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"Life with the Ocean" ― 厳島神社 弁財天 本開帳 ― 10min Documentary 古来より「豊葦原瑞穂國」と称された我が国は、稲をはじめ穀物が実り豊かに実る国として遠く神話の昔より日の神「天照大御神」を崇め、田の神、山の神、海の神を崇め、「和」を大切にし、自然に感謝し、、自然と共に文化・伝統を育んできました。
わが国は神の国と言われています。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしてきました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
「まつり」の語源は、動詞の「まつる」からきています。「まつる」とは、神さまのお出ましを「待つ」、神さまに供物などを「献(たてまつ)る」、神さまに従う「服(まつろ)う」などが考えられ、これを全部合わせると「神さまをお迎えして、神さまに物を捧げて、心から神さまに従う」という大意になります。このように、神さまにお仕えすることがお祭りの本義と言えましょう。 筆者が一度は訪れてみたい「まつり」に千葉県鴨川市の厳島神社弁財天本開帳があります。今年5月4日、5日の両日に渡って斎行されました。 冒頭の動画はその「まつり」の様子です。 厳島神社弁財天本開帳は60年に一度、中開帳は30年に一度しか斎行されません。人の一生のうちに長生きして2〜3回しか機会のない「おまつり」です。 平安時代初期の承知年間(834〜837年ごろ)に唐から帰国した慈覚大師が、布教で大浦地区に訪れた際、弁財天の像を自ら彫って安置したのが厳島神社の始まりとされ、以来、鴨川の漁業従事者に漁業、航海、財宝の神様として崇敬されてきました。現在の祭神は、天保15年に作とされたもので、気品をたたえた柔和なお顔に8本の手を備えた一面八臂の座像です。普段は公開されていないこのご本尊は昔から30年ごとにご開帳され、お姿を拝むことができます。干支でいう亥年と巳年がご開帳の年にあたり、亥年のご開帳は中開帳、巳年のご開帳は本開帳と呼ばれます。 船橋
ご開帳の最大のみどころは、今ではほとんど見られなくなった船橋だそうです。 船橋は、橋が架けられない川などに船を浮かべ、板を渡して橋の代わりにするもので、架橋技術が低かった昔は全国各地で見られました。厳島神社がある弁天島は、鴨川漁港の沖合にあります。現在は漁港の堤防と島の間に橋が架けられていますが、橋がなかった時代は船で渡るしかなかったため、ご本尊の渡御や参拝で人の往来が盛んになるご開帳のときには、漁船同士を横付けした状態で停泊させ、船と船の間に板をわたして橋代わりにしました。 ご開帳では、ご本尊の弁天様の御霊代(みたましろ)が輿(こし)に移され、厳島神社のお膝元の大浦地区を回ります。弁財天の輿を担ぐのは大浦地区の女性と昔から決まっており、ご高齢の方もご利益にあずかりたいからとわずかな時間でも輿に肩を入れられました。大浦地区は4つの地区に分かれていて、輿は地区から地区へバトンタッチする形で担がれるのですが、輿の受け渡しはスムーズにはいきません。渡す側は、次に弁天様が自分たちの地区に来てくれるのは30年後ということで別れを惜しんで渡すのを渋り、輿を受け取る側は弁財天に来ていただきたいので早く渡せとなります。「渡せ渡さない」のやりとりを含め、女性たちが輿を担ぐ姿は、ご開帳のみどころのひとつです。(参考文献、日本のまつり) 次回の開催は30年後、筆者は傘寿(さんじゅ)をゆうに超えていますが、参拝したいものです。 日本のまつり、それは、日本古来の文化の伝承です。 祭りを運営する人、参加する人、そして見る人。 すべての人がひとつになって夢中になれる唯一の文化といえましょう。 いま日本に必要なのは、そんな底知れぬ生命力に満ちた祭りの力と、一体感、人と人の心の絆、祖先・先人を敬愛し、皇室を崇め、天津神(あまつかみ)( 伊勢の大神宮)、国津神(くにつかみ)(氏神)、森羅万象を司る八百万(やほろず)の神々に感謝をし、よりよい日本を後世に残し、日本のこころを後世に伝えることではないでしょうか? |
神社のお話
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古くより「天下無双の大廈(たいか)」と称えられてきた御本殿の修造には、震災被害にあった東北地方の木材なども使用されており、銅板などは130年ぶりに「ちゃん塗り」と呼ばれる特殊な塗装を施されました。約70万枚もの膨大な檜皮(ひわだ)が敷き詰められた大屋根は見る者を圧倒します。 島根県出雲市、国津神、縁結びの神様がいる として知られている出雲大社にて 5月10日、大国主大神が修造の終わった御本殿にお還りになる「本殿遷座祭」が執り行われました。 雲大社で「本殿遷座祭」 全国から1万2,000人が訪れる(13/05/11) 出雲大社 平成の大遷宮 準備 出雲大社の創建は神代の時代に遡ります。
