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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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出典:http://kokugakuin-univ.jp/brand/ojigi/ 國學院大學


天皇彌榮(すめらぎいやさか)
拙ブログにお越しくださり感謝を申し上げます。

冒頭の画像は「この国の心をうつす、日本人になろう。」と題し、國學院大學が産経新聞 に掲載された、國學院大學の全面広告です。
國學院の建学の精神は、初代総裁の有栖川宮幟仁親王殿下の「凡學問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ故ニ國體ヲ講明シテ以テ立國ノ基礎ヲ鞏クシ徳性ヲ涵養シテ以テ人生ノ本分ヲ盡スハ百世易フベカラザル典則ナリ而シテ世或ハ此ニ暗シ是レ本黌ノ設立ヲ要スル所以ナリ」にあります

かって明治維新の際、わが国の急務は、まず、世界の先進国に追いつくことでした。欧米諸国の思想、文化、体制の導入が急ぐあまり、欧化万能の風潮が日本全土を覆い、日本古来の思想・文物が顧みられない状態となった。
 しかし一方、わが国が独立を全うし、国家の発展を将来に期するためには、思想も文化も体制も、単に欧風の模倣でなく、わが国の歴史・民族性に基づくものでなければならないという気運が興り、國學院大學の母体である皇典講究所は、このような反省の気運を背景として、明治15年に創立された。(國學院建学の精神より引用)冒頭の画像は気品溢れています。
古来より皇室のみ用いることを許された色、優雅で繊細な雰囲気をもつ日本の伝統色「麹塵(きくじん)」の前に、美しい所作でお辞儀をする清楚な女性の所作(しょさ)は忘れられつつある日本人の高貴さを現した画像です。
そして、國學院HPには、「姿勢と所作」、「お辞儀」について述べられています。
日本のお辞儀は歴史が古く、三世紀には行われていたと言われます。
敬意や感謝の気持ちを表すとされ、場面によって会釈、敬礼、最敬礼の三つのカタチが使い分けられています。
お辞儀の美しさは日本人の心そのものです。・・・・
今一度、お辞儀から、自分のルーツを学んでください。
日本人のアイデンティティについて、じっくり考えてみませんか?

と問いかけています。
かってのわが国では学校や会社、おおよそ日本人が暮らしているいたるところで、お辞儀をしている人を見かけたました。 わが国では「お辞儀」は最も一般的な挨拶のひとつであり、欧米人からしてみれば相手に対しへりくだったように見える不思議な光景かもしれない。しかし、わが国においてお辞儀は「挨拶」「感謝」「敬意」の意味合いが込められています。
わが国において、お辞儀をすることは相手に対して自分が敵で無いこと、敵意がないことを示し、相手に首を出し、頭を下げるのは、自分の身体の中で一番弱いところを相手に見せる動作です。その部位を殴られてしまえば死に至る可能性もあります。余談ですが、わが国頭部切断にも文化的理由が在るはずです。魂・人格が宿る依代として、人物の標識として、頭部というのは今も昔も重要な部位でした。その人物の象徴言うべき身体部位です。それを奪う意味合いは大きいのです。かって武士の時代の事例から想像がつきます。例えば、敵に首が渡る事を恐れて自決した武士が首を切り落として隠させたり、討ち取られた主人の首を守ろうとしたり、取られた首を取り返しに行く、といった行為が歴史上多々見られました。「首級(しるし)」ともいわれました。そして晒されるのはもちろん首でした。また敵を確実に討ち取った証拠として、どの敵を討ち取ったかという確認として、切断した頭部という物は最も確実でした。そしてそれは主君に対しての、最も確実な手柄の証でもあり、確認の方法として首実検が行われました。
こういった意味で首を差し出すことは相手に対しての最大の「敬意」でした。

