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白州歴史上の人物〔馬場美濃守信房〕角川日本姓氏歴史人物大辞典10山梨県
清和源氏頼光流・同満政流・同木曾氏族・同義光流武田氏族、桓武平氏千葉氏族・同大橡氏族など、全国にこの氏がある(姓氏家系)。
甲斐では武田家三代に仕えた馬場信房(政光・氏勝・信春・信松など異名が多い)が著名であるが、その出自については諸説がある。『寛政譜』に載る五氏の一つでは、源頼光の流で源頼政の父仲政が馬場をなのり、その後裔が巨摩郡教来石(白州町)に移住、教来石氏をなのって代々武田氏に仕え、駿河守信明のとき武旺信重の婿となり、馬場を称し、その孫が信房で、武田家臣馬場伊豆守虎貞の家名を継いだといい、同書の別系では、武田五郎信光の五男一条六郎信長の次男四郎頼長が馬場を
称し、その孫広政は敬来師氏を称し、その七代が信房で、再び馬場を称したという。『武田系図』は、一条信長の子四郎頼長が馬場を称したとする。馬場信春は武川衆で、はじめ教来石民部少輔景政といい、信虎の代から武田氏に仕え、天文一五年侍大将にとりたてられ、馬場虎貞の名跡を継いで馬場をなのり、永禄八年原美濃守にちなんで美濃守を称し、智勇に優れ数々の軍功を挙げて譜代家老衆にとりたててられたが、天正三年長篠の戦で戦死した(甲陽軍鑑・甲斐国志)。美濃守は甲府古籠屋小路に住み、天正三年には死去した美濃守自身の、また翌年にはその内方の逆修供養が高野山で営まれている(武田家過去帳)。
信春の長男民部少輔信忠(信春・氏員・信頼とも)は、信濃深志城で戦死、その弟信義は徳川氏に仕え教来石などの旧知行地を安堵されたがのち勘気を被り、三男(次男とも)房勝は小田原北条氏に
仕え、武蔵岩槻城に住み、その子房家以後徳川家臣となり、また房勝の弟昌松は外祖父小田切下野守の家を継いだ(寛政譜)。
『一蓮寺遇去帳』には長禄四年の馬場三州のほか、年未詳で馬場中書・馬場民部・馬場小太郎の名があり、永禄起請文には六河(武川)衆として馬場小太郎信盈の名がみえる。天正一八年の知行書
立には、馬場勘五郎(信吉)に二〇〇俵、馬場小太郎(信成)に八○俵、また慶長九年の知行書立には馬場右衛門丞(信光)に一〇〇石がそれぞれ加えられており、みな武川衆という (甲州古文書)。
これらの馬場氏とは別に、木曾義仲の末喬讃岐守家教の子家村の三男常陸介家景が馬場を称し、その数代のちに木曾義就の家老馬場半左衛門昌次があり、昌次はのちに徳川幕府に仕えた(甲斐国志)。また、元亀四年一月付で三方ケ原の戦の功により武田氏より馬場丹後守(忠次)にあてられた感状が八代郡常葉村(下部町)の馬場八郎兵衛文書に入る(甲州古文書)。この馬場家は、『続峡中家歴鑑』に馬場七之丞家として載り、その家歴によれば、本娃は菊池といい、清和源氏で、丹後守忠次が南北朝の乱を避けて都留郡朝日馬場村(都留市)の山奥に住み、武田氏に仕えて地名から馬場を
称し、十一代伊豆守虎貞は武田信虎を諌めて殺され、その嫡子十二代信忠は甲斐源氏常葉光季の後胤常葉彦之丞の名跡を継いで馬場氏を称し、川中島・三方ケ原の戦の感状を得、一五代八郎兵衛のとき帰農、常葉村ほか八か村の定名主となり、代々名主・長百姓をつとめて七之丞は二六代にあたり、分家は一七戸に及ぶという。『甲斐国志』は、常葉院の位牌に馬場丹後守(天正一〇年六月)がみえ、馬場彦之丞(年未詳)もみえるが、記事に錯乱があるとし、ほかに常葉村には馬場弥五郎・馬場弥二郎などもあるという。また、山梨郡朝気村(甲府市)の浪人馬場彦左衛門家の家記によれば、祖は馬場美濃守の孫民部の子丑之介が、天正一〇年乱を避けて山梨郡平瀬村(甲府市)に隠れ、のちに朝気村に移って与三兵衛と改めたものといい、分家は小田切氏をなのったといい、元禄十一年
朝気村の村記には馬場善兵衛の弟に馬場総左衛門・馬場新五兵衛があり、総左衛門の妻は江戸牛込の馬場一斎の娘という(甲斐国志)。なお、馬場氏の屋敷跡と伝える地が、下部町市之瀬・同町常葉、
白州町白須、小淵沢町殿平にある。県内一四九戸。【丸に花菱・丸に二筋山道(これは戦旗)】
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