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甲斐源氏(かいげんじ〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)
 
清和天皇(850-880年〕を祖とする清和源氏の一流。新羅三郎源義光から出る。義光が甲斐守に任ぜられ、若神子の館に住んだというが未詳(筆註これは不可能)。
義光の子義清は12世紀の初めころ市河(川〕庄(青島庄ともいう)の庄司(筆註これも違う。実際は罪を犯して甲斐に流された)として甲斐に土着、その子清光は逸見庄を根拠として勢力を拡張した。精光には多くの男子があり、それぞれ国内の婁
地を占拠してその地名によって氏を称し、それらの子孫がさらに多くの分脈を生じ、甲斐源氏は天下の大族となって繁栄した。
 後世、特に栄えたのは信義と還光(加賀美〕の子孫である。信義は武河庄武田(韮崎市神山町〕によって武田氏の櫨となり、子孫は甲斐、安芸、若狭などの守護となったが、特に甲斐武田氏は戦国時代(1467-1568年〕に信玄が出て天下を争った。
 また、還光は加賀美(若草町)によって加賀美氏を称したが、その子孫は南部氏、小笠原氏などとなった。南部氏は陸奥の雄族として江戸時代(1603-1867年〕には盛岡藩主となり、小笠原氏は室町時代(1393-1572)には信濃守護、江戸時代には豊前小倉、肥前唐津、越前勝山などの藩主となった。<磯貝正義氏著>
交通の整備と明治天皇御巡幸
 
文明開花、殖産興業を目指す政府のもとで意欲的であった藤村県令は、道路整備にも積極的であった。着任して一年を経た明治七年(一八七四)一月の告示で「四方ノ声息通ジ難ク、民情随テ固廼ニ安ソジ物産工業為ニ興ラス」(山梨県政百年史)と述べ、四囲を山岳に囲まれた本県の実態から、殖産興業を推進するためにも道路整備が急務であることを指摘している。以来、甲州街道をはじめ旧街道の修築が急速に進められた。
当時の道路整備は、曲折や高低差の修正、架橋など本格的なもので明治十二年(一八七九)までに、諸道の修築延長が百二十里に達したと伝えられている(県政百年史)整備に要した膨大な経費は、学校建築などと同様に大部分が区、戸長はじめ村の有力者や篤志家の寄付によったというから、当時の諾改革は民問の協力なしには推進し得たかったといえよう。
交通制度もまた新政のもとで改革整備が行なわれた。本県では明治五年(一八七二)、県が大蔵省に提出した会杜創建の稟議にはじまる。これによると各駅(甲州街道の各宿駅のうち、本県内に十八駅)に陸運会社を設立し、相対賃銭で人馬継立業務を行なうというものである。
稼ぎを行なうものはすべて入社し、その鑑札をもたたければ営業できないことになった。陸運会杜はその後の改正を経て、明治八年(一八七五)には全国規模の内国通運会社と連合し、鉄道開通まで主要な運輸機関としての役割を果したのである。
本町の台ヶ原、教来石両宿もこのようにして交通集落としての機能を保ち、近世以上に繁盛した。
おりから地域住民あげて新時代の到来を自覚するようなできごとがおこった。明治十三年(一八八0)、明治天皇の山梨、三重、京都三府県のご巡幸である。ご巡幸は伏見官をはじめ太政大臣三条実美、参議伊藤博文、内務郷松方正義ら供奉する文武百官四百余人を随え、六月十六日皇居を出発したのである。
本県ではすでに四月十三日、県下から各郡長に内達され、二十六日には聖旨を県民に布達、三十日には沿道各町村において心得べきことを各役場へ布達していた。甲州街道を進まれた行列は、甲府に二日滞在後、六月二十二日、午後一時五分、円野御小休所を出発、午後二時十五分、菅原行在所(北原延世宅)にご到着、一泊された。すでに現つ神として尊崇されていた主上をはじめ、新政府の要人多数を迎えて、台ヶ原宿はもちろん沿道各地では近世における大名行列以上に混雑を極めたと思われる。
御泊行在所は菅原村北原延世、御馬車舎は古屋喜代造、御厩は北原延世囲内、御立退所は菅原村蓮照寺、御小休所は教来石駅河西九郎須宅と定められ、五月十八目、近衛局御先発陸軍会計軍吏副横幕直好から次のような指令があった。
○菅原行在所
北巨摩郡台ヶ原駅北原延世
北原延世は酒造業を営み、家宅広く行在所に可なるを以て笹子峠と同じく、五月七日、行在所に内定し、左の箇所の修繕を指令す。
○御泊行在所
一、御浴室並御厨取設ノ事
一、御馬車屋並御馬繋取設ノ事
一、表裏へ内メリノ事
一、門並玄関へ轟張折釘打ノ事
一、馬繋場奥入二付宿並建札ノ事
一、在来便所へ障子〆切ノ事
〆六件
此営繕費金七百六拾五円余、外に私費修繕したるもの、表裏門戸修繕費金百参拾四円余也
御立退所同村蓮照寺
供奉官員以下膚従老の宿割は、駅内及び隣村の民家舎北原慶造外三十余戸に割当する。宿割左の如し。
 
