横浜市の日教組が市教育委員会の採択した自由社の「新編 新しい歴史教科書」を使わないように、
「授業マニュアル」を作って教員に配布していたそうです。
またその配布の運搬も公務以外は厳禁であるのに無断で利用していたという。
学校教育法では教科書は自治体の教育委員会が採択するものとし、
さらに 横浜市 規則には教科書は教育委員会が採択したものでなければならないと定めているという。
国旗国歌法もそうですが法律を守る気のない日教組の姿がここにあります。
子供たちを教育する立場の教師たちが、揃って法律や規則を守らず不正なことを続ける姿勢が
信じられません。
その日教組は法の順守についてこう述べたことがあります。
「遵守とは法律や教えに従い守ることとあります。
この言葉の意味通りに子供たちの教育をするとなると、
画一的な人間をつくるかのようにも取れます。
つまりどんなことにも素直に従う人間を求めてしまう」
これが日教組の教師の考えです。
組合の主張のためには法律さえ守らなくてもよいような解釈もするのです。
しかし一方では「子供の権利条約を遵守させよう」と人権教育には一生懸命なのです。
今回の「授業マニュアル」には新しい教科書のことを、
「アジア諸国から人権を軽視し、日本が行った侵略・植民地政策を肯定し、
戦争責任を否定した記述があると批判される教科書」と指摘した上で、
「大東亜戦争は圧政と収奪、皇民化政策の侵略と植民地支配であり、
戦争が日本とアジアの人々にもたらしたのがどのようなものであったか」とあるという。
子供たちに歴史への愛着を教えようとした新しい歴史教科書を認めずに、
どうしても自虐史観の侵略した悪い国・日本という歴史を教えたい。
全ての教師がこうだとは思いませんが、このような教師が教育者のままでよいはすがありません。
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思えば、かつて、日清戦争後の講和条約で日本は統治したばかりの台湾でのことです。
台湾の教育に伊沢修二と七名の優秀な学務官僚が台湾に赴いて教育活動を行いました。
そもそも学校とは何かも理解されていなかった時代の台湾に、
親が子供をそんなところに出そうとはしませんでしたが、
彼らが熱心に教育の意義を説いて回り、徐々に理解され生徒が増えていきました。
そんな矢先、学務官僚の六名が百人ほどの現地のゲリラに襲撃され惨殺されてしまいました。
この悲報が日本に伝わるや全国から教職の資格を持つ有志が続々志願して
台湾の教育のために台湾に赴いていきました。
彼ら教師たちは亡くなった六人の跡を継いで、全力で台湾の近代教育に当たっていきました。
そういうなかでもマラリアや赤痢などの風土病にかかり志半ばで殉職する教師も多かったのです。
昭和五十九年、国会議員だった石原慎太郎は台湾を訪れて、
花蓮に近い峡谷に来た時のことをこう書いています。
「案内してくれた現地の人が頭上の険しい断崖をさしながら、
日本の統治時代、日本からやってきた小学校の先生たちは
『彼らもまた天皇の赤子である』、ということで、
あの断崖のはるか奥地に住む生蕃(せいばん)と呼ばれていた高砂族の教化のために、
靴を脱ぎ、裸足であの滑りやすい崖をよじ登り、自分の手で小道を開いて部落まで赴き、
彼らに教育を施した、と言っていた」とあります。
教育そのものに身を捧げた真の教育者の姿がここにあります。
それに比べて現在の日教組の教師たちは何だ。
私はここまでを今の教師には求めませんが、しかし、
やれ自分たちの労働時間だ、日の丸は嫌だ、
君が代は天皇を賛美して讃える歌で気持ち悪いだとか、
職場の民主主義を守れ、思想・信条・良心の自由に反するだとか、好き勝手もいい加減にされたい。
子供たちのことよりも自分の都合を優先させ、イデオロギーと
闘争に情熱を燃やしている教師たちは本当に教育者なのか。
教育者ならば先人たちを範として自分たちのことよりも子供たちのことを
もっと真剣に考えるべきではないでしょうか。
少なくとも決められたことや法律をきちんと守ることは教育者以前の問題です。
屁理屈をこねて守らなくてもいいという道理はない。
しかも現在の豊かな日本の目線からしか歴史を見ることが出来ない彼らが、
あの戦争は圧政と収奪、皇民化政策の侵略と植民地支配で、
戦争が日本とアジアの人々にもたらしたのがどのようなものであったかなどと
偉そうに言えるのだろうか。
祖先や先人を敬うことが出来ない人はそのまま自分をも否定することになります。
六氏先生やそれを引継ぎ使命感を持って教育に情熱をかけていた教師が
かつて日本にいたことをよく学んでほしい。