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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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鳥居




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鳥居



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鳥居




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参道(鳥居より拝殿方向)




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参道(拝殿方向より鳥居)



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拝殿




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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログにご来訪くださり感謝を申し上げます。

日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
神社こそがわが国柄を表し、我々の祖先の生き様を今日に伝えるものと筆者は確信します。
幾十代もの我々の祖先と同じ神を祀り、神事を継承し、変わることのない鎮守の森は祖先と同じ景色を見ているのです。
我々の祖先の「清明心」は神社に詣で、そのこころを子孫にもうしおくってきた精華といっても過言ではないでしょう。

今回ご紹介させていただく乎疑原神社は兵庫県のほぼ中央、兵庫県加西市繁昌町鎮まります。


【延喜式神名帳】乎疑原神社 播磨国 賀茂郡鎮座 

 明治7年2月郷社

祭神は

大国主命(おおくにぬしのみこと)

小彦名命(すくなひこなのみこと)

菅原道真命(すがはらのみちざねのみこと)

【境内社】八幡神社・稲荷神社・新宮社・三輪社・若宮八幡社
        秋葉神社・大年神社・柿本社 

由緒

乎疑原(おぎはら)神社の創始は奈良時代にさかのぼる。
平安時代の醍醐天皇の御代に、延喜式の国幣の官社に指定された。
加東、加西三十五箇村の総社として例祭には国家より幣帛(へいはく)が供進された格式高い神社です。
ご祭神の大国主命、小彦名命は記・紀によれば協力して国土を拓き農・工・商すべての産業開発、方除・持病・縁結び等、世の中の幸福を増進された人間生活の守護神である。
ご祭神の菅原道真命は学者であり、政治家であり、至誠の人であった。
天神信仰によって、道真公は学神として庶民に奉斎されていった。また芸能の神としても崇拝される。

乎疑原神社由緒より




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拝殿及び本殿



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本殿



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本殿





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我々の祖先は皇室を中心として実に素晴らしい国づくり、地域づくりをしてこられました。現在の日本人には考えも及ばないものです。
祖先が残してきたすべてのもの、文化、慣習を時代につなぐことが不遜になってしまった現代日本人に一番求められています。
神道にはキリスト教、イスラム教などのように教典や、教義、絶対神はありません。しかし、日本全国津々浦々に神社があり、異なる神を崇め、祀っています。他の地域の神を貶(けな)したり、除外することなく日本人は共存共栄をはかり「和」を尊んできました。
穢れを嫌い、寛大、正直、なこころは連綿と受け継がれてきたものです。
穢れなきこころ、清きこころ、明るいこころは、過去、現在、未来、清明心は継承されていきます。
何も足さず、何も変えず、ありのままを後世に伝えて行く、民族の魂を・・
日本のこころが神社にあります。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)



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播磨乃國「ゆるぎ岩」

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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
神道こそがわが国柄を表し、我々の祖先の生き様を今日に伝えるものと筆者は確信します。
幾十代もの我々の祖先と同じ神を祀り、神事を継承し、変わることのない鎮守の森は祖先と同じ景色を見ているのです。
我々の祖先の「清明心」は神社に詣で、巨木や巨石をご神体と崇め、そのこころを子孫にもうしおくってきた精華といっても過言ではないでしょう。

今回ご紹介させていただく「ゆるぎ岩」は兵庫県のほぼ中央、兵庫県加西市畑(はた)町いなぎ谷鎮まります。先般ご紹介させていただきました播磨乃國「高峰神社」から歩いて二十分程度の距離です。
昭和四年発行の加西郡志には、