座礼
激動の明治を生き、戊辰戦争で賊軍の汚名をきせられた長岡藩の筆頭家老の娘、杉本鉞子(えつこ)が表した著書「武士の娘」を著者と同じく新潟長岡出身の櫻井よしこ氏が読み解かれた「明治人の姿」でもお辞儀について述べられています。
「お辞儀は。唯、体を曲げる動作ではありません」「お辞儀は日本人のこころの表現なのです」外国の方々のように多くの言葉を交わさなくても、お辞儀に深い愛情を込め、お互いを理解し合える。日本人にとってのお辞儀の本来の意味を櫻井よしこ氏は鉞子から教わったと述べられています。筆者は「明治人の姿」で「武士の娘」に感銘をうけた場面は多々ありましたが、印象深いのは官軍による長岡城攻撃が迫るなかで杉本鉞子の父母が見せた武家夫婦の深い絆でした。原文をそのまま引用します。
鉞子の父は母に<大事の数々>を聞かせたうえ、役目を帯びて家をでました。稲垣家の命運は母に託されたのです。
<母はまだ二十歳を越したばかりの若さでありましたが、武士の妻としての務めはよく心得ておりました。女の人格に目醒めるた母は父に万一のことがあれば、嗣子の生命は一家存亡に関わることに思い至り、譜代の家来である忠義な蓑田殿に託して、菩提寺にかくれさせました>
そして雨の夜、一人の若侍が家を訪ねてきます。父が捕らわれの身となって江戸に送られることになり、今夜、真夜中に城外を通りかかる折に、母に会見が許されるというのです。
何かの計略かと疑うのが当然ですが、母は一つだけ問いました。
<御身(おんみ)は武士か>
その男が刀の柄に手を置いて<仰せのとおり武士でござる>と答えると、母はこう言いました。
<見方にせよ、敵にせよ、御身が武士ならばその言葉を信じましょう>
「武士である」という言葉を信じ、真夜中に一人でその若侍について行くのです。もちろん、万が一の時は覚悟の上のことで、着物の下に白装束を着込み、胸には懐剣(かいけん)を秘めていました。月も星もない雨の夜、現在と違い、灯りはありません。まさに漆黒の闇のなか、街を抜け、寂しい畦道をすぎ、城下から離れた場所で、夫の行列を待つのです。
やがて駕籠が近づき、母の前で止まりました。地上に網乗物が下ろされると、両側に武士が付き添い、駕籠かきは退きました。母が目を上げると、駕籠についた小さな角窓から父の顔が見えます。父と母の間には、武士が差し立てる二本の槍が交叉していました。しばらく沈黙の」後、父が口を開きました。
<奥か、刀を預けるぞ>
ただそれだけでした。「刀」は武士の魂を表します。武士の妻としての母に、以降、すべてを任せると、父は言っているわけです。死に行く自分が妻にに任せる大事の最重要事が、忠義の家来に託して、菩提寺に隠されている幼い息子、つまり鉞子の兄の身の上であることは明らかです。しかし、二人は会見に立ち会っている他藩の武士の耳を意識し、具体的には何も触れないのでした。
<母は唯お辞儀をしただけでしたが、気持ちが母に通じたことが父にはよく判ったのでありました>と鉞子は書いています。
「刀を預けるぞ」のひと言と、深いお辞儀ですべてを理解しあえたのです。夫婦の信頼のなんという深さでしょう。武士とその妻の、自覚と覚悟の何と見事なことでしょう。
ここで私たちは、鉞子の母のお辞儀の意味に想いを致したいと思います。当時の日本人はお辞儀に万感の思いを込めました。(引用ここまで)
「お辞儀は日本人のこころの表現なのです」だと筆者は思うのです。昨今はお辞儀をする方々が減りました。お辞儀をしない、しかたをを知らない、お辞儀と謝罪を混同する方々によって人間関係が複雑になり、社会が歪んできているのではと筆者は思うのです。最近はわが国のお辞儀と似ても似つかぬお辞儀が巷に氾濫しています。これではわが国の文化、習俗の継承もあったものではありません。所作の美しさもさることながら、いかに感情の篭もったお辞儀ができるかではないかと筆者は思うのです。
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天皇彌榮(すめらぎいやさか)

  1. 甍(いらか)の波と雲の波、
    重なる波の中空(なかぞら)を、
    橘(たちばな)かおる朝風に、
    高く泳ぐや、鯉のぼり。
  2. 開ける広き其の口に、
    舟をも呑(の)まん様見えて、
    ゆたかに振(ふる)う尾鰭(おひれ)には、
    物に動ぜぬ姿あり。
  3. 百瀬(ももせ)の滝を登りなば、
    忽(たちま)ち竜になりぬべき、
    わが身に似よや男子(おのこご)と、
    空に躍るや鯉のぼり。

今日5月5日は端午の節句、日本では今日は子供の日です。
昨今は、大型連休に組込まれ、本来の端午の節句の意味もあまり意識しなくなったのではないのでしょうか?
最近では余り歌われなくなりました「鯉のぼり」ですが、この歌は、鯉のぼりの雄大さをたたえ、男児がこいのぼりのように雄大に成長するようにという願望を歌っています。
最近は、戦後教育の堕落から、戦前の文部省唱歌が殆ど、歌われなくなりましたが、よき日本人となって欲しいという、国の思い、親の思い、国を思う国民の思いを歌った唱歌の復活を願うばかりです。
少子化の影響もあるでしょうが、筆者が子供の頃は「鯉のぼり」があちらこちらの家庭で、大空高く泳いでいたように記憶しています。
そして、端午の節句の由来、意義も薄れ、大人が遊ぶ為の単なる休みとなってしまっているのが実情ではないでしょうか?