第一号甲     大臣護衛警官  北原慶造
第一号乙     伏見宮     台原台祥
第三号      参議護衛官   原光太郎
第四号      内閣書記官以下 宮川庚平
第五号      内務書記官以下 原田佐左衛門
第六号      駅逓官員    北原民平
第七号甲     警視以下    清水勘四郎
第七号乙     護衛長     石井半十郎
第八号      大蔵書記官以下 大輪関三郎
第九号      陸軍中将    山田勘兵衛
第十号      陸軍佐尉官   古屋荘平
第十一号甲    騎兵下土以下  山本庄吉
第十一号乙    騎兵下土以下  島口杢兵衛
第十二号     宮内卿     北原篤
第十三号     宮内少輔    北原篤
第十四号     宮内書記官以下 宮川仁左衛門
第十五号     式部助以下   原弘
第十六号甲    待従      古屋茂一
第十六号乙    待従      古屋照時
第十七号     待医以下    小松浜平
第十八号     内膳課     入戸野六平
第十九号     調度課     台原益之
第二十号     内匠課     島口元右衛門
第二十一号    内廷課     北原庄太郎
第二十二号    宮内属     細田信茂
第二十二号ノ内  輿丁      細田董顕
第二十二号ノ内  輿丁      細田治郎吉
第二十三号甲   輿丁      菊原是副
第二十三号乙   御厩課     細田伝
第二十四号甲   宮内属以下   伏見伝八郎
第二十四号乙   宮内弥雇・馬丁 鈴木員村
第二十四号乙ノ内 馬丁      鈴木清兵衛
第二十四号乙ノ内 馬丁      伏見孫右衛門
号外一号     文学御用掛   山田伝左衛門
号外二号     印刷局     大森直竜
 
○御小休所
御小休所も亦、行在所と同時に内定する。北都留郡田尻駅、犬目駅、花咲駅、初狩駅、東八代郡駒飼駅、東山梨郡日川村、東八代郡石和駅、中巨摩郡竜王村、北巨摩郡円野村、教来石駅の十箇所なり。指定したる家主の氏名及び修繕筒所左の如し。
・北巨摩郡教来石駅河西九郎須
御小休所
一湯殿床下並入口戸締ノ事
一玄関薄縁敷設ノ事
一玄関西ノ方二畳ノ間東ノ方唐紙ヲ障子二替ル事
一門前へ幕串並折釘打ノ事
〆四件
 
・御休泊所共二御膳水井へ雨除蓋新調井建札取設ノ事
但上屋根有之分ハ不及其義二見込
右の件々現場検査の上御照会および候処相違無之候也
明治十三年五月七目
宮内省十五等出仕中村保福
 
なお御厩部から次のような指示があった。
仮厩五十三頭建取設ノ事、
北巨摩郡台ヶ原駅山本庄吉、島口多左衛門、島口文左衛門、島口佐次右衛門、鈴木清兵衛、伏見伝八郎、島口嘉吉、山本覚、古屋庄平、古屋茂一
右山本庄吉外九人ハ第十号十一号旅館最寄農家ニテ在来ノ厩ヲ以テ使用ノ積ニ付、別ニ仮建厩ヲ要セザル事
また御膳水については水質極めて精良たるものを選び、四月八日、沿道各郡長に通牒して、予め良水と認むる井水、湧水、流水の場所を調査せしめ、数回水質の分析試験を行ない、宮内省内膳課に報告して次のように採用された。
一、円井御小休伊藤徳右衛門持井戸
一、台ヶ原御泊北原延世持井戸
一、教来石御小休字細入沢湧水
すべて行在所には御厨、御浴室を新設し、御昼行在所及び御小休所には御厨のみを新設した。御浴室は梁間六尺、桁問弐間半、御厩は梁間四尺、桁間九尺、御小休所の御廊は六尺四方羽目板屋根大板葺で、その図面まで示されている。行在所北原延世宅における玉座をはじめ宿泊状況は図面の通りで、北原家の家族は隠宅に移った。また山梨県病院では、台ヶ原駅と下教来石駅に病院出張所を仮設した。
翌二十三日午前七時、行在所を出発。御出門直前に山梨県令藤村紫朗に謁を賜う。七時四十五分教来石駅御小休所(河西九郎須宅)にて休憩。
八時三分ご出発、駅北の端場坂下において早乙女が十四、五人ずつ二組に分れ馬八節を唄いながら田植をしているさまを御通覧たされて長野に向われた。このとき菅原行在所において鳳来村の中山平右衛門、菅原村の小沢らえ、にそれぞれ孝子、節婦として金一封を賜わり賞している。
また各行在所、御小休所等にては、民問より十二、三歳から十六、七歳までの男子にして品行方正容貌端麗なるものを選び給仕として採用した。菅原行在所にては北原忠、北原滝蔵、教来石御小休所にては灰原義一郎、三井幸作、海野義徳がその栄に浴した。
素堂41才 天和二年(1682) 
 