富田村畑の字いなぎ谷の上にある岩を昔から「ゆるぎ岩」とも「ゆるぎ石」とも云い、神石として居る。岩は二つ並んで居るが、東の方の岩は高さ一丈六尺ばかり、上部尖って中部がふくらんで居る。そのまはりは二丈五六尺もあらう。下部は細ってまはり一丈ほどである。この岩の下にまた大きな岩があって、重ね置いたやうになって居るのだが、その上の岩を押すと揺れ動く。ゆるぎ岩の名は即ち揺れ動く岩との謂である。この岩について伝説がある。
白雉(はくち)年間(孝徳天皇の御代)法道仙人が印度(インド)より日本に渡来し法華山(一乗寺、西国三十三箇所第26番、および播磨西国三十三箇所第33番札所である。山号は法華山、本尊は銅造聖観音立像)を開いてから後、播磨国数十箇所に霊所を開いた。その時この畑村にも来て高峰を開き、猿田彦命のお告げによって伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀った。さうして善人か悪人かを試し、若し悪人であれば善人に還らしめやうと誓ひ、この山の大岩に封って呪文をとなへ、仙人自ら手をもってその岩を押し揺るがし「後世に至って貴賤貧富の別なく人若しここに来ってこの岩を押し試み、岩が揺らいだならばその者は善人である。揺るがなかったらその者は悪人である。即ち善人来って押すときはこの岩揺らぐべし。悪人来って如何に大力を以て押すともこの岩揺がざるべし」と云った。さうしてまた「この岩を押し試みて動かぬ時は自身に罪障あり、邪念あり、やがては神仏の罪を蒙るべきものと心得、早速伊弉諾、伊弉冉の御社に詣で罪悪を懺悔し、正直慈善に立還るべし」と里人に告げて去った。それから里人が時々、此所に来て岩を押し試みると仙人の誓言にわずか
の違いもなかった。里人はこの岩を霊石としてあがめた。その事遠境にも聞こえてこの岩に詣でるもの多くなった。
この地を今、「いなぎ」と呼ぶのは祭神の伊弉諾から「いざなぎの谷」と云ったものを訛ったものである。と云って居る。このゆるぎ岩を詠むだ詩歌が昔から随分あるがその二三を記して置く。

ゆるぎ岩

野々口隆正

ゆるぎてもねさしゆるがぬゆるぎ岩ゆるがぬ御世のたぐひなりけり


ここで言う悪人とは今日でいう犯罪を犯した人のことではありません。
神仏に対して一点の曇りもない清らかな清明心を言います。
今日の個人主義、身勝手な邪悪なこころは論外なのです。
かって奈良、平安時代の日本人の平均寿命は30歳前後と短命でした。
今日の飽食の時代に比べて信仰の理由からも粗食でした。今日は美食の時代とも言われていますが、かっては食べることは卑しいこととされていました。多産でしたが子供は成人になることなく亡くなることが多く、成人でも病気にかかるとすぐ死んでしまいました。いつも死と向き合って生きてきた我々の祖先は黄泉の国での清らかな幸せに満ち、どんな苦しみもない浄土を願って生きておられた。神仏のもとへ召されるについて清らかなこころでと身を律して生きたのが日本人の生き方でした。
穢れを嫌い、寛大、正直、なこころは連綿と受け継がれてきたものです。
穢れなきこころ、清きこころ、明るいこころは、過去、現在、未来、清明心は継承されていきます。
何も足さず、何も変えず、ありのままを後世に伝えて行く、民族の魂を・・
日本のこころがここににあります。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)


播磨乃國「高峰神社」

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石鳥居



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わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
神社こそがわが国柄を表し、我々の祖先の生き様を今日に伝えるものと筆者は確信します。
幾十代もの我々の祖先と同じ神を祀り、神事を継承し、変わることのない鎮守の森は祖先と同じ景色を見ているのです。
我々の祖先の「清明心」は神社に詣で、そのこころを子孫にもうしおくってきた精華といっても過言ではないでしょう。

