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ぶどうの恩人たち
(『山梨県歴史の旅』 山梨県観光連盟監修 堤義郎氏著)
ぶどうの歴吏は数千年前にさかのぼるようで、古代エジプトのピラミツド内にはぶどう酒の容器がきざまれている。春の季節、南の空に輝く星座・おとめ座の左に見える星は、古代ギリシア時代からぶどうの収穫期を教えたと伝えられる。また、キリストの最後の晩饗で、キリストが十二人の弟子にすすめたという赤いぶどう酒は多くの名画に描かれている。
奈良薬師寺の本尊の台座にもぶどうの彫刻があり、山梨県勝沼町・大善寺の薬師如来も右手にぶどうを持つことで有名だ。現在、ぶどうは世界の大多数の国で作られ、果物生産量の半分を占めているが、わが国では温室ものを含めた全国ぶどう生産量の約四分の一が山梨県産で、昔から甲州といえばたいていの人がぶどうを思い浮かべる。
甲州葡萄 昔は正に珍果 甲府藩主柳沢吉里
ぶどうの和名は中国語からきており、仏教渡来ごろに移し植えられたものではないかともいわれる。その時代、中国へ往来した学僧がもたらした植物の数は非常に多い。
甲州のぶどうについては、江戸中期の元禄十年(1697)に刊行された平野必大の著「本朝食鑑』のうちに「葡萄甲州最も多し、駿州(静岡)これにつぐ。倶に江都市上に伝送し、以て之を貨す」と出ている。
正徳年間(1097〜99)、甲府藩主の柳沢吉里が行なった耕地調べに「ぶどう」の名が表われていて、吉里のメモにも将軍家へのみやげに甲州の国産として、ぶどう、ツルシガキ、若タケ、リンゴ、羽二重、その他を贈ったとある。大名が将軍のきげんを取りむすぶ名産競争はかなり激しかったらしく、ぶどうも大役を担ったわけだ。
吉里の父、吉保に召しかかえられた儒者・荻生徂徠は甲州へきた「風流使者記』の中に、勝沼で泊まって食事ができたと供の者を呼んでも、みんなぶどう畑の方へ行って帰らなかったと書いている。カゴかき二人、ヤリ持ち二人、沼使い三人、僕従二十人、これだけ呼び集めるには「門を出でて手を招き、高く呼ぶ」と徂徠先生も閉口したようだ。
甲州葡萄 山ぶどうの変種
「勝沼や馬子も葡萄を食ひながら」という句を芭蕉の作としているのはどうかと思うが甲州のぶどうが勝沼付近に早くから根をおろしたことは定説となっている。
源平合戦で平氏が滅んだ翌年の文治二年(1186)、勝沼町上岩崎のあたりに住んでいた雨宮勘解由は、城の平というところで山ぶどうの変生種を見つけ、寺の庭に移植しておいたら五年後に三十あまりの実をつけた。味わってみたら甘くおいしいので、付近の人びとに勧めて作り出したものが勝沼ぶどうの始まりだとする伝説がある。
源頼朝が信州の善光寺へ参けいのため通りかかったとき、三カゴを献上したというのは頼朝参けいの事実添不明でも、雨宮説はあとで医師の永田徳本がきてタナづくりを教えた話とともに、全く根拠がないとはいいきれぬ気がする。
武田信玄にも贈って、太刀をもらったとかである。
甲府の柳沢藩主が産物として奨励、だんだん栽培地がひろがり、ほしぶどうも考案されてか
甲州みやげに何もろた
郡内しま織ほしぶどう
とうたわれたそうだ。明和(1764〜72)以後に、八代、巨摩郡などへも移植され、ナシやモモ、クリ、リンゴ、ザクロ、ギンナン、カキとあわせて甲州八珍果と呼ばれるようにもなった。
甲州葡萄 タナをつぶし候 佐藤信淵
甲州でおこなわれた江戸時代のぶどう栽培法は、経世家・佐藤信淵が天保三年(1832)に出した大著「草木六部耕種法』に紹介されているが、栽培農家は売れ行きが思わしくないときもあり、生産費が大きく、技術的にもむずかしいこ
とから、急増というわけには行かなかったようである。
