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神社の推移
日本の最古の神杜として、島根県簸川(ひかわ)郡大社町杵築の八雲山麓に鎭座する出雲大杜の主祭神は、大国主命で、大
己貴命、大穴牟遅(大汝)、大穴持、など数多くの異名がある。大国主命から国土を譲り受けた天照大神は諸神に命じて、官殿を現在の地に造営したのである。やがて垂仁天皇二十六(西紀前四)年に伊勢の国(三重県)の五十鈴川のほとりに天照大神を祀る神宮が創立された。天照大神の御霊代として「神鏡」と「草薙剣(天叢剣)」とともに奉安した。これを「皇大神官」又は「大神宮」ともいうが「天照皇大神宮」とも、また「伊須受能宮(いずずのみや)」とも呼ばれており「内宮」という。
その後雄略天皇二十二(四七八)年には丹波国から豊受大神を迎え、近くの山田原に鎭祭し「渡会宮」と称した。これが「外宮」の「豊受大神宮」である。
 
中古の神社
神社は大化の改新のころから、奈良、平安時代にわたって次第に発達してきた。延喜式の神名帳によると神抵宮の祭る天神地?は全部で3222座に達し、そのうち大社が492座、小座が2640座となっている。
大社のうち304座は官幣大杜であり、188座は国幣大社である。
また小社のうち433座が官幣小社、2207座が国幣小社となっている。
一方古神道の時代から、やがて儒教や仏教をはじめ陰陽五行説、老荘思想などの伝来をみると、これらは古来の神道とのあいだに、相当の交渉や関係をもつことになった。なかでも仏教が神道に与えた影響は大きく、神仏習合の運動にまで発展するようになった。我が国の神は仏の垂迹(すいじゃく)をみたした「本地垂迹説」が成立した。
 
中世の神社
鎌倉幕府の創始者である源頼朝は、武人であったが敬神の念にあつく、神事の興行や杜殿の修理を奨励することが熱心であった。また室町時代に入り室町幕府になっても敬神の念はあつかった。
近世の神社
江戸幕席の神社行政は、天下諸神の叙位、祭祀、孝幣などにおいては、鎌倉幕府以来の方針と同じく、朝廷のとりおこなわせるところとなったが、この当時の神低官はすでにおとろえ、吉田家の神?斎場所病神?官となり、吉田家は全国の神社や神職に対して多大の権威をもつにいたった。
幕府の神社行政の機関としては、町奉行、勘定奉行とともに寺社奉行があり、伊勢と日光とには特に「山田奉行」と「日光奉行」とがそれぞれ二人ずつおかれた。
江戸時代には全国にわたって鎭守の宮の「産土祭」、嬰児誕生後の「宮参り」、七五三の「宮詣」、正月の「恵方参り」、稲荷杜の「初午祭」、天満宮の「天神講」、淡島社の「針供養」、鍛冶職のあいだの稲荷信仰による「鞴(ふいご)祭」、伊勢神宮の「抜参」などや、その他種々の祭祀風俗が神社を背景としてますます盛んになっていった。
 
近代の神社
慶応三(1867)年十月、将軍徳川慶喜の大政奉還から、同年十二月明治天皇復古宣言により、明治維新は神武のいにしえにかえり「敬神崇祖」「祭政一致」の精神をその根底においたものであって、慶応四年三月には太政官布達によってこの方針が明
示された。
明治元年三月二十八日太政官布告により、明治維新の「神仏分離令」が発せられ、それまで神仏習合思想により、神と仏は一心同体と考えられ神仏混清であったものを、神仏をそれぞれの本来の姿にたちかえらせようとしたものであり、「本地垂迹説」により、神社の境内に神宮寺や本地堂が建てられていたが、明治四年ごろまでの間に神社から分離されたり廃絶されたりした。
明治初年以来政府は全国の神社の調査をした結果、明治十二(1879)年法的根拠をもつ全国神社明細帳を完成した。これによると神社の総数は一七六、〇四五社である。
昭和二十年八月、日本の「ポツダム宣言」の受諾にともなって、同年十二月十五日の「神道指令」ならびに昭和二十二年五月三目に施行された「日本国憲法」は、明治時代以来の神社対国家の関係を全面的に変革したものであり、これによりいっさいの宗教は国家から分離され、昭和二十二年二月二日の勅令第七十一号および内務省令第五号をもって、神社に関係する従来のいっさいの法規や社格、そして神低院の官制までも全廃した。
昭和二十年十二月二十八日宗教法人が発令され、神社は従来の性格を改めて宗教法人として発足することになった。
また国家の神杜行政上の機関であった神?院をはじめ都道府県の社寺課、市町村の社寺係なども廃止されたので、昭和二十一年二月にいたり全国神社の総意にもとづいて、神社本庁なる宗教法人の包括的教団が組織され、本部を東京に置き、都道府県にそれぞれ神社庁を設けて、神社の宗教法人事務および宗教教化などに関する連絡をとることとなった。
当時全国における神社数は一〇六、ニニ七社であったが、宗教法人とみなされたものは八七、二一七社で、そのうち八六、一五七社は神杜本庁に属し、他の一、〇六〇社は単立社もしくは一教派となり、残余の社は小桐であるとの理由で宗教法人の登記をしなかった。
国家管理は消え、神社を崇拝する氏子または崇敬者によって維持経営をせねばならたくなった。また同二十二年国有境内地の処分法が施行され、明治四年上知された境内地は既得の権利を生かして社寺に無償譲与となった。それから約四十年経た今日信仰の念篤く祭事も昔時の彩に復活しつつある。
白州町内の神社(「白州町誌」より)
 
