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《駒ケ岳、現在の信仰》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)

明治初年の神仏分離。によって、駒ケ嶽神杜は神道の神杜として、一応修験道的信仰とは分離された。弘幡行者によって開山された駒ケ嶽の修験道的信仰は、その後、明治十六年十二月に主務者の許可を経て、皇祖駒ケ嶽教会となり、多くの駒ケ嶽講の主流となって現在に至っている。
出羽三山、越中立山、相模大山など古くから修験道が発達した山では、先達の集団が中心となって宿坊を経営したり、参拝老の案内先達をつとめた。その伝統は講として今目色濃く残っている。一方木曽御岳のように、各地に散在する信者は、御岳教などをつくって、その中の先達が講を組織し、登拝する形をとった。概して言えば、甲斐駒ケ嶽の場合は後者の例であって、それだけに御岳講の影響が強いと考えられる。
甲斐駒ケ嶽に対する山岳信仰を縄文時代まで遡って考えると実に数千年の長い間、われわれの祖先はこの山を尊崇し続けたことになる。その問幾多の具体的信仰形態は変化し、時に山に対する信仰の深浅の繰り返しもあった。現今の山岳信仰は率直に言って、往時に比して甚だ薄弱なものと言えよう。しかし、相も変らず、人々は駒ケ嶽に大きな神性を感じ、愛着を持っている。人類の大自然に対する宿命的な心理であるかも知れない。その意味でこの山に対する信仰はさらに深く詳しく研究され
ねばならないと信ずる。(山寺仁太郎氏著)

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《駒ケ岳登拝路》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)

その登拝路は、横手前宮を基点とする黒戸登山道と、千ケ尻前宮を基点とする尾白川登山道の二つが一般的で、他に、千ケ尻前宮から直接黒戸尾根にとりついて、笹ノ平で横手口と合流するものもあった。
尾白川登山路は、源流にかかる千丈ノ瀧下流において、左方の急坂を直登して、五合目屏風岩に到り、黒戸登山道と合流するが、これらの登山道は、屏風岩の峻瞼を経て、七合目の七丈小屋に達し、八合目の鳥居場において、朝日を拝して、やがて山頂の本宮に到達するように開かれている。
信仰登山が衰退して、一般登山者が盛んにこの山に登山するようになっても、一般的登山道はこの何れかの道を利用する。従って、現在その登山道の両側には、曽ての信仰登山の痕跡を随所に見ることができ、稀には白衣の行者の行の実際を見ることもできるのである。屏風岩の下には、かって、二軒の山小屋があった。荒鷲(アラワシ)と自称した中山国重の経営する屏風小屋は先年廃絶したが、五合目小屋は今も現存し、昭和五十九年、小屋番の古屋義成が、日本山岳会有志の応援を得て、創業百年を祝った。古屋義成によれば、この小屋は、明治十七年(一八八四)修験者、植松嘉衛によって行者の祈祷所として開かれたものという。何れにしても、これらの白州町からの登山道はその峻瞼の度において、全国有数のものであって、それだけに開山当時の弘幡行者の苦辛が十分に想像され、男性的魅力に富む豪快な近代的登山の醍醐味を味うことか出来るのである。
ここに、明治十二年(一八七九)管原村井上良恭という人の出版になる「甲斐駒ケ嶽略図」と題する木版図がある。峻瞼雄大た駒ケ嶽の山容を一面に刻して、山中の地名、祭神などが詳細に誌してある。それによると、駒ケ岳山頂―大已貴命鎭座、摩利支天峰-手力男命鎭座、黒戸山―猿田彦命鎮座とあり、尾白川渓谷の不動ノ瀧附近には大勢利龍の名がある(この両爆が、同一のものか別個のものか不詳)。千ケ尻前宮のあるところには、遥拝所と書いた鳥居があって、「前宮」の名前は誌してない。横手の前宮は全く記載していない。思うにこの図面は、駒ケ岳の案内書の如く見えるが、神仏分離後の明治十年代の駒ケ嶽観を現わしていると考えられる。駒ケ嶽の、横手と竹宇(千ケ規)の両前宮が両立し、互いに表登山口を主張するようになるのは、このころからであって、管原村居住の井上良恭は、菅原口(竹宇、千ケ尻)こそ表参道であり、表登山口であることを主張したかったのではないかと推察できるのである。もっとも肝要と思われる横手前宮を無視し、竹宇前宮を遥拝所と誌したことは、一面、修験道的信仰登山から、近代的登山への脱皮を示しているとも考えられるのである。
参考までにもう一つ図面を紹介する。「甲斐駒ケ嶽登山明細案内図」と称する昭和二年(一九二七)の印刷物。発行老は管原村井上正雄である。井上良恭の子孫ではないかと想像されるが、明らかに明治十二年の木版図の改訂版であることが判かる。この図面では、横手と竹宇の両前官が大きく描かれている。登山道は、前者に比して逢かに具体的実用的に描かれているが、鎭座する神々の間に多くの変更があるのは注目されてよい。山頂には大已貴大神と共に駒室大神が祭られている。摩利支天峰には摩利支天、西峰には天照大神と馬頭観音、鳥帽予岳には薬師大神と大頭羅白神という神名が見える。黒戸山には刀利天と大日大神が祀られている。
明治十二年と昭和二年とは年を隔てること四十八年。この約五十年間に、案内図を作製しようとした二人の井上氏の間には、駒ケ嶽の山神について、その表現にかなりの相違があるのである。