そこでカンシャクを立てた人びともいたことが、享保九年(1724)の上岩崎村明細帳に次のように出ている。
「当村名物蒲萄歩、六町二反二十八歩、是ハ江戸表間屋方へ付出シ、時々ノ相場ヲ以テ相払申候。尤モ値段先年ヨリ下直ニ相成リ、其ノ上駄賃高直ニテ、棚造諾入用ニ引合兼ネルニ付キ、葡萄棚相潰シ候」
これは八代将軍の吉宗が享保改革政策を打ち出して、諾物価引き下げ、ケチこそよろしと大わらわであったときから、そのあおりを受けたものにしろ、ぶどうの生産費が収入にくらべて高あがりにつく悩みは今日でも同じことだといわれている。果物作りは、しろうとが安直に考えるほど楽ではないのだ。
甲州葡萄 デラウェア導入。雨宮竹輔
明治にはいると、ぶどう生産の振興にはいろいろな人が努力したが、雨宮竹輔もその一人である幕末の万延元年(1860)、山梨郡牛奥村(塩山市)で釈迦の誕生を祝う灌仏会の日に生まれ、曽祖母が男の子ができたと寺へかけこんで和尚を驚かせたという。十八歳のときに家を継ぎ、村の娘と意気投合して村にいづらくなり東京へ出て先輩・雨宮敬二郎の家へ書生に入れてもらった。
博覧会でぶどうの展示を見たら、小石まじりの荒れ地、おまけに相当な傾斜地、とうもろこしと麦を作りながら二、三年ごとに凶作という郷里の畑にぶどうが作れたらと考えた。コレラにかかって高熱のため妙な居眠りぐせにとりつかれたが、農商務省をとおしてアメリカからデラウェア種などを取り寄せ、帰郷すると数年間も試作に熱中した。なかなかうまく行かず、人が冷たい目をむける中でデラウェアだけに力を入れ、他の品種は問題にしなかった。
やつと糖分の豊富な実をつけるようになった。それをさらに試作三年、
甲州葡萄 病虫害との戦い
県下の栽培農家にも試作してもらい有望の見通しを持った、ぶどう酒をつくり、富士川の舟に乗せて京浜地方へ出荷した事業欲の強さは東京で学んだ雨敬ゆずりともいえよう。
ぶどう共進会で一等賞をとると、全国から苗の注文が続々舞いこんだ。彼は苗を送るばかりでなく、足も運んでデラ種の普及に休むときがなかった、ぶどうの栽培は病虫害に苦しまされる。
白渋病や害虫のフイロキセラ対策では何回となく東京農試や県農試へ出かけた。
昭和五年(1930)、東山梨郡奥野田村(塩山市)の村長におされて就任したが、東京みやげの居眠りぐせは直らなかった。村葬に参列してコクリ、コクリを始め、まわりの者をはらはらさせたそうで、立ち上がる番がくるとさっと立つ離れわざをみせた。八十三歳まで長生きして、死亡したらデラの父・竹輔を記念する大きな碑が建てられた。
伸ばしたい消費
もっとも、海外種の導入は竹繋最初でなく、明治十年(1877)には県の手で北巨摩郡目野春村(長坂町)の試験地に試作栽培が行なわれていた。同時に大日本山梨葡萄酒会杜が設立され、二十五歳と十八歳の若い杜員二人がフランスへ渡って栽培法やぶどう酒の醸造学んできたが、ぶどう酒の方は需要がともなわず、あとからできた会杜も経営がふるわなかった。
近年は栽培農家がふえ、技術上の改善もめざましく生産額が高まっているとはいえ、わが国のぶどう消費量は諸外国にくらべてまだまだ低いうらみがある。昔は果実が鳥や動物の食べものと考えられ医者もくだ物を禁じたときがあったらしい。江戸時代に上層階級の食事に加わった果物はミカンとカキぐらいで、一般の人びとが食べ出しても果物はいわゆるお茶受けであった菓子という言葉も果子=果実からきている。
果物を食事のあとに出したり、病気見舞い使うことは明治以後・外国からはいった風習であり古い時代の考え方は容易に改まらないと思わせる。
雨宮竹輔の碑は塩山市北牛奥
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