掲載神社一覧
大武川、諏訪神社
上教来石、八幡神社
上教来石、諏訪神社
下教来石、諏訪神社
鳥原、諏訪神社
鳥原、石尊神社
鳥原、往太神社
鳥原、松原諏訪神社
前沢、正八幡神社
白須、若宮八幡神社
白須、天白社
竹宇、駒ケ岳神社前宮
台ケ原、荒尾神社。田中神社
花水、大宮大神社
花水、白山大神社
横手、王太神社(旧村社)
横手、巨麻神社(旧村社)
横手、駒ケ嶽神社(旧無格社)
横手、秋葉神社
横手、津島神社
大坊、諏訪神社(旧村社)
 
白州町の神社
第一節神社の歴史
原始宗教
人間の生活にとって自信と信仰は不可欠の要素である。人類未開の時代には太陽が東の空に昇ることから月の満ち欠けなどにまで、崇高の念を払い、噴火や暴風などの自然の猛威の前には生命の安全を祈り、山、川「草、木、石などを神聖視した。またその時代はまだ精とか霊というものを考えず、自然や自然現象を単に外観的にとらえ判断したため、山、川、草、木、石から鳥獣などの自然物をはじめ、風、雷、火や太陽、星などの自然現象や天体運行まで、すべて神意による神の仕業と解釈した。この不可思議の現象に対して恐れと畏敬の念を抱き、時には喜び時には不安感を増す神威的現象に対して、自らを慰め、自らを安んぜるために生まれたのが原始宗教だと考えられる。
このように自然の驚異と自然崇拝から発生した原始宗教はやがて心と肉体・霊魂と物質という二元的考えにたって、諸現象の根底には霊威を引き起す霊魂とか精を認めた。精霊信仰。即ち山には山霊があり、川には川の精があるようにすべての自然物や鳥獣に至るまで霊や精が宿るものと考え、また民には風霊、・火には火霊があるように風、雷、火、太陽、星などの自然現象に至るまで霊魂の仕業と考えて霊魂の存在を認めた。そしてそれらの霊魂は絶対的な力を現わすものと考えた。この超
人間的霊威現象に対して、神への融和。と慰撫を図り、自らを安んずる心情と行為が原始宗教となり、信仰行為となったが、時代の推移とともに信仰方法もまた変遷したものと思われる。
例えば、そびえる山の峰そのものを崇拝の対象とした山岳信仰。狩猟生活中心の時代には狩猟神が、農耕中心の生活になれば作物の豊凶をつかさどる農業神がまつられ崇敬されるようになった。
縄文時代の生活が狩猟中心に対し、弥生時代の生活は稲作などの農業生産をする定着型住居群となって祖霊信仰を生み、さらに穀物の生産意欲が穀霊信仰となって、産霊神、産土神の信仰へと発展した。かくして祖霊信仰は鎮守神や氏神となり、また仏教とも結合して、今目見られるような先祖供養や葬祭儀礼へと受け継がれたものと思う。
 
神道の起こり
神道とは「神の道」のことであり、国家的な神である天照大神と、原始宗教的な神であり、民族的な神である土地神や氏神を敬い、祖先を崇拝する日本国有の信仰である。これを「惟神(かむながら)」と呼んでいる。
この神道は、日本民話の精神生活の支柱をなしてきたものであり、その精神の根源は「古事記」、「日本書紀」、「風土記」、「万葉集」などの古文献にみることができる。
このような日本古来の国家的、民族的宗教はやがて外来宗教である仏教や儒教などが入って来るに及んで、それらの宗教と区別するために神道と名づけられたものである。
 
