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白州歴史上の人物〔曲淵氏 花水(片颪〕角川日本姓氏歴史人物大辞典10山梨県
・まがりぶち、マガブチともよみ、曲渕とも書く。
巨摩郡曲淵(昭和町)発祥の氏は清和源氏頼親流で、朝日左衛門尉頼時の後胤縫殿助頼定が曲淵を家号としたことに始まるという(姓氏家系)。
『一蓮寺過去帳』には、明応四年曲渕母義逆修とある。『寛永系図』には青木尾張守信定の三代甚右衛門信次が曲淵勝左衛門の婿となり、青木を改め曲淵を称したという氏を載せる。
『寛政譜』には頼時の孫曲淵勝左衛門吉景(玄長)より始まる三家がみえる。吉景は武川衆の一人であり、武田信虎・信玄・勝頼に仕えた。『甲陽軍鑑』によれば、はじめ板垣信方の被官であったが、数々の武功をたてて信玄の直臣にとりたてられ、改めて信方の同心、のち山県昌景同心となったという。天正一〇年三月武田氏滅亡ののち剃髪して玄長と号し、徳川家康の甲斐入国を機に帰属し、巨摩郡若神子(須玉町)などで武功をあげた。
吉景は天正一八年一月の徳川家奉行連署知行書立で二〇〇俵を与えられている(甲州古文書)。吉景の三男彦助(勝左衛門)正吉も勝頼のあと父とともに家康に仕えた。正吉は天正一〇年二一月七日に家康より八代郡国衝(御坂町)・山梨郡(のち八代郡)平井(石和町)などで五〇貫余を与えられ、慶長九年三月の徳川家康奉行連署知行書出では八0石を与えられている(同前)。
また正吉は天正一八年の家康の関東入国のとき武蔵鉢形領において一五〇石を賜ったという。吉景の跡は正吉が継ぎ、子孫は幕臣として続いた。吉景の長男曲淵筑前守吉清は別家を起こした。家康に仕えて相模国内二〇石を領し、慶長五年の信濃上田城攻めに従った。慶長年間には子の助之丞吉重とともに甲府城番をつとめたという(甲斐国志)。吉重の所領は巨摩郡片颪(白州町)にあったといわれる。
『峡中家歴鑑』に載る北巨摩郡清春村(長坂町)の曲淵米平家は清和天皇の後蕎で、寛正年間にあ
った兵部輔秀房の族で初めて曲淵を称した景秀三郎左衛門尉(曲淵雅楽)を祖と伝える。代々武田氏に仕え、吉景―吉長―吉昌―吉延―吉虎―吉晴を経て助之丞のとき帰農し、江戸期には長百姓をつとめたという。
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