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神宮で神楽が始まって140周年を迎え、内宮神楽殿で1日、祝いと感謝の神楽が奉納された。
神楽は神に感謝し、さらなる加護を願う祈祷(きとう)の一つ。神宮では明治6年2月1日から行われている。
明治5年7月、皇大神宮祈祷所及び大麻授与所が創設され、翌年2月1日より神楽の奉奏が開始され、去る2月1日は神楽が奏行されてより140年の佳節に当たり、参宮の方々と共に、神恩に感謝し平安と安寧を祈る記念の催しとして、神楽の奏告、舞楽の公開を執り行われた。 「萬代舞」
この日は、神楽殿で「賀殿(かてん)」の舞楽を奉納した後、参集殿で「振鉾(えんぶ)」「萬代舞(よろづよまい)」「賀殿」の三演目を一般公開された。 「萬代舞」は、昭和二十八年の第五十九回神宮式年遷宮の奉祝で作られた神宮独自の歌舞で、公に披露する機会は珍しく、冠に山桜の花飾りを付け、衣装の裾を長く引いた舞姫四人が、扇を手に、笛や琴の優雅な旋律に合わせて踊り、参拝者を魅了しました。 公開舞楽 萬代舞(よろずよまい) 公開舞楽 賀殿(かてん) 公開舞楽 振鉾(えんぶ) 天孫降臨の神話によると、天照大御神の孫・瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が地上へ降りるとき、大御神は、自らの分身として「三種の神器」と、天上世界の稲穂を授けられた。天孫は授かった稲穂を地上で大切に育て、やがて実ったお米は、日本人の"命の糧"に。これが、瑞穂の国・日本、そして神宮のはじまりです。私たちは、神様や自然によって生かされている――。聖地・神宮は、そのことを教えてくれます。 「参宮」とは、伊勢神宮にお参りすること。参宮がブームとなった江戸時代、お伊勢参りの旅人は、筒状に丸めて背負ったゴザの先に「ひしゃく」を差し、伊勢の人々はそれを目印に施行(おもてなし)を行いました。「神恩のおかげ」「温かい人々のおかげ」でお参りをはたせたことから、お伊勢参りは感謝の念を込めて、「おかげ参り」とも呼ばれたのです。 日本文明の自立性を考える上で重要なものに、伊勢神宮・『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』があります。神宮は垂仁天皇の24年(紀元前4年)に、皇女・倭姫命が各地を行啓されたすえ、、「伊勢の国は豊かで美し国であり、この国にいつまでもいたい」との天照大神の思いを語られ、現在の五十鈴川の川上を大宮地(御鎮座)されたと伝えられます。そして天武天皇の宿願によって、第1回の遷宮は持統天皇4年(690)に行われました。建築様式は、シナ文明のそれとはまったく異なるものであり、日本文明の独自性を明確に表しています。社殿の建立後、20年に1度、式年遷宮が行われ、正殿をはじめとする建物全てが新造され、神宝・道具類も新調されてきました。
「美(うま)し国」に御鎮座された神宮ですが、以来、「おかげ参り」に代表されるような、日本人ならば一度は訪れてみたいと思うわが国の代表的な名所であり続け、いまは世界中からも多くの人が訪れている。その魅力や凄さは一体何なのだろうか。
二十年に一度、御社殿を新しく造り替える式年遷宮は、皇租の天照大御神が常に瑞々(みずみず)しくあってほしいと願う表象でありますが、同時に私たち日本民族の「いのちの甦り」「常若」(とこわか)の祈りが込められているのです。 |
神社のお話
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一年は早いもので、もうすぐお正月です。
一年に二度、民族が大移動します。
正月とは本来、その年の豊穣〔ほうじょう〕を司る歳神様〔としがみさま〕をお迎えする行事で、1月の別名です。現在は、1月1日から1月3日までを三が日、1月7日までを松の内、あるいは松七日と呼び、この期間を「正月」と言っています。地方によっては1月20日までを正月とする(二十日正月・骨正月)ところもあります。
かっての日本人は、お正月を迎えるにあたり、家中が歳神さまをお祭りする祭りの場になったものです。そのため年末には、煤払(すすはら)いをして神棚や祖霊舎(みたまや)、仏壇などもきれいにし家中を清めました。そして注連縄(しめなわ)を張ったり注連飾(しめかざ)りを飾ったりして、不浄なものの侵入を防ぎ、家全体を神聖な場所にしなければならないとしたものです。