日本は古来より、「大和の国」と言われ、日本人は「和」を重んじる国民です。そのことを、私たちは、日本の神話や歴史の中に見出すことができます。日本神話には、天照大神の子孫がこの国を治めるようになる前に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国を治めていたことが書かれています。
「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、豊かで住みよい国でした。大国主命とは、天照大神の弟で出雲に住みついた須佐之男命の子孫であり、神話「因幡のしろうさぎ」の主人公でも知られています。
天照大神は、この国は自分の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治めるべきだと考え、大国主命に国を譲るよう求めましたが、大国主命はこれに従い、「国譲り」が行われます。この日本の国の起源を伝える話に、古来より日本人の「和」の精神を見ることができます。
天照大神は、話し合いによる「国譲り」を試み、建御雷神(たけみかずちのかみ)を使者として送ります。これに対し、大国主命は「私の一存では決められません。子供の事代主命(ことしろぬしのみこと)に聞いてください」と言います。親である大国主命は独断で物事を決めずに、子供の意見を尊重しました。
長男である事代主命は、国譲りを承諾しましたが、しかし、弟の建御名方命(たけみなかたのみこと)は反対し、建御雷神に力比べを挑みます。結局、建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。
建御名方命はそのまま、諏訪の地にお鎮まりになり、諏訪神社のご祭神として祀られておられます。また、建御雷神と、建御名方命との「力比べ」が日本の国技となる相撲の起源となったと伝えられています。
子供たちが同意したと聞いた大国主命は「私には何の異存もありません。この国を高天原の神にお譲りしましょう」と、「国譲り」は行われました。
このように、「国譲り」は、話し合いを主として行われ、「力比べ」などの部分的に抵抗はありましたが、双方の合意という形で実現したと描かれています。しかも、単なる併合ではなく、譲り受けた側が譲った側に対し、最高の礼を尽くしています。国を譲ったとはいえ、おそらく大国主命には恨みが残ったことでしょう。それに対し、天照大神は、天日隅宮(あめのひすみのみや)という大宮殿をつくり、自分の第二子の天穂日命(あめのほひのみこと)を大国主命の霊に仕えさせます。この宮殿が、出雲大社の起源です。そして天穂日命の子孫である出雲国造が代々の出雲大社の祭祀、宮司を務め、現在まで続いています。現在の宮司は、84代国造千家尊祐氏。
皇室同様、万世一系の家柄であり、80代国造千家尊福は司法大臣・東京府知事等を歴任。唱歌「一月一日」の作者としても知られています。 出雲国造が代替わりした際には、はるばる朝廷にまで参向し、宮中において天皇の御代を言祝ぐ「出雲国造神賀詞」が新しい国造によって奏上されました。 国造(くにのみやつこ)というのは全国にたくさんいたわけですが、この神賀詞の奏上を行うのは出雲国造のみで、特別な扱いをされていたことがわかります。 また、現在も、皇室といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。 現在は大社と名乗る神社はたくさんありますのが、平安時代の「延喜式」の神名帳には式内社と呼ばれる全国で2,861社の神社の名前が掲載されていますが、大社を名乗るのはただ一つ出雲大社だけです。
また、明治時代より、大東亜戦争まで続いた神社の近代社格制度においても、大社を名乗れたのは出雲大社だけでした。 如何に歴代皇室が、「出雲」に対して、礼節を重んじてこられたかがよくわかります。
84代国造千家尊祐宮司が遷宮を迎えるにあたり、コメントを出されています。 以下に引用します。 本殿遷座祭を迎えるにあたり そのため生産、繁殖、繁栄といったものが成長する力を尊んできたわけです。 ですから、人間も子孫を残して繁栄するということを重要視してきましたし、また世の中も成長していき、よりよい社会を作り上げていく、ということが必要と考えてきました。一人の人間としても成長してより優れた人間になるよう日々努力する、たとえ老人になっても、ということが神道では大切なのです。 永遠の命が欲しくて、不老不死の薬を探し求めた中国の始皇帝などの権力者がたくさんいましたが、今まで生きている人はいません。やはり初めがあるものは必ず終わりがあります。では神道における「永遠」とはなんでしょうか。それは「世代をつないでいく」ということです。伊勢神宮や出雲大社といった神社も木造であり、古代のものがそっくりそのまま残っているわけではありません。本ブログ神社のお話(十二)神宮でも述べていますが、伊勢神宮では二十年、出雲大社では六十年と定期的に遷宮や立替え、修復を行い、新たに清新な力を得て、後代へ引き継いでいきます。 日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
エジプトのピラミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消滅しているのです。
人間も同じように祖父母、父母から得た命を子や孫に伝えて、引き継いでいく、これが神道においての「永遠」です。しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。 【祭事日程】5月 10日 金 午後 7時 本殿遷座祭 11日 土 午前10時 本殿遷座奉幣祭 12日 日 午前10時 本殿遷座奉祝祭 13日 月 午後 8時 例祭前夜祭 14日 火 午前 9時 的射祭 14日 火 午前10時 例祭・本殿遷座奉祝祭 15日 水 午前 9時 二之祭・本殿遷座奉祝祭 15日 水 正午 神輿渡御祭 16日 木 午前10時 三之祭・出雲屋敷感謝大祭・本殿遷座奉祝祭 18日 土 午前10時 御神楽祭・本殿遷座奉祝祭 19日 日 午前 9時 本殿遷座奉祝祭 21日 火 午前10時 本殿遷座奉祝祭 23日 木 午前10時 本殿遷座奉祝祭 25日 土 午前10時 本殿遷座奉祝祭 26日 日 午前10時 本殿遷座奉祝祭 |
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参道を進む勅使=13日、奈良市春日野町の春日大社
奈良市の春日大社で13日、御国の繁栄を願う「春日祭」が、畏くも天皇陛下の使者、勅使(ちょくし)を迎えて営まれました。 この日、勅使の堤公長・宮内庁掌典職が、二の鳥居をくぐった祓戸神社で小さな御幣を振って身を清め、束帯(そくたい)姿で参道を進んだ。 魚や穀物を盛り分けた御棚神饌(みたなしんせん)が本殿に供えられ、馬を引き回す儀式や勅使が喜びを表す拝舞(はいぶ)が行われた。
春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市の奈良公園内にある神社です。旧称春日神社。式内社(名神大社)、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。全国にある春日神社の総本社です。
二十二社(にじゅうにしゃ)は、神社の社格の一つで、国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた。後朱雀天皇治世の長暦3年(1039年)に22社目の日吉社が加わり、白河天皇治世の永保元年(1081年)に制度としての二十二社が確立したとされています。
春日大社は当初、春日神社と呼ばれていました。
飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。乙巳の変(いっしのへん)で活躍した中臣鎌足(なかとみ の かまたり)が臨終に際し、大織冠とともに藤原姓を賜ったのが藤原氏の始まりです。
『藤氏家伝』によると、中臣鎌足の出生地は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)
で藤原という姓も出生地の地名から取られたものですが、『大鏡』では、大原(現在の奈良県明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説もあります。
天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った鎌足の次男が藤原 不比等(ふじわら の ふひと)です。不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と言われています。
中臣氏(なかとみうじ)は、古代の日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖とし、姓(かばね)は連(むらじ)、八色の姓制定後の姓(かばね)は朝臣(あそみ・あそん)。天児屋命は、天孫降臨の際瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴してきた神です。
妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した神として知られています。
八色の姓(やくさのかばね)とは、天武天皇が天武13年(684年)に新たに制定された「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度のことで、真人は主として皇族に与えられたので、朝臣は最高位に位置します。