神社の起源
原始宗教時代から培われてきた神を、身近に招致して祈願しようという願望が、やがて神域を設け社殿を造営し、そこに神を祀るようになっていったものである。その原始的な形態として神籬(ひもろぎ)と磐境(いわさか)とがある。神籬の「ひ」は霊のことで霊力を表わし、「もろ」はもりのことで、神を宿し留める木のことを言うのであり、この神籬に神をお招きして祭を行なったのである。また神を宿し留める木を「榊」ともいう。「古事記」の文中にある「賢木」は常磐木のことをいい現在の榊のことであるが、それを根こそぎ堀り出してそれぞれの枝に玉や鏡や和幣(木綿のことで、麻の繊維で織った布のことであり、後には紙が代表された)をたらして、天降る神霊を宿らせるための神事に用いられたのである。また「磐境」は神籬と同じように用いられており、その実体はよくわからないが、神を宿るため岩石で囲んだ神域であると言われている。
神殿を建てて神を祀る以前の風習として、これらの「神離」や「磐境」が用いられ、野外に祭場を設けるために榊や岩石が使用されたのである。
原始時代においては、神は天界や山頂や樹木等にとどまっているものであると信じられていたものである。この神秘な超自然的なものを畏怖し、超自然的神威に依存し幸を願うことは人類自然の願望であった。この願いをかなえるために神籬や磐境が設けられ、そこに神が宿るものと考えられていた。従って最初は神の常住する座である建物を造ることはなく、時に応じ神に祈願し、祭儀を行なうために神離や磐境が設けられたものである。このことは、現在でも神をまつる本殿をもたない拝殿だ
けの神社があることでわかるが、その例として近くでは長野県の諏訪大社がある。
現在では、神社のことを「お宮」とか「お社」とか呼び、ほとんど同じ意味に用いられているが「神名帳」の記載などから見れば、古代中ごろまでは次のような意味でこの言葉は使われていた。
社(やしろ)
「社(やしろ)」とは神祭の場まつり所そのものをいったのである。この祭祀を行なう所としての意味で「祭所」「祭庭」という言葉も使われている。また神を祭るために斎み清めた所という意味で「由庭」「斎庭」「忌庭」という言葉を使っている古文書もある。従ってこの社は、神を信仰する人々が集まり、「神官(かんづかさ)」によって荘厳に祭儀が行なわれる神聖な場所であり、この場所を象徴する神の森は、清浄な神域であることを示し、「社」に繁茂する樹木は神木として神霊視され「社」と不離一体のもので、信仰のうえで大きな意味を持ち、大切にされてきたのである。
宮(みや)
「宮」とは神祭の場所に、時によって臨時の屋舎を設けたものをいったのであるが、後には祭祀のために常時屋舎を設けたものまでいうようになった。この宮の最初の彩態は御神体、御霊代、御神宝を奉安する所をいったのであるが、さらに神祭のために設けられた仮りの屋舎を指すように変化し、時代の経過とともに祭礼も順次恒例化が進み、やがて官も定着化したのである。
当初一度行なわれていた「新嘗祭」から年二度行なわれる「祈年祭」と「新嘗祭」となり、さらに春夏秋冬の四度の祭から年十二回の「月並祭」となり次第に二十四回行なわれる祭にふえるに従って、臨時の仮宮から順次常設の「宮」へと推移していったものとみられる。このことは経済的理由もあって、初期のころには中央において多く行なわれていたが、やがて各地に集落がおこり、信仰心が高まるに伴なって地方にまで波及していったものと考えられる。日本固有の神社建築は、古来素朴で
あったが、飛鳥時代以降においては寺院建築の壮大さが、神杜建築にまで影響して、その建築様式も次第に壮大になっていった。「延喜神名帳」によると、「宮」と称するこ七とを許されていた神社は、伊勢の大神宮(皇大神宮)と度会宮(豊受大神宮)のほか九社あり「神名帳」に載っている全国の神社数は2861社で、前記11社以外はすべて社号で呼ばれていた。これらは平安初期にかける国家公認の神社であり、このほか地方にも数多くの神社があったと考えられる。
 