今回ご紹介させていただく高峰神社は兵庫県のほぼ中央、兵庫県加西市畑(はた)町鎮まります。


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厳島神社





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拝殿





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拝殿





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拝殿




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拝殿




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拝殿




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本殿


式内社、村社

祭神 国常立神 
    (配祀)伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大神、月讀神、稚産靈神

祭日 十月十六日、十七日

昭和四年発行の加西郡志によると、高峰神社はかって延喜式にも記載された「崇健神社」であると言われています。
かっての鎮座地は同じ畑町神路山山頂に祀られていました。
その当時は淡路や飾磨郡の漁業者が崇拝し、山陸部にある当社への参拝が絶えなかったそうです。山頂より現在地へ遷座されたのは天文年間、四百六十年以上前です。
遷座後に「崇健神社」より、現在の「高峰神社」と社名を改めたとあります。延喜式(平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つ)に載せられた社名を改めたのは社格を損ねるものであると記載されています。


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本殿



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本殿



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本殿





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左より門麿社、熊野社、住吉社




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境内社




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摂社




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 左より日吉社、王子社、門麿社



我々の祖先は皇室を中心として実に素晴らしい国づくり、地域づくりをしてこられました。現在の日本人には考えも及ばないものです。
祖先が残してきたすべてのもの、文化、慣習を時代につなぐことが不遜になってしまった現代日本人に一番求められています。
神道にはキリスト教、イスラム教などのように教典や、教義、絶対神はありません。しかし、日本全国津々浦々に神社があり、異なる神を崇め、祀っています。他の地域の神を貶(けな)したり、除外することなく日本人は共存共栄をはかり「和」を尊んできました。
穢れを嫌い、寛大、正直、なこころは連綿と受け継がれてきたものです。
穢れなきこころ、清きこころ、明るいこころは、過去、現在、未来、清明心は継承されていきます。
何も足さず、何も変えず、ありのままを後世に伝えて行く、民族の魂を・・
日本のこころが神社にあります。

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高峰神社 地図
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位置図



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鳥居



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鳥居



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参道



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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
わが国は春夏秋冬の眺めの”美しい国”です。
山や川や海のきれいな国です。このよい国に私たちは生まれました。
戦前まで我々の先人はわが国をこのように形容しました。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。

筆者は冒頭の日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国の語句にはじまり、末尾の人々に崇(あが)められるようになったのですまでの語句を必ず記載するようにしています。
これらはまさにわが国を表し、我々の祖先の生き様を今日に伝えるものと筆者は確信しているからです。
我々の祖先の「清明心」は神社に詣で、そのこころを子孫にもうしおくってきた精華といっても過言ではないでしょう。

今回ご紹介させていただく夜比良(やひら)神社は揖保川のほとり、兵庫県たつの市揖保町揖保上271−1鎮まります。


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神楽殿



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手水舎



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御由緒

旧社格 県社 延喜式揖保郡七坐の内 

御神紋 子持ち亀甲に米 

御由緒 
 夜比良神社の創建は、1200年以前といわれています。 

 御祭神の大己貴命(オオナムチノミコト)は、「播磨国風土記」にみられる葦原醜男命(あしはらしこおのみこと)で、他に大国主命(おおくにぬしのみこと)、大汝命(おおなむちのみこと)など、多くの名前で呼ばれ、出雲大社の御祭神と同神です。 

 はじめ出雲国を開拓された大神は、因幡国を経て播磨国に入られ、伊和神社(現宍粟市一宮町)に鎮座されました。 

 また揖保川に沿って南下され、粒丘に足を留められ、人々をいつくしみ、この地方を開かれ災禍を祓い除かれました。 

 この故事により、播磨国の一の宮である伊和神社を「北方殿」 
と呼ぶのに対し、揖保川流域の南をお護りする夜比良神社を「南方殿」と呼びます。 

 また、中世には、下揖保荘の総鎮守として、播磨国の豪族赤松氏そ尊崇をあつめ、「神式は赤松政村これを定む」と今に伝えられています。 

 古来、農業の神、病気平癒の神、健康の神、福の神、縁結びの神、学問の神として信仰されています。



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拝殿



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拝殿



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拝殿



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拝殿



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拝殿



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本殿



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本殿


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この扁額は、旧鳥居(昭和15年10月建立)の扁額で、今回(平成11年10月)の再建に際し、場所を移し保存したもの。扁額の揮毫者は、鳥居の柱に「海軍大将・米内光政閣下」。



