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どこか変な信玄像
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2010年06月26日
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白洲次郎氏と白州町
白須蔵人 白須村(『甲斐国志』巻の百十三 士庶部第十二)
◇ 府中一蓮寺の過去帳に法名「老阿」長禄元年(1457)十二月二十八日、小河原合戦討ち死の内に見えたり、余は名を全く記せざれば挙げず。
◇ 『太平記』観応三年(1352)の条に甲斐諸将の中に〔白須上野守〕あり。
◇ 長篠の役(天正3年・1575)に、典厩信豊も馬乗はただ三騎、慕敵を追い払い、追い払い退きたまう。
◇ 伝に〔白須又市〕・青木主計・横手源七の三騎なり。始めの返しに青木主計は討ち死にするとあり。
◇ 〔白須平次〕は即ち又市の男。竹王信勝(父は武田勝頼。母は遠山直廉の娘で織田信長の養女である遠山夫人・
永禄10年(1567年)11月1日、武田勝頼の長男として伊那高遠城に生まれる。)小姓なり。
◇ 『武家盛衰記』壬午(天正10年・1573)のち、幕府に召し出されしが小姓衆と口論ありて、御旗本を立ち退き、稲葉蔵人道通(稲葉道通 - Wikipedia)に倚頼し名を〔又兵衛〕と改め後に家老となる。
◇ 関が原の時(慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)勢州岩手において、九鬼方、堤荘蔵と戦いて功あり。
◇ 同藩、種田喜左衛門の二男金三郎の聟養子にして、白洲十郎兵衛と云い食録五百石を譲る。
◇ 後に白須十兵衛と云う者あり。中郡(なかごおり)筋七沢の条に付記する。
◇ また本村(白須村)里人の家蔵に寛永元年八月二十一日室賀長左衛門の印書。
◇ 寛永十年十月六日平岡七兵衛の印書二通あり。皆当時の御代官なり。荒地起し榑木川流し等の事四郎右衛門に進退を令する趣あり。
関連記事 増山氏(『甲斐国志』巻の百十三 士庶部第一)
増山氏 古府中
増山町と云うあり。増山某の居する所と云い伝ふれども、今その人の名にて、二ノ宮の山宮杵築の神所に座するに続き、また神座山と称するも東のほうにあり。増山の下を尾山村と云う山の尾前なり。
山梨岡に御室山と唱えるあり、古歌に神の座する御室の榊葉と詠じる類にて、増山は神の座す山より起こる氏族ならんかと云う旧説なり。
文禄(1592〜95)慶長のころ(1596〜1614)の間増山某と云う者の妻娘を二人を産し、一人は青木惣兵衛(武川筋)の妻となる。惣兵衛始め朝倉才三郎に仕え氏を賜い朝倉と称し、浪人として下総(茨城)古河の辺りに蟄居し貧困にして禁を犯することあり刑を蒙る。
その妻並びに二女一男は領主永井信濃守尚政へ下され召し仕はる。妻を場「紫」と名付け長女は「於楽」と呼ぶ。
その頃七沢作右衛門清宗も仕えて永井家にあり。ともに本州の人にて旧識なり。遂に夫婦となり、浪人せしが不慮に娘の「於楽」大猷廟(徳川家光)の御代大奥に仕え寛永十八年(1641)八月三日。(「割注側室・お楽の方(お蘭の方とも呼ばれた)・・・古河藩領の百姓青木利長娘・宝樹院」)厳有君御誕生〔四代将軍徳川家綱. 生没年 1641(寛永18)年〜1680(延宝8)〕あり。
承応元年(1652)十二月二日、於楽の方逝去、謚(おくりな)>宝樹院殿従三位華城天栄大姉<と云う。
次は品川式部大輔高如(品川高如 - Wikipedia)の室、男子は青木弁之助、後に増山弾正少弼利澄と称し、参州西尾二万石を賜る。
七沢に三男二女あり、皆同腹(母が同じ)にして各々他に配偶せり。七沢のことは中郡士庶の部に詳かにする。
紫は貞享四年(1687)六月二十日逝し、謚(おくりな)仙光院殿妙澄日行大姉、妹一人あって古河に在りし時、農夫某の妻となり、二女を産む。皆仙行院に育てられる。次の女に紫と云う。己が名を譲り黒桑衆小谷権兵衛に嫁ぐ。後号、高覚院殿月峰円知大姉、一男三女を産す。一女は於伝の方、憲廟に仕え鶴姫君(後に紀州に入輿)、鶴姫君(御早世)誕生あり後に、瑞春院殿と謚(おくりな)す。
一女は白須才兵衛の妻、後に光照院殿と謚(おくりな)す。
高覚院の姉は白須十兵衛と云う者の妻、後に崇心院殿繁岳智栄大姉と謚(おくりな)す。
白須も本州(甲州)武川筋の郷士なり。父は与左衛門(法名道元)と云う。
十兵衛は寛文十二年()正月十七日逝去する。法名は道政円林居士、三男一女あり。
一、 は白須十兵衛(増山弾正の家老)
二、 は白須浅右衛門(平野丹波守の家老)〔平野丹波守は長政(寛文9〜元禄13年)〕
三、 白須才兵衛(即ち小谷氏の婿)召出され、賜る三百俵また二百石を増す。
季女は島田甚兵衛に嫁ぐ。元禄十二年閏九月十八日逝去する。法名、了性院一空永任大姉
《参考資料》
【歴史】