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《駒ケ嶽開山》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)

長野県諏訪郡上古田村に生れた小尾権三郎によって、この山が開山されたのは、文化十三年(一八ニハ)六月十五日(旧暦)のこととされる。小尾権三郎は幼時より、特異な信仰的才能を持つ人物で、十八歳の時自ら弘幡行老と名乗って、甲斐駒ケ嶽開山の大願を立てた。横手村山田孫四郎宅に逗留して、この山の峻瞼にいどみ、数十回の難行苦行の末に、漸く山頂に到達し得たのであった。
徳川時代の中期ころから、幕末にかけて、全国の山岳の開山がしきりに行なわれ、この時代の一つの流行となった。例えば、享保六年(一七二一)七月の有決による信州有明山の開山や、文政十一年(一八二八)の播隆による槍ケ岳の開山などは、その顕著な例である。
弘幡行者小尾権三郎の甲斐駒ケ嶽の開山も、その一連の流れと見ることが出来る。彼は開山後、京に上って、神道神祇管長白河殿より駒ケ嶽開闢延命行者五行菩薩という尊号を賜わったが、開山より僅かに三年後の文政二年(一八一九)正月十五目に二十五歳の若さで遷化する。彼の霊は、駒ケ嶽六合目の不動ケ岩に祭られ、今、大開山威力大聖不動明王として尊崇されている。弘幡行者の開山により、駒ケ嶽信仰は一層修験道的な色彩を濃くし、全国に及ぶ駒ケ嶽信仰登山者の競って登頂参拝するところとたった。

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《「峡中紀行」》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)

駒ケ嶽神杜の社伝によれば、甲斐駒ケ嶽も役ノ小角が仙術を修した山であったといわれ、その事に関連してか、山中に異人の棲む伝承が今に伝わっているのである。宝永三年(一七〇六)甲州を探訪した荻生徂徠はその「峡中紀行」に次の如く記している。
「駒嶽亦来りて、婚前に逼る。之を望めば、山の不毛なるもの三成り。焦石畳起する者に似たり。巌の稜角歴々として数ふべし。形勢獰然たり。此より前の芙蓉峯の笑容相迎へし老に似ず。相伝ふ豊聡王(聖徳太子)の畜う所の麗駒は、是の渓に飲んで生ずと。山上祠宇有る莫し。山□木客(山中の怪人)に往々にして逢ふ。故を以て土人敢て登らず。昔一人有り。愚かににして勇なる者、三回の糧をもたらし、もって絶頂を瞬む。一老翁を見るに相責めて曰く『此の上は仙福の地、若が曹の渉る所にあらず』と。其の髪をつかみて、巌下に放てば、則ち胱然已に已が家屋の山後に在り」(河村義昌訳)。
徂徠は里人の談の中にこの伝説を聞いて、興味をもってこの文を綴ったものであろう。

《「甲斐国志」・「峡中紀行」・「甲斐叢記」》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)