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本殿



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本殿



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摂社



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摂社




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摂社



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摂社



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摂社



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摂社



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本殿



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本殿



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社務所


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神楽殿


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我々の祖先は皇室を中心として実に素晴らしい国づくり、地域づくりをしてこられました。現在の日本人には考えも及ばないものです。
祖先が残してきたすべてのもの、文化、慣習を時代につなぐことが不遜になってしまった現代日本人に一番求められています。
神道にはキリスト教、イスラム教などのように教典や、教義、絶対神はありません。しかし、日本全国津々浦々に神社があり、異なる神を崇め、祀っています。他の地域の神を貶(けな)したり、除外することなく日本人は共存共栄をはかり「和」を尊んできました。
穢れを嫌い、寛大、正直、なこころは連綿と受け継がれてきたものです。
穢れなきこころ、清きこころ、明るいこころは、過去、現在、未来、清明心は継承されていきます。
何も足さず、何も変えず、ありのままを後世に伝えて行く、民族の魂を・・
日本のこころが神社にあります。

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「千人灯籠踊り」

天皇彌榮(すめらぎいやさか)
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昨日、今日深夜まで熊本・山鹿市の大宮神社で行われている例祭・山鹿燈籠祭(やまがとうろうさい)はぜひ、一度は訪れてみたいお祭りです
頭上に金灯籠を乗せた浴衣姿の女性たちが、古代の灯の記憶をたどるように、美しい「千人灯籠踊り」を繰りひろげます。ゆらゆらとうねる光の波。哀愁を帯びた「よへほ節」の調べは、祭りの熱気と夏の夜風が一つになって、ノスタルジーとも夢み心地とも言いがたい陶然とした雰囲気に包まれれます。熊本県内外から約30万人を超える人々が訪れ、九州屈指の夏の風物詩と言われています

日(ひ)の本(もと)に生(あ)れ出(い)でにし益人(ますひと)は 神より出(い)でて神に入(い)るなり (江戸時代の伊勢神宮の神官 中西直方)
 
 「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というこの歌は、日本人の死についての昔からの考え方を明確に表現しています。筆者の住まいより十分程度の兵庫県神崎郡福崎町出身の民俗学の草分けといわれる柳田国男先生は、著書『先祖の話』のなかで、「日本人の死後の観念(かんねん)、即ち霊(れい)は永久に、この国土のうちに留まって、そう遠方へ行ってしまわないという信仰(しんこう)が、恐らくは、世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」と述べられています。
死後、人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。
「草葉(くさば)の蔭(かげ)から見守る」という言葉がありますが、ご先祖さまの御霊(みたま)は、常に私たちの身近にいらっしゃって、私たちを見守っています。この祖霊(それい)を慰め、霊威(れいい)が昂(たかま)っていただくために行う「祭(まつ)り」を「先祖まつり」といいます。

「まつり」の語源は、動詞の「まつる」からきています。「まつる」とは、①神さまのお出ましを「待つ」②神さまに供物などを「献(たてまつ)る」③神さまに従う「服(まつろ)う」などが考えられます。これを全部合わせると「神さまをお迎えして、神さまに物を捧げて、心から神さまに従う」という意味になります。このように、神さまにお仕えすることがお祭りの本義なのです。
 

