓(やり)九手からなる新当流を創始したと伝えられています。
古くは鹿島神流(かしましんりゅう)と流派が存在しました。剣術と柔術を中心に、抜刀術、薙刀術、棒術、杖術、槍術、手裏剣術からなる武術で、鹿島神宮祭神の武甕槌神(タケミカヅチオ)が悪神を鎮める際に使用した技がその始まりであるとして、抜刀術の「祓太刀」がその名残で、また、建御名方神(たけみなかたのみこと)との力くらべの際に武甕槌大神が使った技が柔術の「霊気之法」の始まりとしています。
 
 
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國井善弥
 
 
 
昭和時代に「今武蔵」と謳われ生涯不敗であった鹿島神流第18代宗家。(福島県出身)國井善弥が有名です。
 
 
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山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう)
 
 
また、幕末の三舟と呼ばれた、山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう)は、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖であり母、塚原磯は、常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女であり、先祖に塚原卜伝に繋がっています。
 
 
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鹿島神宮(鹿相撲)
 
鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿島神宮では鹿が使いとされている。また、藤原氏による春日大社の創建に際して、神護景雲元年に、白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行ったとされています。
英語で鹿の枝角をアントラー  と言い、鹿島アントラーズのチーム名の由来となっています。
 
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要石
 
境内の要石(かなめいし)は、地震を起こす大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられている。水戸黄門仁徳録によれば水戸藩主徳川光圀(黄門様)が七日七晩もの間、石の周りを掘らせたが、根元には届かなかったと伝えられています。
 
 
 
 
神をも畏れ、敬わない人々が増えた昨今ですが、かっての日本人はすべてのものに神が宿り、支配しているものと信じ、崇敬していました。
 
 
 
続く・・・・
 
 

神社のお話(四)

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伏見稲荷
 
全国の神社の中で最も多いといわれているのが稲荷神社で、総本社は、京都の伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)です。稲荷神を祀る日本全国三万二千社(全国社数の三分の一)の稲荷神社の総本宮とされています。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域としています。
式内社(名神大)、二十二社の上七社の一社で、旧社格は官幣大社。
毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者が参拝しています。(日本国内第4位〔2010年〕
 
御本社伏見稲荷大社は、伝承によれば奈良朝和銅四年(711)2月初午の日に、深草の里の長者秦伊呂具公(いろこのはたのきみ)が勅命により、三柱の神を伊奈利山三ヶ峰の平処に祀ったのが始まりで、「伊奈利」又は「稲生」と表記された御神号に、「稲荷」の文字か広く使われるようになったのは、稲束を荷った老翁の姿を神像として礼拝することが普及したことによるものと考えられる。社記には「衣食住ノ大祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」とあり、稲荷山が古くから民衆の信仰の“お山”であったことは、平安朝の女流日記随筆等によって偲ぶことができます。
また秦氏(はたうじ)は、古代の氏族で、秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦(うずまさ)(現在の京都市右京区太秦)、現在は映画村としても有名です。
 
また、朝廷より神威の盛大な神々に対して神階が贈られて格式が高められたが、稲荷大神に対しても、天長四年(827)に始めて「従五位下」を授けられて以降数次の贈位があり、、ついに天慶五年(942)「正一位」に叙せられた。今も「正一位稲荷大明神」と奉称されているのはその名残です。
 
主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、大宜津比売(おおげつひめ)、保食神(うけもちのかみ)とも称され、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)を配祀して、五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としています。
 
《御神徳》
宇迦之御魂大神(うかのみたまのかみ)
 
古い祝詞に、この大神について「是稲霊也。宇賀能美多康謂」説明しているように、穀物の神様であり、ウカはウケとも云い、立派な「ウ」、食物「カ・ケ」の意味である。ミタマは、清明を養い育てる貴い根源の力を意味する語であり、この大神は生命の祖神に坐しますのである。
神々の伝説によると、我々の食物は五穀を始め、魚も家畜も、更に衣料のもととなる蚕もすべて、この大神がお生みになり、天祖天照皇大神は、稲を日本民族の主食とすべきことを教示し給うた。古来我国を、豊葦原瑞穂国と称え、国家繁栄の基本としてきた所以である。

佐田彦大神(さたひこのおおかみ)

猿田彦大神とも申し上げ、天孫瓊々杵(ニニギ)尊が高天原より御降臨の祭、御一行を日向の高千穂峰へ御先導申し上げた神様で、開運交通安全の守護神である。
 
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
 
 高天原では天照皇大神の御前に仕へ、地上では天皇の側近として奉仕し、常に行届いた心配りと麗しい言葉使いを以て、神と人、君と臣との間を執り持って和平円満な関係を保ち、御心を安んじ奉った神様である。稲荷大神が、商売繁昌の守護神として崇敬されるのは、この大神の豊かな叡智と機転、愛嬌と麗辞の美徳にあやかり神習い奉るためである。
 