春日神社は、藤原 不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命・タケミカヅチノミコト)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まります。社伝では、神護景雲2年に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取神の経津主命(ふつぬしのかみのみこと)と、枚岡神社に祀られていた藤原氏の始祖・天児屋根命・比売神(ひめがみ)を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としています。比売神は、特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神をいいます。春日神社では、上述の天美津玉照比売命です。
春日神社の御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神々であり、また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神として、比売神様、平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神として祭祀され皇室・国家の守護神とされてきました。
神紋は下がり藤。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされています。
春日祭(かすがのまつり/かすがさい)は嘉祥2年(849年)に始まったと伝えられ、明治18年に明治天皇の旧儀再興の意向を受けて翌年勅祭に列せられ、今日の形式になり、3月13日に定められた春日大社の例大祭。維新以前は年2回、2月と11月の上の申の日が式日であったことから申祭とも呼ばれました。三大勅祭(葵祭、石清水祭、春日祭)の一つで氏神祭の典型。他の勅祭と異なる形態をとっています。 勅祭とは、天皇陛下の使者(勅使)が派遣されて執行される神社の祭祀のことです。特に近現代の用語で、勅使派遣が定例になっている神社を勅祭社といい、多くは各神社の例祭となっています。 また勅使は原則として宮城(皇居)での宮中祭祀に当たる掌典をあて、勅祭の内、旧儀保存の目的で古式を参照した特殊な内容を持つものを特に「三勅祭」という。三勅祭とは賀茂神社の賀茂祭(葵祭)、石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭の3つである。これらは江戸時代以前の慣例による束帯を着た勅使が派遣されます。 帝都、武蔵国一ノ宮の氷川神社、国家の保護の篤い橿原神宮・明治神宮・平安神宮・靖国神社などの例祭も勅使が派遣される勅祭です。 賀茂神社 勅使参向
御田植神事(おたうえしんじ)春日大社・林檎の庭・榎本神社階下・若宮神社前の3か所で、八乙女が松苗を植える所作を行う田舞が、神楽男の奏する田植歌に合わせて3月15日奉納されました。 御田植祭は、平安末期の長寛元年(1163年)より続く神事で、古来1月8日以後の最初の申の日が式日でしたが、明治5年から現在の日に行われるようになりました。当日、田主、神楽男、八乙女たち奉仕者は若宮神社前南庭でお祓いを受け、林檎の庭・榎本神社前・若宮神社前の3か所で田舞の奉納を行います。これは、田主が鍬を使って耕す所作を行い、牛面をつけた牛男が唐鋤や馬鍬を引いた後、神楽男の歌と楽器(笏拍子・銅拍子・神楽笛)に合わせて八乙女の田植舞が行われます。この際、早苗に見たてた松苗を用います(枚岡の神が春日の地へ神幸の途中、白毫寺の宅春日の地で松苗を用い、不作に悩む民を救われた古事に基づく)。この時、御巫(みかんこ)の手によって播かれた稲種は年中夫婦大國社で授与され、霊験あらたかな招福開運金運のお守り「福の種子(ふくのたね)」として授与されています。 (参考文献、春日大社HPより) 四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。 自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
。「予祝」とは、あらかじめ祝うことですが、古代日本では、お祝いはめでたいことが起きたからするものではなく、先にお祝いをして めでたいことが起きるのを 予め祝い、そのの結果として祝事が起きると考えられてきたのです。
農耕民族であるわが国は、五穀豊穣、民族の生命線である多産を祈ってきたのです。「祝福」とは、忌み嫌われる言葉を話すと良くないことが起こり、逆に祝福の言葉で状況が好転するというもので、災厄を避けることにもつながります。
我が国は、「言霊(ことだま)の幸(さきわ)う国」とも称されるように、言霊に対する信仰が見られます。言葉には霊力が宿り、口に出されて述べることにより、この霊力が発揮されると考えられています。 神をも畏れ、敬わない人々が増えた昨今ですが、かっての日本人はすべてのものに神が宿り、支配しているものと信じ、崇敬していました。 混迷の現代、日本人はかっての日本人への回帰こそ必要なのではないでしょうか? |
