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◇ 素堂に関する記述 2)『奥の細道通解』
…馬場錦江著 安政五年(1858)刊。
葛飾の隠士素堂は我先師なり。芭蕉翁を友とし善、俗名山口太郎兵衛、名は信章、俳号は素仙堂来雪なり。
本系割符の町屋にして世々倣富の家なり。常に落葉に往来して、信徳、言水か徒舊識たり。性、詩歌を好み、又琴曲を学ひ又謡舞に長す。
一朝世の常なき観相して、家産を投ち第は山口胡庵に譲り、母を供して忍之岡の梺、蓮池の辺りに隠棲をいとなみ、高養を遂けたる事は、其行牌並に発句等にも世の知る所也。老母没して後、芭蕉、其角のすすめに応じて本所今六間掘、鯉屋敷といふに草庵を営 み住めり。家集に、忍か岡麓よりかつしかの里へ居を移すとて、
長明が車に梅を上荷哉
素堂是より芭蕉庵と隣也ければ、猶はた芭蕉も心をよせて、草逆の交をなせり。三日月日記、後菊の園、其外人の知る所、風流の交り今将に夕言に及はす。集物にあり。云々。
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2010年10月08日
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◇ 素堂に関する記述 1)『連俳睦百韻』
抑々素堂の鼻祖を尋るに、其の始め河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞(後呼 佞翁 )町家に下る。
山口素仙堂太郎兵衛信章、名来雪。其ノ後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。
其の弟に世を譲り、後の後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。
後ち桑村三右衛門に売り渡し侘屋に及ぶ。
其の弟三男山口才助訥言、林家の門人、尾州摂津守侯の儒臣、其の子清助素安、兄弟数多くあれい皆死す。其の子幸之助、侘名片岡氏を継ぐ。云々
《筆者註》
序文を書いた寺町百庵は素堂の家系にあるという。(『俳文学大辞典』百庵の項)百庵は素堂の孫素安から「素堂号」の譲渡を持ちかけられたが断わり、佐々木来雪が「素堂号」を継承する。(三世)そのことは百庵の『毫の秋』に詳しく書かれている。(享保二十年に素堂亭及び山口素安を確 認できる。)
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◇ 素堂に関する記述 1)『連俳睦百韻』
抑々素堂の鼻祖を尋るに、其の始め河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞(後呼 佞翁 )町家に下る。
山口素仙堂太郎兵衛信章、名来雪。其ノ後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。
其の弟に世を譲り、後の後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。
後ち桑村三右衛門に売り渡し侘屋に及ぶ。
其の弟三男山口才助訥言、林家の門人、尾州摂津守侯の儒臣、其の子清助素安、兄弟数多くあれい皆死す。其の子幸之助、侘名片岡氏を継ぐ。云々
《筆者註》
序文を書いた寺町百庵は素堂の家系にあるという。(『俳文学大辞典』百庵の項)百庵は素堂の孫素安から「素堂号」の譲渡を持ちかけられたが断わり、佐々木来雪が「素堂号」を継承する。(三世)そのことは百庵の『毫の秋』に詳しく書かれている。(享保二十年に素堂亭及び山口素安を確 認できる。)
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十五、素堂の鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助良侫、
寺町百庵(素堂親族)の書いた『連俳睦百韻』の中には「甲斐国志」とは違った記載事項が多く見られる。これは甲斐国志の編者がこの「連俳」を見ていない誤差から生じている。特に素堂の鼻祖が使えていた蒲生氏郷のくだりや生年などは注意してみる必要がある。
素堂の鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助良侫、町屋に下る(『連俳睦百韻』)
とある。山口勘助が仕官していた蒲生氏郷の履歴。
《註》
さて既に紹介したように、蒲生氏郷の家臣であった山口勘助が甲斐巨摩郡教来石字山口に住む郷士であったとの研究者(荻野清氏など)の言があるが、史料を都合よくつなぎ合わせたものでこれは史実とはいえない。
蒲生氏郷の家臣山口勘助、若しくは勘助を祖とする人物が甲斐巨摩郡教来石字山口に住み、後に甲府魚町に出て山口屋市右衛門を称して、忽ち財を残し時人に「山口殿」と呼ばれる程の富豪になり、その家を惜しみなく弟に譲り、素堂は江戸に出た。
素堂の生まれたとする教来石字山口は素堂と親しい向井去来も通過しているし、素堂を師と仰ぐ長谷川馬光は教来石に立ち寄り一句詠んでいるが、素堂を意識している様子はない。
素堂が自ら著した『甲山記行』には、「甲斐は……妻の故郷」なる記述が有り、府中での宿泊先も外舅野田氏宅と記している。
いかに国志が優先する歴史であっても、また著名な研究者の文献であっても仮説から成り立つ説を真実とする事は避けなければいけない。曖昧な中で焦って定説化することが歴史を歪める大きな要因となっている。 山梨県の歴史の中に史実ではなく研究者の仮説や創作歴史が独り歩きしているようにみえる。それは、「甲斐の古道」「甲斐の御牧」「市川団十郎」「柳沢吉保」であり、この山口素堂である。
『甲斐国志」を盲信していては山梨県の歴史に新たな展開は生まれない。新資料が現われたら素直に受け入れる度量が必要であり、これまで信じられたいことが覆されることは歴史世界では当たり前の事で、建久の進行段階で前言や誤説を訂正する勇気も要求される。
日本を代表する剣豪宮本武蔵は甲斐の出身なのである。と『甲斐国志』に記載されている。編集に関わった人々の記憶の中には宮本武蔵も甲斐の出身であるとの何らかの資料や認識があったのであろうか。
特に今回の研究テ−マである「素道」の項は前にも触れているが全文中異例の講談調であり、中身は素堂のことより、時の代官桜井孫兵衛政能の事蹟を称えたものである。何故編者は素堂の項に孫兵衛を組み入れたのであろうか。素堂周辺の史料からは二人の関係を示すものはなく、孫兵衛側のに存在したのであろうか。兎も素堂の項は摩訶不思議な記述である。素堂死去以後『甲斐国志』が完成する約百年の間に著された甲斐地書や俳諧関係書及び素堂の側辺の書からは、素堂と孫兵衛との関連や濁川工事の事などに触れている書は見えない。素堂の生涯の多くは『甲斐国志』により創られ、以後各書に引用されその都度著者により修飾され史実とかけ離れた素堂像が育っていった。所謂「土木家山口素堂」である。
素堂の人物や事蹟は本編を読んでいただけば明らかになり、真実に沿った新たな山口素堂の存在が理解されることと信じている。
調査の中で助言や協力をして下さった多くの方々にこの場を借りて深く謝意を表わしたい。今後とも素堂事蹟の研究は継続していきたい。
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十四、山口屋市右衛門と素堂について
素堂は山口屋の長男として市右衛門を名乗ったと『甲斐国志』にあるが、
寛文十三年(1673)「魚町丑ノ二月中宿取之覚」に
当月九日ニ 西郡筋いますわ村 拙者母毛色悪敷御座候故
いしゃにかゝり于今羅有候。
(魚町)四丁目 市右衛門
のような記事も見える。
元禄十年(1697)「山梨郡府中分酒造米高帳」
魚町 山口屋市右衛門 造高 四十五石
これは享保九年(1723)の調べで、この年まで山口屋市右衛門は健在である。『甲斐国志』以外には素堂と山口屋を結ぶ記述は見えない。
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