田中大神(たなかのおおかみ)
 
 稲荷神社の御鎮座以前から、稲荷山麓の里人等が奉斎してきた神様と考えられています。
 
四大神
 
 稲荷大神に神人として奉仕した秦氏一族が往古から奉祀してきた神様であろうと推測されている。
 
御神名「稲荷(いなり)」は「稲成(いねな)り」から変化したともいわれ、もともとは農業の神さまとして信仰されていましたが、現在では結びの信仰(ものごとを生み増やす生成発展の信仰)から、諸産業の神さま、特に商売繁盛の神さまとしても信仰されています。
稲荷神社の社頭には、朱塗りの鳥居が幾重にも建てられていることがありますが、朱色は生命の活性化、躍動感を表すといわれ、災厄を防ぐ色ともいわれます。また、狐の置物もよく見られますが、これは田の神、山の神の信仰との結びつきと考えられ、稲が実るころに山から人里近くに姿を現す狐の姿を、人々は神さまの使いと考えたと思われます。
 
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神の遣い(狐)  伏見稲荷
 
 

稲荷神社のお祭りは「初午(はつうま)祭」が有名です。これは、伏見稲荷大社の神さまが三ヶ峯(みつがみね)に天下(あまくだ)られたのが、和銅四年(七一一年)旧暦二月の初午の日であったことに由来し、毎年二月の最初の午の日にお祭りが行なわれます。
冒頭の画像にあるように、稲荷山には信者から奉納された約一万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まりました。
 
稲荷信仰の根源は、農耕民族である我国の、農耕神崇拝であって、生命の祖神、衣食住の守護神として、平安初期の人々の生活に深く根付いたが、仏教が伝来して神仏習合の思想が芽生え、稲荷神社が東寺の鎮守神と仰がれるに及び、稲荷信仰は飛躍的に庶民の間に伝播していきました。
 
社家には学者が多く、国学者の荷田春満も当社の社家出身である。境内には荷田春満の旧宅が保存されており、隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社(あずままろじんじゃ)がある(元は末社であったが、現在は独立した神社。学問の神として信仰されている)。
 
 
※社家 社家とは、代々特定神社神職を世襲してきた家(氏族)のことです。
 
※荷田春満 (かだ の あずままろ、寛文9年1月3日- 元文元年7月2日 古典・国史を研究して復古神道を提唱。『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人に数えられました。
 
 
 
次回につづく・・

神社のお話(三)

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竈神(高野山金剛峯寺)
 
 
我々の祖先は「火」を神聖なものとして、生活していく上で欠かせないものとして、暖をとったり食物を煮炊きしたりする炉(ろ)や竈(かまど)の神さまを大切にしてきました。また、竈の煙が盛んに出ることは、家が栄えるしるしともいわれ、竈の神さまは家の神としての性格も持っています。
 
人は「火」を扱うことによって集団生活が始まったと言われています。日本では、縄文時代の中期ごろの竪穴(たてあな)住居の内部に炉がもうけられていましたが、それ以前は火はおもに屋外でたかれていました。この頃から一つの屋根の下で火をかこんで家族が共同生活する住まいが生まれました。
かまどは元来は釜をおく場所の意味でしたが、生活の中心となる火所として、家や家族自体を表象するものともされました。そのため家や家族をかまどや煙を単位としてかぞえる風習もあり、今日でも家をたてることを「かまどを起こす」、破産することを「かまどを返す」、分家を「かまどを分ける」ともいいます。
 
聖帝(ひじりのみかど)と呼ばれた仁徳天皇の御製

 
高き屋にのぼりて見れば煙り立つ
 
              民のかまどもにぎはひにけり
  
難波高津宮から遠くをご覧あそばされた仁徳天皇は、人家から炊煙が上がっていないことを深く憂慮され、「貧しくて炊くものがないのだろう、都がこうなら地方はなおひどいだろう」と仰せられました。
そして三年間租税を免除し、その間は率先して倹約に努められ、三年後、どの家のかまどからも煙が立ち上っているのをご覧になって、詠まれた御製です。

竈(かまど)は生活そのものであったのです。
竈(かまど)の神さまは、火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神とも言われています。
神道では、竈三柱神(稀に三本荒神)をかまどや厨房・台所に神札を以て祀る信仰があります。
竈三柱神は奥津日子神(おきつひこ)・奥津比売命(おきつひめ)・軻遇突智、火産霊(かくずち)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、軻遇突智が火の神です。
一般には上記画像のように、かまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀りますが、祀り方の形態は地方によって変わります。
 
