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日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ

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かくすれば かくなるものと知りながら 
 
已むに已まれぬ大和魂
 
 
こうしたら・・こうなることぐらいは、わかっていたが・・
 
だけど・・・やむにもやまれずに・・こうするしか仕方ないのが、
 
大和魂というやつだ
 
世の人はよしあしごとも言はばいへ 
 
賤(しず)が誠は神ぞ知るらん
 
世の中の人が後ろ指を指しああだこうだと毀誉褒貶を言いたければ言えばいい・・賤(しず)・・自分の正しさは「神のみ」が知ってくださっていたらそれでいいのだ。
 
 
吉田松陰先生の声が聞こえる・・・「学ぶをやめよ・・もう行動する時だから」
 
 
 「死而後已」
志をもって始めた事は全身全霊をつくして行い「死して後已むのみ」である。
 
 知識など何の役にも・・何の頼みにもならない・・行動してこそ達成ができるものだ・・・口先でああだ、こうだでなく・・・やめるのは死んではじめてやめるべきものだ。
 
 
至誠神を感ず
 
まごころで行えば、神様さえも感動される
 
「国家とともに」という志がないならば、人ではないのである。
 
国がなくなれば家庭も個人も無いのである・・・・国があればこそである



 
 
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転載元転載元: 世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」

タイ王国と日本

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我国の友好国、「タイ王国」が未曾有の災害が襲っています。
一刻も早い終息を願うばかりです。
 
以下に友好の歴史を抜粋します。
 
☆長崎から江戸まで、象が歩いた
享保13年(1728年)6月安南(タイ国)より雄雌2頭の象が来ました。牝象は、寒さの為死んでしまいましたが、翌年3月長崎から江戸まで、象が歩きました。
江戸になくてはならない人気者になりました。
 
☆日タイ交流の始まり
1882年(明治15年)、東伏見宮殿下がバンコクを訪問されて、国交関係樹立について会談された。
 
☆靖國神社参拝、外国要人第一号はタイの外務大臣
1887年(明治20年)9月22日、シャム(現在のタイ)国王の弟で外務大臣のデヴァウォングセ閣下が、外国要人として初めて靖国神社に公式参拝されました。
 
 
☆政尾虎吉博士がタイの法典編纂に従事
タイが欧米各国から招いた20数名の法律顧問の首席だった政尾虎吉博士は、1897年(明治30)から大正2年までの16年間、タイにとどまり、新法制と法典編纂の事業に取り組んだ。博士が大正10年に亡くなられた時は、タイ政府は国葬の礼を持って遇した。
 
 
☆日本女性がタイ貴族女学校の校長に
近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向で、イギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつ(1870〜1945)が事実上の校長として招かれた。1904年から、3年間、安井は当時の貴族名門の子女約200人ほどを教えた。それから再度のイギリス留学の後、帰国後は東京女子大学学長、東洋永和(現・東洋英和)の校長を務め、日本とタイ両国の女子教育に大きな足跡を残した。
 
 
☆泰の性格 - 1941年4月3日 田村大佐放送
前駐泰大使館附武官陸軍大佐田村浩氏は四日午後八時より「泰国最近の情勢」についてAKより放送、日本と攻守同盟を締結した前後の事情、最近の同国の政情、泰国人の特性、ビプン首相の人なり、泰国軍などを詳述したのち日本人が泰人に対する態度について次の如く述べた。
 泰国人は面子を非常に重んじる。ゆえに彼らに接するにはその体面を傷つけぬように注意せねばならぬ。小さいことではあるがたとい低い身分の泰国人に対しても衆人の面前で口汚く罵ることは避くべきである。
 また泰国人は深い仏教徒であるから仏様に対して不敬になるようなことをしてはならない。仏像や僧侶を大切に取扱うことが必要である。僧侶は王様や貴族に対しても絶対に頭をさげることをしないし礼をすることもない。これが小乗仏教の習わしであってそれくらい僧侶は権威を有している。
 また泰人に体罰を加えることは屈辱を加えることになる。日本人は一寸したことですぐ他人の頭や頬っぺたをはることがあるが、これは泰人に対しては絶対にいけないことである。殊に泰人は頭は最も神聖なるものとして宗教的信念をもっている。可愛いからといって小さな子供の頭を撫でることも避けた方がよろしい。
また泰人がてきぱき返事をしないからといってむきになってはいけない。明瞭に「ノー」ということを彼らはいわない癖がある。
 
