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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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在りし日の先帝陛下と香淳皇后 御真影


天皇陛下崩御


天皇彌榮(すめらぎいやさか)

今日一月七日は昭和天皇祭です。
先帝陛下が崩御あそばされてから二十八年になります。
先帝陛下の御遺徳を偲び、皇室の彌榮を祈念します。



やすらけき世を祈りしもいまだならず
               くやしくもあるか きざしみゆれど
 
 
昭和六十三年に、「全國戦没者追悼式八月十五日」と題されて詠ませられた畏くも、昭和天皇陛下の大御歌(おおみうた)です。
陛下最晩年の大御歌であり、公に発表された大御歌でこの後に詠まれた御歌は二首のみです。
畏くも、昭和天皇陛下のお嘆きの深さを痛感致します。
ご病状も進み、那須の御用邸でご療養中であられたにもかかはらず、八月十五日の『全國戦没者追悼式』にヘリコプターで移動あそばされ、御親覧あそばされたのであります。
畏くも、昭和天皇陛下はそれほどまでに戦没者に対する慰霊と感謝の思いをお持ちになっておられたのであります。有難き限りであります。
畏くも、昭和天皇陛下はこの2年前に、
 
 
この年のこの日にもまた靖國の
               みやしろのことにうれひはふかし
 
 
と詠まれあそばされ、必死の力をふりしぼり全國戦没者追悼式の壇上にのぼられたのであられました。
六十三年間もご在位になり、この全く異例の恐れ多い最後の國事に対しての御製になったことは臣下として全く申しわけなく思います。
日本画家であり『「日本の神話」伝承館』館長、『「日本神話の心」伝承の会』会長を努められ平成二十二年に辞世された出雲井晶さんは、「『やすらけき…』を拝誦しますとき、申しわけなさに身のちぢむ思いがするのは私だけではないでしょう。…國民みなが思し召しを自分の問題としてとらえ、無私の大御心をみならおうと努めるとき、現今の様々な危機的状況は次第に消えましょう。
わが國の本当の姿である『明き清き誠の心』がみなにあらわれ、わが國は新しくよみがえりましょう。天上にいます昭和天皇にご安堵いただける日のくることを祈らずにはおられません。」(『昭和天皇』)と書かれています。
 
大東亜戦争終戦後、先帝陛下はマッカーサーは戦後、11回にわたり会談あそばされた。
しかし、マッカーサーが解任されたとき先帝陛下はアメリカ大使館を訪問あそばされ、別れの挨拶をされました。
しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、先帝陛下は見送りにいかず侍従長遣わされたのみでした。
昭和39年マッカーサーは84歳で死去し、バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。
昭和50年、先帝陛下は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきましたが、先帝陛下はこれを断りあそばされた。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを拒みました。
  訪米あそばされた先帝陛下はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられましたが、この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも先帝陛下は記念館には出御あそばされませんでした。
GHQは民主主義を米国が日本に持ち込んだと盛んに刷込みました。
現在でもマッカーサー信者がわが国にも存在します。
しかし、訪米を前に外国人記者団に昭和天皇陛下は次のように叡慮を述べられています。
 
記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」 
陛下「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」
 
明らかにマッカーサー及び、米国の悪意ある占領政策を否定された先帝陛下。
國父の大御心、臣民知らず、最も恥ずべきことであります。
國家のことに一身に背負われるのは、行政の長、内閣総理大臣でも、政治家でもありません。肇國以来、天皇陛下ただお一人なのです。
 
先帝陛下の御製、
やすらけき世を祈りしもいまだならず
               くやしくもあるか きざしみゆれど


心ある臣民の皆様には、今一度熟考いただきたい。


【皇室】 昭和59 [1984年] 春の皇居




『 降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ 』




終戦の翌年詠まれた先帝陛下の大御歌(おおみうた)です。
深い雪に覆われても時が来れば青々と茂る松の木を 雄々しき日本人に例え、今の苦しみを耐えて再び隆盛とならんと鼓舞されたもので、同時に日本人が日本人らしさを失わぬようにと願われたのです。

