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山梨文学講座 山口素堂 飯田蛇笏先生の山口素堂対する評価
『雲母』第二十五巻 第二号 二月号(昭和十四年二月発行)
天保甲斐俳家の俳句文学史上に於ける地位 附、山口素堂、五味葛里の文中
一部 古字・仮名遣いを訂正)
山口素堂
わが山梨の俳句文学史を語るにあたって、誰を外くとしても山口素堂を外くわけにはまいりませぬ。山梨といふ一地方の俳人として逸するわけにゆかぬのみならず、又素堂は申すまでもなく元禄時代に於ける屈強なる一存在であって、俳句文学の始祖とする芭蕉との交友も啻かならぬ関係があり、ことに也芭蕉も時に「素堂先生」の敬語をもってするようなことさへあった間柄であります。今日濫用される先生といふ敬語なるものはまことにあやしい敬称であって、先輩から後輩辛に対して何々先牛というような洒落を多分に加味した書簡など寄せているむきであり、故人芥川龍之介の書簡集などを見るとこの點がまざまざと認められ如實に証拠だてられるものであります。だが此の時代に於ける先生といふ敬称が今日濫用するところの片々たる感じのものでなかったろうことはいろいろな方面から断定づけられるとゝもに、少くとも恐れ戦いている先生といふことより、深く親愛の情をともった意味が、芭蕉と素堂との関係ばかりでなく當時の人物の間に交はされたものの中に認められるようであります。芭蕉と素堂との交誼が頗る密なものであったことは、芭蕉が詠んでいる。
川上とこの川下や月を友 素堂
という一作品透してみてもよく判ることで、素堂は川上の葛飾に居住してをり、芭蕉は川下の深川に棲家しておったところから、その情を月に托して斯様に詠んだわけであります。で、左様な親睦な間柄である裡にも、芭蕉が常に素堂を敬していた點は、素堂その入の人物性行が相当立派な點にあったことのようでありますが、一面、素堂が漢籍の造詣が深くこの方面に於いては芭蕉も何かと素堂のために益するところが多かったということゝ、そうして彼が又芭蕉という人物を能く知り深く信じていたというところに可成り打ち込んだところがあったことゝ想われるのであります。
素堂は寛永最末の年一月四日に生まれておるので年齢から云ふと、芭蕉に僅か一年の長があるだけ、国学は、芭蕉と同じくやはり北村季吟について学んでおります。
北巨摩郡の教来石村で生れているといふことは文献の上で承知していますが、その生地は今日素堂を偲ぶ何物もないように聞いております。
素堂が、元禄俳壇の存在として顕著であった點は、今日なお人々に膾炙するところの、
目には青葉山時鳥初松魚 素堂
の如き、談林的影響下に産み出した作句以外、可成り優良な作品の多くを貽しているところにもかゝっているし、又葛飾風の俳譜の創始者としても然うだけれども、最も地味な立場で俳句文学に貢献していることは、芭蕉が宗因このかたの談林に対し、新風開発をめざして起ち、よく之れを実践した夫れが所謂蕉風の俳譜であることは苟も俳句に関心を持つほどの誰人もが承知しているところでありますが、芭蕉の文学運動に対して素堂は最もよき扶翼者であったということであります。具体的に述べるとして、彼の實作を少しく取り上げて来てこれに触れるとなると此の點がはっきりするのであります。
素堂の作句に、今挙げた「目には青葉」のようなものをはじめとして、
舟有川の隅に夕涼む少年哥諷う 素堂
天の原よし原不二の中行時雨かな 同
和布刈遠し王子の狐見に行かん 同
といふような作句か集中にたまたま見受けられます、当時芭蕉も欠張りこれに浸り込んだように、素堂も亦、この拮掘たる談林の調べと漢詩的な内容に煩はされておったことでありましたが、芭蕉が寂びを主眼とする幽玄体の作風を産むに及んで、大いに夫れに共感し道の新運動の扶翼にこれ力めたのであります。その実證として、
露ながく釜におちくる筧かな 素堂
春もはや山吹しろく苣青し 同
月一つ柳ちりのこる木の間より 同