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東北地方に伝わるカマ男、火男
 
東北地方の陸前(宮城県や岩手県)では、竈近くの柱にカマ男、火男、カマジンなどと呼ばれる粘土または木製の醜い面をかけて祀る風習があります。
 
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釜神さま
 
 
火は、危ないから「火の用心」 神聖だから「火の要鎮」ともいいます。
上記にも述べていますが、軻遇突智、火産霊(かくずち)さまは火の神で、静岡県秋葉神社は防火の神として有名で秋葉講は全国に及んでいます。
昭和十八年から、平成13年まで、宮中賢所で内掌典を勤められ、平成12年11月 勲四等瑞宝章綬勲、内掌典長までなされた高谷朝子氏が、火について次のように述べられています。
 
朝子語録:その13 「お鍋の底」
 お鍋を五徳から持ち上げまして、他所へ置きます時には、お鍋敷き等を
敷いて、お鍋を置くことが大切な心得でございます。
 何故ならば、底が熱いからという事だけではございません。炊事の時、
お鍋をお火にかけますと、底がお火に当たりますので、清いお火を汚さな
い為に、お鍋の底も清くして、お鍋敷きの上にのせましてございます。
   (注)お火は清いものとされています。
 
朝子語録:その18 「淨火」

 火は日であり、さらに霊(ひ)であって、誠に尊い霊妙なものでございます。
上代より引継がれました、賢所の尊いお火は決しておしめり(お消え)になりませぬよう内掌典は命をかけてお守り申し上げます。菜種油にしみ込みました、
 お燈心の清い小さな御火でございます。天津火継とも教えられました。
 
 
竈(かまど)神を祀る、火の神を祀る、これらの風習は、昭和二十年代までは残っていましたが、生活様式の多様化のともない、現在は祀られていないのが実情です。
 
植村花菜さんが、亡き祖母との思い出や自身の半生を表現し、大ヒットした曲「ト
イレの神様」。紅白歌合戦でも歌われました。日本のしきたりを、柔らかく優しく伝え教えながら、孫の心身共に健やかな成長を願う。そしてその祖母に様々な感情を抱き成長する様子は、まさに典型的な日本の家庭のようであり、聞いていて心が豊かになりましたね
日本では古来より厠(トイレ)には神様がいらっしゃるとして信仰されてきました。厠だけではありません。上述の竈(かまど)の神様、大黒柱、門口、井戸に至るまで神々が宿り、崇敬してきました。
ことに厠は唾を便壺に吐いてはならない、裸で便所に入ってはいけないとか、和歌山県の北部地方では、厠には咳をしてから入らなければならず、便所に唾を吐くと盲目になるとういう伝承もあり、様々な禁忌(きんき)が全国で伝承されています。禁忌とは逆にご利益もあって、厠を綺麗にすると美人になるとか、妊婦さんが便所掃除をすると、可愛い子供に恵まれるなどの信仰もあります。お正月には注連飾りをしたり、お幣束を奉ったり、お供え餅を上げたりする地方もあるようです。
神道では主に厠の神は、古事記や日本書紀の神話に見るところの、埴山昆売命(はにやまひめのみこと)と弥都波能売神(みづはのめのかみ)、とされており、往古より上記に示すような信仰、感謝と祈りが捧げられてきました。
リフオームでトイレを水洗トイレに改修するときなど、お祓いと感謝のご祈祷をしてきました。様々な厠の恩恵に感謝し、畏敬の念を持ち、例えば厠を埋めて改修する、長年の恩恵に深い感謝と祈りを捧げる。これは神の国日本に於いて、常に神々と共に生きる、日本人の在るべき姿です。
しかし、最近、地鎮祭はするものの、解体のお祓い(感謝のご祈祷)などをしなかったり、トイレや台所などは、一部改修だからと、神事を行わず、事を行っている様子が多々みうけられます。その方々は特に神々に対する感謝の念が無いと言う訳ではないようですが、ただ気づいていないと思いたいです。
今は植村さんのお祖母さんのように、日本の風習や伝統を、子々孫々に語り繋いでくれる、ご年配も少なくなり、近代化された設備や技術も、神々の存在を感じづらくさせているのも事実でしょう。 この様な時代だからこそ神々に感謝し、崇敬のこころを伝えてゆかなければならないと深く感じています。
 
親から子、子から孫へ、麗しい日本のこころ、習俗を伝承していきましょう。
 
 
 
 次回につづく・・・・
 
 
 
 
 

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神社のお話(二)

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我国最古の石鳥居、「元木の鳥居」建立されてから1000年以上と言われ、国の重要文化財に指定されています。(山形県山形市)
 
 
 