約百年後文化十一年(一八一四)編纂された「甲斐国志」は、駒ケ嶽の山容をさらに具体的に記して、「峡中紀行」のこの部分を引用している。駒ケ嶽は文化年問のこの時代において、なお人問の撃登することの出来ない高山秘境であって、山中には仙翁の如き異形の住む処と認識されていたのである。幕末嘉永年間(一八四八〜五三)になった大森快庵の「甲斐叢記」も亦、明らかに「甲斐国志」に擦って、駒ケ嶽を誌し、徂徠の伝えた老翁の仙術を特筆しているのは、少なくとも明治以前におけるこの山への認識の度合が奈辺にあったかを、うかがい知ることが出来るのである。
上述の如く、駒ケ嶽を一つの信仰の対象としての考え方は縄文時代まで遡ることができ、数千年間にわたって神聖なる山、祖霊の坐す山、近づき難き神秘な山という見方が連綿として続いて今日に至ったということが言えよう。こうした山岳への信仰帯態は日本全禺に略々通有するものであって、駒ケ嶽の場合は、比較的純粋に経過して来たと言えるのではなかろうか。

《駒ケ嶽神社》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)
駒ケ嶽頂上に、大己貴命(おおなむちのみこと)及び少彦名命(すくたひこなのみこと)を祀り、横手の東麓登山口にその前宮を創建したのは、社伝によれば、雄略天皇の二年六月のことで、出雲国宇迦山より遷祀したとされている。もとより信ずるに足りない悠遠の昔のことである
が、昭和五十九年、前宮の社地の北面の一隅、祈祷殿改修の場所より、縄文式の大型の土器が出土した。この社地に縄文時代より人間が住み、且つこの地が、駒ケ嶽蓬拝所であったとする推察も成り立つのである。
住民或いは、駒ケ嶽信仰をする他郷の人々が、主神を大己貴命(大国主命)と認識することは、一般的でなく、「甲斐国志」の言うように山頂には駒形権現、馬頭観世音、或いは摩利支天が祀られているのだという認識の方が強かった。神仏混淆した修験道の色彩が濃厚であった証左であろう。単に「駒ケ嶽さん」と愛称して山岳そのものを尊崇する気分があった。従って、駒ケ嶽神祉の性格は、明治以前、神仏分離が行なわれるまでは、極めて修験道的な祭祀の場であったと考えるのが自然であ
ろう。
駒ケ嶽神社の前宮は、もう一つ尾白川の渓谷に沿った千ケ尻にもある。不思議なことに、この前宮に関する社記の類が見当らず、「甲斐国志」もこれに触れていない。昭和三十七年刊行の「峡北神杜誌」なども書き落している。このことは同所に設けられた神道御嶽教、駒ケ嶽大教会所などが、便宜的に近い過去において山神を勤請した「前宮」であったことを想像させるのである。

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《山岳信仰の発生》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)

甲斐駒ケ嶽の山岳信仰を考察するにあたり、再び深田久弥「日本百名山」を引く。彼は、日本アルプスのうち、もっとも綺麗な頂上を持つ山として黒雲母花崩岩でおおわれた駒ケ嶽山頂を次のように描写した。
「頂上に花庸岩の玉垣をめぐらした祠のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰のあつかった山であることが察せられる。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、昔は白衣の信者が登山道に続いていたのだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので両登山口にはそれぞれ駒ケ嶽神杜がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に鳥居や仏像や石碑が点綴されている。」
と記して、現在の駒ケ嶽山頂の信仰的景観を叙述している。
この山頂、登山道の景観は、概ね明治以降現代に到る百年問の山岳信仰の片鱗を伝えているもので、富士山、木曽御嶽、木曽駒ケ嶽に近似するもので、やや希薄の形態では、鳳凰山や、金峰山などにも見られるものである。それ以前は如何なるものであったか。
韮崎市藤井町坂井遺跡は、縄文中後期を主とする著名な遺跡であるが、その住居趾に彷垂状の石が立つったまま出土した例がある。この遺跡から展望できる鳳凰山の地蔵仏岩を意識して、その尖塔に模した信仰的遺物であるといわれたことがあった。
昭和五十五年、北巨摩郡大泉村谷戸で発掘された金生遺跡は、縄文後晩期の一大祭祀遺構とされるものであるが、その石組の中に棒状の立石が幾つかあった。この立石は恐らく、周辺の高山、八ケ岳、金峰山、鳳風山、特に、真近かに屹立する駒ケ嶽の山容に対する信仰的な関連が十分にうかがわれるものであると言われる。これらの遺構は、考古学的な年代からすると、二、○○O年〜四、○○○年以前のものと思われ、その頃から山岳に対する強烈な自然信仰が存在したことが想像されるのである。(筆註----この説の中で立石であるが、これは男性のシンボルに擬した物が多く、山岳信仰でも火山信仰に近いと考えられる)
恐らく、縄文時代の当時において、あるいは、当時であったからこそ、真西の方角に当って、厳然として餐える駒ケ嶽は、極めて深遠な精神的、信仰的な影響を、先史時代の人問に与えていたのであろう。特に、人間の生者病死の間題、山中原野における狩猟・採集の労苦、粗放原初的な農業の苦心、自然災害や疫病への恐怖、近隣杜会との闘争などへの深刻な対処の長い長い年代の中で、頼るべきものは、雲間に聳立して不動、優美たる大自然の姿であった。極めて徐々とした動きであったが、その信仰的態度は、少しずつ宗教的な心理を深めて行ったことであろう。