去年のつるに蕣ゝかる垣根かな 同
酒をりのにひばりの菊とうたはゞや 同
三日月にかならずちかき星一つ 同
雨蛙こゑたかくなるもあはれなり 同
といふような諸作が貽されてをります。これらの作品は、直ちに芭蕉の徹底した幽玄の境地を抑へるといふほどまでにはゆかぬまでも、(甚少)くとも、芭蕉の芸境を深く理解した蕉風の陣営中のものであるといふことは誰人も否めないところだろうと思います。そうして、この事は、当時の句集としての著述「虚栗」といふものゝ存在が、其等の作句を包容することでよく物語っているばかりでなく、側面観察の上で、編集者の宝井其角は年歴二十二歳、服部嵐雪は二十一歳であり、杉山杉風が三十七世威、そうして山口素堂は全く円満な分別盛り四十一歳の年齢に達しているのでありまして、素堂がこの分別盛りを以ってして如何に信ずる處ある深い理解の上で、芭蕉の股肱等を扶翼したかが判ると思うのであります。
ところが、彼は恁した蕉風への理解をもち、其の共感の結果として、可成り寂び、栞りに味到した芸境を展じている一方、所謂葛飾風の俳諧なるもの修めているのであります。葛飾に住んで、自ら葛飾の隠士と称したところから葛飾風の俳諧という名によって彼の作風が呼ばれたことは最もあたり前のことであるけれども、この葛飾風の俳句内容が後代ヘ曳いており、頗る瞠目に値する天明俳壇の絢爛たる導火線をなしていることは容易ならねことでありまして、私見をもってすれば此の素堂的存在こそは實に蔽ふべからざる顕著なものとせなければならぬ、と然う考えられのであります。もっとも、此點を主として敢えて掲題の附(つけたり)とした所以でもあるのであります。
目には青葉山ほとゝぎすはつ鰹 素堂
荷をうって霞ちる君見ずや村雨 同
浮葉巻葉この蓮風情過ぎたらん 同
又是より若葉一見となりにけり 同
花芙蓉美人湯上りて走りけり 同
芭蕉・曾良選別
松島の松陰にふたり春死なん 同
の如き作品となると、これは何れも明瞭に所謂葛飾風なるもの示しいることでありますが、これらの持味を検討して見ますと、彼の談林作品のそれほど拮掘として漢詩癖に囚はれ、蕉風に反撥するものはないが、そうかといって蕉風そのものへ没入するほど消極的を持つものでないことも明らかであります。ことに、
花芙蓉美人湯上りて走りけり 同
の如きその點を代表するものではないかと思うのであります。これは次代に至って一世の視聴をあつめるほどの作家敵手腕を示した谷口蕪村の芸境に体する源泉をなしているといっても宜いものでありまして、實に蕪村は後年元禄俳壇の作風を観望、研究し此の點に着眼したといふことが、素より性格的のものでもあったと同時に看過すベからざるところのものだと私は看てをる次第なのであります。「山口素堂句集」(安永四年版)一巻が蕪村の門下蘆陰舎大魯が校閲になったりしている點なども、その参考として見るべきものであらうと思ひます。素堂が芭蕉の人物を信じてその天禀の才能を認めて蕉風俳諧の建設に於ける大なる扶翼者として度量のと識見とを示した外に、葛飾正風派として俳句文学に参じた当時の躍動こそ、芭蕉の蕉風にそのようにめざましいものではなかったとしても、現に次代具眼者をして一瞥関心の芸術価値を感ぜしめ、葛飾正風が地下水となって軈て洋々たる河水を見るが如き俳句史上絢爛たる天明俳壇を見るに至っているといふことは、私ども後代の微々たる立場でまことに痛快に感じられ敬愛の念を深うせしめられるところであります。素堂が享保二年八月十五日に日に齢七十五歳をもって歿しているのに、蕪村が恰度どその前年即ち享保元年に誕生しているといふこともまことに面白いことであります。 素堂に就いての卑見はこれを以って足れりとするものではありませんが、これだけにとゞめておきます。
筆註…文中の素堂の没年が、享保二年となっているが、正しくは享保元年八月十五日
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