みずみずしい”という言葉がありますが、私たちの体内の水含有率は、新生児では80%以上、大人では60%前後で年齢とともに減っていきます。老化とは、細胞からの水分の減少といえるかも知れません。
人間に限らず、自然界にあるものすべて水がなければ「生」を保つことはできません。農耕民族の我々にとって水は最も重要なものの一つであります。
水の状況によって収獲が左右されることから、水は、私たちに大きな恵みを与えてくれるとともに、生命や財産をも奪う恐ろしい存在でもあるのです。
最近では、台風12号、15号による水害は自然の力をまざまざと見せつけられました。
それゆえ祖先は、水が集まる川に対する感謝や畏怖は、生活に直接かかわるため、信仰という形で古くから私たちに伝えられてきました。川の神様、水の神様である水神として、あるいは水神が姿をかえた竜や蛇、河童などがあり、水神の神使とされたり、神そのものとして崇めてきたのです。
日本神話には、水に関する神として以下のような神が記述されています。
 
罔象女神(みつはのめのかみ)は『古事記』の神産みの段において、火の神、軻遇突智(かぐつち)、を生んで陰部を火傷し苦しんでいた伊邪那美(いざなみ)がした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたされ、『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。
灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。
闇龗神または、淤加美神(おかみのかみ)貴船神社(京都市)のほか、丹生川上神社(奈良県吉野郡)では罔象女神とともに祀られ、全国に「意加美神社」などと称する神社がああります。龗 (おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。 「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑(かんがい)の神として信仰されています。
闇罔象神(くらみつは) 闇龗神いずれも祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑の神として信仰されている。
天之水分神(あめのみくまり)・国之水分神(くにのみくまり) 分水・分水嶺の神
天之久比奢母智神(あめのくひざもち)・国之久比奢母智神(くにのくひざもち) -- 瓢(ひさご)・灌漑の神
八岐大蛇(八俣大蛇、八俣遠呂智、ヤマタノオロチ) -- もとは肥河(斐伊川)の水神であったと云われています。
 
我々の祖先は、水・川に対する感謝や畏怖を、信仰という形で古くから私たちに伝えられてきました。川の神様、水の神様である水神として、あるいは水神が姿をかえた竜や大蛇として崇めることはその現われなのです
 
河川改修・治水事業が進み、ある程度は洪水からの恐怖は少なくなったものの、川が私たちに与えてくれる恩恵はもちろん、恐怖は、現在でも変わらないと考えられます。
戦後GHQの施策で核家族化が進み、山間部の人口流出が進み、山々の保水力が低下し昨今のゲリラ豪雨をかんがえれば、。水神様のような存在を自然のシンボル化と考えれば、川に感謝することや、あるいは畏怖の念を抱くことは、今の私たちが忘れてしまった、とてもたいせつなことなのではないでしょうか。

 
我国は海に囲まれた国です。
海辺に住む人々は、漁をし、生活の糧としてきました。
海をつかさどる神を海神(わたつみ、わだつみ、うながみ、かいじん)と言います。
「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意です。
日本神話では、海に関する神として以下のような神が記述されています。
 
大綿津見神・大海神(おおわたつみ)
海神豊玉彦(わたつみとよたまびこ)
神話の山幸彦と海幸彦の段では、火照命又は火須勢理命(海幸彦)の釣針をなくして困っていた火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)の元を訪れ、綿津見大神の娘である豊玉姫と結婚している。二神の間の子であるウガヤフキアエズはトヨタマヒメの妹である玉依姫に育てられ、後に結婚して神日本磐余彦尊(神倭伊波礼琵古命・かむやまといわれひこ)らを生んでいる。綿津見大神の出自は書かれていないが、一般にはオオワタツミと同一神と考えられている。
 
底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称を住吉三神といいます。
住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神とされています。
住吉は「すみよし」は、元は「すみのえ」と読み、住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄江、清江とも書いた。古代における天皇陛下即位の際の重要な祭儀である八十嶋祭の清めの海を表しており、天皇陛下は即位すると住吉(スミノエ)の海で清めの儀式を行ったのである。住吉大社周辺の墨江や住之江という地名は、「スミノエ」の読みに漢字を当てはめたものです。
住吉三神を祀る神社は住吉神社などという社名で、日本全国に約600社あり、三韓征伐に由来する神社が多いです。
 
 
船魂は、船中にまつられる船の守護神。住吉大明神・猿田彦神・綿津見神など。春日・八幡・大日・薬師なども数え入れ十二船玉という。男女一対の人形やさいころ二個・五穀・銭一二文・女の髪などを神体とし、帆柱の受け材である筒(つつ)の下部に穴をあけて封じ込める。
 
亀や魚などは海神の使者であるとも考えられ、それを助けたために、海の底の宮殿へ行くことが出来たという説話が数多く伝えられています。浦島太郎の話などはその代表例です。
海の神々は命のやりとりをする漁業関係者に今もなお、広く信仰されています。
 
 
 
 
次回に続く・・・・・

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