畏くも今上陛下におかれましても、先帝陛下と大御心は同じであられます。

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された靖国神社。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖国神社には現在、幕末の嘉永6年以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。
消防殉職者五千六百五十四柱、自衛隊殉職者千七百七十七柱(平成18年現在)殉職警官、千六百八十五柱(平成18年現在)彼らは皆、祖国、国民を信じ、悔いなく亡くなられた。
自己の命を捧げて悔いなきものをもつことこそ、悲しいことですが、生の最高の充実です。
多くの方々は「後は頼む」と残され亡くなられた。
はたして、残った我々は、「後は頼む」との約束を守っているでしょうか?
先帝陛下は決死の覚悟で国民を救われた。

『 降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ 』

祖霊(それい)御霊となられた、多くの先人・先達は望まれているのではないでしょうか・・・


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
聖寿万歳(せいじゅばんざい)

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横川省三記念公園

すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

東京都港区麻布台一丁目4番6号に存在する横川省三記念公園面積:571.90平方メートル元朝日新聞の記者で、日清・日露戦争では海軍従軍記者などとして活躍した横川省三氏(1865〜1904)を記念して造られた公園です。昭和13年、遺族保存会から寄贈された場所(現六本木3丁目)を公園にしましたが、昭和39年の首都高速道路工事のために現在の位置に移され、その後、平成元年度には全面改修が行われ今日に至っています。
筆者が認めた横川省三の事績は、戦前の日本人であれば、小学生でも知っていたことでしょうが、今日ではどれだけの日本人が横川省三を存じているでしょうか?。それほど大東亜戦争以降我が邦の歴史や先人の偉業、功績は蔑ろにされたままなのです。

明治という時代は、国家草創期にもかかわらず、国民一人一人にいたるまで国家意識があった素晴らしい時代でした。ひとりひとりが「自分がやらなければ国家が衰退してしまうという危機意識があり、またそれらを担ったのです。
拙稿をご覧いただいておられる方々におかれましては、日露戦争は、西洋列強の外圧で開国を余儀無くされた小国日本が明治維新から僅か37年後に国家存亡を賭して、国力10倍の大帝国ロシアに敢然と戦いを挑んだ戦争で、明治37年(1904年)2月から明治38年(1905年)9月まで戦われたことはご存知だと思います。


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横川省三 肖像


筆者が横川省三の人物像に惹かれるのは、横川が国家の危急存亡の時に、民間人でありながらも作戦任務に挺身し、祖国に殉じた忠君愛国の烈士であったという日本的な英雄像もさることながら、ロシア軍に捕らえられ、処刑される迄の僅かな日々に馥郁と薫った彼の日本人としての高潔な人格、品格が、敵軍の将校や兵やヨーロッパ各国の観戦武官をも感服させ、更にヨーロッパ報道界にまで、彼の人格が感銘を与えたという歴史的事実にあります。

日露戦争時、帝国陸軍は特別任務班を編成、露軍の動脈たるシベリア鉄道を爆破し輸送を妨害する作戦を立てました。軍人のほか民間人もこの作戦に加わりました。そのうちの一班の班長が横川省三でした。
明治三十七年四月十一日、横川班は満州のチチハル付近において鉄橋を爆破せんとしましたが作戦は失敗に終わり横川と班員の沖禎助(おきていすけ)は露軍に捕獲され軍法会議にかけられました。
軍法会議において二人は虚実を交え百数組の特別班が任務をおびて活動中であることもとより決死の覚悟であることを堂々と語ったのです。最初に下った判決は絞首刑でした。しかし、横川はこの判決に異議を唱え、銃殺刑を申し出たのです。横川省三が絞首刑の判決に異議を申し立てた時、傍聴人の多くは横川が命乞いをするものと予想していました。軍人としての名誉ある銃殺刑を望むという、横川の凛然たる態度に、法廷内の誰しもが驚きと感動を禁じ得なかったと伝えています。この軍法会議を傍聴していたドイツの観戦武官は露軍士官に「日本軍にこのような人物が多数あるとすれば、如何に露軍が優勢であっても、苦戦するのは必至であろう」と述べたという。

メジャーク大佐はクロパトキン将軍に急使を奔らせ、二人の減刑を嘆願したが、クロパトキン将軍は、「自分は日本軍人の特性をよく知っている。日本の軍人は一度死を決して大任に当った以上、事敗れて捕虜になるような場合、生還を欲するような国民ではない。今回の両勇にしても、たとえ軍法会議で赦してやっても、彼らは日本軍人の名誉のため、恐らく腹を切って自決するであろう。
すなわち、彼らの亡骸を山野に曝すより、彼ら勇士に敬意を払う為に、直ちに銃殺刑に処せ」と述べ、減刑の請願を許可しなかったという。