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うま酒みわの舞 大神神社
祈年祭とは、2月17日におこなわれる神社で最も重要なまつりの一つで「としごいのまつり」ともいわれます。
「とし」は稲の稔りの意味で、春の初めに当たるこの時期、その年の五穀豊穣、産業の発展、国家・国民の繁栄を祈る祭典で、11月の新嘗祭とは対になる形で、古くから重要な祭祀とされてきました。 祈年祭は、改暦以前は毎年2月4日に執り行われていましたが、改暦後は、2月17日に斎行されるようになりました。 しかし、祈年祭をいつ執り行うかは地域や神社によって違いがありますが、宮中や伊勢神宮をはじめ、全国の神社で最も丁重におこなわれてきました。 17日、宮城(皇居)宮中三殿において、畏くも天皇陛下におかせられましては、祈年祭の儀をなさりあそばされた。
画像は奈良県桜井市の大神神社で行われた祈年祭ですが、約200人が参列し、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安泰を願いました。 本来は民衆が行う田の神への予祝祭ですたが、大宝律令にも定められた古代の国家祭祀(さいし)が起源とされるます。祈年祭では、稲などの農作物のほか、鯛やキジなどを神前に供え、鈴木寛治宮司が祝詞を奏上。4人の巫女(みこ)が神楽「うま酒みわの舞」を舞い、五穀豊穣と国家安泰を願い奉納いたしました。 『大神神社(おおみわじんじゃ)』。別名を「三輪神社」といいます。
日本神話にも記載され、大和朝廷の設立当初から存在し、「日本最古の神社」と呼ばれる歴史、由緒ある神社です。
神社の中で最も重要な「本殿」を持たず、背後の三輪山そのものを御神体としており、神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とされています。
神奈備とは、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさし、神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や山(霊峰富士)をさし、または岩(夫婦岩)や滝(那智の滝)などの特徴的な自然物がある神のいる場所をいいます。 四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
。「予祝」とは、あらかじめ祝うことですが、古代日本では、お祝いはめでたいことが起きたからするものではなく、先にお祝いをして めでたいことが起きるのを 予め祝い、そのの結果として祝事が起きると考えられてきたのです。
農耕民族であるわが国は、五穀豊穣、民族の生命線である多産を祈ってきたのです。「祝福」とは、忌み嫌われる言葉を話すと良くないことが起こり、逆に祝福の言葉で状況が好転するというもので、災厄を避けることにもつながります。
我が国は、「言霊(ことだま)の幸(さきわ)う国」とも称されるように、言霊に対する信仰が見られます。言葉には霊力が宿り、口に出されて述べることにより、この霊力が発揮されると考えられています。
大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
この壮大な歌は雄略天皇の巻頭歌とともに、万葉集の冒頭を飾る御製歌です。
大意は、ここ大和には、山がたくさん寄り集まっているが、とりよろふ(語義未詳)天の香具山、その山の頂に登り立って領土を見渡せば、人の住む広々とした平野には、靄が立ちこめている。広々とした海では、あちこちで鴎が飛び立つ。豊かなよい国だよ、蜻蛉島すなわち、日本の国は。
香具山からの風景を見て詠んだ風景歌のようにも取れますが、実はもっと深い意味があるのだといわれています。
つまり、その国を見渡しながら「大和の国はすばらしい国である」と詠うことによって言霊の力で大自然の神々に語り掛け、実際にそのような国になるよう願われた御製歌です。 註 天 あめ の 香具山 かぐやま:大和三山の一つ。古来、聖地とされました。また、「あまの」と読む説もあります。 国見 くにみ:春の野遊びを兼ねて豊穣を祈る、天皇陛下の予祝行事。 蜻蛉島 あきつしま :日本国の美称。「秋の島」、または「飽きの島」の意味で、いずれも豊穣を示す。また、蜻蛉(とんぼ)は、豊作の象徴と考えられた。 |
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江戸時代に流行したおかげ参りを描いた「伊勢参宮略図」(安藤広重/大阪・玉造稲荷神社所蔵)
「伊勢に行きたい伊勢路が見たい