 『武蔵.曲』幽山編
 
   東叡山のふもとへ市中より家を移して
  鰹の時宿は雨夜のとうふ哉
 花桃丈人の身しりぞかれしはいづれの江のほとりぞや梯
 は教し宿に先立てこたえぬ松と聞えしハ誰をとひし心ぞ
 や。閑人閑をとハまくすれど、きのふハけふをたのミ、
 けふもまたくれぬ。
 
山口素堂詩文・序文・跋文集・詞書素堂
 
 素堂39才 延宝八年(1680)
 
 『俳枕』高野幽山編。
 
 能因が枕をかつてたはぶれの号とす。つたへ聞、其代の司馬辻は史記といふものゝあらましに、みたび吾岳にわけいりしとなり。杜氏、季白のたぐひも、とをく盧山の遊び洞庭にさまよふ。
 その外こゝにも圓位法師のいにしへ、宗祇、肖柏の中ごろ、あさがほの庵、牡丹の園にとゞまらずして野山に暮し、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。此皆此道の情けなるや。
 そもそも此撰、幽山のこしかたを聞けば、西は棒()の津にひら包みをかけ、東はつがるのはて迄をおもしとせず、寺といふてら、社といふやしろ、何間ばりどちらむき、飛騨のたくみが心をも正に見たりし翁也。
 あるは実方がつかの薄をまげ、十符のすかごもを尋ね、緒たえの橋の木の切をふくろにをさめ、金沢のへなたり、いりの濱小貝迄、都のつとにもたれたり。
 されば一見の所どころにてうけしるしたること葉のたね、さらぬをもとりかさねて、寛文の頃櫻木にあらはすべきを、さはりおほきあしまの蟹の横道のまつはれ、延る宝の八ツの年漸こと成りぬ。さるによつて今やうの耳には、とませの杉のふるきを共おほかり。しかれども名取河の埋木花さかぬもゝすつべきにあらず。
 是が為に素堂書
甲斐源氏(かいげんじ〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)
 
清和天皇(850-880年〕を祖とする清和源氏の一流。新羅三郎源義光から出る。義光が甲斐守に任ぜられ、若神子の館に住んだというが未詳(筆註これは不可能)。
義光の子義清は12世紀の初めころ市河(川〕庄(青島庄ともいう)の庄司(筆註これも違う。実際は罪を犯して甲斐に流された)として甲斐に土着、その子清光は逸見庄を根拠として勢力を拡張した。精光には多くの男子があり、それぞれ国内の婁
地を占拠してその地名によって氏を称し、それらの子孫がさらに多くの分脈を生じ、甲斐源氏は天下の大族となって繁栄した。
 後世、特に栄えたのは信義と還光(加賀美〕の子孫である。信義は武河庄武田(韮崎市神山町〕によって武田氏の櫨となり、子孫は甲斐、安芸、若狭などの守護となったが、特に甲斐武田氏は戦国時代(1467-1568年〕に信玄が出て天下を争った。
 また、還光は加賀美(若草町)によって加賀美氏を称したが、その子孫は南部氏、小笠原氏などとなった。南部氏は陸奥の雄族として江戸時代(1603-1867年〕には盛岡藩主となり、小笠原氏は室町時代(1393-1572)には信濃守護、江戸時代には豊前小倉、肥前唐津、越前勝山などの藩主となった。<磯貝正義氏著>
 

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