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四月二十一日、処刑の日、横川と沖は家族に遺書を書き所持金をすべてロシア赤十字社に寄付すると伝えました。
メジャーク大佐は驚き、
「遺されるご家族に送られるのが良いのではないか。法に従って、遺族に
送ってやるから、考え直したら、どうか」と念を押したそうであるが、
横川は
「貴官がそうお思いになるのもご尤もです。貴官の御厚意は誠に有り難い。
しかし、我らの天皇陛下は、決して我らの遺族をお見捨てになりません。
また、日本の国民は遺族を王侯の待遇を以って遇するので、少しも心配は
要りません。何卒、お納め願います」と応えたという。
メジャーク大佐が更に「それでは何故に、ロシアの赤十字に寄付をするのか」
と問うと、横川は 「この戦争に於いて、不幸にして日本軍の砲弾に依って
傷付き、病める貴国軍人に対し、少しでも罪滅ぼしをしようという気持である
から、どうか納めて欲しい」と応えたという。

二人の日本人が処刑を前にして、その所持金の全てを故国に待つ家族に遺す
のではなく、敵国たるロシアの赤十字社に寄付したことは忽ち、ロシア軍将兵、列強諸国の観戦武官、多くの従軍記者の知るところとなり、その天晴れな行為は驚嘆と畏敬の念を以って受容されたのです。

また処刑にあたり、ロシア兵が二人を柱に縛り付けようとしたが、武人の端くれとして、縄目の辱めは受けぬと断固拒絶、受け入れられた。
二人は、遥か彼方の祖国、宮城(皇居)を望む東南の空に向って遥拝した。
「天皇陛下万歳!大日本帝国万歳!日本軍の大勝利万歳!」と叫んだのが辞世でした。銃殺刑執行官のシモノフ大尉は12名の射撃手に向け、「射撃用意!」と命じ、その後、声を落として、「愛を以って、撃て」と指示したという。
二人が苦しまずに死ねるよう、しっかり心臓を狙って撃てという意味であった。こうして、満州の荒野に轟く12発の銃声と共に、二人の日本男児の命が果てた。時に横川39歳、沖30歳でした。
日本の国民はこの二人の消息を6月中旬、フランス国パリ発ロイター通信、
及びロシアの新聞2紙の記事に依って知りました。
横川と沖の決死の行動、敵軍さえもが畏怖の念を抱いた凛然たる態度、悲劇的な最期を知り、開戦間も無い大国との大戦争の先行きに不安を抱いて
いた多くの日本人の士気を大いに鼓舞したと言われています。

しかも横川班以外の特別任務班は度々、シベリア鉄道の爆破に成功していた
ことから、横川や沖のような、死をも恐れぬ勇敢な日本人たち満洲各地に潜入し、シベリア鉄道の破壊活動に邁進しているということは、露軍は大きな脅威と捉えた。
露軍総司令部は急遽、シベリア鉄道警備にコサック騎兵50数個中隊を配置
したことで、露軍の多大な戦力ダウンに繋がり、この戦力分散が後に奉天
大会戦の敗北を招いたとクロパトキン将軍は回顧したといわれています。
横川らの特別任務班のシベリア鉄道破壊活動は戦略的に大きな意味を持ち、
日露戦争の勝利に影ながらも、多大な貢献をしたのである。

日露戦争の際、宮中に於いては、明治天皇の皇女、常宮(つねのみや)、周宮(かねのみや)両内親王殿下が戦死者を祭壇にお祀りになられ、戦死者の
姓名を逐一ご記帳為され、冥福を祈っておられた。
ある時、横川、沖の名をご記帳になられたが、この二人に肩書きが無位無官であることを訝しく思われ、側近の者に理由を問われた。
二人の事績をお聞きになったところ、お二方は涙に咽ばれ、お顔を伏せられたが、やがて筆をお執りになって、二人の名の上に「忠君愛国之士」と記されたという。横川が銃殺刑に処せられた、30年後の昭和9年、岩手県盛岡に住む横川の長女律子(47歳)のもとにシモノフと名乗るロシア人の老人が訪れた。
彼は、横川省三と沖禎介の銃殺刑執行官を務めた、シモノフ大尉その人でした。
シモノフ大尉はその後、帝政ロシア軍の陸軍少将にまで累進したが、大正6年
のロシア革命後、日本に亡命。
白髪の老人となったシモノフは律子と対面し、涙ながらに語ったという。
「私はいつの日か、お父様の立派なご最期の様子を直接お伝えしようと思って
おりました。貴女にお会い出来て、こんなに嬉しいことはない」
「私はあの時、真の日本武人の姿を見たような気がしました」と・・・