家の門や玄関に注連飾りや門松を飾るのは、そこが清浄な場所であることを示すし、歳神さまが家においでになるときの依り代(よりしろ、目印)とするためです。そして、床の間には鏡餅を飾って、歳神さまにお供えします。 お正月飾りはなるべく三十日までに済ませ、大晦日に飾ると「一夜飾り(いちやかざり)」といって忌み嫌いました。二十九日も「苦」に通ずるところから、お餅つきなどもこの日にはしないところが多かったようです。 現在でもこの風習は残っています。
そして歳神さまをおまつりするわけですから、家族一人一人が清浄な心身でお正月を迎えなければなりません。そのため神社では、十二月三十一日には「年越祓(としこしのはらえ)」というお祓いの神事が行われます。これは知らず知らずのうちに身についた罪や穢れを祓い清めて、清々しい心と体でお正月を迎えるために行いうものです。 本ブログ神社のお話で幾度も述べてきましたが、私たちの祖先は森羅万象(しんらばんしょう)すべてのものに神々が宿り、魂が存在すると信仰してきました。
作物の生命〔いなだま〕と人間の生命〔たま〕は1つのものであると考え、そのため人間が死ぬとその魂はこの世とは別の世界に行き、そう遠くへは行かず子孫見守っています。
死の清まる期間(弔い上げ)が過ぎると人の個性が無くなり「祖霊」という大きな集団、いわゆる「ご先祖様」になると信じられていました。この祖霊が春になると「田の神」に、秋が終わると山へ帰って「山の神」に、そして正月には「歳神」になって子孫の繁栄を見守ってくれているのだと言います。
正月は、日本の行事の中で最も古くから存在するものだと言われていますが、その起源はまだ詳しく分かっていません。仏教が伝来した6世紀半ば以前より正月は存在していたと言われています。「お盆」の半年後にやってくる正月は、かってはお盆と同じく「先祖をお祀りする行事」でした。しかし、仏教が浸透しその影響が強くなるにつれて、お盆は仏教行事の盂蘭盆会〔うらぼんえ〕と融合して先祖供養の行事となり、正月は歳神を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」としてはっきり区別されるようになったと考えられています。
また、現在のようなお正月の行事(門松やしめ飾り、鏡餅などを飾ること)が浸透したのは、江戸時代に入り庶民にも手軽に物品が手に入るようになってからのようです。 1年の始めである正月は春の始まりを意味し、すなわち「立春」とも考えられており、人々は春の訪れがもたらす生命の誕生を心から喜びました。「めでたい(芽出度い)」という言葉は「新しい春を迎え芽が出る」という意味があり、また新年に言う「明けましておめでとうございます」という言葉は、実は年が明け歳神様を迎える際の祝福の言葉、つまり、神様への感謝の言葉を人々の間で交わすことにより、心から歳神様を迎えたことを喜ぶものでありました。
門松は、お盆の迎え火と同じで、「祖霊(ご先祖様)」、「歳神様」を松の枝、つまり門松に乗せて家々にお迎えする行事でした。前述していますが、門松は依り代(よりしろ)として、そこにご先祖さまや歳神さまをお迎えしてお祭りするという意味をもっているのです。したがって正月の歳神祭りは非常に重大な儀式であり、依り代としての門松は欠かせないものでした。もともと、お正月もお盆も共通の行事で先祖の御霊をお迎えし、丁寧にお祭りすることが本義でした。つまり、門松も迎え火もともに先祖の御霊をお迎えするための目じるしとしたものなのです。
若水とは、元日早朝に一番初めに汲む水のことで、人を若返らせ邪気を祓う力があると信じられてきました。 若水は、福水(ふくみず)・若井(わかい)・初井(はつい)などとも呼ばれ、地方によっては、元日の朝早く、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に出会っても口をきかないしきたりであったといいます。
平安時代の宮中では、立春の日に御門(天皇陛下)に差し上げた水(立春水)を若水といいましたが、後世になり元日に汲む水を呼ぶようになりました。 この行事は新しい年を迎えるにあたって、生命を育む水の力に対する信仰がもとになっているといわれ、水神が生命誕生や再生に大きな役割を果すことは、日本神話に見られるように古くからの伝承です。
