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水で横につながる共同体
生命の源としての水 日本人と水のかかわり
(『歴史読本』日本人シリーズ「事典日本人と水」)
水で結ばれ、土地で結ばれていた村落共同体はヨコのつながりが強い。農村は一種の共同経営システムをとっていたといえ
るだろう。水田の所有者は別でも、共同灌漑、苗代の共同管理、苗の平讐分配、水田への植え付けもいっせいに行ない、収穫さえも村人が共同して手伝って行なう。まさに、ひとつの企業のようなものだった。
農村は直接には、税を納めるという形でその土地の為政者である武士などに支配されていたが、共同体の中ではタテマエと
して平等である。
協同体の中に命令したり指揮したりする者が出てくるが、それは個人か、今でいう農協の職員のようなものだった。ただ、
同じ共同体の中でも、台風の風の吹き方で、一方の水田は稲穂が水につかってダメになり、一方は無キズだったりして所有者
の収穫高に差が出てきたりする。また、働き者の家とそうでない家もあったりして、共同体の中にも、もの持ちとそうでない家に差が出てきたりもした。
だが、農村共同体のヨコのつながりは、基本的には徹底平等主義である。多数決より全員一致を好む傾向が日本人にはある。それは個の意志を尊重する平等主義のひとつの現れである。共同体においては、何事も全員の賛成のうえでことが行なわれる。ひとりだけ反対されるのは困る。そこで説得するやら、なだめるなどしてほかの人々と同じ意見、感情にもっていく。これが共同体の平等精檸である。ひとりの反対意見のため、スムーズに流れている水を濁らせてはいけない。澄んだ水=日常の状態とは、全員が慣習どおりに行動することなのである。だから、村のリーダーの一番大きな役目とは、意見の違いから起こるいざこざや反対者を「丸くおさめる」ことである。
昔の村の長というのは、裁判官のような役目をもっていた。ただ、そこで下される裁きは、ほとんどが和解だった。ある程
度、迷惑かけた分の責任は取らせるが、お互いにしこりを残さないよう和解させる。つまり水に流させるのが、有能な長の手
腕の見せどころだった。
しこりを残せば、それは悪しき反抗心としてひとりの農民の心に残るであろう。それが、仲間の農民に伝染していき、共同
体の中を分裂させる恐れもある。共同体を安全に運営していくためにも、ヨコのつながりは強化されていくのである。
(樋口清之『日本人はなぜ水に流したがるのか』エムジー 89年)
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