郡上八幡城の遠藤常久が元禄三年(1690年)に没し、遠藤氏二万四千石は改易となりました。元禄十一年(1698年)に白須才兵衛政休の長男の数馬胤親は、いったん大垣城の戸田氏の養子となり、その後、遠藤氏の家名を相続し胤親はこの地に陣屋を構えました。(五代将軍綱吉のお手つき侍女が側室となり、その実家の小谷家は旗本になり、妹が白須家に嫁ぎ、そこで生まれた子を大名に取り立てた(=胤親)らしいです。)
白須(「角川日本姓氏大辞典19山梨県」)
白須しらす白洲・白数とも書く。 巨摩郡郡白須之郷(北杜市白州町)発祥の族は清和源氏義光流武田氏族という.『武田系図』に「甲斐守信長―信綱―時信―貞信(白須次郎)」とみえる。 『太平記』によれば観応3年(1352)3月足利尊氏が武蔵府中で新田義貞と戦ったときに、武田信武以下甲斐の諸将が信武に従って尊氏方として参陣したが、そのうちの一人に白洲上野守がみえる。『一蓮寺過去帳』に白洲蔵人がみえ、長禄元年(1457)12月武田一門と跡部氏が戦った小河原合戦で討死したとある。 『甲斐国志』には、岩殿の円通寺(大月市)棟札に白洲信重、巨摩郡宮原村(甲府市)の鎌田八幡宮の天文五年(1532)の棟札に柁那中島(河東中島、昭和町)の住人白須神左衛門の名がみえる。 また、天正3年の長篠の戦では、武田信豊の配下に白須又市がおり、子供の平次は武田信勝の小姓であった。 平次は『甲斐国志』所収の『武家盛衰記』によれば、武田氏滅亡後徳川家康の小姓として仕えたが、ほかの小姓衆と口論して家康のもとを離れて稲葉道通に仕えた。白須又兵衛となのり、のち豊後臼杵(うすき)藩稲葉家の家臣として続いた。 『寛政譜系譜』には幕臣として白須十兵衛道政を祖とする、ニ家があり、白須貞信の後喬という。道政系は1050石取りの旗本であった。天正起請文には廿人衆のうちに白須伝兵衛がみえる。また、甲斐にはもう一つ別系の白須氏がある。「下吉田村落史」所収の、「白須家系図」によれば清和源氏満仲流を称し、武田信玄の重臣馬場信房の子政信が都留郡下吉田村(富士吉田市)の新屋敷に居住して白須平太郎と名乗り大正一七年に死去、子には政豊(小太郎)・政春(小治郎)がおり、母は小林和泉守の娘であった。政春の子弥左衛門は下吉田村の名主を勤め、弟の白須小兵衛の子は渡辺家の祖となった。 『峡中家歴鑑』に載る南都留郡瑞穂村吉田(冨士合田市)の白須孝一家の先祖は白須刑部少輔政義であるが、遠祖については、多田満仲五代の子孫という兵庫頭仲政が馬場を称し、孫の中宮少左衛門尉兼綱が白須郷に来住したのがはじめで、政義はその孫で白須に在住した馬場信房の次男で、分家しで、瑞穂村吉田に移り白須をなのったといい、武田晴信・勝頼に仕えたのち、徳川氏に従い小田原合戦で戦死したと伝える。県内、160戸、富十吉田市に多い.【割菱・丸に違い鷹の羽・亀甲の内輪遠い】 『甲斐国志』白須蔵人の項 因みに云う、ある説にその頃武川(筋)に白須某という者有り、身貧にして刀も今は売り代かへ常に府に出で、此処彼処に寄食せり。ある時、その方の人々三四人、自須氏を誘い京師(京都)に遊ぶ。 相人あり、白須氏を視て驚きて云う、足下登く本国に帰るべし。三十日を過ぎ必ず大きな幸いあらんと。近頃斯如し富責の相を視ず。若し違うことあらば、僕又人を相せすと人々敢て信ぜず。笑いて止みぬ。既にして国に帰る程なく江戸より召す人ありて使い来りて催しければ人々旅装を繕い江戸へ赴かしめき今年を歴ればその事慥(たしか)ならんとなん。
白洲氏関連サイト http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C7%F2%BD%A7%BC%A1%CF%BA&ei=EUC-JP&fr=usf 臼杵藩 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B1%B1%B5%CF%C8%CD&ei=EUC-JP&fr=usf 臼杵藩 白洲 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%B1%B1%B5%CF%C8%CD%A1%A1%C7%F2%BD%A7&ei=EUC-JP&fr=usf 遠藤胤親(1683-1735)
胤親は初名を数馬といい、天和三年五月十四日(1683・6・8)に当時三河国西尾二万石の城主増山弾正少弼正利(1620−1660)の家臣だった<白須政休>の子として生れた。 八幡藩では元禄五年(1692)に藩主常久がわずか七歳で家臣に毒殺され幕府に届け出た世嗣がいない家となって掟により改易されたが、幕府は関ヶ原の戦いで家康に忠誠を尽くした慶隆の勲功を考慮してお家の断絶を回避するための配慮をした。 五代将軍綱吉の側室瑞春院の妹及び旗本の白須甲斐守政休の子数馬を美濃大垣藩主戸田氏定の養子にして遠藤胤親と名乗らせ遠藤家の名跡を継がせたのである。 |
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