第十二代景行天皇(けいこうてんのう)をおまつりする大宮神社は、熊本県北部の温泉地である山鹿に鎮座し、この町の産土大神(うぶすなおおかみ)として古来より篤い信仰が寄せられてきました。
景行天皇が菊池川を下流よりさかのぼられ、山鹿の火の口(現在の地名は宗方)に着岸されました。その折、一面に濃霧が立ちこめ進路を阻んだので、里人がたいまつをかかげて御一行をお迎えし、杉山(現在の社地)へお導きしました。
 天皇はここに行宮(仮の御所)を営ませられ、その時の奉迎のたいまつの火が山鹿燈籠の起源と伝えられています。
 その後、行宮跡に天皇を祀り献灯の儀を行っていましたが、鹿郡旧語伝記によれば、約六百年前の室町時代応永年中に「菊池氏は祭礼の式法を改め、いろいろの燈籠を張り民に捧げさする」とあります。
第七十一代後三条天皇の延久4年11月15日、菊池則隆公が阿蘇十二神を勧請し、田地三十六町歩を寄進しました。





上がり燈籠
 

室町時代応永年中からはじまる六百年の伝統を受け継ぎ、祭りの起源を今に伝える神事です。
古より異朝(外国)の支配を受けず一国一文明を為したわが国だから伝わるお祭りや風習がわが国には多く存在します。灯籠まつりもそのひとつと言えるでしょう。

 燈籠師(燈籠制作者)の卓越した技術と精魂を込めて制作された奉納燈籠は、8月15日奉納団体の奉納台に美しく飾られます。
御神前で献灯の儀を行い、無事奉納された山鹿燈籠は本殿裏手の神苑に並べられます。神社の杜で明かりに灯されて浮かび上がる山鹿燈籠。まさに幽玄の世界です。また奉納団体の人々は同じ神苑で直会(祝宴)を開きます。

 午前零時、「下がり燈籠」と称し、奉納燈籠は全て神社境内の燈籠殿に納められ、その年の祭りも終演を迎えます。

 燈籠祭というと燈籠踊りをイメージされる方も多いと思いますが、この上がり燈籠を見ずして燈籠祭は語れないと言われています。深夜の神事ですが近隣の方は是非ご覧いただきたい。
 
 
山鹿燈籠祭
 
 
 
 
山鹿燈籠祭



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 木や金具をいっさい使わず、和紙と少量の糊だけで作られる山鹿灯籠。後に、城造りや神殿造り、座敷造りなどへと多様化しました。その精緻な技法は灯籠師の手によって脈々と受け継がれ、現在では、県の伝統工芸品に指定されています。現在、山鹿の灯籠師は6人だけ。神様へ奉納する灯籠を作る仕事はとても厳粛なもので、灯籠師たちは、毎年4月になると、大宮神社で灯籠製作開始のためのお祓いを受けて小屋入りし、水垢離(みずごり)をとり、作業部屋を清めて注連縄(しめなわ)を張り、部屋に独りこもって物忌(ものい)みをするのだそう。その慣わしは、今も、昔同様に続けられています。
金灯籠と「よへほ節」の調べが一つに合わさって、現在の灯籠踊りがはじまったのは、昭和29年頃のこと。その陰には、山鹿を愛する2人の郷土史家・森川恒臣氏と木村祐章氏の英知があったといいます。「よへほ節」は、もともと、明治から大正にかけて流行した座敷歌とも酒造り歌ともいわれ、昭和8年に野口雨情が改詞したものです。

【現在のよへほ節】
ぬしは山鹿の骨なし灯籠 ヨヘホ ヨヘホ 
骨もなけれど肉もなし ヨヘホ ヨヘホ
洗いすすぎも鼓の湯籠 ヨヘホ ヨヘホ 
山鹿千軒たらいなし ヨヘホ ヨヘホ
心荒瀬の蛍の頃に ヨヘホ ヨヘホ
溶けし想ひの忍び唄 ヨヘホ ヨヘホ
山鹿湯祭り月さえおぼろ ヨヘホ ヨヘホ
花は夜桜袖に散る ヨヘホ ヨヘホ
袖にほんのり湯の花も香る ヨヘホ ヨヘホ
山鹿湯の町 忘らりょうか ヨヘホ ヨヘホ
肥後の小富士を 吹き来る風に ヨヘホ ヨヘホ
立つは浮名と 湯のけむり ヨヘホ ヨヘホ
山鹿灯籠は 夜明かしまつり ヨヘホ ヨヘホ
町は灯の海 人の波  ヨヘホ ヨヘホ