横川はじめこの時代の日本人の力強さは、地殻を突き破って、マグマが噴出するかのような、異常なほどの激しさ、強さが感じられる。
国論が二分し、卑劣漢が横行する平成日本。
明治に学び、強い明治に還る秋がきているのではと筆者は願ってやまないのです。



わが国のけじめ(一)

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すめらぎいやさか。
新年あけましておめでとうございます。
昨年は多くの方々のご来訪いただきありがとうございました。
本年も幾久しくよろしくお願いいたします。

冒頭の画像は未曾有の経済繁栄を誇っていた大阪万博の年に決死の覚悟で「檄」を発っせられた国士、三島由紀夫氏の画像です。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」。

「果たし得ていない約束−私の中の二十五年」と題されたその記事は、昭和45年7月7日、サンケイ新聞夕刊に、三島由紀夫氏の記事が掲載された。この記事の発表から四ヶ月余り後、三島氏は自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)で決起を促す訴えの後、割腹するという壮絶な最期を遂げました。
当時の世間は、3月にはじまった大阪万博の豊かさに酔いしれていました。
多くの人々が空気のように豊かさをむさぼり享受している傍らで、三島由紀夫氏は絶句していたのです。
また三島由紀夫氏と親交のあった俳優、鶴田浩二氏も当時の世情を憂い、

 「私の飲む酒の味は苦い。だからつい、ガブ飲みになり、3日酔い、4日酔いということになる。私には今の日本の見せかけの平和が気にいらないんだ。純粋に国のために戦って死んでいった人達の骨が、まだ海の底に、南方各地に散らばっているというのに、もう戦後は終わったとばかりぬくぬくしている連中に腹が立つ。万博の、オリンピックのとお祭り騒ぎをする前に、何でその金の何百分の一でも遺骨収集に使ってくれないのか。一映画俳優の私だが、そのために微力をつくしたい。私が決して好きでないリサイタルなどをやったのも、そのためなのです」と三島氏の死後、昭和46年に語っています。
真の姿の鶴田氏は黙々と働き、巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなったのです。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通しました。
三島氏や鶴田氏の他にも豊かさを謳歌する当時の世相を否定する方々は多く存在したはずです。もちろん大東亜戦争を戦った方々です。
三島氏の自決からもうすぐ半世紀を迎えようとしています。
一部の日本は三島氏が予見したとおり、いやそれ以上の加速を増し、『日本』は亡国へ向かっています。
外交面では覇権国家「支那」の膨張になんら大きな効果がないまま時が過ぎ、主権国家としての矜持すら感じられない北朝鮮による拉致被害者奪還にむけての停滞感。
教育においても改革の二文字は躍るのみで何ら精華を発揮せず、「いじめ問題」は大きくなるばかり。生徒、児童の学力は低下の一途をたどり、教育現場の崩壊すら叫ばれている。
これらに歩調をあわせるかのように市場原理の跋扈のもと、弱肉強食の世間になりつつあり、かって終身雇用を誇った日本商店の精華さえも崩壊し、日本国じたいが不安定になっています。
世界一を誇った「治安」も失われ、働かない若者が増え、犯罪の低年齢化が進み、金銭にからむ不正が官界、財界、国民一般の道徳も地におちたと筆者は感じます。
これら問題の根幹は政治家、官僚だけの問題、財界人の見識不足だけにとどまらず、学校教師、家庭教育の力量不足も要因している。
体に例えるならば手足が痛い歯が痛いなどの局所的なものではなく全身が悪しき細胞に冒された全身症状といえる。国家の体質は国民ひとりひとりの体質の集積であり、国家の品格は国民ひとりひとりの人格形成の集大成といえましょう。
この国家的危機、堕落の本質は教育に要因しています。
「ゆとり教育」「人権教育」「個を尊重」「国際人を育てる」「生きる力を育む」「指導ではなく支援」あらゆる処方箋が唱和され、投薬されてきましたが一向に回復に向かう兆候すらなく、いたずらに秋を刻んでいるのみです。