お節料理(おせちりょうり)は酒の肴(さかな)ではありません
お正月の料理にも、それぞれに祈りが込められ、例えば、お屠蘇(とそ)には、山椒、桔梗などの薬草が含まれており、これをいただくと一年の邪気が祓われ、寿命を伸ばすことができると信じられてきました。筆者は現在50歳ですが、往古(おおこ)の昔では、天寿を全うした歳にあたります。現在のように医学が進歩していない時代、寿命とは天から授かったものであると考えられてきました。 お節料理のいわれをあげてみると、据わり鯛(すわりだい) 尾頭付きの焼いた鯛で、二尾の鯛を腹合わせにして頭と尾を高くかかげたもので、目出度いに通じ、数の子 鰊(にしん)の腹子で、その由来は二親から多くの子供が生まれるという縁起をかついだもので、子孫繁栄の願いが込められています。 芋頭(いもがしら) 里芋の親芋で、家の芋ともいいます。小芋をたくさんつけるため、子宝につながり、また頭は人の上に立つ「かしら」に通じることから縁起がよいとされています。 昆布巻き 「喜ぶ」に通じ、現在でも目出度い席に使われます。
本来おせち料理とは、お正月や節句に神さまにお供えするご馳走のことをいいました。 お年玉は、お正月にいただくお小遣(こづか)いのことではありません
お年玉の語源は、古来の習慣であった歳神さまに供えられた鏡餅を人々に分け与えたことに由来し、鏡餅はもともと鏡をかたどったものであり、その鏡は、魂を映すものといわれてきました。古代の日本人は「魂」と「玉」は同じものと考えていたのです。このことから、歳神さまの魂は玉に通じるので「年玉」と呼び、神さまから頂くお下がりなので、敬って「お」をつけ「お年玉」と呼ぶようになったといわれています。 お年玉は、古くは現在のようにお金ではなく丸い餅でした。出生率の割に成人まで達する生存率の低かった昔、私たちの祖先は、子供たちの健全な成長を願い、歳神さまのお力がこもった丸餅を贈りました。 今はお金をあげますが、筆者の子供の頃は、まず神棚にお供えして祈りと感謝を込めて、神さまの前で一人ひとりに手渡しでいただいたものです。 初詣は、年が明けると、まず家族揃って地元の神社にお参りに行きます。年が明けてから始めて神社に参拝することを初詣といいます。氏神さまや、その年の恵方(えほう)にあたる神社などにお参りして今年一年の無事と平安を祈る行事です。
近年は、除夜の鐘が鳴り終わると同時にお参りする習慣が一般化してきていますが、古くは年籠もり(としごもり)といって、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、氏神さまにお籠もりするのが慣わしでした。やがて、この年籠もりは除夜詣でと元日詣での二つに分かれ、初詣のもとの形となったのです。現在でも、除夜に神社などに一度参拝したのち家に帰り、元旦になって改めてお参りに出かけるという地方もあります。 お参りの順序としては、まず、一番身近な氏神さまをお参りしてその年の幸を祈り、それから日頃崇敬する神社や、恵方のお宮へ行かれるのが順序とされています。 お正月が一段落した十五日には、小正月の行事が行われます。
代表的なものは、左義長(さぎちょう)・どんと焼き・鳥小屋(とりごや)などです。これはお正月にお迎えした歳神さまをお送りする行事です。お正月に飾った注連縄や門松、古いお神札(おふだ)などを焚き上げます。その火や煙に乗って歳神さまがお帰りになるといわれています。 日本人は太古の昔より、祈りと感謝を本義とした民族でした。
和を尊び、謀(はかりごと)を良としませんでした。
本来の日本人のよき精神、よき日本の文化を子孫に伝えていくことが現世の我々の使命ではないでしょうか・・・・
画像は日本会議「日本の息吹」よりお借りしました。
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山鹿燈籠起源の御社 大宮神社鳥居 (昭和16年、皇紀二千六百年を記念して建てられました)
今年7月12日に熊本県・大分県を中心に九州地方を襲った豪雨によって多くの同胞が亡くなり、財産までも失われました。改めて、御冥福・お見舞い申しあげます。
8月15、16日に熊本・山鹿市の大宮神社で行われた例祭・山鹿燈籠祭(やまがとうろうさい)はまた特別なものであったでしょう。