 
☆米英の圧迫打破 - 1941年12月16日 ピブン泰首相公式放送
われわれはタイ国家興隆のために生きねばならぬ。働かねばならぬ。しかも果敢に行動しなければならぬ。この重大時機を乗切るためには全タイ国民は政府と足並を揃えて断乎とした行動をとらねばならぬ。
 過去をふりかえってみよう。最近には仏印と武器を執って戦わねばならなかったが、日本の強力な援助によって失地を回復し得た。遠い昔から日・タイ間にはただの一度として不愉快な思い出を残したというべきなんらの記憶もない。タイの国土は次第に小さくなって来ている。これは一体どこの国の仕事であったか。今さらいうまでもない。彼ら列国の間で条約まで結んだメナム河を国境としてわがタイ国を分割しようとしたのではないか。
 タイは今まで堂々独立国家として自由に存在して来た。これまでになぜわれわれは欧米諸国に与えたような親善を日本に対して与えなかったのであろうか。これはよく考えてみると実に巧みな米英第五列の宣伝のためである。われわれは彼らに欺かれてはならぬ。
 いま日本は全東亜民族を英米から解放するために戦っている。しかも日本はかつてのわがタイ国の土地にあって戦っているのだ。タイは今この機会を逸することなく立上らねばならぬ。そして米英の奴隷的圧迫を打破するために戦わねばならぬ。
 

☆タイ、米英両国に宣戦布告
米英はタイが日本と同盟したというので、タイの地方都市の空襲を始めた。ピブン政権は、1942年(昭和17年)1月8日、米英両国に宣戦布告する。
 
 
☆東条首相、タイを訪問
1943年(昭和18年)7月、東条首相はバンコックを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタイに戻した。タイ国民は躍り上がって喜んだという。
 
 
☆国に帰ったら、殺されるかな
「日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は、『こんな気の毒な日本を見ていられるか。』と口々に言いました。だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです。」
 
タイ王国 元貸与金返還交渉使節団 ソムアン・サラサス最高顧問
 
 ※帰国後、ソムアン顧問はこのように報告し、最終的に1959年、20億バーツ(当時の換算で10億ドル以上)の巨額な日本側の借金を、実に40分の1の2,500万ドルにまで値引きに応じてくれたのである。また、後日こう振り返っている。
 「国に帰ったら、殺されるかな。」とフッと思った。けれど、「まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから。」と自分に言い聞かせました。団員も同じ気持ちだったのです。
 ※更に、ソムアン顧問とその父で戦前に経済相を務めたプラ・サラサス氏は、「あまりにも日本の子供達がかわいそうだ。」と言って、私費で象の「花子さん」と米10トンを贈っている。プラ・サラサス氏はまた、マッカーサーと直接会って、「将来、アメリカはソ連とかならず対決する日が来る。その時、力になるのは日本である。日本をいじめる事は、アメリカの為にも、アジアの為にもならない。」と進言している。
 
 
☆12月8日 - 日本というお母さん -
「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。
 12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」
 
ククリット・プラモード タイ王国元首相(1973年就任)
 
 ※タイの人々は、目上の人を非常に大切にします。特に父母に対しては、敬意と感謝の念を忘れる事は有りません。国王は国民の父であり、王妃は国民の母と称される程です。そのような国の首相が、就任以前の記述とは言え、「日本という母がいたことを忘れるな」と東南アジア諸国の人々へ発信してくれた事に深い感銘を覚えます。
 
 
☆優しかった日本兵を私は忘れない
私はクンユアムに進駐してきた最初の日本兵から、帰還する最後の一兵までを知っている。クンユアムの日本兵は村人と共に働き、お互い協力して生活していた。カンチャナブリの博物館で宣伝される日本軍とは違う。優しかった日本兵を私は忘れない。
2005年1月8日 メーホンソン県クンユアム
旧日本軍博物館 財団設立準備総会
ジャルーン・チャオプラユーン(元運輸大臣)

 
 The Greater East Asia War Japanese Army Museum of Khun Yuam(大東亜戦争クンユアム旧日本軍博物館)
 ※インパール作戦後、日本兵が敗走した白骨街道。そこでは作戦中、道路建設に駆り出された現地人の多くもまた死んでいる。そのような究極の精神状態での交流を通して、今でも現地の人たちに語り継がれている日本兵が居たことを誇りに思う。
 

☆プミポン国王ご夫妻、靖国神社に公式参拝
1963年(昭和38年)6月4日、プミポン国王ご夫妻が、靖国神社に公式参拝(中村元司令官が名代)されました。
 
 
 
☆2002年、敬宮愛子内親王殿下お誕生のお祝いに日本国民に友好のしるしとしてアジアゾウのアティ Artid(太陽、オス5歳)とウタイ Authai(日の出、メス4歳)が寄贈されました。 タイからのアジアゾウ来園は、1964年に当時の皇太子殿下(現天皇陛下)がタイ王国を訪問したときに、タイ王国日本留学生会より贈られた「メナム Mae Nam(オス)」(1965年来園)以来37年振りとなります。
 
 
☆日本は最高のパートナー 2006-12-27
プリディヤトン副首相兼財務相は26日、ニュースクリップのインタビューに応じ、対日関係を重視する姿勢を鮮明にした。
 私個人は、97年の経済危機から現在まで、日本は最高のパートナーだったと思っている。危機の際にも我々を捨てず、助けてくれた。タイの自動車産業がアジアのデトロイトまでもう一歩のところまできたのも、日本のメーカーの投資のおかげだ。来年は日タイ修好120周年に当たるが、日本との友好関係は今後も大事にしていきたい。
 