教育を立て直す以外に我が邦が再生する道はありません。
七十年かかって歪んだ教育の再生は十年、五十年、百年の長い時間を必要とします。
まずは言語の乱れを正すことが教育再生の一歩といえるのではないでしょうか?言語の乱れは社会の乱れともいいます。
一時英語を「第二の公用語」にするという話題がありましたが、筆者にはまったく理解できません。フランスの憲法ではフランス語が国語であると定められています。我が邦の憲法に「日本語が国語」であるという条文はありません。
「日本語が国語」であるという条文がないのは、日本が日本語を国語として定める必要がないのは「日本人なら日本語があたりまえ」と筆者を含め多くの日本人が感じていることでしょう。これらは我が邦が言葉を奪われた歴史がないからです。一定期間その民族の言語と歴史を奪えばその民族は滅びます。
大東亜戦争後、我が邦は米国によって占領された期間がありましたが、寛大なアメリカは日本語を奪い、英語を押しつけようとはしませんでした。幸運だったとしかいえません。占領したのがソ連(ロシア)支那だったら確実に言語と歴史は奪われていたことでしょう。それほど言語と歴史は大切なものなのです。
昨今はマスコミによる日本語の変革がなされています。昭和の時代になかった外来語が溢れ、エリートぶった浅はかな人々によって日本語は歪められています。








小学校から英語を教えることは日本を滅ぼすもっとも確実な方法


数学者で「国家の品格」「祖国とは国語」の著者、藤原正彦氏は十年前に主張されました。
当時全国の駅前に英会話教室が現れ、巷に英会話の教材が溢れていました。
しかし、駅前留学の英会話が多くの人々に賛同を得られたでしょうか?
大学生の学力低下、とりわけ国語力劣ると言われて久しいのですが、その原因は小学校からの初等教育のあり方にあると思います。初等教育では徹底して基礎学力をつけなければなりません。
基礎学力とは「読み・書き・ソロバン」=国語・算数を言います。
これは江戸時代の寺子屋教育の時代に当時の先生らが喝破しています。
藤原正彦氏は、「1に国語、2に国語、3,4がなくて5に算数」だそうです。自分の母国語、つまり日本人なら日本語の能力がすべての基礎になります。日本語のできない人間に外国語ができるはずがありません。こんな簡単な理屈が分からないのは戦後の日本の学者や役人の異常さとしか言いようがないと言われています。
戦後文部官僚が施した政策に見るべきものがあったでしょうか?

「戦前教育は国語教育重視」
戦前の時間割では、国語が小学校四年生までの総授業時間の約半数を占めており、国際的に見ても傑出していました。
現在見られるような「教科の平等」ではなく、あくまでも国語重視でした。
その理由は、母国語こそが全ての知的活動の基盤であり、表現だけでなく思考そのものが国語を通じて行なわれる。国語力なくして算数も理解できないとの基準でした。

言葉は人間のすべてといっても過言ではありません。
言葉を身につけるのは、小学校間が最も適していたからです。国語による読書を通じ、情緒や道徳を学ぶことができ、古典・詩歌を読むことで、感情、情緒が養われ、家族愛・郷土愛・祖国愛・人類愛が養われていったのです。
過去、現在においても、「言語を一定期間奪われると民族は亡びる」と言われています。なぜなら、民族としての情緒、道徳、文化、伝統の中核に母国語があるからです。
これは、世界の歴史が証明しています。
戦前世代の方々の国語力はここから生まれています。
誇りある文化を失いつつある日本、荒れ果てた民心、青少年の著しい学力低下、といった現状を考える時、小学校国語の質と量にわたる飛躍的充実は、日本再生のための不可欠な第一歩です。
 
藤原氏の著書「国家の品格」で英語教育について次のように述べられています。
そもそも小学校で英語を23時間勉強しても何の足しにもなりません。きちんとした教師の下、週に10時間も勉強すれば少しは上達しますが、そんなことをしたら英語より遥かに重要な国語や算数がおろそかになります。そのような教育を中高でも続ければ、英語の実力がアメリカ人の5割、日本語の実力が日本人の5割という人間になります。このような人間は、アメリカでも日本でも使い物になりません。
 少なくとも1つの言語で10割の力がないと、人間としてのまともな思考ができません。言語と思考はほとんど同じものだからです。日本の公立小学校は一人前の日本人を作る教育機関ですから、英語はダメなのです。