せめて一生に一度でも わしが国さはお伊勢に遠い お伊勢恋しや参りたや」 と伊勢音頭で唄われたように、 昔から神宮参宮は日本人の憧れでした。 江戸時代、国民の6人に1人が神宮に参宮したと言われています。
日本人は元来伊勢神宮に対する崇拝心が強く、神宮参宮は、特別にご利益があるとされていました。
江戸からは片道15日間、大阪からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。岩手の釜石からは100日掛かったと言われています。
お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これがお蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しをうけることができた時期もあったのです。
江戸時代、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったのですが、神宮参宮に関してはほとんどが許される風潮でした。特に商家の間では、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていたのです。また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、神宮参宮をしてきた証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていました。
また、庶民の移動には厳しい制限があったといっても、神宮参宮の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参宮をすませた後には京や大坂などの見物を楽しむ者も多かったのです。
明和8年の群参のときから、広く「おかげまいり」と言われるようになり、それ以前の群参については「おかげまいり」と呼ばずに、前述していますが、「ぬけまいり」と呼んでいました。皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たちの伊勢まいりが始まったとかの噂が立つと、子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けました。その旅姿は、白衣に菅笠で一本の杓を持ったりもしました。また、彼らは多く集団を作って旅し、のぼりや万灯を押し立て、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩きました。日頃の生活を離れて自由に旅ができ、十分な旅行費用を用意しなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。それを神のおかげとし、妨げると天罰が下るとされました。
山田三方会合所の記録や本居宣長の『玉勝間』によれば、宝永2年の群参は50日間で362万人に達し、京都から起こった群参の波は、東は江戸、西は現在の広島県や徳島県にまで及ぶほどでした。次の明和8年の「おかげまいり」の総人数は、不明確ですが、宮川の渡し人数から見ても200万人以上に達し、東北地方を除く全国に及んだと言われています。さらに、文政13年の場合は、約500万人が伊勢へ伊勢へと押し寄せています。 当時の庶民にとって、伊勢までの旅費は相当な負担でした。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難です。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたのです。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立ちました。旅の時期は、農閑期が利用されました。
伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪や京の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産を購入したのです。無事に帰ると、帰還の祝いが行われ、江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組み、相互扶助の精神が役立っています。 筆者の生まれ故郷では、つい近年まで伊勢講が存在していました。
お蔭参りに行く者はその者が属する集落の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事が憚るられ、当時の、最新情報の発信地であったお伊勢で知識や技術、流行などを知り見聞を広げるための旅でもあったのです。お蔭参りから帰ってきた者によって、最新の装束(織物の柄)や農具(新しい品種の農作物)がもたらされ、箕に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まったのです。
また迎える伊勢近辺ではどうだったでしょうか?