端午の節句の由来は中国の楚の国の愛国の士屈原(くつげん)(前340頃〜前278頃)に由来します。
詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。
しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。
故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。5月5日がその命日にあたります。
屈原を慕う楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。
これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。
これがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源です。このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのです。
 国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。
急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多く、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して無病息災を祈りました。
その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました
日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。
日本でも、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式も行われるようになりました。
菖蒲は薬草で、邪 気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句 にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。
古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。
こいのぼり(鯉のぼり)の由来は、鯉が「龍門」という急流の川をのぼると龍になって天へ登るという中国の古事からきています。
我子も健康に育ち、将来は大きく出世して欲しいとの気持を込めたものです。また、「わが家に男の子が生まれました。どうぞお守りください。」と天の神様に伝え、守っていただく意味があるとも伝えられています。 

愛国の士屈原の慰霊に始まり、時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。
 
「子供は国の宝」といいます。
何故なら子供が育たないことには、国家、家、文化の伝統の継承がありえないからです。
江戸、明治の時代に日本を訪れた外国人は、世界中で一番子供を大切にする民族であり、子供たちは世界中で一番礼儀正しく、輝いていると幾多の書物でも紹介されています。
端午の節句は、国思う愛国の士に由来し、災難を避ける風習の日であり、子供の成長を願う日でもある。
これは、先人が連綿と国家の連続を願ったものであり、また現世に生きる我々も、連綿と続く子孫とを繋ぐ一人として、子孫の繁栄を祈ったものです。現世に生きる我々はそれを継承し、次の世代に伝える「祈りの日」でもあることを忘れてはならないでしょう。

天皇彌榮(すめらぎいやさか)


日章旗が翻る街

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岐阜県 中津川市 中津川在住 武川 典靖氏撮影 「昭和の日」




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岐阜県 中津川市 中津川在住 武川 典靖氏撮影 「昭和の日」



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岐阜県 中津川市 中津川在住 武川 典靖氏撮影 「昭和の日」


すめらぎいやさか。
拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

日本人の99パーセントの方々は祖国を愛する方々ばかりです。
国旗を掲げることは愛国心を涵養し、アイデンティティを示すことです。万世一系の皇室の御稜威と、先人の労苦によって今日の繁栄を享受している日本人。
日本という国が存在してこそ今日の豊かな生活があるのです。

日章旗や旭日旗を軍国主義の象徴と嘯く方々がほんの僅かですが今日の日本にいます。
しかし、事実は否です。

かっての日本人は今日の日本人よりも子供を愛し、妻を愛し、兄弟を慈しみ、両親を尊敬していました。
 誰一人、日本が侵略戦争をしたとは思っていません。祖国日本を護る為に戦いました。

 外国の土地を強奪した事実もありません。統治を委任されたり、併合を願ってきたのです。
 礼・義・智・信という、厳しい道徳観の中で育った日本人は、不正義を憎み、卑怯・卑劣を嫌う武士道を軍人魂として教育されてきています。

 あなたがもし日本人ならば、そして正義を愛するならば、かつての日本人も今の日本人も同じ日本人です。
 あなた方が誇れる、先人の方々であり、先祖です。
 あなたが自分を信じるならば、日本を護った先人、先祖を信じて下さい。
 戦没者のみたまを、先人の愛を見つめて下さい。

そして日章旗や旭日旗を大切にしてください。
日本中が祝日には日章旗が翻ることを願ってやみません。
日本人が日本人らしさを失ったら日本ではなくなってしまいます。
取り戻してほしい、「やまとごころ」を

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先帝陛下ご真影





先帝陛下を病気快癒を願い記帳に訪れた日本国民 何十万人の人が宮城の前で快癒を願った。 もちろん、誰一人として動員をかけられた人はいません。 





先帝陛下崩御






先帝陛下崩御






先帝陛下崩御



今日は昭和の日、先帝陛下の誕生日にあたります。
かって我国は、畏くも天皇陛下の誕生日を「天長節」皇后陛下の誕生日を「地久節」として国家挙げて祝い慶びました。
戦前の祝祭日は、根拠、目的、由緒がはっきりとしたものでしたが、戦後の祝日法によって定められた祝日は、目的、由緒が漠然としており、これでは何の為の祝日かわかりません。
昭和の日を「昭和節」文化の日を「明治節」とし、皇室祭祀にまつわる祭日も本来に戻すことこそ愛国心を涵養し、今の日本にとって大事なことです。
昨今、伝統の何たるかを忘れ、わが国の文化を否定する風潮が多々見られ、それに伴い治安の悪化が著しい・・
先人を否定し、文化を忘れ、日本人らしさを失っていくのは自らのルーツを否定しているのと同じではないかと筆者は思うのです。
昨今の日本を見るにつけ、日本が日本で無くなっているような錯覚にとらわれ落胆させられることが多々あります。
今一度、日本という「祖国」「母国」について熟考せねばならぬ時代が来ているのではないでしょうか?