付け足す言葉もいりません。
しかし、我々の思惑、願望をよそに亡国の教育は今日も続いているのです。
「米百俵の精神」はどこへ・・・

天皇彌榮(すめらぎいやさか)







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「一月一日(いちげついちじつ)」の歌碑(出雲大社)






新年あけましておめでとうございます。
昨年は多くの方々のご来訪いただきありがとうございました。
本年も幾久しくよろしくお願いいたします。

【一番】
年のはじめの 例(ためし)とて
終(おわ)りなき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝う今日こそ たのしけれ
【二番】
初日のひかり あきらけく
治まる御代の 今朝の空
君が御影(みかげ)に 比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ 尊けれ
(筆者意訳)
日本は神国です。
年の初めに行うきまりごととして今上陛下の御代が天壌無窮に栄えるように祈る。門松は歳神さまを迎える依り代です。
神国日本をみんなでお祝いをしましょう。

初日の出を見ると少しづつ光が差してきます。
四方が曇りなく元旦にふさわしい。
四方拝で国民の幸せを祈られる陛下のご尊影と、空の様子を重ね、仰ぎ見る偉大な尊い存在です。

文部省は小学校の祝祭日に行う儀式で歌う曲を選定し、明治26年に「祝日大祭日唱歌」として官報で公布したのですが、その中の1曲に唱歌「一月一日(いちげついちじつ)」が含まれております。
昭和時代になると、一月一日(四方節)、紀元節、天長節(昭和天皇の誕生日4月29日)、明治節(11月3日)の4つの祝日には家の門柱に国旗を掲げて小学校へ登校してお祝いの儀式を行いました。
子供たちは儀式に出席することから、当然きちんとした服を着て登校する決まりでした。
儀式では、天皇陛下と皇后陛下の御真影を掲げて最敬礼したり、君が代や「一月一日」のような儀礼唱歌を歌いました。儀式が終了すると、子供達に先生から紅白の菓子が配られて下校という流れでした。
我々の祖先がみな素晴らしい国家観を持ち得たのは学校教育、家庭教育の精華でした。唱歌「一月一日(いちげついちじつ)」の作詞をされたのが、出雲大社第80代出雲国造(こくそう)、明治政府で要職を務められた千家尊福翁でした。一昨年ご成婚あそばされた高円宮典子女王殿下のご主人、千家国麿氏にとって尊福氏は高祖父にあたります。千家家は出雲大社の祭祀をを司る国造の家であり、祖先は神宮に鎮まる天照大神の第二子、天穂日命(あめのほひのみこと)と伝えられています。

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千家尊福翁

千家尊福氏は政治活動、神道の活動に尽力されるあまり大きな負債を負われました。天照大神の命をうけ先祖代々出雲で奉公を捧げ、重ね千家尊福氏は皇室、帝国のために東奔西走の一生であられた。皇室は万世一系の皇統を繋いでいますが、千家家も万世一系を繋いでおり、出雲では現人神として現在でも尊崇されています。また高円宮典子女王殿下ご成婚により、わが国の神道を代表する両家が一つに結ばれたことは日本国民として喜ばしいかぎりです。余談になりますが、筆者の友人は出雲へ十年以上単身赴任しておりますが、友人によると出雲地方の方々は他県の方々と違い「神話」にとても詳しく居酒屋談義でも神話が語られることは多々あるそうです。神話を学ばない都市部とでは神話に対する知識が出雲と大きな隔たりがあると述べていました。
学校では教えないわが国の神話を出雲の方々は今もわが国の神話を語り継いでいます。民族のアイデンティティをなくすとその民族は滅びるしかありません。
イギリスの歴史学者トインビーは、「12、3歳までに自分たちの国の神話を教えない民族は100年以内に必ず滅ぶ」と指摘しました。唱歌「一月一日(いちげついちじつ)」も歌われなくなった今日、日本人はどこへ向かっているのでしょうか?神話を知らないと日本人としての背骨ができません。
しかし、連綿と神話を語りついでいく地域も現在のわが国にはあるのです。
昨今、神社に参拝する方々が急増しています。
神話を学んで、神社に参拝すれば尚一層、思慮が深まります。
神話の里・出雲の誇りが全国へ伝播し、日本人が民族のアイデンティティを取り戻すことを筆者は願ってやまないのです。