改詞前のよへほ節】
ぬしは山鹿の骨なし灯籠 ヨヘホ ヨヘホ
骨もなければ肉もなし ヨヘホ ヨヘホ
裏の山椒の木や仏か神か ヨヘホ ヨヘホ
忍び男のかげかくす ヨヘホ ヨヘホ
今宵忍ぶなら裏からおいで ヨヘホ ヨヘホ
表くんぐり戸ガラガラチャン音がする ヨヘホ ヨヘホ
裏の窓からこんにゃく投げて ヨヘホ ヨヘホ
今夜来るとの知らせかな ヨヘホ ヨヘホ
逢ひに来たもの何のただかへそ ヨヘホ ヨヘホ
裏の割木でどやてやれ ヨヘホ ヨヘホ
松の枯葉アレ見やしゃんせ ヨヘホ ヨヘホ
私もあの世に二人連れ ヨヘホ ヨヘホ

 改詞前のよへほ節はもともと酒席、いわゆるお座敷唄として歌われていたと言われています。改詞したよへほ節と、山鹿伝統の燈籠祭とが結び付け、さらに戦後になって女性の頭に燈籠を乗せた灯籠踊りを考案したことが、山鹿灯籠祭を今日、全国区の祭りに押し上げたと言われていますが、古事をもしっかり守っています。
菊池川河川敷では祭りの由来である景行天皇奉迎の様子を再現する景行天皇奉迎儀式が行われ、古代衣装に身を包んだたいまつ行列は千人燈籠踊り会場を目指します。

 山鹿小学校グランドの千人燈籠踊り会場では、2部制により千人燈籠踊りが開催されます。
 
日本人は遠い昔から、神さま、皇室を崇め、ご先祖(せんぞ)さまを敬い、感謝をする心を大切にしてきました。平穏な生活に感謝をしたり、日々の出来事を報告するなど、神棚(かみだな)や祖霊舎(みたまや、仏壇)に頭(こうべ)を垂れ、手を合わすことは、ごく自然な感情であり清らかな心のあらわれでもあります。
このような「敬神崇祖(けいしんすうそ)」の心をもって、神社のお祭りを守り伝え、あるいはお墓参りやご先祖の祭りを行ってきましたが、お祭りを行う大きな意義とは「感謝(かんしゃ)と慰霊(いれい)」の誠を捧(ささ)げることで神さまやご先祖さまと、自分との間の命の繋(つな)がりを確認し、家族の絆(きずな)を深めていくことにあります。
 親を通じて、遠いご先祖さまからの命を継承している私たちは、また社会的存在として決して一人で生きているのではありません。自分を取り巻く、家族や地域の人々とのいろいろな関係のもとに日々の生活を送っているのです。
 古来、日本人は家族や地域の共同体の「和」を大切にし、名誉を重んじてきました。何気無い不用意な自分の行為が、家族や地域の人の和を損(そこ)なわないように、自分を律(りつ)する自制心を高めるために、常に身を修(おさ)め、家を斉(ととの)えてきたのです。
往古の昔より、祭りを大切にしてきた日本人。
物質に恵まれた生活をしていても、心に潤いがなければ決して幸せとはいえません。
先人の文化、伝統を継承してこそ生きる意義があるのではないでしょうか?
 

天皇彌榮(すめらぎいやさか)




参考文献 くまの素(くまのもと)山鹿灯籠まつり
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