日(ひ)の本(もと)に生(あ)れ出(い)でにし益人(ますひと)は 神より出(い)でて神に入(い)るなり (江戸時代の伊勢神宮の神官 中西直方)
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というこの歌は、日本人の死についての昔からの考え方を明確に表現しています。筆者の住まいより十分程度の兵庫県神崎郡福崎町出身の民俗学の草分けといわれる柳田国男先生は、著書『先祖の話』のなかで、「日本人の死後の観念(かんねん)、即ち霊(れい)は永久に、この国土のうちに留まって、そう遠方へ行ってしまわないという信仰(しんこう)が、恐らくは、世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」と述べられています。
死後、人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。 「草葉(くさば)の蔭(かげ)から見守る」という言葉がありますが、ご先祖さまの御霊(みたま)は、常に私たちの身近にいらっしゃって、私たちを見守っています。この祖霊(それい)を慰め、霊威(れいい)が昂(たかま)っていただくために行う「祭(まつ)り」を「先祖まつり」といいます。
「まつり」の語源は、動詞の「まつる」からきています。「まつる」とは、①神さまのお出ましを「待つ」②神さまに供物などを「献(たてまつ)る」③神さまに従う「服(まつろ)う」などが考えられます。これを全部合わせると「神さまをお迎えして、神さまに物を捧げて、心から神さまに従う」という意味になります。このように、神さまにお仕えすることがお祭りの本義なのです。 第十二代景行天皇(けいこうてんのう)をおまつりする大宮神社は、熊本県北部の温泉地である山鹿に鎮座し、この町の産土大神(うぶすなおおかみ)として古来より篤い信仰が寄せられてきました。 景行天皇が菊池川を下流よりさかのぼられ、山鹿の火の口(現在の地名は宗方)に着岸されました。その折、一面に濃霧が立ちこめ進路を阻んだので、里人がたいまつをかかげて御一行をお迎えし、杉山(現在の社地)へお導きしました。
天皇はここに行宮(仮の御所)を営ませられ、その時の奉迎のたいまつの火が山鹿燈籠の起源と伝えられています。 その後、行宮跡に天皇を祀り献灯の儀を行っていましたが、鹿郡旧語伝記によれば、約六百年前の室町時代応永年中に「菊池氏は祭礼の式法を改め、いろいろの燈籠を張り民に捧げさする」とあります。 第七十一代後三条天皇の延久4年11月15日、菊池則隆公が阿蘇十二神を勧請し、田地三十六町歩を寄進しました。 上がり燈籠
室町時代応永年中からはじまる六百年の伝統を受け継ぎ、祭りの起源を今に伝える神事です。 燈籠師(燈籠制作者)の卓越した技術と精魂を込めて制作された奉納燈籠は、8月15日奉納団体の奉納台に美しく飾られます。 御神前で献灯の儀を行い、無事奉納された山鹿燈籠は本殿裏手の神苑に並べられます。神社の杜で明かりに灯されて浮かび上がる山鹿燈籠。まさに幽玄の世界です。また奉納団体の人々は同じ神苑で直会(祝宴)を開きます。 午前零時、「下がり燈籠」と称し、奉納燈籠は全て神社境内の燈籠殿に納められ、その年の祭りも終演を迎えます。 燈籠祭というと燈籠踊りをイメージされる方も多いと思いますが、この上がり燈籠を見ずして燈籠祭は語れません。深夜の神事ですが是非ご覧いただきたい。 山鹿燈籠祭
山鹿燈籠祭 菊池川河川敷では祭りの由来である景行天皇奉迎の様子を再現する景行天皇奉迎儀式が行われ、古代衣装に身を包んだたいまつ行列は千人燈籠踊り会場を目指します。
山鹿小学校グランドの千人燈籠踊り会場では、2部制により千人燈籠踊りが開催されます。 日本人は遠い昔から、神さま、皇室を崇め、ご先祖(せんぞ)さまを敬い、感謝をする心を大切にしてきました。平穏な生活に感謝をしたり、日々の出来事を報告するなど、神棚(かみだな)や祖霊舎(みたまや、仏壇)に頭(こうべ)を垂れ、手を合わすことは、ごく自然な感情であり清らかな心のあらわれでもあります。