神社と祭神
神社には、それぞれの由緒によって祭神が祀られている。古く狩猟時代には狩猟神が祀られ、農耕時代には農耕神が祀られた。また武家社会では武神、町人は商売繁昌の神々などをそれぞれ祀った。従って神社や祭神には時代時代の為政者をはじめ、多くの人々の願いがこめられていた。
白州町には神杜が二十一社あるがその中で諏訪神杜が七社ある。また山々の精霊を総括支配する神として「大山?神(おおやまずみのかみ)を祀ってある神社もある。
諏訪神社
諏訪神杜の祭神は「建御名方神(たてみなかたのかみ)」である。この神社の始祖は、長野県の諏訪大社で我が国最古の神社の一つである。この諏訪大杜は古来、風・雨・水の守り神であり、また狩猟神でもある。農耕生産の守護神として崇敬されて全国的な信仰を得ているとともに、武神として武士の尊崇を得てきた。特に源氏を祖とする武田氏が、信虎の時代より信州の攻略を始め、信玄にいたって諏訪を攻略してから諏訪大社を深く信仰し、その加護を願ったために武田軍の守護神としたことや、信濃に隣接しているという地理的条件も加わり諏訪神社が氏神として祀られている。
八幡神社
八幡神杜は諏訪神杜についで三社があり、祭神は源氏の源流の守護神である。「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」である。
山梨県政百年史(昭和五十年発行)に記載されている神社数は1458杜。神職数202名。氏予数227581戸、崇敬者387379人となっている。
ご神体
神社において崇拝の対象となるものは御神体であり、御神体とは平安中期のころからよばれるようになった。神体は神自身という意味である。これは神?祭祀にあたって拝礼する対象物であり、神そのものとして仰ぐものである。この御神体は、正体とも、御形ともまた霊代と言い、現在では御霊代と呼び、神殿の中央の内陣に神座が設けられ、そこに奉安されている。
大正二年内務省訓令によって御霊代の一般拝観は禁ぜられていた。昭和二十六年四月宗教法人法の公布に伴ない訓令は廃止
されたがその精神は今なお守られている。
 
神社の祭祀
神社の祭杷は、官中祭祀、神宮祭祀、神社祭祀、民間祭祀の四つに分けることができる。
宮中祭祀
宮中祭祀は、古代から宮中の八神殿の前で行なわれたものを言い、神宮祭祀は伊勢神宮において古来から伝わって行なわれ
てきたものを言う。
神社祭祀
神杜祭祀は伊勢神宮以外の全国の神社で、その神社の由来に応じて行なわれているものを言い、
民間祭祀
民間祭祀は、一般民間によって行なわれている家庭の小規模な祭祀を言うのである。
 
元来神社の祭日は、神序の創祀、あるいは鎭座の日、または祭神の誕生日などのゆかりの深い日が例大祭の日として設けられている。
 
神社の建築
神社の中心になっている建物は正殿であるが、一般的には神殿と言われている。神殿は、瑞殿とも宝殿とも言われ、御神体を安置する所であるが神殿を造営修復する時、一時的に御神体を遷座する所を権殿と呼んでいる。神殿の前面には拝殿があり、祭祀し拝礼するために設けられた建物である。
平安時代末ころからは礼拝する殿舎であるので「礼殿」と呼ばれ、室町時代には「拝屋」と言われていた。また神殿と拝殿との間には幣殿があるのが普通であるが、この幣殿は、幣吊(神にささげる五色である?、絲、曝布、木綿、麻)などを折敷に載せて供進する所である。
白州町において神殿と拝殿とがそれぞれ独立して建てられている代表的な神杜は上教来石の八幡神社。上、下教来石の諏訪神社。鳥原の諏訪神社、石尊神社。松原の諏訪神社。前沢の正八幡神社。竹宇の天神宮社、駒ケ嶽神社。台ケ原の荒尾神社。横手の王太神社、巨麻神社、駒ケ嶽神社。大坊の諏訪神社などで、ほかの神社は神殿に拝殿が造りつけられているか、または拝殿の奥を仕切り神殿を奉安するなど多種多様である。
この理由として①経済的な制約②自然環境等からの保護③神仏混淆時代の仏寺建築の影響などがあげることができる。
鳥居
このほかそれぞれの神社で必要に応じて諸種の施設を設けているが、特に鳥居は神社の象徴的な門であり、「鳥井」、「鶏居」、「華表」とも書き、「通り居る門」とか鳥居の上の横居の上の横木に鶏がとまるところから鳥居であるとも言われている。古来よりこの鳥居によって神杜神域であることを示してきたことがわかる。
神社は、古くは素木(白木)のままであったが、仏教寺院の様式の影響を受け、次第に朱塗りの形式も増えるようになった。白州町の神社の構造はその様式も多様である。
 

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