「降る雪や明治は遠くなりにけり 」

昭和58年に亡くなった俳人、中村 草田男(なかむら くさたお)氏は明治生まれでした。昭和の時代を目の当たりにして、雪が降るという季節の節目に立ち、母校の小学校を尋ねた際に作った句だそうです。
生まれた時代を振り返って、明治という時代が遠くになったものだな、と言う感慨を句にしたものと思います。
昭和に生まれた筆者も還暦を前に、時々昭和という時代を懐古し、今日の日本と対比することが多々あります。今日のように物質的に恵まれ豊かな時代に暮らしていても、何か大きな忘れ物をしたような?大事なものを置き去りにしてきたように思えてなりません。地域の紐帯は薄れ、個人主義が蔓延り訴訟社会になってしまった平成の日本。豊かではなかったけれど幸せだった昭和の時代。

「昭和は遠くなりにけり 」と・・・



冒頭の画像は一般参賀、続いて先帝陛下ご不例(ご病気)において当時の国民が平癒を祈り記帳に駆けつけた画像です。誰一人として動員をかけられた人はいません。心より先帝陛下を慕い平癒を祈ったのです。
祝い事やイベントを自発的に日本国民は自粛し、ご快癒を祈りました。一億国民の願いも届かず、先帝陛下は崩御あそばされた。多くの日本国民は悲しみました。
激動の時代に君臨された先帝陛下。その御稜威は今日においても色褪せることなく昭和の国民のこころに焼き付いております。
先帝陛下のエピソードをいくつかご紹介させていただきます。

薨去あそばされた寛仁親王殿下「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」

――昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?
殿下 二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたいことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。その時の記憶で特に鮮明なのは、陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と淡々とおっしゃったことでした。一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を言上(ごんじょう)したわけで、いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、陛下はみんなお見通しでした。「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、実に的を射たご下問をなさる。各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。私は帰りの車の中で高円宮と「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。

――昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。

殿下 これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚(信子妃殿下は麻生太郎元首相の実妹)した時に、両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。
義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
「太賀吉は元気でおるか?」
とおっしゃったのです。
実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、とても紹介どころではありませんでした。このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。

――国民に対するお気遣いも有名でした。

殿下 台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、侍従を通してご下問がありました。それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々はこのお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。どの災害、事件の時も同じでした。あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。

――今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?

殿下 敗戦国の元首が国民の中に分け入って熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。
ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。もちろん、何も起こりません。
また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
まさにおっしゃる通りだと思います。良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。


昨年7月亡くなった皇室記者ひとすじ56年・松崎敏弥さん

[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸
 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。

先帝陛下は酒を嗜まれず、美食を好まれなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。昭和天皇陛下・香淳皇后陛下は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住されておられました。
そこは、元侍従長の入江相政氏によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、昭和天皇陛下は戦後もそこに住み続けられました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、昭和天皇陛下は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けられました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、神武景気も過ぎた昭和36年の11月、先帝陛下はようやく現在の吹上御所に移られました。
新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
そして先帝陛下は、以下のように仰せられた。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」


先帝陛下は終戦の詔勅において日本国民に向けて発せられておられます。
「常に汝ら臣民とともにある。」と・・・

昭和の日に先帝陛下のご遺徳を偲び、御国の隆昌と皇室の彌榮(いやさか)を願ってやみません。




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画像引用元 神宮


すめらぎいやさか。
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長きにわたるつまらぬ議論しかせぬ国会に辟易されておられる方々も多いでしょう。もっと国の将来に山積している問題に取り組んで欲しいと願っているのは私だけではないとおもうのです。
日本人が日本人らしさを失っているように思います。
傲慢、増上慢、独占ばかりが目立ちますが、元来日本人は「足るを知り」、満足する事を知っている人間が本当に豊かな人間であり、努力を続けてきました。
伊勢の神宮の日々の神事、営みは日本人に日本人らしさを示しておられます。


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