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すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
畏くも両陛下におかせられましては、24年ぶりに愛媛を行幸啓あそばされ、無事帝都へ還幸啓あそばされた。ご高齢であらせながら臣民(国民)とのふれあいを大切にされる両陛下の大御心に唯々感謝し、あらてめて唯一無二の存在であられ、肇國以来の他国になき国民統合の存在であられることを感じます。
極東アジアのわが国に存在し、支那、朝鮮にないもの、それは皇室の存在です。
わが国において保守とは、皇室を仰ぎ、日本の伝統を堅守していくことこそ、わが国における保守の本義だと私は思います。
両陛下がいつまでもご健康であられることを衷心より願ってやみません。
天皇陛下万歳。
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日本人の忘れたもの
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すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
憂国の士であり、先人の名誉回復、日本人の誇りの為に活動されている元衆議院議員の杉田水脈氏が、自民党から出馬されることが決まりました。
前回の選挙で落選してからも、ずっと自費でもってわが国を貶める反日国のプロパガンダと戦い国連に何度も足を運んで日本人の名誉の為に世界に発信されたことは周知の事実です。
国内レベルじゃなく、国外レベルでの情報戦ができる存在。議員として、更に活躍して欲しい逸材です。
まさに現在の井戸塀政治家と言える方ではないでしょうか?
政治用語で「井戸塀」という言葉があります。私財をなげうっても政治に頑張った(国民のために頑張った)ため、家・屋敷が「井戸と塀しか残らなかった」という政治家を喩えての言葉ですが、「本当に井戸塀になった政治家」というのはいるのでしょうか?
田中正造代議士(天保12年11月3日(1841年12月15日) - 大正2年(1913年)9月4日)通算当選6回が井戸塀政治家にあげられます。
田中正造代議士は足尾銅山鉱毒事件の際に明治天皇に直訴するという自身の生死を問わぬ前代未聞の行動は、後に日本国民を驚かせ足尾銅山の公害問題の存在を世に知らしめました。その後も田中代議士は精力的に足尾銅山問題に取組み、その一生をかけて問題解決の為の運動を死ぬ直前まで行われました。 「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」を突きつけた。「民を殺すは国家を殺すなり。法を蔑ろにするは国家を蔑ろにするなり。皆自らを毀(こぼつ)なり。材用を濫り民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし。これを如何」
有名な言葉です。
田中正造代議士の財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、亡くなられた時は無一文だったというのは周知の事実です。
田中代議士の死亡時の全財産は信玄袋1つで中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであったと伝えられています。 政界は一寸先は闇だと言われていますが、田中先生のように私心なき杉田水脈さんには是非当選され、国政の場で活躍され、先人の名誉回復、現代日本人の名誉を誇りを取り戻す活動をされんことを願っているのは筆者だけではないでしょう。
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坂の上の雲(明治村).wmv
天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
ちいさな光が 歩んだ道を照らす
希望のつぼみが 遠くを見つめていた
迷い悩むほど 人は強さを掴むから 夢を見る
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し
あなたと歩んだ あの日の道を探す
ひとりの祈りが 心をつないでゆく
空に手をひろげ ふりそそぐ光あつめて
友に届けと放てば 夢叶う
はてなき想いを 明日の風に乗せて
私は信じる 新たな時がめぐる
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し
「Stand Alone」とは「自立」を意味します。 平成14年までは毎年9月15日が敬老の日でした。 敬老の日の起源は、筆者の生まれ故郷と隣接する、兵庫県多可郡野間谷村(後の八千代町を経て現在の多可町八千代区)の門脇政夫村長(のち兵庫県議会議員)と山本明助役が昭和22年に提唱した「としよりの日」が始まりとされています。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、当時は農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、従来から敬老会を開いていた。これが昭和25年からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がりました。なお、「敬老の日」の起源とされた多可町には昨年、「敬老の日制定50周年記念式典」(県、同町主催)が開催され、秋篠宮両殿下がご台覧あそばされた。 筆者の幼少の頃、筆者の祖父母らはほとんど明治生まれでした。