参宮人の宿泊を認めたお触書きが残存しています。
参宮人の宿泊を認めた触書き(駒田家文書「御用状写帳 二」)
伊勢別街道に近い久居藩領多門村(現芸濃町)の「御用留」閏3月14日付けの大庄屋から村への触れには、「参宮人が多く、旅籠屋での宿泊に差し支える場合は、宿続きの村方に宿泊させるようにし、難渋している者がいたならば、志のある者が宿泊させてもよい」とあり、同時に「火の用心」「農業の手抜きがないように」との記述が見られる。
また、藩から村への触れでは、「参宮人が多く、旅人や難渋者への施行は、奇特なことである。中には施行を進められ、やむを得ず行っている者もあるが、それは心得違いである。施行駕籠も異様な客には出してはならない。ただし、病人や足が痛く歩行困難な旅人に施行することはよい。もちろん、農業に差し支えないように心得るように」とある。多少、藩と大庄屋との間で村への触れの内容が違うが、いずれも困っている旅人への施行を認め、農業に差し障りがないように心がけることとしている。 また、伊勢国紀州藩田丸領でも、「銘々門に立つ者へ合力等を致すように」「宿に困る者については、明家を用意し無賃にて泊まらすように」「施行は心次第、多少によらず施すように」などの通達が見られる(『玉城町史』下巻)。一方で、田丸代官からの各村落への触れには、「参宮人が多く、往還筋の飯米が差し支えるため、領内での米の売買は認めるが、他領への米の移動は禁止」とある。ただ、同じ紀州藩尾鷲組大庄屋記録には、「お蔭参り」に関する記述は見られない。 これらのことから、同じ藩であっても、地域差によって参宮客への対応が異なったことがわかる。 これらを迎え入れる神宮領の資料を見てみると、閏3月ごろの記事に「参宮人で病気になり難渋している者は介抱すること」「宿がない難渋者に対する宿施行を行うこと」「旅籠屋の宿泊料を安くすること」「商人が諸色値段を高くしないように」などの触れが、宇治会合から各村に対して出されている。神宮のお膝元では、こうした参宮人を迎え入れるための準備を行っていたのである。 また大坂の豪商鴻池家は一人50文ずつ、計700万両を施し、空き家はすべて宿泊施設とし、伊勢路では各所で粥を炊いてお蔭参りの人々に奉仕したと言われています。
ござを丸めて、その先にひしゃくを背負う姿は
お伊勢参りの定番のスタイルでした。 その姿をみた主要街道、伊勢路の人々は施行(おもてなし)を行い、無銭でお伊勢参りが可能にしました。 しかし、病気やその他様々な都合により、伊勢参宮に行きたくてもどうしても行けないという人もおり、そういった人達は、自分の代理として他の人に伊勢にお参り行って来て貰う事で、神宮に代参をしたのです。
そして、そのうちに、人間ではなく自分の犬に代参を託す人も出てくるようになり、近所でおかげ参りに行くという人に自分の犬を預けて連れて行って貰ったり、もしくは、道中の人々がその犬を伊勢へと案内してくれる事を期待して、犬一匹だけで送り出される事もあったようです。こういった犬のおかげ参りは江戸時代後期に流行り、おかげ参りをしている犬である事がすぐ判別できるよう、上記画像にあるように、犬には御幣や注連縄が付けられ、また、犬の首には道中のお金などがくくりつけられて送り出されました。
伊勢へと通じる道々では、そうした犬が来ると皆で餌をあげたり泊めるなどして、その分のお金を少し貰ったりもするのですが、逆に「これはとても立派な犬だ」と言ってお金を足してあげる人も多く、犬の首に掛けられている袋のお金が増えてくると、袋が重くて犬が可愛そうだと一枚の銀貨に両替してくれる人までいたそうです。当時の人々はとても信心深かったので、おかげ参りをしている犬からお金を盗むような人はなく、こうして犬は人々の善意に支えられながら伊勢へと送り届けられていったのです。
神宮の「おかげ参り」「参宮」に思いを馳せる時、いかにかっての日本人が大らかで、崇敬心が篤く、同じ日本人を労わるこころがあったかお解りいただけるでしょう。
神宮が「日本人」の「こころのふるさと」と言われている由縁です。
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