プリディヤトン・テワクン副首相兼財務相
1947年生まれ。王族。
米ペンシルベニア大学ウォートン・スクールで経営学修士号(MBA)を取得。
縁戚のラムサム財閥がオーナーの商業銀行カシコンバンクに勤務。
アナン暫定内閣で副商務相。
1993〜2001年タイ輸出入銀行総裁。2001〜2006年タイ中央銀行総裁。
 
☆東日本大震災後、電力不足に悩む我国へ
タイから東京電力に無償で貸し出された天然ガスの発電機が、川崎市川崎区千鳥町の川崎火力発電所に設置された。短期間の工事で約四万世帯分の発電能力が増強された。試運転も済ませ、電力不足時の予備電源として緊急稼働に備える。(下画像
 
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☆天皇陛下の魚 - プラー・ニン(仁魚)
1964年(昭和39年)、今上陛下が皇太子時代にタイを訪問された時、プーミポン国王から山岳民族であるモン族のタンパク質不足の問題をお聞きになり、繁殖力の強いティラピア50尾を贈られた。その後、タイ全土で養殖されて、1973年にはバングラデシュへの食料支援として50万尾を贈られたという。今では山岳民族だけでなくタイ国民の貴重な蛋白源となっている。この話に感動した中国系タイ人が、御名前「明仁」から一字を頂き、中国語で「仁魚」、タイ語でプラー・ニンと命名したという話が残っている。
 ※タイの市場ではナマズが見当たらない日があっても、プラー・ニンが売られていない日はありません。体長30〜40cmのものでも20〜30Bで買えます。今では、それほど庶民的な魚です。
 
 
私たち日本人が思う以上に、タイ王国は変わらぬ友好、友情を持ち続けてくれています。我国も震災後、時間もたっておらず国難の時ですが、支援の輪が広がっていくことを願ってやみません。
 
災害に遭われた、タイ国民の皆様にお見舞い申しあげます。
 
 

「時代おくれ」

 
 
 
日本男児、時代おくれで結構、斯(か)くありたい・・・・
 
 
 
筆者の十八番(おはこ)です・・
 故・河島英五氏には、阪神淡路大震災の時には、大変お世話になりました。
兵庫県民はいつまでも貴殿を忘れることはないでしょう・・・
 
 
 

東北を元気にするのは?そう考えている方は多いはず。
でもどうしたら…という時にはこちらをごらん下さい!!
 
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是非東北を見てみませんか?
 
   
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転載元転載元: 花徒然

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北条ロータリークラブが創立50周年を迎えました。
その記念事業として、加西市出身の青山繁晴氏の講演会が下記の通り開催されます。
参加無料でどなたでもお聞き頂けます。
お繰り合わせの上、是非お越しください。
    記
北条ロータリークラブ
創立50周年記念講演会
「祖国とふるさとは甦る」
・講師
㈱独立総合研究所
青山繁晴氏
・とき
平成23年10月10日(祝)
午前9時30分開場
午前10時開演
参加無料、収容人員1000名
・ところ
加西市民会館 文化ホール
お気軽にお問い合わせ下さい
 
 
 
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青山繁晴氏
 
 
 
筆者の生まれ故郷、兵庫県加西市に憂国の士、青山繁晴氏が講演の為帰ってこられます。近隣の方々、ご希望の方々はご参加ください。
青山繁晴氏の生家のことは、青山氏自身のHPで述べられています。
 
 
青山繁晴氏のご尊父は、地元加西でも屈指の企業経営者でもあられました。
筆者の父も、青山繁晴氏のご尊父の会社に勤務していました。
筆者もご存命の時にはお世話になりましたが、実に先見の明のある方でした。
青山繁晴氏は、混迷を極める今日の日本を憂い、警鐘を鳴らされておられます。
 
筆者の故郷、兵庫県加西市はかっては、三洋電機㈱の創業の地として、企業城下町として栄えましたが、三洋電機の回転事業部の撤退、売却、関連企業の廃業に加え、それに伴う人口流出など、灯りが見えない状態です。
 
 
 
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小篠綾子さん(左から2人目)とコシノ3姉妹
 
 
10月3日より始まる、NHK朝ドラ「カーネーション」は、ヒロコ、ジュンコ、ミチコのファッションデザイナー「コシノ3姉妹」を育て上げ、自らも晩年同じ職で活躍し、2006年に死去した故・小篠綾子氏の生涯を実話に基づくフィクションストーリーにして描くドラマです。
故・小篠綾子氏のご尊父の生家が、筆者の実家から200mぐらいの近隣の出身であり、生前、筆者の母校の小学校の緞帳(どんちょう)をデザインしていただいたこともあります。今は故・小篠綾子氏に連なる縁故者は誰も住んでいらっしゃいませんが、コシノ(当地方では「おざさ」と読みます)ブランドのルーツが我町であることは町民の誇りでもあります。
 
青山繁晴氏の活躍、故・小篠綾子氏のドラマ化と、地盤沈下の著しい故郷「加西市」の活性に連なることを願ってやみません。
 
 
 
 
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