「明治生まれ」というのは、当然ですが日本にしかありません。又、今現在明治生まれの方は最年少であっても105歳を越えています。 平成23年統計では総人口に対する明治生まれの方々が占める割合は、0.1%、大正生まれの方々が総人口に対する割合は、3.3%・・・ あと数年で人間の寿命というものを考えてみた時、明治生まれの方はほとんどこの世の中にいらっしゃらなくなるでしょう・・・ 他界して30年になる筆者の祖母の口癖は「ありがたい」「もったいない」「人様のため」「自分を下に下に」「親を大切に」...でした。まさに教育勅語の精神でした。 また、「怒り・憎しみ・妬み・嫉妬・不平・不満」は全て、増上慢、思い上がりだと教えてくれました。いつも感謝と笑顔の人だったと...今でも記憶しています。 筆者が知る明治人は皆、「凛」としていました。 現在の人々にはない起居振舞や姿などがりりしくひきしまっていたように思えます。 筆者らの世代ぐらいまでが、明治人の薫陶を僅かながらに受けた世代ですが、荒んでいく世相、荒廃していく道徳。先人が遺してくれた大事なものを一つ、また一つ失っていく様は、日本に住みながら別の国にいるようです。 一日また一日、辞世されていく、明治、大正世代の素晴らしい先人たち。
しかも、何かを為し、使命を達成したかのごとく颯爽とされています。 「ありがとうございました」と感謝の言葉しか見つかりません。 拙記事は平成十三年九月十五日にエントリーしたものを加筆しています。
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」を主宰され「さくらの花びら」のHNで秀逸記事を発信されている保守の会会長 松山昭彦氏は当時拙記事に次のようにコメントいただきました。
大家族は継承家族とも言います。戦後、大家族が核家族になり、今ではその核家族も個人個人になっています。祖先の知恵を受け継ぐ場所がなくなって日本らしさがどんどん遠のいています。年寄りはよき知恵を継承も出来ずに孤独に亡くなっていきます。これで本当によいのでしょうか。
また煎茶道松月流家元、渡辺宗敬宗匠は 明治に生まれた人が素晴らしかったのは、江戸の世に生まれた人に育てられたからです。国風文化の頂点の香りを、色濃く残していたんだろうと思います。そこには、歴史と文化の継承が間違いなく存在してました。私達、団塊ジュニア世代には、その大切な継承がありません。何故か?親が大切な事を知らないから…。これが、戦争の一番の犠牲なんだろうと思って居ます。しかし、教育勅語を始め、正すべき「大和心」の範が沢山残って居ます。この原点に、今一度立ち返る事が必ず出来る筈だと信じて居ます。我々、大和の民は、常にこの原点帰りを繰り返してきた歴史があります。諦めず、沢山の教えを残してくださいませ。私の娘は、「凜」と申します。悠仁親王と、この子達の世代が活躍出来るお手伝いをするのが、中抜きされた私達の努めだと信じて居ります。
とコメントいただきました。
またタケシさまは
頑固者が明治生まれの代名詞みたいに言われる昨今ですが、とんでもない!
これほど美しい世代の先人に学ばねばモッタイナイです。 戦後日本が忘れた課題、問題点を提起してくださいました。
世代間の魂の継承がなされず断絶した感がある今日の日本。
しかし、日本を世界に知らしめ、尊敬された世代が間違いなく存在するのです。
筆者は常に自問自答しています。
凛とした日本人でありたい、先人が歩んだ道を照らせる日本人でありたいと・・・ |
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すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。
日々の更新を怠る日々が続き、ご来訪くださる皆様にあらためてお詫び申しあげます。
もう幾日か経つとお彼岸です。
ご来訪くださる皆様におかれましては、日々の安寧に感謝しご先祖さまへの感謝と故人への報恩の報告に墓参されることでしょう。
今や若い世代や無信心の方々においては死語に近い存在となってしまった「ご先祖様」。
現在の平和で豊かな世の中を享受している現代人には想像が難しいですが、ご先祖様は、歴史上にある戦争や飢饉など、過酷な時代を生き、命を繋いできました。それらを乗り越え今の我々の存在があります。わが国でも大飢饉があった際には、人口が激減するような想像もできない過酷な状況もありました。我が子を生かすために、親は自らの命を投げうってでも食べ物を与えて救おうとしたことが多くの文献等でも知られています。現代日本の価値観はご先祖様の存在をどんどん忘れてしまう方向に向っています。日本人が日本人らしさを失っていくのは寂しいかぎりです。日本列島に日本人が営みをはじめ日本人の命が連綿と紡いでこられた。今生きている我々は天壌無窮に続いている命のつながりの中の「今」を生きています。これが「中今を生きる」神道のことばです。命は、自分のもののようであって、借り物です。先祖から受け継いで、それを次に受け渡し、伝えるものなのです。今の時代は苦しくとも、子や孫子の時代をよくしたい、そうするには自分はどう生きるか、どう生きたらよいのかの答えが自ずと生まれてきます。過去を未来に繋ぎ未来を安泰なものにするには「今」の積み重ねが大切です。かって日本人の誰もが持っていた価値観をもう一度取り戻していくことこそが必須ではないでしょうか?