このような「敬神崇祖(けいしんすうそ)」の心をもって、神社のお祭りを守り伝え、あるいはお墓参りやご先祖の祭りを行ってきましたが、お祭りを行う大きな意義とは「感謝(かんしゃ)と慰霊(いれい)」の誠を捧(ささ)げることで神さまやご先祖さまと、自分との間の命の繋(つな)がりを確認し、家族の絆(きずな)を深めていくことにあります。 親を通じて、遠いご先祖さまからの命を継承している私たちは、また社会的存在として決して一人で生きているのではありません。自分を取り巻く、家族や地域の人々とのいろいろな関係のもとに日々の生活を送っているのです。 古来、日本人は家族や地域の共同体の「和」を大切にし、名誉を重んじてきました。何気無い不用意な自分の行為が、家族や地域の人の和を損(そこ)なわないように、自分を律(りつ)する自制心を高めるために、常に身を修(おさ)め、家を斉(ととの)えてきたのです。 往古の昔より、祭りを大切にしてきた日本人。 物質に恵まれた生活をしていても、心に潤いがなければ決して幸せとはいえません。
先人の文化、伝統を継承してこそ生きる意義があるのではないでしょうか?
2012山鹿灯籠おどり
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四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
阿蘇山(あそさん)は、熊本県阿蘇地方に位置する活火山。なお「阿蘇山」は通称であり、正式には阿蘇五岳(あそごがく)と呼びます。
世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持ち、「火の国」熊本県のシンボル的な存在として親しまれています。
阿蘇市(あそし)は、熊本県東北部、阿蘇地域の中央に位置します。
農作物を早霜の害から守り、五穀豊穣[ほうじょう]を祈る「火たき神事」が19日、阿蘇市役犬原の霜神社で始まった。
火たき殿で火のついたまきを見守る「火たき乙女」の中村莉玖ちゃんと祖母の邦子さん=19日、阿蘇市の霜神社
標高の高い阿蘇では、収穫時期を早くするため、4月の下旬から5月に田植えが行われます。これは稲の品種改良が進み、農業技術が進歩し、水の確保が容易になったおかげでできるようになったものです。往古の昔は、梅雨時に田植えを行わざるをえなかったので、収穫の時期が遅く、早霜は稲作に大きな影響を与えました。
阿蘇では霜の害から農作物を守るためのお祭りが長い期間をかけて行われます。その祭りを「火焚き神事」と呼びます。この祭りの起こりについては、次のような言い伝えが今日まで、語り継がれています。
阿蘇を開拓し農業を伝えたとされる神様で、神武天皇の子で建磐龍命(タテイワタツノミコト)が阿蘇五岳の城島岳と往生岳の間に腰をかけ外輪山の大石めがけて弓の稽古をしていました。その矢を拾って命のところまで運んでいたのが鬼八という家来でした。九十九本まではきちんと拾って命のところへ持っていきましたが、百本目で面倒になり、矢を命に蹴り返しました。これに命が腹を立て、逃げる鬼八の首を斬りました。恨みに思った鬼八は「死んだら天に昇り、霜を降らせて五穀に害を与えよう。」と言って死にました。以後、毎年早霜がおり阿蘇の民は大変苦しみましたので命は鬼八を神として祀るからと許しを請いました。すると鬼八は「斬られた首が痛むから暖めてほしい」と言ったので、命は霜宮を建て鬼八を祀り、火焚きの神事を始めました。
言伝えに出てくる霜宮は阿蘇市の役犬原と竹原の境近くに鎮座する阿蘇神社の摂社です。祭神は先ほどの伝説に出てくる鬼八と言う話の他に、天の七星という話も聞かれます。また、お宮の近くに「天神」と呼ばれる場所があります。火焚き神事の中でも神輿(みこし)がわざわざ立ち寄る場所で、特別な聖地と意識されている場所ですが、ここは昔隕石が落ちた場所で、ご神体はこの隕石であるとも言われます。
火焚き神事の祭りは8月19日の「乙女入神事」で始まります。御神体を神輿に乗せ、お宮から火焚き小屋と呼ばれる建物に移します。火を焚く場所の上は、すのこ状になっており、ここに御神体を木箱に入れたまま納め、下で神官が火をおこし火焚きが始まります。この時から10月16日まで59日間火がたき続けられます。火の世話は火焚き乙女と呼ばれる少女が行います。昔は火焚きの間は乙女はこの敷地から出ることができなかったと言いますが、今は乙女が火の世話を行うのは祭りの時だけでその他の日は地域の世話役が世話をしています。また、昔は火焚きの期間は8町四方では喧嘩、大声は厳禁とされていました。「和」の精神を大切にしたのです。
