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白州町上教来石(かみきょうらいし)大覚山教慶寺の国道側。

ここは白州町上教来石から一段と道路が引くなる場所にある。
狭い土地だが一段と広く区切られた敷地に数基の墓石がある。
細かいと記述は避けるが「古屋徳兵衛」も刻時字も見える。

白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)

白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品など数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治四十四年七月六十二歳で残した。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%9D%BE%E5%B1%8B%20%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%BE%B3%E5%85%B5%E8%A1%9B&rs=1&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

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白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)

白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品など数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治四十四年七月六十二歳で残した。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%9D%BE%E5%B1%8B%20%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%BE%B3%E5%85%B5%E8%A1%9B&rs=1&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

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白州の人物史 名取順一氏(「白州町誌」昭和61年)早稲田大学理工学部に工業経営学科を創設

明治一二十四年三月八日、旧鳳来村大武川八一番地(現北杜市)で父名取森蔵・母みよの次男として生まれる。
少年時代より学を志して精進する。
早稲田大学卒業後渡米し、アーラム大学で学んだ。
その後も引き続き、ハートフォード及びボストンの両大学の大学院で「産業心理学・労務管理学・行動科学・人間関係論」などの学問の分野について専攻し研究を深めた。
帰国後の昭和十年四月より早稲田大学理工学部兼早稲田国際学院副院長として教職について以来、四十六年三月停年退職するまで三十六年間の長きにわたり早稲田大学教授として活躍した。
この間理工学部工業経営学科主任教授・国際部六長等を歴任した。
特に、わが国にはじめて経営工学を導入して早稲田大学理工学部に工業経営学科を創設した功績は、まことに偉大なものである。
退職後は同大学の名誉教授となる。
その後四十六年四月からは東海大学工学部教授に就任し、一貫して経営工学の研究と教育に専念
した。
また他方学界においても幅広く活躍され、日本経営工学会々長・インダストリアル・エンジニアリング協会理事・行動科学研究所々長なども兼任した。
氏は生涯を通して勤勉実直な人柄で常に読書を好んだが、また自らも書を著した。それは経営のHR(雇用率)・経営のサイバネティクス(人工頭脳学)・経営杜会・広告心理学・販売心理学・労働心理・賃金管理・行動科学と労務管理・行動科学と経営・管理杜会への提言など多数ある。このように学界に貢献した業績は高く評価され、昭和四十八年十一月には勲三等瑞宝章を受章したほか、六十年七月には正五位の叙位に輝く栄誉に浴し八十四才の生涯を閉じた。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%90%8D%E5%8F%96%E9%A0%86%E4%B8%80%E3%80%80%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

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白州町人物史 中山恒明氏千葉医大教授(昭和二十二年) 医学博士 医療法人中山会湯河原胃腸病院理事長

明治四十三年九月二十五日、白州町松原出身、父中山進(医学博士)と、母「希以」の長男として生れる。
《学歴》
旧制新潟高校卒(昭和五年三月)
千葉医科歯科大学卒(昭和九年三月)
医学博士を授与される(昭和十三年三月)
千葉医大第二外科助手(昭和十一年十月)、
千葉医大教授(昭和二十二年)
財団法人中山癌研究所(昭和四十年一月)。
同年、東京女子医大客員教授となり同大学消化壁病センター、早期癌センター所長も兼ねる。
昭和四十四年三月、医療法人中山会湯河原胃腸病院理事長に就任、現在に至る。
《公職》
医師国家試験審議会委員(昭和二十九年二月)。
大学院設置審議会臨時委員(昭和三十年一月)。
日本学術会議第七部長(昭和三十八年一月)。
食道疾患研究会名誉会長(昭和六十年一月)。
日本外科学会名誉会長(同年四月)。
この間、
昭和五十三年三月、国家協力事業団消化器・外科専門家として中南米に派遣される。
《受賞・叙勲》
昭和三十八年三月、腹部外科最首同貢献賞(米国腹部外科学会)。
昭和三十九年九月、世紀の外科医賞(国際外科学会)。
昭和四十一年十二月、ベルツ賞(消化器癌治療に尽した功績、西独べーリンガーゾーソ財団)。
昭和四十二年六月、最高医学器械発明賞(細小血管吻合器の開発、スイスジュネーブ大学)。
昭和五十八年十月、ギソベルナート賞(スペイソ外科学会)。
昭和五十七年十一月三日、勲一等瑞宝賞

現住所東京都千代田区平河町二丁目一一一番地、十八号ノ七〇四
なお生家は現在生井勝男氏の居宅となっており、その宅前に叔父芳定氏(医師・米国で客死)の石碑が建てられている。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%81%92%E6%98%8E%E6%B0%8F&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

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白州町人物史 角田静男氏 白州町大坊出身(「白州町誌」昭和61年)

明治三十五年二月二十三目、旧駒城村字大坊の旧家道村旋次郎・ひさのの三男として生まれる。
甲府中学校(現二高)を経て、
大正九年千葉医学専門学校に入学して医学の道に精進努力する。
優れた智性をみとめられて、
大正十年角田秀作(医師)と養子縁組し角田静男となる。
大正十三年四月千葉医学専門学校を卒業し、同校第一外科教室に入局。角田秀作の養女貞子(林疎の妹)と結婚する。
大正十三年十二月から一年間軍隊生活をするも除隊後は、もとの千葉医科大学第一外科教室へ復帰し、六年間研究を重ねた。
昭和六年十月には横須賀市立病院外科部長として赴化し、
昭和九年には同病院副院長に昇格した。その間に学位を受与される。
続いて十六年大平洋戦争勃発から終戦まで再度にわたる応召で、東京第一陸軍病院第十三外科医長、陛軍々医中尉として活躍された。
昭和二十一年九月には神奈川県逗子に角田外科病院を開き院長とたる。
昭和三十二年七月から一ケ月間、ベルギーのブラッセルで開催された国際脳神径外科学会に出席するとともに、英国の社会保健及び杜会保障制度を学ぶなど医学の遣の探究と、優れた外科医の手腕は高く評価された。腹部外科患者、戦傷者、外傷患者の救命治療や、晩年の唇裂、口蓋裂の治療研究などに情熱を注ぎ、優れた治療成績を残す一方、医療器具や新薬の研究にも力を注いだ。
昭和二年には角田式間接輸血器、
昭和九年には細菌性腸炎に対する新薬(セダン・ツノダ)をそれぞれ発表し、
昭和十年にはドイツ、バイエル社より賞状と賞品を贈呈されるなど、医学の遣に献身した功績は大きく、まことに偉大な足跡を残している。
一方趣味も多岐にわたっていた。盆栽、古美術鑑賞から、ことに晩年には「能而制作」に、その芸術的才能を注ぎ、個展を開き、作品写真集を出版したが、その作品は専門能楽宗家、美術評論家の認めるまでに至った。
臨床における唇裂形成と能面製作は、蓋し「顔面の創造」という共通テーマで結ばれたにちがいない。このように医師としての業績ばかりでなく、芸術的な面にも情熱を傾けた。
昭和四十五年十一月二十七日、病のため六十八歳で生涯を終えた。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%A7%92%E7%94%B0%E9%9D%99%E7%94%B7%E3%80%80&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

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