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歌川国貞「豊歳五節句遊・七夕」(国立国会図書館所蔵) 天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログにご来訪賜り感謝を申し上げます。
九州地方で発生した豪雨により犠牲となられた御霊に衷心よりお悔やみもうしあげます。またこれ以上被害が大きくならないよう祈ります。
節句(せっく)は、わが国の暦の一つで、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日。日本の文化・風習。節供(せっく)、古くは節日(せちにち)ともいいます。
意外知られていませんが、新暦では3月3日・5月5日・7月7日は同じ曜日となり今年は金曜日にあたります。
稲作を中心に生活を営んできた日本人にとって、四季の移り変わりはとても大切なものでした。春に籾を蒔いてから秋の収穫を終え、新しい年を迎えるまでの季節の節目ごとに田の神さまをお迎えし農作業の無事や五穀豊穣を祈りました。それが今日に伝わる、五節句やお正月などに代表される年中行事です。
私たちの祖先は、生命(いのち)は神さまや祖先から授かったものと捉えていました。 そして、家族が毎日健康でいられることを神さまのご加護と考えてきました。そして節句には、特別なお供え物をして日頃のご加護に感謝し、これからも家族が健康でいられるよう祈りました。桃の節句に飾る雛人形や、端午の節句に立てる鯉のぼりは、そんな家族の祈りを形にしたものといえます。 往古の昔にはたくさんの節句がありましたが、現代に伝わる五節句は、江戸時代に幕府がそれまでの節句をもとに公的な祝日として制定したものです。五節句には、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日のように奇数の重なる日が選ばれています。ただし一月一日(元旦)は特別な日と考え、替わりに一月七日の人日(じんじつ)を五節句の中に取り入れています。また、これらはお正月の七草、三月の上巳(じょうし)の桃、五月の端午の菖蒲、七月の七夕の竹、そして九月の重陽の菊と、必ず季節の草や木に彩られるのが特徴です。 七夕(しちせき)の節句は、七夕(たなばた)祭りのことです。願い事を書いた短冊を結んだ竹や笹が飾られる風景は、夏の風物詩となっています。七夕は、彦星と織姫が年に一度だけ天の川に橋をかけて会うことを許された日という星祭の伝説で親しまれています。こうした習俗は、奈良時代に唐(シナ)から日本に入ってきたものです。 日本では、古来お盆に祖先の御霊(みたま)をお迎えする前に、棚機津女(たなばたつめ)と呼ばれる乙女が、人里離れた水辺の機屋(はたや)に籠って神さまをおまつりし、それが終わった日に、禊(みそぎ)をする行事がありました。そこに唐(シナ)から星祭と乞巧奠(きっこうでん、技能や芸能の上達願うお祭り)の風習が入ってきて、七夕という節句行事へと変化してきました。七夕の次の日に笹竹を川や海に流す「七夕流し」は、心身の穢れを流すというお祓いの意味が込められています。 また、棚機津女は、『日本書紀』は、瓊瓊杵尊(ニニギのミコト)の妃となる木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を、「神代下第九段一書第六」において、「かの先立つる浪穂の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉も、もゆらに、機織る少女」というように棚機津女として描かれています。 七夕伝説自体は、シナ・日本だけでなく、朝鮮半島・東南アジアの国々に広く分布していますが、アジアの七夕伝説は、大水で流されて二人が離ればなれになったり、水はよくないものとする傾向が強いのです。それに対し、日本の農村の七夕では、雨が降ると穢れ(けがれ)を祓うという意味で、水をよいものと捉えてきたのです。 この行事は、ちょうど稲の成長期である、旧暦のこの時期(八月)は、稲作にとって雨の欲しい時期でもあるため、七夕は「水神祭」であるとも考えられ、神社等で雨乞いの行事も行われたのです。日本の伝統、気候、風土に基づいた「雨乞い」の儀式でもあったのです。 このように、農耕民族であるわが国では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水に関わる農耕儀礼として、さらに、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」「七日盆(なぬかぼん)」という祖先の精霊迎えの祓え(はらえ)の行事や、胡瓜や茄子を神の乗り物の馬や牛の形にして供え、田畑の収穫を神々に感謝する庶民の祭りがこれに加わり、日本独特の七夕行事が生まれたのです。 七夕に水と関係がある行事が多く行われるのはその名残といえます。たとえば青森県の「ねぶた祭」などはもともと形代に災難とのかかわりを移し水に流す行事であったといわれています。またこの日は七回水浴びをすると良いとも伝えられています。 人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはなりません。
日本の伝統や文化を知るほど日本の素晴らしさがわかります。七夕(しちせき)の節句がそれを教えてくれています。
拙記事は昨年の七月七日にエントリーしたもので再記載となります。
天皇彌榮(すめらぎいやさか) |