この火焚きに使われる薪は阿蘇谷中から集められ、今は霜宮の氏子である役犬原、竹原以外は薪代で納めています。薪や薪代を納めた家には霜よけのお札が配られます。9月15日に寒くなってきたと言うことで御神体を真綿でくるむことを「温め入れ(ぬくめいれ)」と言います。
10月16日、59日間焚き続けた火を落とすお祭りが行われます。これを「乙女上げ神事」と言います。御神体は神輿で火焚き小屋から神輿でお宮に戻されます。
10月17日は、中休みといって 一切の神事を休みます。そして、18日の夜から19日の朝まで「夜渡(よど)祭」が行われます。お宮でお祭りがあった後、神楽殿に積み上げられた薪に火が付けられ、朝まで燃やし続けられます。神楽殿の天井に幣帛(へいはく)を1本上げておくと焚き火をしても建物に燃え移らないと言われています。夜8時過ぎ、太鼓を先頭に、7本の幣帛を持った神官、火焚き乙女、氏子の順で行列を組み天神に行きます。ここで祝詞が奏上され、再び神楽殿に帰ります。帰りは太鼓を打ちながら帰ります。神楽殿に付くとその周りを時計回りに7周回り、神楽殿に入ります。神楽殿の正面に幣帛を戻し、神楽が始められます。神楽は男性の神職が舞う阿蘇古代神楽という神楽で、幣帛、榊、お敷き、剣と採り物は変わりますが、順逆に回転する動作を繰り返す古い巫女舞を思わせる神楽です。この神楽を繰り返し朝まで一人の神職が舞い続けます。途中3度休憩を取ります。このうち2度目と3度目、そしてすべての神楽が終わったときに、お宮の脇の湧き水で神職と乙女が水を被り身を清めます(今は乙女は最後の時だけ)。最後の禊ぎが済んだ後、神官と乙女は7本の幣帛の前にすわり、神官が「霜づかぬ 代々の神業 秋かけて 乙女の籠る 今日は来にけり」という神楽歌を唄います。
そして、神官が神楽に使った幣帛で一晩たかれた焚き火をならし、火を小さくして、乙女と二人で火の回りを5回廻ります。これを「火渡り」と言います。この後7本の幣帛の前に太鼓を置きこれに神官が座り、乙女と三献を行う。これが済むと祭りの始まりの時と同様に天神に行きお祭りは終わります。祭りが終わると、焚き火の灰は、霜やけなどに良く効くものとして参拝者がみんな持ち帰ります。
この祭りは阿蘇神社や国造神社の祭りとともに「阿蘇の農耕祭事」として国から重要無形民俗文化財の指定を受け、二千五百有余年の間伝統を守り、今日に至っています。
我々日本人は、悠久の昔より、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久しく伝えてきたのです。常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい)をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れなのです。
繰り返し再生することで、いつも変わらない姿で、みずみずしいままに「永遠」をめざすーそんな神道における「常若」(とこわか)の思い、祈りは先人の英知を象徴しています。 人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはならないでしょう。 |
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八坂神社 西楼門(重要文化財)
まつり くらしを彩る京の行祭事 八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社。
八坂神社すなわち祇園さんの御祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)八柱御子神(やはしらのみこがみ)- 素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)です。素戔嗚尊は、『古事記』では「須佐之男命」、『日本書紀』では「素戔嗚尊」と表記されており、神話では天照大神の弟神として語られています。
天照大神は天神(あまつかみ)の代表、素戔嗚尊は地祇(くにつかみ)の代表的存在として崇敬されています。特に素戔嗚尊は、母の死に慨き悲しみ、あるいは天照大神との勝利に驕り、さまざまな罪も犯しましたが、高天原からの追放という悲境に自ら雄々しく立ち向かい、遂にこれを克服して、善悪を超えて彼岸に到達したわが国最初の英雄神でもあります。
