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町指定文化財 文化財と史跡 清泰寺馬頭観音像
総門をはいって右手に立つこの像は、髪際(額の髪の生えぎわ)下O、六五メートル、光背頂まで含めてもわずかに○、七九メートルの安山岩製の立像であるが、県内各地に拝見されるものと異なり、完全な丸彫像で、彫技は非凡、希にみる傑作といえよう。
像容は三面六管、双方の第一手を胸前で組むが、欠損もあって印は定かでない。左手第二手は屈管、手先を挙げて輪宝を搾げ、第三手は垂下して数珠を持つ。右第二手は亡失、第三手は掌を前面して下げ、甲を右腰脇に接する。一切衆生の願望を満足させる与願の印か。
三面とも燃える焔髪をたくわえ、主面はそのたかに標識の馬頭を安じ、他の二面は半ば外斜の方向を凝視する。しかし、三面とも青面金剛的た忿怒面ではなく、共通の輪光を頭光とする比較的穏やかな表情である。
頭上の馬容は、大威力の持主転輸王か、宝馬に跨って縦横無尽、須弥山の四方を駈けめぐり、好む水草を目ざして猪突猛進するごとく、観世音菩薩の誓願達成の表徴であって、必ずしも馬の味方というのではないが、この地域一帯は古来産馬地として著名なところでもあり、また、それだけに住民の馬匹に対する細やかな愛情と、深甚な信仰心のあらわれとみるべきであろう。
時は江戸の中期、県内ではこの像に酷似するものとしては他にただ一躯、六郷町狭間馬頭観音像があるだけである。しかし、河内特有の風化され易い凝灰岩製のためすでに頭部は風化され尊容を損ねているが、幸い背面に次記の銘を残こし、清泰寺像造顕の時代推定の好資料となっている。
「(略)享保十一丙午天極月五日」1726。
町指定文化財 文化財と史跡 清泰寺青面金剛像
室町時代から江戸中期にかけて、とくに庶民の間に盛行をみた土俗信仰の一つが「庚中待」で、古くは藤原時代、王朝文学にも散見される思想である。その歴史は神道・仏教・修験道あるいは富士講その他、多くの雑信仰を包摂、大衆生活に浸透したが、要は招福延命への願いであった。
祀る本尊は不定で、時代的に変化し、弥陀であり、釈迦であり、地蔵であり、また、帝釈天でもあったわけである。遺物によれば江戸初期寛永以降、主として「青面金剛像」が表面にあらわれ、三猿形神も目に触れるようになった。
白州町では、上教来石・諏訪神杜境内の石祠の正面に左右一対「申」の陽刻があり、「延宝六年午十月吉目」(一六七八)の銘がある。午歳ではあるが、初期の庚申祠として注目される。
白須・法全寺碑は○、八五メートル。無銘であるが四臂、二猿、二鶏、二童児を示す。松原・諏訪神杜近傍には、正徳四年(一七一四)の地蔵と並んで、無銘たがら一面六管、上部に日月、下部の座に三猿を刻出、二鶏は欠くがほぼ完好に近い青面金剛碑が拝され、第一手は胸前で合掌、左右の第二、三手はそれぞれ輪宝、弓箭など持物も完備している。
このような流れのなかに造顕された清泰寺青面金剛塔は、宝暦十二年(一七六二)の供養で、総高一、三メートル、安山岩製である。構造は反花付の基礎に蓮華の座を重ね、四角柱の塔身を立て、正面に飛鶴を兎毛通とする軒唐破風付宝形造の屋根を設け、搭所刻の主尊を雨露から保護している。
なお屋上には露盤・宝珠が載せてある。碑面をわずかに窪めて彫出した六管の像容もすぐれたもので、この期における庚申塔を代表する優作といえよう。敷茄子の欠失が惜しまれる。
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