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出典:國學院大学


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログへお越しくださり感謝を申し上げます。


「この国の心をうつす、日本人になろう。」
國學院大學がかって産経新聞 に掲載された國學院大學の全面広告です。
古来より皇室のみ用いることを許された色、優雅で繊細な雰囲気をもつ日本の伝統色「麹塵(きくじん)」の前に、美しい所作でお辞儀をする清楚な女性の所作(しょさ)は忘れられつつある日本人の高貴さを現した画像です。
昨今、コンビニやデパートで行われているお辞儀は日本らしい高貴なものではありません。

平成に入り一年、また一年と病んでいく「祖国日本」とても残念でなりません。
日本を日本たらしめているものを忘れ、他国に阿る人が増え、御国を護った先人、先達を敬わず、今生きている現世の日本人はさもわが国の歴史の主人公のように振る舞い、伝統、文化までも破壊している餓鬼のように筆者の目には映ります。
日本国民とは肇国以来、連綿と伝統、文化を紡いできたすべての日本人を指すものです。
わが国の現状は国論が二分し、迷走状態にあります。羅針盤を正確に扱えず大海原で揺れる船のようなものです。
道に迷い、針路に迷った時は元来た道へ戻れと言います。
明らかに現代日本はかっての凜とした日本に戻る秋がきているのです。
しかし、昨今のわが国の世相は毎日報道される凶悪犯罪、およそ日本の政治家と呼ぶにはほど遠い政治家たち、わが国になじまない施策を行う政府。民主主義をはき違えた沖縄米軍反対デモや、それらをねじ曲げ報じるマスコミ。
稲田防衛相の靖国参拝を政治問題化しようとする腐ったマスコミの醜態。

世情はといえば毎日繰り返される死刑に相当する殺人事件が累犯におこり、かってわが国には皆無といえた尊属殺人が多発し、被害者と加害者との因果関係もない無差別殺人も珍しくありません。
まじめに働く人々が生活保護制度を悪用する輩よりも収入が少い、働く意欲をなくさせる。明治維新以降149年、わが国は、まず、世界の先進国に追いつくことに急ぐあまり、欧米諸国の思想、文化、体制の導入、欧化万能の風潮が日本全土を覆い、日本古来の思想・文物が顧みられない状態となっています。これらは大東亜戦争後急加速し、日本の日本らしさの欠片(かけら)さえも残さない有様です。

明治の先人はわが国が独立を全うし、国家の発展を将来に期するためには、思想も文化も体制も、単に欧風の模倣でなく、わが国の歴史・民族性に基づくものでなければならないという気運が興り欧米化への歯止めがかかりました。
しかし平成の日本人にはこれらを考えることもなく至っている次第です。
識者らが絶賛する議会制民主主義ですが、筆者にとって議会制民主主義とは粗悪品以外の何者でもありません。野党第一党の党首が国籍問題で嘘、偽りの末に説明すらなく居座っている有様。
議員になってはならぬ人、政治家としての資質、教養に欠ける人々らが闊歩(かっぽ)している有様は選挙とは何かと首を傾げたくなります。選挙で選ばれた者であっても粗悪品は粗悪品、滓は滓です。その時の世情やマスコミに煽られて選挙権を行使するならば投票しないほうがいいです。

近代日本を切り開いた人らは選挙で選ばれた人ではありません。泰平の世を保った徳川幕府。草莽の志士、坂本龍馬しかり、西郷隆盛しかり、わが国の歴史を紐解くと選挙がすべてではないと言えましょう。
わが国の政治の大半は歴代天皇陛下より任命された役人が合議制によってしかも皇室に忠誠を誓った官僚によって行われた歴史が圧倒的に長く、皇室を蔑ろにした足利幕府の時代は大変世情が混乱しました。これらは戦後、とりわけ平成の今日も酷似していると言えましょう。
日本には日本のよさがあり、日本でしか定着しない精神文化、政治があり、
これまでも、これからも紡いでいかねばならぬものがあります。


「この国の心をうつす、日本人になろう。」

「降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ」




本年も今日一日を残すのみとなりました。本記事が本年最期の更新となります。多くの方々のご来訪いただき、コメントを頂戴し、感謝もうしあげます。
来る年が日本という国が日本らしさを取り戻し、未来の日本人によい国にして継承していく年にと衷心より願っています。
よいお正月をお迎えくださいませ。

天皇陛下萬歳
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