素戔嗚尊こそが、日本神話の中で一番個性的で魅力的な神であるともいえます。それというのも、現に素戔嗚尊を祀る神社は全国に数多く存在するからです。
その多くは、「祇園さん」、「天王さま」、「天王さん」と呼ばれて親しく信仰されています。
八坂神社の由緒に素戔嗚尊の記述がありますので引用します。
素戔嗚尊が生れ坐したのは、イザナギ・イザナミニ柱の神が国生みの果てに火の神カグツチを生んで、黄泉国(死後の世界)に隠れられたイザナミの神を 追っていかれたイザナギの神が、ケガレをすすぐために筑紫の海でミソギハライ(禊祓)をせられたとき、次々に神さまがお生まれになりましたが、最後に清浄 の極に至ってお生まれになった神さまが、天照大神(アマテラスオオミカミ)・ 本殿(重要文化財)・舞殿
八坂神社といえば、すぐに思い出すのが京都の祇園祭(ぎおんまつり)だと思います。このお祭りは、平安時代、疫病(えきびょう)退散のために御所(ごしょ)内で祇園御霊会(ごりょうえ)が行われたのが最初で、疫病・災害の原因を怨霊と考え、それを鎮めるために牛頭天王(ごずてんのう)をおまつりしました。
牛頭天王は、インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神といわれ、疫病封じのご利益があることから、仏教伝来と共に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視されるようになりました。八坂神社を天王さまと呼ぶところも多いようですが、それはこの名残です。 全国各地の八坂神社も、その地域で疫病が流行(はや)り、それを鎮めるためにおまつりされた例が多いようです。夏に行われる天王祭では、地域によってキュウリをお供えする風習も見られます。 この神さまがなぜキュウリが好物かと言えば、こんな話が伝えられています。その昔、牛頭天王が悪い神さまから逃れるために、キュウリ畑の中に身を隠し難を逃れました。悪い神さまはキュウリのトゲが嫌いだったのでしょう。 それともう一つ、この八坂神社のご神紋は、ちょうどキュウリを切った切り口に似ているからという説もあります。右側の紋がきゅうりの切口に似ているため京都の年配の方は祇園祭の期間(7月中)はキュウリを食しません。飲食店でも出ないとのことです。 八坂神社 御神紋 平安京建都以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。
八坂神社一帯には広大な寺域を持ち、「定額寺」という高い格式を誇った観慶寺があり、別名を祇園寺といいました。
その寺域内にあった「天神堂」が八坂神社の前身で、観慶寺はどういう理由かわからないが衰退し、天神堂が多くの崇敬を集めるようになり発展し、祇園社(八坂神社)となりました。
慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改め今日に至っています。
祇園祭
※参考文献 八坂神社HP豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。
古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を 祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。
祇園祭は、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越 祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。
蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)
八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔鳴尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越 祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与されます。
このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
神を崇(あが)め、神に祈り、和(なごみ)を尊しとする、わが国は「美(うま)し国」です。 |