《修験道の起原》(「白州町誌」山寺仁太郎氏著)

山岳信仰の具体的な姿は、修験道であって、それが今日まで根源的には同じ意識の下に、今日まで続いていると考えられている。その修験道は従来、欽明天皇の十三年(五五二)の仏教公伝以後において、自然信仰の基盤の上に渡来してきた道教や仏教が習合して次第に成立したものと考えられていた。
しかし、最近は、修験道の中心思想が、既に弥生時代を通り越して縄文時代の山岳狩猟杜会に発生しているという説が有力である。上述した坂井、金生などの遺跡からうかがえる先史時代の信仰に根源があるというのである。
縄文時代の人々は川岳原野の狩猟を主業としたと考えられているが、この時代の人々は二つの住居を持っていたと考えられる。一つは、平地・海岸・湖岸に、一つは山間に住んで夏の間は山中に入って狩をしていた。山間に住んで狩猟採集に従事した生活環境の中に修験道の起源を見出す事はむしろ自然な考え方と言えるであろう。修験道における断食、水断ち、穀断ちなど山伏のタブーとするところは、多く狩猟民のものであり、服装、持物も甚だ狩人的である。
縄文時代の終りから弥生時代に入って、平地・海岸・湖岸に住む人々が、稲作文化に入るや、山はもう一つの意味、すなわち水の分配を司るもの、農業を支配する神の凄家という考え方が加わって来た。柳田民俗学における山の神の思想、すなわち冬は山に住み、春から夏にかけては田に下って田の神とたるという考え方はこの辺に起源があると考えられている。これが、氏神の祖型であって、そのため、山麓民が、山頂に本宮(山宮)を設け、山麓に里宮(前宮)を設け、春秋二回に祭事を行なう傾向になった。
駒ケ嶽の山頂の本宮に大已貴命を祭ったとするのは、この神が越中の立山の大汝(おおなんじ)峰の例に見られるようにそもそもは狩猟神であり、それが、大物主或いは大国主命と同一視されることにより農耕神、穀神の性格を加えたことと無関係ではないと考える。
修験道の始祖とされるのは白鳳時代に活動したという役ノ小角(えんおずの)である。役の小角なる人物の実体が何者であるかは、今問うところではないが、彼は密教の秘伝である孔雀王呪法を修して、七〜八世紀のころ、大和の葛城山に籠って天災、怪異、祈雨、出産、病悩、庖瘡等に対して験力を現わした呪術師であった。その験力は異常に強大であった話は、色々の彩で伝えられ、全国名山の多くは、彼の力によって、開発されたと
する。従って当時の山岳信仰者にとっては、一つの理想像として考えられていた。それと共に、彼の代行をするような人物及びその行動が設定され、各山に役ノ小角的な仙翁、異人の物語が発生するにいたった。近い例をとるならば、韮崎市旭町の苗敷山の社記に登場する六度仙人の如きは、鳳凰山の神在丘に止住して、神通力を発揮したことにたっており、同じく、茅ケ岳とその近傍金ケ岳には、江草孫右衛門、金ケ岳新左衛門、さらには孫左衛門という三種の名前を持つ怪人が登場してしきりと怪異をなすのである。

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